ホロウ - 第2話
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渚那奈については更に補足が必要だろう。
幼い頃の彼女は、お世辞にも見目麗しいとは言えない相貌をしていた。目ばかりが大きく、鼻は低く、少しぽっちゃりとしていて、肌が弱いのか晴れの日の後はよく頬の辺りが赤くかぶれていた。どこにでもいる少女、という表現がよく似合った。
変化が訪れたのは、恐らく彼女の母親が亡くなって以降――中学校に上がって暫く経った頃だろう。日傘を差すようになって肌は純白を保ち、体躯は痩せて華奢になった。顔も小さくなり、それが他の部位と丁度釣り合って、ひと目見て『美人』と形容されるようになった。
卓明が気になったのは、それに伴って彼女から笑顔が減り始めたことだ。皆は彼女が美しくなったと言う。一方で卓明は「ちゃんとご飯を食べてないんじゃないか」と心配だった。だがちょうど彼女の変化と時を同じくして、卓明の父が事故で亡くなり、神社の跡継ぎとして急遽叔父夫妻が同居することになるなど、卓明の周辺も俄に慌ただしくなった。思えば、祖母の痴呆が急激に悪化したのも、卓明の兄・国明と叔父のそりが合わず、家の中がギスギスし始めたのもこの頃だ。
だから――自分でもあまり気づいていなかっただけで――もしかすると卓明自身にも何か変化が起きていたのかも知れない。無自覚に、那奈が放っていた何らかのシグナルを無視していたのかも知れない。
だから、こんなことになるまで気づけなかったのかも知れない。
高校を早退して那奈の家に辿り着いた卓明は、眼前の事実に愕然とした。
那奈の家が無くなっている。
彼女の自宅は、高校から自転車で十数分ほど進んだ河沿い、この辺りにしては小綺麗な一軒家が画一的に並ぶ区画の一コマにあった。一階は駐車場で二階以降が居住スペースとなる――海沿いの古い家屋群からすると十二分にモダンと評されるべきであろう――極々一般的な一戸建てだ。
しかし、そこに那奈は居なかった。門柱にかつて掛かっていた筈の『渚』の表札はどこにもなく、奥に見える玄関口には『売家』と書かれた看板が貼り付けられている。勿論、中に人の居る気配も無い。駐車場も空だ。
卓明は暫く、その区画一帯を探し回った。無論、那奈の自宅を求めてだ。同じような家の建ち並ぶ区画なのだから、卓明が記憶違いをしていてもおかしくはない。一軒一軒表札を確認していく。
やはり、無い。
おまけに、誰かに話を聞けないか手当り次第に近くの家のインターホンを鳴らして回ったが、どの家からも返事は無かった。居留守を使っているのか、それとも運悪く皆出掛けているのか……どの可能性も大いに有り得る。今日の夜には、この地域でも最大のお祭りが開かれる予定なのだ。卓明もこんなことが無ければ、高校の授業終了後、直ぐに自宅に帰って叔父夫婦の手伝いをすることになっていた。この辺の人びとも、同様に祭りの準備に向かっている可能性は高い。
「あれ? どうしたんだ卓明、帰ってくるの早くないか?」
迷った挙げ句に自宅に帰ると、兄の国明は呑気にリビングに寝転がってTVを見ていた。おいおい、と卓明は胸中で呟く。叔父の手伝いはどうした。今日の祭りでは奥の神社で神事を行う予定だ。そして本当ならば、その神事は父亡き後、長男の国明が実行すべきことである。今日はひとまず、過去に別の神社で宮司をしていた叔父が代理で執り行ってくれることになってはいるが、準備やら打ち合わせやら予定はパンパンな筈だ。
「そっちこそ、準備はどうしたんだよ。あと婆ちゃんは?」
「婆ちゃんならさっき寝た。大変だったんだぜ、今日は一段ともんもん五月蠅くてさ。あれでガタイは妙にいいだろ、婆ちゃん。祭りの日だし、朋美叔母さんも準備があるし……ってなわけで俺も対婆ちゃん作戦に急遽参戦さ。何とかベッドに寝かせて薬飲ませて婆ちゃんの話を聞いてやって……で、一旦落ち着いたわけだが、更にこの俺様は叔母さんから婆ちゃんのお守りを命じられたわけだ」
「なら婆ちゃんの様子見ろよ……」
「愚かなる弟よ、今は見守りカメラというものがあるのを知らんのか?」
