リメイク - 第1話
「晶穂。お前は弱い」
車の外でタバコをふかす碓井磐鷲にそう告げられても、雷瑚晶穂は平静そのものだった。彼女はスマホを片手に、いつもプレイしているソーシャルゲームのデイリークエストを、言葉通り日課の如くこなし続ける。そこに思考は無い。只のルーティーンであり、極論、面白いという感情すら無かった。
「晶穂。お前は弱」
「繰り返すなよ。ボケ始めか?」
欠伸をする。眠い。何せ磐鷲は昨晩に突然晶穂のもとにやってきて、有無を言わさず彼女を自分の車に乗せたのだ。翌日から職場復帰ということもあり、最後の休暇を貪欲に貪るべく夜半までゲームに興じようとしていた彼女の思惑は完全に破壊された上、磐鷲は来訪の理由を一切明かさない。諦めて彼の運転する車の中でぐうぐうと眠っては見たものの、所詮は助手席だ。快眠には程遠かった。
「お前が大怪我することになった呪術師との戦い。覚えているか」
「サッサと本題に入ってくれねえ?」
人間、誰しも長所と短所がある。磐鷲の場合、短所は本題に移行するまでが長いということだ――晶穂は心の底からそう考えている。普段ならまだしも、今は深夜に突然拉致されて、霧の立ち籠める国道で車を停められている所だ。何か理由があるだろうことは想像に難くないが、この状況でグダグダと長話を聞いてやれるほどのお人好しではない。
「つまり――今のお前がこの先も生き残っていくのは難しい、ということだ」
晶穂は助手席に座ったまま、磐鷲に視線を移した。
後部座席のすぐ外側で車のドアに尻を押し付けながら、相手はタバコを携帯灰皿に突っ込んでいる。
「呪術師の件もウェンディゴの件も、お前は一手間違えると死んでいた。相手が悪すぎたとも言えるが、生き死にの世界でそんなことは理由にならん。そして断言する。似たようなことはこの先何度となく起きるだろう。お前が除霊師として生きていく限り――いや」
携帯灰皿の蓋をぱちんと閉め、磐鷲は言い放った。
「あの男と戦うならば」
……後方を、音を立ててトラックが走っていった。建築資材を背中に載せて、それは静寂を雑に砕いていく。
晶穂はスマホのディスプレイをオフにした。
真っ黒になった画面を暫く見つめる。
「ボス」
晶穂は低く尋ねた。
「どうすればいい?」
「お前に試練を与える」
後部座席のドアが開く音がした。見ると、磐鷲が座席の下から何かを取り出そうとしている。真っ白な細長い棒……のようだ。
「もし。もしこの試練をクリア出来たなら、お前はコーダー……とまではいかなくとも、それに準ずる力を得られる。だろう。筈だ。……恐らく」
「何だフワッフワしてんなぁ。この流れでそこまで言葉濁すか、普通? それとも何だ、アンタでも確証の持てない話だっての……」
白衣の内ポケットにスマホを収め、車のドアを開けた晶穂の言葉は、そこで途切れた。霧の立ち籠める歩道に磐鷲はじっと佇んでいる。先程取り出した、真っ白な棒を手にして。
「……なんだそれ」
暫くの沈黙の後に晶穂が発したのは、磐鷲への追及では無かった。それほどまでに、磐鷲が持つ『それ』は異様だった。
総高はおよそ170cmほど。下端部分が上端よりも鋭く細いところを見るに、棒というより杖と呼ぶべきなのだろう。杖部には無数の梵字が掛かれた紙が一片の隙間なくベタベタと貼り付けられていて、素人でも一目で『怪しげなモノ』であることは見当がつくに違いない。だが晶穂が眉をひそめたのは決して見てくれによるものでは無く――その杖の異様なまでの『存在感の希薄さ』によるものだった。
