フォルスフッド - 第5話
背後で中村がガバリと音を立てて起き上がった時、磐鷲は事務所の最奥、業務用デスクの後ろの窓から、落ちていく夕陽を眺めていた。デスクの上に置いた灰皿では、吸い殻が山を作っている。
「ようやくお目覚めか」
その吸い殻の山に、新たな煙草を押し付ける。煙は消えた。磐鷲は窓枠にもたれかかり、腹部を不思議そうにまさぐっている中村へと告げる。
「怪我は無い。むしろ、若干体調が良くなったようにすら感じる筈だ」
「さ……さっきのは、一体……?」
「俺があんたを撃った。あんたはショックで気絶した。それで仕方なくそのソファに寝かせた。今から……約一時間前のことだ」
「はあ、それは……迷惑をおかけしたようで……」
半分寝ぼけているのか、中村はそんな呑気なことを言いながら、磐鷲に頭を下げた。そして、顔を上げ――。
「……え?」
――驚愕に、目を大きく見開いた。
「……アサミ?」
磐鷲は腕組みをして、ソファからゆっくりと立ち上がる中村の姿を見つめる。
彼の視線は、磐鷲のすぐ傍に注がれている。困惑と混乱が中村の全身から迸っているかのようだ。
それもその筈。
「アサミ? どうして、その人の隣に居るんだい」
彼に憑いていた少女の霊は、いま……磐鷲の隣にぼんやりと立っているからだ。
「アサミ……」
「どうして、彼女は子供を襲ったのだと思う?」
磐鷲はサングラスの内側で、密かに目を瞑った。中村の体はわなわなと震えていた。見苦しい。磐鷲は胸中で小さく呟いていた。
「どうしてアサミが……」
「話を聞け」
「どうしてアサミが、私の傍から離れて――」
「いい加減にしろ。餓鬼の残影にいつまでも甘えるな」
低い声で言い放つ。中村がびくりと、注意された子供のように体を震わせたのだろう。ソファがガタガタと動いた音がした。
「もう一度尋ねる。どうして、この霊は子供を襲ったのだと思う?」
「どうして、って……」
「可能性は二つある。一つ、対象となった子供に恨みがあった――或いは、恨みがあった者と共通点があった。霊は生前に恨みがあった人間を襲う……よく聞く話だな?」
「あ、あの……ですが――」
「そうだ、あんたが確認した通り、この霊は自分の名前以外の記憶を持たない。それどころか、自分自身に対しての認識すら希薄だ。『生まれたての赤ん坊のよう』――あんたはよくこの子を観察していたよ。その通りだ。故に、例え生前誰かに恨みを持っていたとしても、覚えちゃいなかっただろう。したがって、一つ目の可能性は却下だ」
磐鷲は目をゆっくりと開いた。やはり、中村はソファに半分腰掛けるような形で姿勢を崩している。気にせず、磐鷲は続けた。
「ならば、残った可能性は一つだ。この霊は、『特定の条件を満たした者を半自動的に襲うシステムと化している』――こう考えれば、あんたの捉えた特徴とも、発生した事象の数々とも符合する」
「システム?」
中村は怪訝な顔をした。実に訝し気に――どこか攻撃的に――磐鷲と、その傍らのアサミを見比べて、応える。
「あ……アサミは人間です。TVや映画を見せたら反応した。私が連れていく場所に、いつもついてきてくれました!」
「『かつて人間だった者』だ。反応といっても、あんたのスマートフォンに一定の形容詞を書き込むくらいだろう?
