ホロウ - 第3話
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ベストタイミングだったというべきか、それともその逆だというべきか。それは人によって解釈の異なるところとなるだろう。
客観的な事実は一つだ。卓明が自転車で自宅の傍の坂道を駆け下り、幾つかの路地を曲がって辿り着いた工場の前には、綺麗に磨かれた黒い外車が停められていて――そこに今、まさしく渚那奈が乗り込もうとしているところだったということ。そしてその傍には、ガタイのいい数名のスーツ姿の男が見えたと言うことだ。
「那奈!」
卓明は乗ってきた自転車を乗り捨てて走った。ガシャン、という派手な音が後方で鳴り響くが、それどころではない。卓明は後部座席に座りかけていた那奈に手を伸ばした。が、彼女の傍に居た男は突然の闖入者に動揺を見せることなく、静かに卓明の進路を塞ぐ。
「退けよ! あんたら何だ? 那奈を何処に連れてい――」
不意に声が出なくなった。少し遅れて下腹部に鈍い痛みが走り、卓明の体は自然と前のめりになる。
殴られたのだと気付いた時、卓明はその場にうずくまっていた。
「なんだなんだ、何の騒ぎだぁ?」
聞き覚えの無い声が前方から聞こえた。うずくまったまま何とか顔を上げると、傍の工場の奥――閉まりきったシャッターの更に前方に設えられた鉄製のドアから、兄と同年代くらいの男がゆっくりとこちらへ向かってきている。
軽薄そうな男だ、というのが第一印象だった。
ワックスで固められた茶色の髪は炎のように立てられていて、首回りの緩い白シャツの上に真っ赤なパーカーを羽織っている。周囲の黒スーツの男とは対照的なジーンズはところどころ破れていて――恐らくダメージ・ジーンズとかいうヤツだ――足元は素足に真っ赤なクロッグサンダルというラフなものだ。頬も締まりがなく、どことなく他人を小馬鹿にしていることが伝わってくるようなにやけ面をしている。
「なに、暴力沙汰? お前らさぁ、すぐにそうやって他人ぶん殴るの良くないよ。そのせいだぜ、ウチの評判がすこぶる悪いのって」
その軽薄そうな男は周囲を見回した後、「なぁ那奈ちゃん」と那奈の肩に手を置いた。那奈は無表情に卓明を見下ろしている。
「で、坊ちゃん、キミはどこのどなた? あ、もしかして那奈ちゃん、知り合い?」
「高校の同級生です」
「あー見送りに来てくれたんだ。なんだちゃんと友達居るんじゃん。俺ぁね、これでもちょっと心配だったのよ。学校辞めるってのに誰にも心配されないなんて寂しいもんなぁ」
「あんた」
「あい?」
「あんた誰だ。那奈をどこに連れてく気」
言葉の途中で衝撃が脳髄を突き抜けた。男が卓明の顎を蹴り上げたのだ。うずくまっていた卓明の体は、それによって仰向けにひっくり返った。
「年上には敬意を払おうな」
目の前が明滅する。痛みでまともに呼吸も出来ない。頭の芯がジンと痺れていた。
「何か勘違いしてそうだから説明してあげような。お兄さんはな、渚さん家にお金貸してたのね。でも返済が厳しそうってことになったわけ。だから那奈ちゃんにウチで住み込み奉公で借金返済頑張ってもらおうってことになったのよ。分かったかな坊ちゃん? 分かったら変な噂立たないように坊ちゃんも協力してくれな。この辺りのジジババってすーぐ人のこと悪く言うからさぁ、困っちゃうんだよ」
じゃあ行こっかー、と何でもない事のように男が言う。何とか体を捻り、這うような姿勢で外車を睨んだ。那奈は……やはり無表情に卓明を暫く見下ろしてから、後部座席に乗り込んでいく……。
「待てよプー太郎」
大きく息を吐き出しながら、卓明は呟くように言った。意図的ではない。耳の底で鳴り響く脈動が激しくて、それが頭の芯をひどく痛めつけているものだから、声を出すのがやっとだったのだ。
だが、それが相手の気に障ったらしい。
「あ?」
助手席に乗り込もうとしていた軽薄男は、不機嫌そうな声を上げてこちらを見た。
「思い出した。あんた、内海金融のとこの息子だろ。噂を聞いたことがある。親父の会社の金でふんぞり返りながら毎日遊び呆けてるってな」
軽薄男――確か名前は内海多昭とか言った筈だ――は後部座席の傍に居たスーツの男の肩にポンと手を置いた。それを合図にしてか、スーツの男は真っすぐ卓明に近づいてくる。
「借金のカタに娘を、なんて時代劇かよ。このご時世にそんな真似して、警察にでも駆け込まれりゃ一発で――」
吐き出そうとした言葉は、スーツの男に思い切り腹部を蹴られて宙に消えた。内海が「民事不介入って知らねえの?」とか何とか言っている。
