リメイク - 第9話
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まるで肺の奥底まで無理やりに水を呑み込まされたかのようだった。
息が出来ない。
吹き飛ばされた橋台の上で、鳩尾から吐き気と共に広がる激痛に、晶穂は身を縮めて苦しんでいた。胃液と共に吐き出されたのは間違いなく血だろう。耳朶の奥で脈動が激しくアラームを発している。まずいぞ、と叫んでいる。
かつて経験したことの無い、重い一撃だった。内臓の一部が壊れていても不思議ではない。動いてはならない。これ以上闘ってはならない。全身の細胞が警告している。只の一撃で、生命体としての晶穂は悟ったのだ。
勝てない。
この一撃を食らう前ならまだしも、今はもう、取り返しのつかないダメージを負ってしまった。
「二重思考、って知ってる?」
声が降ってきた。苦悶の中、何とか視線を上げる。
五条大橋の牛若丸でも気取っているのか、雨月の偽者は朱塗りの橋、その手すりの上を、両手を広げて歩いている。こちらの戦闘続行は不可能と判断したのだろうか。少なくとも、すぐさま追撃してくることは無い……ように見えた。
「『一九八四年』、っていう古いSF小説があるの。イギリスの作家であるジョージ・オーウェルが著した不朽の名作。その中で登場した物事の捉え方が、二重思考」
SF小説が好きなの、と雨月の偽者が笑う。……本物もそうだ、と晶穂は胸中で呟いた。
「暫く動けなさそうだし、丁度いいから説明するわね。二重思考とはその名の通り、矛盾する二つの考えを同時に行える――いえ、受け容れると言った方が適切かしら――そんな考え方のことを指すわ。作中では、完全監視社会のディストピアを運営する政府を盲信しつつ、その実体が虚飾塗れであることを理解し、反感を抱く……そんな形で使われていた。どう? 思弁的で馬鹿馬鹿しいと思うかしら?
だけどね。これは空想でもなんでもなく、実は今のあなたに致命的に欠如しているものなのよ」
軽やかに、擬宝珠の上へ相手は飛び乗る。月光を背に浴びて、その顔は薄暗い。
「現状、あなたには多くのものが足りていない。資質、経験、身体能力、精神力、直観力、判断力、魔術や呪術などの霊的技術……けれどやはり、決定的なものは二重思考だと私は思う。あなたがそれを自らのものとするのなら、猶更」
相手は指を差す。その先には。
手放された錫杖が橋台に転がっていた。
「それはこの世の理から逸脱しているもの。あなたがこれまで体験してきたどんなものとも違うもの。つまり、あなたが培ってきた全ての常識や観念が通用しない」
だけど、と相手は続けた。
「それを操ろうとするあなたは、紛れもなくこの世の存在。物理法則、一般常識、日常体験……その延長線上にあなたは存在する。
だから、あなたは二つの矛盾する概念を認識しなければならない。人間としての理と、形而上存在の理。これは実に難しいことだ。もしあなたが魔術師であったなら、その魔術理念を丸ごと捨て去る――魔術行使とさようならしなければ、とても実現できないくらいに難しい」
『この杖を呑み込め』
「あなたはここで二度、それを振るった。だけど自分でも理解しているでしょう? あれは鞘に収められたまま太刀を振るったようなものだと。どう? あなたに可能かしら? ありえないものをありえないものと認識しつつ、それでいてありえると受容する――空想の産物である二重思考をその身で体現することが。まぁ」
出来なければ死ぬのだけど――そう告げた相手の体躯は、次の瞬間。
晶穂の眼前にあった。
顔面をサッカーボールのように蹴り上げられ、晶穂の体躯は宙を舞う。続けて、背中に衝撃。全身の骨という骨の軋む音が体内を駆け抜ける。晶穂は視界に星が散るような錯覚を見た。脳が焼き切れるような苦痛に、意識が途切れそうになる。
その中で。
彼女は歯を食い縛り、全身を大きく捻った。蹴り上げられる寸前、半ば無意識的に――或いは生存本能にしたがって――ギリギリで手に掴んでいた天狗の錫杖を、後方の相手へと振り抜く。
ぱしん、と乾いた音が響いた。
――あり得ねえ。
またもや巨大化した錫杖、その下端である石突を、相手は宙で軽々と受け止めている。僅かな時の狭間で晶穂はそれを認識した。そして、致命的な一撃でかき乱されていた思考を総動員して考えた。
――どうしてこんなに平然と受け止められる?
「よく考えなさい。今のあなたに必要なのは、適応でも順応でも無い」
相手は鋭く言った。見覚えのある眼鏡の奥に、鋭く冷たい眼差しが宿っている。
そして。
「翔び越えろ、雷瑚晶穂。それが無理なら」
雨月の偽者は錫杖を握り返し――。
「ここで死ね」
――晶穂ごと大地へぶん投げた。
一瞬の沈黙を挟んで、木の軋む音がした。骨の砕けるような音も。朱塗りの橋に叩きつけられたのだと晶穂は理解していた。自身の体躯が冗談のように何度もバウンドしていることも。そして最後に、己がボロ雑巾のように橋の上を転がっていくことも。
肺の中の空気が漏れて出る。血が逆流するようだ。壊れ掛けた電灯のように、意識がチカチカと点滅している。
結果。
晶穂は、いつかの夢を見た。





