マリオネット - 第6話
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――どうして、名前を告げられたのだろう。
目覚めた私が最初に辿り着いた疑問は、それだった。
ゆっくりと、体を起こしてみる。
女性の体躯だ。長い髪は括られており、チェック柄の平凡な寝間着を着ている。ダブルベッドから部屋の中を見回すと、正面の壁に掛けられた、大きなコルクボードが目を引いた。どうやら、風景や親しい友人との写真を飾っているらしい。壁際に置かれたクローゼットの傍には、こじんまりとした本棚がちょこんと置かれている。そして、その本棚の上――柔らかそうなタオルの上には、私にとって見慣れた真ピンクの箱が、そっと載せられていた。
表面には『メリちゃん』と可愛らしいフォントで文字が躍っている。そうだ。私の元々の名前はメリ――大量生産された子供用玩具であり、それ以外の何者でもない。除霊師の最後の回答はハズレだ。彼女は私を、アメ……何とかと言っていたが。
私は、そんな名前ではない。
……そんな名前では。
……無いのか?
本当に?
『やぁ、こんばんは、坂田雨月』
彼女を捕らえた時、私はそう、彼女の名と共に挨拶をした。別れの挨拶も、そうだ。私は彼女の名を呼んだ。
『さようなら、坂田雨月』
私がどうして名前を告げられたのか? それは、私が彼女の意識を捕らえる際、彼女の素性を浅くではあるが読み取ったからだ。だから私は彼女の名前を告げることが出来た。
では、彼女は?
『あら、覚えてないの?』
冷たい笑みと共に、彼女は言った。あれはハッタリだったのだろうか? だが、あの状況でハッタリを言って何になる?
もしあれが真実であり――私の名が、彼女の告げたものであったなら。
彼女はどうやって、私自身も知らない――忘れている?――名前を告げられたのだろう。
……どうやって?
……そんなことを。
考える必要が、あるか?
私は一つ息を吐き、それから、小さく笑った。そうだ。もう考える必要など無い。
勝ったのは私だ。
彼女ではない。
『私』だ。
これは純然たる事実だ。嘘偽りの無い現実だ。誰にも否定できない真実だ。故に忘れてしまえばいい。勝利の決まっていたいつもの茶番のことなど。あの冷たい微笑みごと。
忘れて――。
《そうやって、色んなものを忘れてきたのね?》
――いつの間にか。
私は、呼吸を止めていた。
私のモノになった体が、息苦しさを訴える。脂汗が額から頬へ流れていく。舌の根が凍り付いたように動かない。
ありえない。
「ありえない」
勝ったのは私だ。
「何故、彼女の声が聞こえる?」
《何故、私はあなたの名前を言い当てられたのだと思う?》
再び、声。彼女の声。冷たい、鋭い月のような笑みが頭に浮かぶ。何とか呼吸を行って、私は部屋の中を見回した。正確には、見回そうとした。
だが。
体は、凝固したように動かなかった。
「なんだ」
おかしい。
「どうなっている」
まるで、体が、自分のモノでないかのような――。
《『まるで、体が、自分のモノでないみたいだ』……なんてね?》
滑稽ね、と、声は笑った。心の底から楽しそうに。
《もう一度、聞いてあげる。考えてみて? どうして私は、あなたの名前を言い当てられたのでしょう? あなたが私の名前を言い当てたのと同じように》
同じように――混乱の最中、私は再度、先ほどの自分の思考を繰り返す。私がどうして名前を告げられたのか? それは、彼女の意識を捕らえる際、彼女の素性を読み取ったから。例えるならば、買い物カゴに果実を入れる時と同じだ。形状、色、質感、熟れ具合――触れるということは、そのものの正体を多少なりとも手中に収めることに他ならない。
だから私は、彼女の名前を告げることが出来た。名前に加え、彼女が除霊師であることも読み取った。
……では。
もし。
もし、彼女が私と同じだとすれば? つまり――。
《私があなたと同様、他者の精神を捕らえる能力を持っていたとすれば。そう、その通り。よく出来ました》
また、可笑しそうに彼女が笑った。……そしてここに至って、私はようやく、重大な事実に気が付いた。
彼女は今、私の思考――口に出していない言葉をすら読み取っている!
《正確に言いましょう。私は他者の精神、生命力を食らう特異能力を持ってるの。そして当然、食らうために必要な工程――精神や生命力を、咥えたり、それらに噛みついたりすることだって出来る。
舌の肥えた人間なら、スープの一滴を舌に乗せるだけで、その具材を言い当てるものよ。私はあなたを拾い、この部屋に連れてくるまでに、ちょうど同じようなことをした。……幾ら私が迂闊でも、相手の危険度も推し量らずにそのまま眠るなんて真似、流石にしないわ。分かる?》
挑発的な調子で、頭の中の声は続けた。
《私はね、あなたが何かしてきたとしても、こうして笑ってあげられる自負があったの。……とはいえ、出来るなら、何もして欲しくは無かった。昨日はもう、ホント最悪な一日だったから。ゆっくり眠らせて欲しかった。本当に残念。こんなことになってしまって》
「こんなことになって? 残念? ははは、そうだろうさ。何せ、君は私に負けたんだ」
彼女の説明を受け、ようやく、私は冷静さを取り戻しつつあった。成程、彼女が私を警戒していたのは分かった。私の素性も把握していたことも。だが、それがなんだ?
「いま、この体で話しているのは誰だ?」
勝利したのは、除霊師ではない。
「私だ」
私なのだ。
「どういう理屈か知らないが、消えるといい。所詮は負け犬の遠吠えだ。君も生死を懸けて戦ってきた者であるならば、いつまでも未練がましく肉体にへばりつくのはやめるべきだ、見苦しい!」
《『どういう理屈か知らないが』? あらあら、致命的にお馬鹿さんねえ。私たちは『契約』を交わしたでしょう?》
そう言われて、私は暫し、その言葉の意味するところを考えた。『契約』――それは、互いに遵守すると誓った場合、必ず守られる世界のルールだ。何人たりとも――恐らく、悪魔と呼ばれる存在でさえも――この法則から逃れることは出来ない。
ならば。
『あなたに対して三つの事柄を言い当てることが出来なかったら、その時は――』
何故。
『――キミの体は私のもの』
何故動けない? どうして、私は彼女の体を自由に扱えずに居る?
「まさか」
ふと浮かんだ考えに、私は思わず呟いていた。
「君の体を操っていたのは、キミ一人では無かったのか?」