「那奈」
意図せずくぐもった声が出る。それでも何とか息を吐き出し、言った。
「そこから逃げろ。ウチに来るんだ。そうしたら――」
もう一撃、腹部に激痛が走った。蹴とばされた衝撃で道路上で転がり、今度こそ呼吸が出来なくなる。
「二号と三号、そこの坊ちゃんにお土産頼むわ。丁度この中なら誰も来ないし、日ごろの鬱憤晴らしってやつで。
じゃあ一号、車出そうか」
内海の声が遠くで聞こえた。両脇から物凄い力で体を持ち上げられ、卓明はずるずると引きずられていく。どうやら傍の工場へと連れていくつもりらしい。為すがままにされながら――力が全く入らない――卓明は横目で那奈の姿を追った。
那奈は既に外車の後部座席に座っていた。助手席に内海が座っている。運転席にはスーツの男。彼らは最早こちらを振り返ることも無く、派手なエンジン音を周囲にまき散らしながら、人の居ないアスファルトの坂道を上っていった。
――あいつ、全然俺の方見なかったなぁ。
工場の中に乱暴に放り出され、思わず呻き声をあげながら、卓明は那奈のことを考えた。美しい、と言われるその横顔を、卓明は人形のようだったと思った。無表情で無感情で、かつて母を亡くして大泣きしていたあの少女と同一人物だとは、とても思えない。
いや。
そんな風に変わってしまったのだ。
きっと誰も彼女を見ていなかったから、彼女も誰も見なくなったのだ。その必要が無くなってしまったから、彼女は感情を顔に出さなくなってしまったのだ。
工場の硬い鉄筋コンクリートの上で――何もかもを引き払ったのだろうか、内部はがらんどうで何の機械も機材も置かれていなかった――スーツの男二人に交互に蹴り飛ばされながら、その度にゴロゴロと転がりながら、卓明は後悔していた。せめて自分がもう少し、彼女の様子に、変化に気がついていたら。そうしたら、あんな人身売買じみた境遇に彼女が落ちることは無かったかも知れない。
内海金融が悪辣な金貸しであるという話はこの辺りでは有名だ。幾つもの工場が地上げ屋じみた方法で家や土地を脅し取られている。きっと那奈の父もその被害にあったのだろう。そして運の悪いことに那奈は美しく成長していた。だからきっと、あの軽薄な男に目をつけられた。
「――そう言えば、俺たちってどうやって屋敷まで帰るんだ?」
「歩いてかタクシー拾うか……でもタクシーなんて呼ばねえと来ねえよな」
「最悪かよ」
二号と三号――そう呼ばれていた二人のスーツ男がサッカーボールのように卓明を蹴り飛ばしながら愚痴を言い合い始めた頃には、卓明の体はボロ雑巾のようにドロドロになっていた。埃、砂利、擦傷による血、吐き出した胃液。もう力も入らない。ただ何となく開いていた目には、ガラスの無い窓枠と、そこから見える雲一つない青空が妙にくっきりと映った。
――那奈の親父さんってどこ行ったんだろ。
実の娘が半ば攫われたというのに。何も無くなったとは言え、自分の工場で人が半殺しにされているのに。どこに居るのだろう。もしかすると、父も娘と同じように、無表情で無感情になってしまったのだろうか。何もかもを無くして空虚になって、この工場の奥の一室で呆けているのだろうか。そうかもしれない。そうなっていても誰も彼を咎められない。何せ、那奈の父親は色んなものをなくしてしまったのだ。だから。
――だから?
「だからって」
呟いた声は掠れていた……というより、声になっていなかったように思う。何故なら、彼を蹴りあっていた二人の男がいい加減に飽きたのか、踵を返して卓明から遠ざかっていこうとしていたから。声になっていたら、きっと彼らはもう一度振り返って殴るなり蹴るなりしてきたことだろう。チンピラにさえ見向きもされない路傍の塵。それが今の自分だ。
卓明はゆっくりと両腕に力を込めた。体を起こせないか試してみる。……ダメだ。全身が重い。だが、どうやら自分は今、壁際に居るらしい。
冷たい鉄筋コンクリートの壁に寄りかかるようにして、少しずつ腕と足に力を込める。上体が持ち上がり始めた。膝が笑っている。
それでも。
『俺は全部無くした。けど――』
例え路傍の塵でしかなくても。
『――だからこそ――』
「――死ぬまで絶対に止まらない」
男たちがピタリと足を止めた。彼らはこちらを振り返り、「おいおい」とため息を漏らした。……どうやら今の声は聞こえたらしい。
卓明は傍の壁に体重を預けて立ち上がっていた。そうでもしないとすぐに地面に沈むだろう。そんな状態であることを、スーツの男たちも感じ取ったらしい。
「大人しく寝てろ。そうすりゃ俺たちもこれ以上は」
「『何もしない』って?」





