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第5章 『11月』

 最悪だ―― 。

 理沙はずっと気分が沈んでいた。これほど落ち込んだことはないというほどだった。暗いオーラが立ちこめて、近づき難い雰囲気で。

 それはあのとき――家出した航聖たちを京一郎といっしょに探しに行った夜に端を発した。まさかあのとき、あんなことが自分の体に起きるとは……兆候はあったとはいえ、その瞬間まで忘れていたことだった。そのときより少し前、陸上部の練習を見ていた京一郎に向かって飛んできたサッカーボールが、頭に当たる寸前で運動エネルギーを失って落下した――今思えば、それが「目覚め」の前触れだったのだ。それからしばらくはそんな超常現象が起こらなかったためにきれいに忘れていた。それが、あの夜、あんな形で覚醒した――。

 そして、理沙のしたことを目の当たりにした京一郎のあの目には、驚きと、なんということであろう――怯えの色が現れていた。

 翌日から、順調だった二人の関係が崩れてしまった。

 いつものように接しようとする理沙を、京一郎は避けるようになった。二学期も中盤、来春に卒業を控えた三年生は、焦るかのようにカップルが増え出した。京一郎もその風潮に乗るかのようにクラスメイトの女子と親しくなり、理沙は打ちのめされた。

 月神人の血を持つばかりにこんな目に遭うなんて――。

 理沙は自分の出生を恨んだ。弟の航聖がいるから自分は月神人にならない――そう思っていた。月神人の血を忌み嫌って月神獣の肉も食べないようにもしてきたのに、どうして……。

 体育祭が終わって、学校は文化祭の準備に動きだしていた。あと一ヶ月ほどである。クラスや文化部がテーマを決め、文化祭実行委員会も本格的に活動を始めだした。

 理沙はそれに向かって、いよいよ京一郎との仲を決定的なものにしようとくわだてていただけに、ここでの「事故」は大打撃だった。

 理沙の計画の破綻をまっさきに感じ取った霧山千景とカーチス真由美は心配そうに訊ねるのだったが、理沙に本当のことを言えるはずもなく、ただ京一郎の心変わりのせいにするしかなかった。ひどい男ね、と千景は憤り、わたしが悪いのよ、と言う理沙を、京一郎をかばっていると勘違いした。

 勉強にも身が入らず、中間テストはガタガタだった。それでさらに落ち込む理沙は、いよいよ文化祭に向けての活動がクラスでも始まるというのに、参加する意欲がわいてこなかった。

 二年三組のテーマは、演劇。オリジナルの台本による喜劇をやろうというのだった。役者、大道具などの係に分け、練習と制作にかかりだした。人前に立つなんて度胸のない理沙はなんとなく大道具係になり、書割を造る班で放課後の作業を手伝うことになった。一方、千景は、彼氏にいいところを見せたいのか、演技が上手いわけでもないのに舞台に立つほうを選んだ。真由美は、理沙と同じ大道具だった。ただ、陸上部のクラブ活動があったため、多くの時間を割くことはできなかった。

 理沙は、なるべくいやなことを忘れようと仕事に励んだが、そんな気持ちを理解できない存在がいて、悩ましかった。大伊豆星司である。

 同じ月野町商店街の靴屋の息子。理沙の、月神人としての能力の現出に気がついた。もちろん、それを口外するようなことはない――それは、月神人の掟に背く行為だからだ。

 しかし、理沙にとって、同胞を見るような目で見られるのが耐え難く嫌だった。大伊豆は、いずれは月神人になるだろうから、理沙を仲間だと思うのは自然かもしれなかったが、理沙にとってはいい迷惑だった。月神人などという、使命を背負った特殊な人間になんかになりたくはなかったし、どうすれば京一郎との関係を修復できるだろうかと淡い望みを抱いているところに、周囲をうろちょろして馴れ馴れしく話しかけられると誤解されてしまうではないか。これ以上、京一郎との距離を離したくない。

 しかし、そんな理沙の気持ちを知ってか知らずか、大伊豆はなにかと理沙に話しかけてきた。理沙の気持ちを知っていたとしたら嫌味な男だが、気づいていないとなるとそれ以上に始末が悪かった。

 だからはっきり言ってやった。

「いーい? わたしは、絶対月神人になんかならないんだから。話しかけてこないで。それにわたしには好きな人がいるの」

 と、大伊豆の鼻先に指を突きつけ、眉をつり上げて。

 それに対し、

「だって、能力が発揮されたんだから。徐々にパワーが上がってくる。満月にはそれを感じるはずだよ。ぼくらの先祖からのさだめからは決して逃れられない。なら、受け入れるべきだよ。ぼくもいつか能力が目覚めるだろう。そのときはお互いに協力しあえると思うよ。鳥野さんの好き嫌いの問題じゃない」

