リメイク - 第13話
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赤雷。
雲を突き抜けて遥か高く、地上50~90kmの中間圏において生じる超高層雷放電。名の通り、それは通常の稲妻とは異なる赤い輝きを放つ。発光時間は僅か数ミリ~数十ミリ秒。極めて短い時の境目にて、それは紅を帯びる。
物理学の世界において19世紀には既にその存在が予言されていたにも拘わらず、人類が初めて撮影に成功したのは1989年。つまり赤雷はこれまで――いや。
現在に至っても。
殆どの人間にとって、幻に等しい存在だった。
「――しょーちゃん、久しぶり~! 元気してたぁ~? も~、やっと会えたわぁ~!」
目の前の女性が笑った。にこやかに笑っていた。晶穂はそれをぽかんと見つめていた。
「嵩姉……?」
右腕は錫杖を振り抜いたそのままで、天を刺すように伸び切っている。晶穂の姿勢は低く、踏み出した右足に全体重が乗っている。ちょっとした衝撃があれば倒れそうな体勢ではあったが、それでも崩れ落ちないのは、晶穂が体幹を日々鍛えている賜物だろう。
「てかめっちゃ怪我してるやん! ぎゅって抱きしめたげる! お祝いも兼ねての治療ハグや! ほれ近う寄り近う寄り~」
「いや……それより嵩姉こそ怪我は……?」
振り抜いた筈だ。止めることは叶わなかった筈だ。上半身が丸ごと吹き飛んでいてもおかしくない筈だ。それだけの一撃だった。間違いない。
それなのに。
何故、天狗の錫杖のフルスイングを受けて、眼前の彼女はこんなにもにこやかなのか?
「けが? うちにはあらへんよ~! しょーちゃんが引っ込めてくれたんやんか~」
「……引っ込めた?」
「そやで? あら、自分でわかってへんの? でもうちは関係なく甘やかすで~! しょーちゃん、おめでとう~!」
そう言うと、嵩は満面の笑顔で晶穂の体躯を抱き寄せた。おまけにそのまま頬を晶穂の頭に擦りつけてくる。微かにお香の匂いがして、一瞬その虜になりかけた晶穂は、なすがままになりつつも何とか疑問を口にした。
「……おめでとう?」
「せやで? でも、うちも初めて見たわ~。コードレスの人でも使いこなせるもんなんやねぇ、常世遺物って」
ほら見てみ~、と軽い口調で言い、晶穂が自らの右腕の先を視野に入れられるよう、嵩は晶穂の顔を持ち上げた。狐に化かされているかのような感覚のまま、彼女の思うがままに頭を動かされ……そこで、晶穂は思わず目を見開いた。
錫杖が腕の中に潜り込んでいる。
それは丁度、真正面からの猛烈で鋭い突きを無防備に掌で受けた――そんな光景のように見えた。受け止めた杖は勢いそのままに晶穂の右腕の骨も肉も砕き穿ち、代わりに腕の中に収まってしまった――故に、掌からは錫杖頭と複数の遊環が顔を覗かせ、腕に収まりきらなかった錫杖の下部・石突もまた、晶穂の肩から飛び出ている。
と言っても、晶穂に痛みはない。異物感も無い。更に言えば、貫かれているという感触も現実感すらも無い。自らの体躯に幻が取り付いている――そう表現するのが最も妥当な気がした。
或いは、3Dゲーム。キャラクターの背格好に装備品が合わず、兜から髪の毛が突き抜けて見えていたり、他人の纏うマントが自分の足にくっついて見えたり。オブジェクト同士の接触判定が処理しきれず、あたかも一体化して見えている……そんな現実では起こり得ない事態。それが目の前に、自らの身に起こっている――。
「しょーちゃん」
一言、嵩が告げた。それだけで晶穂は我に返った。背中に強いプレッシャーを感じる。敵は――いつの間にか嵩とすり替わった相手は、今にも彼女の背後から一撃を繰り出そうとしている。それが手に取る様に分かる。
理屈ではない。
感じた、と表現すべきだ。
認識の変革。
相手の攻撃が背中に致命的な衝撃を与えるまではもう一秒の猶予も無く、最後の一撃を振り絞った自分には反撃も回避も不可能。先程までの彼女ならそう捉えただろう。だが。
――振り抜く闘志と止める意思。
今は違った。
――本物という確信と偽物という断定。
右腕が赤く輝いた。稲光の如く鮮烈に。
「重ねて考える――」
呟き、晶穂は掌から飛び出ている錫杖の頭を掴んだ。そして――思い切り、それを手首の奥へと押し込んだ。
赤い雷が輝きと共に右腕を伝う。晶穂はそのまま体を捻った。肘打ちを背後に打ち出すように。腕の中を走り抜けた錫杖は後方へ稲妻のように飛び出し、背後のプレッシャーの源へと痛烈な突きを浴びせる。
衝撃が錫杖を、右腕を走り抜ける。晶穂は認識していた。
当たった――いや、当てた。迫っていた相手は後方へ飛び退さり、肘の先から飛び出た錫杖の石突から衝撃波が噴出していく。それは粉塵を巻き起こし、バタバタと晶穂の白衣を叩いた。
「――つまり、境界の恣意化か」
晶穂は右手を握った。感覚は無い。けれど分かる。いつの間にか閉じていた目を開くと、そこにはやはり思い描いた通り――錫杖の頭がしっかと握られている。
今度は腕を貫通などしていない。どこにでもある古びた杖と同様、その杖部と石突は真っ直ぐ地へ伸びている。深く息を吐き出すと、白い息と共に、微かな赤い輝きが右手に瞬いた。
「絵空事を現実と見做せたようだね、雷瑚晶穂」
……後方から聞き慣れない声がした。少しキーの高い――少年のそれのような声色だ。
「おめでとう。もうキミは、数秒前までのキミではなくなった。決定的に違うものに作り変わったんだ。分かるだろ?」
「……分かる」
率直に返答した。嵩へ目を向けると、彼女はにこやかに微笑みながら、ぱちぱちと手を叩いている。
「この杖はあたしの体じゃない。だが今、あたしの体と同じものになった」
「その通り。異物であり自物、真であり偽、陰であり陽――相反する二つの存在を同時に認識し、許容する。それが『二重思考』だ。
実のところ、当世でコーダーと呼ばれる除霊師は皆、この認識術を身に着けている。人間が本来持ちえない機構、存在する筈の無い能力――それを身に宿しているわけだからね。まぁ自覚している者も居れば、そうでない者も居るけど」
いずれにせよ、と声は続けた。
「卜部嵩が告げた通り、キミのような無能力者が二重思考を会得出来たケースは極々稀だ。素直に賞賛する」
「なぁしょーちゃん。おめでたいことはおめでたいことでええんやけど」
ふと、相対している嵩が呼んだ。改めて見ると、嵩は不思議そうに晶穂の後方を見つめている。
「あの人、誰なん? 知り合い?」
「え」
言われて、くるりと振り返る。薄れていく粉塵の中、晶穂はようやく、自分の今いる場所が月光の差す橋の上などではなく、裏寂れた山の中、その広場へと戻っていることに気付いた。そしてその中央に――。
「というわけで。改めて始めまして、現代の除霊師諸君」
――右肩を抑え、大地に膝を着いて、小さく笑う少年の姿があった。
「僕の名は天道。キミらの所属する境講は勿論、現代の日本政府にも登録されていない――一人ぼっちの逸れ物さ」





