打球の行方
球場のボルテージは最高潮だった。
両チームそれぞれ10安打以上という乱打戦になり、現在スコアは8ー7の1点差。
このまま試合終了になれば、いわゆる “ルーズヴェルト・ゲーム” ということになるが、この日最大の山場は最終回に待っていた。
九回裏、二死満塁。二塁走者が本塁を踏めば、逆転サヨナラという場面――
しかも右 打 席 には、2打席連続の本塁打を放っている四番打者がこれから立とうとしているところだ。
自分の守備位置で守りにつきながら、オレは球場の臨場感をたっぷりと味わっていた。
やっぱり、グラウンドはいい。選手の緊迫感が直に伝わって来る。
オレはグラウンドの土をスパイクで少し掘ると、グラブを叩いて気合を入れ、自分のところへボールが飛んで来たときに備えた。
今日はどういうわけか知らないが、オレのところに一度もボールが飛んで来ていない。
――そんなことってあるか?
せっかく、こうして守っているのだから、一球くらいさばきたいものだ。
もちろん、マウンドの投手は相手の四番打者を三振に仕留め、このまま逃げ切りたいだろう。あと一人というところで連続四球を出し、自らピンチを招いたのだから。
さあ、プレー再開だ。
第一球。
大きく曲がったスライダーが外角を外れ、まず1ボール。
第二球。
同じく外角へ、今度は直球。打者は一瞬、反応しかけたが見送った。しかし、判定はギリギリのストライク。
第三球。
外角を狙ったボールがワンバウンドになり、慌てて捕手が身体で止めた。
危ない、危ない。ボールを後ろに逸らしていたら、三塁走者が生還していただろう。そうなれば同点だ。
肝を冷やした投手は帽子を取り、額の汗をアンダーシャツで拭う。
ボール先行の苦しい投球に、捕手は一旦、タイムを取り、マウンドに駆け寄った。ミットで口許を隠し、少し顔が青ざめた投手に何かアドバイスする。
どうせ、言っていることは大したことじゃない。思い切り腕を振れとか、スクイズはないんだから打者に集中しろとか、そんなことだ。
それよりも重要なのは、こうして間を取ることである。オレが見ても、いいタイミングでのタイムだったと思う。
捕手の言葉に、二度、三度とうなずいた投手は足でマウンドを均した。捕手が小走りで戻って行く。
ピンチであることに変わりはない。果たして投手は気持ちを入れ替えられただろうか。
第四球。
投手が投じたのは、ほぼド真ん中。
打者は踏み込み、フルスイングする。しかし、ボールは打者の手前で落ち、その上をバットが通過した。フォークボールだ。
相手打者は空振りを喫した。
ふぅ、これで 2-2 。とりあえず追い込めた。
それにしても今のは危ない球だったと思う。フォークボールにしては高さが中途半端だったし、落ち方も今イチ。空振りが取れたのは、相手打者が気負ってくれたお蔭だろう。もう一度、今のと同じ球を投げたら、スタンドまで運ばれる。
勝負となる第五球。
ところが、スライダーはまたも外角に大きく外れ、明らかなボール球になってしまった。打者は楽々と見送っている。打たれたくないという投手心理が多分に影響しているのだろう。
とにかく、このスライダーは完全に見切られている。もう使えそうにない。
フルカウントだ。
――次はどうする? 次は?
いつの間にか、「ボールよ、飛んで来い」なんていうことも忘れ、完全にオレはこの勝負に見入ってしまっていた。
捕手がサインを出した。投手がうなずく。そして、ノーワインドアップで六球目を投じた。
バッテリーが選択したのは、相手打者の意表を突くチェンジアップだった。速球系を待っていたであろう打者はややタイミングを外される。しかし、体勢を少し崩しながらも、そこを何とか堪えた。
乾いた打球音とともに、白球が夜空に舞い上がる。
カクテル光線がきらめくレフトポール際への大飛球――オレは口をポカンと開けて、空を見上げた。
このとき、風はライトからレフト方向へ――野球の神様は、まだ試合終了にしたくなかったらしい。
高々と上がった打球はポールの直前で大きく左に切れ、それを見送った三塁塁審が両手を万歳のように挙げる。ファウルだ。
スタンドの客からは、ため息とも悲鳴ともつかぬ声があがった。本塁打かと思わず立ち上がっていたファンが、残念そうにレフトポールを見つめる。
惜しくもサヨナラ本塁打を逃した打者は、一度、打席を外し、入念なスイングのチェックを行った。
一方、命拾いをしたバッテリーは、多分、この打者を抑える自信を失くしたのではないだろうか。今、追い詰められているのはバッテリーの方だった。
――さて、決め球をどうするか。
得意のスライダーは決まらず、裏をかいたチェンジアップも通用しない。もう一度、フォークを投げるという選択肢もあるが、この満塁の状況ではワイルドピッチやパスボールになる危険性もある。
九回裏、二死満塁で、しかも3ボール・2ストライクのフルカウント――選手も観客も痺れる場面が続く。
運命の七球目。
バッテリーが選択したのは、内角低めへの直球だった。オレのいる守備位置から見ても、申し分ない高さとコース――
だが、打者の反応は鋭かった。
カキィィィン!
打ち返された打球はオレの真正面に飛んで来た。
――えっ、この場面でかよ!?
打球はあまりにも痛烈だった。
オレはグラブを差し出しもせず、グラウンドに倒れ込むようにして避けるのが精一杯。
火の出るような打球は、オレの後ろにあったフェンスに当たって跳ね返ると、外野に転がった。
オレは腹這いのまま、直撃しそうになったボールの行方を目で追う。
――あー、危なかった。
肝を冷やしたオレは、ユニフォームについた泥を払いながら立ち上がった。
多分、そのときオレは、球場中の注目を集めたに違いない。
カッコ悪いところを見せてしまい、オレは顔を隠すように帽子を目深に被り直した。せっかく地上波の全国テレビ中継もある晴れの舞台だったのに。
「おーい、大丈夫か、兄ちゃん? そないなこっちゃ、プロになれへんぞ!」
スタンドから飛んだ一人のオッサンの野次が、ボールボーイのオレへ届いた。
……ルビだらけでスミマセン。