国明はそう言うと、体の陰に置いていたらしいスマートフォンを寝転がったまま卓明に示して見せた。……確かに祖母がベッドで寝息を立てている姿が映し出されている。
「それはともかく腹減ったな。って、そろそろ昼飯の時間じゃん。卓明君、この兄に一つ、炒飯でも振る舞ってくれんかね? あ、そうか、今日は授業午前までだったわけか?」
「いや……そういうわけじゃないんだけど……」
「……ふむ? 成程、何やら深い事情がお有りのようだ」
国明は芝居がかった調子でそう言うとTVを消し、体を起こしてこちらに向き直った。そして、胡座をかいて尋ねてくる。何かあったかね、などと。そんないつも通りの兄の様子を見ている内、卓明は少しずつ落ち着き始めている自分に気付いた。
兄・国明は不思議な人だ。いつもヘラヘラしていて、何かが長続きしたことはない。父の事故の少し前に大学を中退して地元に帰ってきてからは、定職に就くこともなく毎日フラフラしている。所謂――言いたくはないが――ニートと言うやつだ。生真面目な叔父と性格が合わないことは明白だったろう。
しかしそれでいて、国明には人を惹きつける『何か』があった。神社に相談に来た参拝客の応対をするために叔父が向かうと既に国明が人生相談を受けている……なんてこともちょくちょくあったし、その延長線で近所の爺さん婆さんの話をよく聞いてやっているからか、近隣住民からの好感度は異様に高い。祖母のケアマネ担当者からも「いざというときは国明さんが居るから安心ですね」なんて言われる始末だ。確かに頼まれれば国明は祖母の面倒も看てくれるけれど、そうでなければ自発的に家の手伝いをすることは殆ど無い――つまりその分は弟の卓明が行うことになるのだから――家族としては若干複雑な心境である。しかし、どんなにちゃらんぽらんでも、卓明にとってはやはり唯一人の兄で……。
……いや。正確にはもう一人、卓明には兄のような人物がいるが……今は彼のことを思い出しても仕方無い。
「実は――」
卓明は兄の希望通りに炒飯を作りながら話した。那奈の中退のこと。早退して彼女の家に向かったこと。だが家が見つからなくて途方に暮れたこと。
「渚さんとこのあの子な。昔、ウチで預かってたこともあるんだっけ? 俺が帰ってくるちょっと前だったか?」
ホカホカの昼飯を口に運びながら、居間のローテーブルで国明は言った。
「工場には行ったのか?」
「工場?」
「工場。確か渚さんとこ、工場持ってたろ。あ、でもあそこ、いま操業止めてるんだったかな。何か一時期、近所のオバサマ方が噂してた気がするぞ。借金がどうとか――」
「その工場ってどこ!?」
勢い込んで尋ねると、国明は右の掌をこちらに向けて「待て」の意思表示をした。もぐもぐと口の中の炒飯を噛んで飲み込んでいる……。
「工、場、は、ど、こ、だ!?」
「炒飯、上手になったなぁお前。兄は嬉しく思うぞよ。大きくなったものじゃ……」
「兄貴!!」
「おいマジギレやめろ怖い怖い。も~、ったく俺の頭からそんなもんポンッと出てくるわけないだろ……ちょっと待ちなよたっくん、も~」
どこまでが本気なのかよくわからない調子で、兄は傍らのスマートフォンをスラスラと操作した。やがて衛生写真を継ぎ接ぎした地図情報をテーブルの上に置く。
「多分ここだったんじゃなかったかな。魚肉の加工してるっぽいな。でもこの前に近く通った時は静かなもんだったけ――」
「――兄貴!!」
律儀にエプロンを着ていた卓明はそれを兄に投げつけ、兄のスマートフォンを奪い取って何度も地図を確認した。ここなら分かる。漁港に程近い坂道の麓辺りだ。
「ありがとう! 俺、ここに行ってくる!」
「息巻くのはいいけどお前、祭りの準備とか――」
「じゃあ! 片付けは頼んだよ兄貴!!」
台所を指し示してから、卓明は駆け出した。そこに那奈が居る保証はどこにもない。だが、動かないままよりよっぽど良い。
「卓明!」
後方から兄の声がした。ちらりと振り返ると、兄は空になった炒飯の器をこちらに振って言った。
「お前の飯が食えて良かったよ。グッド・ラック」
卓明は無言でサムズアップを示し、兄と別れた。