『ついてきてくれた』というのも誤りだ。運び手であるあんたの周りを浮いていただけさ。ウイルスと保菌者の関係と考えると分かり易いか?」
「アサミはウイルスなんかじゃあないッ!」
「一般的な生物の定義は三つ。細胞で構成されており、自己を複製し、代謝を行うもの。ウイルスはこのうち二つを満たしているが、霊はどれも満たさない。まだウイルスと表現された方が、この子とあんたとの距離は近くなるんだがね。まぁ、それはいい。話を大元に戻そう。
あんたは『この子を祓うべきか否か』知りたいといい、俺は『祓うべき』だと答えた。その理由が、これだ。条件さえ満たせば、この子は容易くあんたの元を離れるし、あんたを襲いさえする。彼女はウイルスに似た、極々単純な活動を行う、かつての生者の残滓でしかない」
淡々と告げながら、磐鷲は最後の煙草に火をつけた。手持ちの煙草はこれで空だ。だが、突然舞い込んできたこの仕事も、そろそろ終わる。
「アサミが、私を……?」
こちらの言葉を信じきれないのか――信じたくないのか――中村が乾いた笑い声を上げる。精神的な拠り所を失うと、人間はこういう反応に至ることがある――磐鷲にとっては学びにもならない、よくある反応だ。
「そんなわけない……私とアサミには絆がある。この一か月、ずっと一緒に暮らしてきた……」
「幸せな時間にはいつか終わりが来る。それが死者と生者の間で紡がれたものなら猶更だ。
……さて、では、この霊がシステム化しているという証明をしよう」
磐鷲は最後の煙草を咥えたまま強く息を肺の中に吸い込み、静かに力を送った。途端、中村の腹部から、ぬるりと、真っ黒なものが這い出てくる。中村は自身に起きた異常事態に飛び上がって驚き、再び後方のソファに倒れ込んだ。
彼の体を這いずり回っている真っ黒なもの――それは、髪の毛だった。瑞々しく、美しさすら放つ艶めかしい髪の毛。それが束になり、蛇のような形を創り上げつつ、中村の胴体に、右足に、ぐるぐると巻き付いていく。
「な、な、なんっ、なんですかこれ――」
「端的に言うと、あんたに撃ち込んだ銃弾に力を流し込んでいる。なに、多少くすぐったいかもしれんが、悪意は無い。むしろ――さっき言った通り、体に活力が湧いてきているだろう?」
毛髪を操る力――それが、天が磐鷲に与えた特異能力である。髪の毛を銃弾状に加工し、撃ち込むことで、このような遠隔操作も可能だ。そして、人体に撃ち込んで力を送ってやれば、僅かではあるが、他者に自らの生命力を分け与えてやることも出来る。
勿論、普段はこんなことはしない。対象の生命力を咥える特異能力を持つ講員・坂田雨月などと比べると、このやり方は怖気のする程に燃費が悪いからだ。しかし、雨月は今この場に居ないし、この事例に至っては、彼女の力をわざわざ借りるまでも無い。
「それはそうと、見るといい。動き出したぞ」
磐鷲は煙草を片手で持って、大きく息を吐いた。その白煙に背中を押されるように――ゆっくりと、少女の霊が動き始める。ソファに倒れ込んだままの、中村の方へ。
「俺は常々思うんだがね。子供というのは風船に似ている」
体を這いずり回る髪の蛇に気を取られていた中村は、ようやく自らに近寄ってくる少女に気づいたようだった。
「彼ら彼女らの小さな体躯は、体内に封入された生命力という空気の力ではち切れんばかりだ。だが、それ故に、未知なる攻撃への抵抗力は低く、ちょっとした刺激で綻び、生命力を吐き出してしまう」
「あ、アサミ……?」
「まぁ要するに、子供というのは、栄養補給にはこれ以上なく都合が良い。今のあんたのようにな」
中村は後ずさる。少女の霊はゆっくりと彼に近づいていく。
背後の窓から差し込む夕陽が、ゆっくりと淡く、弱くなる。
「その草臥れた体、怯えが筋肉に張り付いたような表情。憑くにはもってこいの脆弱さだ。そこに、俺の生命力を幾許か送り込んでいるわけだから、霊からすれば今のあんたは、子供に次ぐ優良物件だよ。それと、霊といえども、自己を維持するにはエネルギーが必要不可欠だ。チャンスがあれば積極的に喰らいつこうとする。
つまり、この霊の行動原理はたった二つだ。『確実に取り憑ける相手に取り憑く』そして『確実に刈り取れる相手から刈り取る』――ああ、言い忘れていたが、少し気を緩めるだけで、彼女は簡単に俺に憑いたぞ」
ソファから転げ落ちる中村。近づいていく少女の霊。消えていく真っ赤な夕陽。その中で。
懇願するように、中村は言った。
「や、やめ……アサミ、やめなさい……!」
「届かんよ。『それ』は言わば、骸で構成された機械だ。言葉が届く由も無い」
磐鷲は――ほんの少しの良心の呵責と共に、しかしはっきりと――言い放った。
「分かったら出ていけ。人形遊びは、もう十分楽しんだ筈だ」
夕陽が、赤い光が、部屋から消え失せた。その直前、磐鷲は確かに見た。
中村の怯えた顔に、その頬に、さっと朱の色が走ったところを。
彼は傍らに落ちていた自らの鞄をむんずと掴むと、入ってきた時とは対照的な、荒々しい足音を響かせて出口へ駆け出した。仕切り板に引っ掛かりながら、転びそうになりながら。彼は振り向かなかった。やがて、事務所のドアが開け放たれ……暗い室内に、磐鷲と少女の霊だけが取り残される。
暫く、磐鷲はじっとしていた。少女の霊がゆっくりと――部屋を周回し終わった掃除用ロボットが充電器のもとへ戻るが如く――磐鷲の隣へとやってくる。
灰が、手元からボトリと床に落ちた。ロクに吸う間も無いまま、手にしていた煙草はフィルター近くまで燃え尽きている。軽く舌打ちをして、煙草を灰皿へと押し付けた。
懐をまさぐり――そういえば、もう煙草は先ほどのものが最後だった――煙草の空き箱を片手で潰してから、スマートフォンを取り出してみる。中村が行っていたように、チャットアプリを立ち上げ、デスクの上へ。
アプリ上に文字が躍ったのは、それからすぐのことだった。
『あれで、よかった?』