晶穂の経験上、神羅万象すべてのものには何らかの匂いが付着しているものだ。海が近い場所では土と潮の混ざった匂いが、ペットを飼っている人間からはヒトと動物の混ざった匂いがする。この場所も生い茂った植物特有のあおい匂いがするから、恐らくすぐ近くに森か山がある筈だ。怨霊の類も同様で、例えば強い悪意からは強烈な甘い匂いがする。晶穂はこれまで、そうした嗅覚からの情報をもとに、それなりの数の修羅場を生き抜いてきた。
その鼻が、告げている。
この杖からは、一切、何の匂いもしない。
それは在り得ないことだった。いやこの機に及んでは最早『経験上在り得なかった』というべきだろうか。
匂いだけではない。
磐鷲の持つ杖からは、目でじっと見つめようと、例え手で触れてみようと、恐らく何も分からないだろうという強い予感があった。そういった期待を持つことすら憚られる――そう思わせるような奇怪さ。実は幻だ――そう言われても納得できるような奇妙不可思議さ。物体が物体として存在する上で持たざるを得ないものを持っていない――そんな異様さ。そのすべてが具現化した存在が、いま晶穂の目の前にある。
「もしかして」
晶穂は呟くように尋ねた。
「『常世遺物』か?」
磐鷲のサングラスの奥の目が僅かに見開かれた。彼はじっと晶穂を見つめ――それから、どこか呆れたようにため息をつく。
「知っていたか。この業界でも存在を知る者はかなり制限されているシロモノなんだが」
「噂程度だ。それに正直、かなりの眉唾物だと思ってた」
常世遺物。
雷瑚晶穂が知るそれの定義は、その名の通り『あの世の者が残したもの』――つまり『本来この世に存在しないもの』だ。
例えば、幽霊の衣服。
例えば、神の武器。
例えば、鬼の腕。
この世――此岸において、物体として存在する必要がないもの。物理的に説明がつかないもの。それが、常世遺物――。
「なぜ眉唾物だと?」
「現物にお目にかかれたことが無えし、理屈にも合わねーからな。何せ、霊はそのままでも生者を攻撃できるんだ。ならわざわざ自分を物体に再構築する必要が無えよ。事実、あたしが祓った霊で、丸ごと消滅しなかったヤツはいなかった」
そうか、と磐鷲は小さく言った。俯き気味になったせいで、晶穂からはサングラスの奥、磐鷲の両目が見えなくなる。
それはとりもなおさず、上司であり師でもある磐鷲の心境が読めなくなった、ということでもあった。
「コイツはな。ついこの間、宇苑の餓鬼がアホ面晒して持ってきたものだ。ろくすっぽ封印もせずに持って来やがったせいで大変だった」
強い風が吹き、霧の向こうで木々が騒めく音がした。やはりこの国道のすぐ傍には森があるようだ。
「何でも、どこぞの神社で御霊――天狗として鎮められていた修験者の霊が落としていったそうだ。『珍しいものが手に入ったからお土産だ』なんて言ってな」
「天狗……あの時か。結局倒したのかよ。宇苑の兄貴、いよいよ無茶苦茶だな」
渡辺宇苑――彼は磐鷲の境講において晶穂や坂田雨月の先輩にあたる。目的は不明だが、全国津々浦々を武者修行宜しく巡り巡っているらしい。実にちゃらんぽらんな男だ。
だが、強い。彼が帰ってきている間、晶穂と雨月は決まって彼に稽古をつけてもらうが、彼へ攻撃らしい攻撃を加えることが出来たことは一度も無い。除霊師としての格、そして対人戦闘能力は、間違いなく晶穂らより数段上だ。
「知ってるなら話は早い」
磐鷲は杖の下部である石突部分を持ち、晶穂へ杖頭を差し出す。手に取れ、ということのようだ。
「晶穂、改めて試練の内容を伝えよう。この杖を呑み込め」
晶穂は杖を手に取り――やはりこうして手に持っても感触らしい感触が無い――それから暫く置いて「は?」と言った。磐鷲がさらりと言った言葉の意味が分からなかった。この杖を――なんだと?