 だめだ、こりゃ――。

 理沙はがっかりした。

 自分の気持ちなど、この男には理解できないらしい。こんなやつが同じクラスだなんて。

「ともかく、そばにいるだけで迷惑なの!」

「……」

 そこまで言っても、わかったのかどうか……。それで大伊豆の態度が変わるかどうかはわからず、理沙の心は晴れなかった。



 明日はいよいよ文化祭――。

 展示や演劇を行うクラスも、有志の企画も文化クラブも、授業が終わった放課後は追い込みに入って修羅場と化していた。明日に本番を控え、必死である。たった一日とはいえ、日常とは違う空間をどれだけ楽しめるか――生徒たちは盛り上がっていた。

 それはもちろん、純粋に文化祭を楽しもうという思いがほとんどだったが、理沙のように、特定の人間への接近を図ろうと考える者も少なからずいた。

 理沙の当初の目論見では、まいた種が芽を出し順調に育ち、いよいよ収穫の日を迎えるはずであったが、その計画は無惨にも潰えてしまった。なんとか軌道修正しようと京一郎に接近したが、あからさまに避けられた。もはや取り返せず、理沙にとって文化祭はいまやどうでもいい行事となってしまっていた。

 さあ、はりきってやろうぜ――と、力を入れるクラスの雰囲気についていけなかった。失恋の痛手は、力の入れようが大きかった分、想像以上に大きかったのだ。ここまで落ち込むのかと、のちに理沙はその体験を回想するが、今はそんな余裕はない。

 演劇の最終のリハーサルが、体育館のステージで本番さらながらにおこなわれた。役者はもちろんだが、大道具係も舞台セットの入れ替えに働いた。

 理沙の目には、演劇部でもないのに熱演する千景の「明日は松岡が見てくれるから」という気持ちがあからさまに映って、ため息がでた。

 リハーサルが終わり、いよいよ明日の本番を待つだけとなった。「お疲れさま」と言いながら、それぞれ家路につく。

「ねぇ、理沙」

 校舎の外で、真由美が声をかけてきた。

「明日はいっしょにあちこち回ろうよ」

 クラスの演劇の上演時間以外は、まったくのフリーとなる。ステージも、見ても見なくてもいいことになっていた。だから文化祭を心おきなく楽しめるはずなのだが、理沙はなにをしようかという予定を立てていなかった。文化祭のプログラムは事前に配布され、だれもが早くから楽しみにしてスケジュールをチェックするなか、理沙はそんな気分ではなかった。

「千景はたぶん松岡とあちこち巡るから、理沙はわたしと行こうよ」

 ニコニコと言う真由美の気持ちが理沙にはわかった。

「ん。ありがとう」

「年に一度の文化祭なのよ。楽しまなきゃ」

「なにか見たいものでもあるの?」

 理沙を元気づけようという意図のついでに、なにか文化祭をより楽しむ計画でもありそうな真由美だった。それとも、京一郎とのヨリを戻すいい方法でもあるのだろうかと、サプライズな作戦をちょっぴり期待したが、

「そうねぇ……」

 と即答しなかった。

「明日までには考えるわ」

 あまり考えていなかったらしい。たしかに、高校や大学とちがって、文化祭といってもやれることも限られている。楽しむ、というより、自分たちがなにをやるのか、という点が強調されていたことは否めない。 だから理沙もそれほど期待もしていなかった。



 翌日――。

 金曜日である。文化祭はこの一日きりである。早朝から準備をし、九時より三時までおこなわれ、終了と同時に後片付けが始まる。

 敷地は広いが全校生徒四百名ほどの中学校のこと、それほど規模の大きな文化祭にはなりえない。当然、内容にも派手さはない。予算も少ないから、大きなことをやろうとしても、そうはいかない。生徒の自主性を重んじるとはいっても、羽目をはずして好き放題にできるかというと、そういうわけにはいかないのである。そこは教員の目が光っており、祭りというより純然たる学校行事だ。平日開催ということもあって、一般公開もしていない。ちなみに模擬店もない。

 それでも、年に一度のお祭りは、非日常を味わえる貴重な日だ。

 体育館では舞台発表がおこなわれ、視聴覚教室では自主製作映画が上映された。それぞれどちらを鑑賞するかは生徒個人が決められたが、時間の関係上、両方とも見ることはできない。展示は終日おこなわれ、こちらはいつでも見ることができた。模擬店はない代わりにランチルームは常時開放され、いつでも利用できた。生徒にはかなりの自由が与えられていることになる。その代わり、おまけとして、文化祭の感想文の提出を求められるのだが。

「おはよう!」

 朝の校内のいつもとは違う雰囲気が漂うなか、異様にテンションの高いあいさつがそこかしこで交わされていた。

 カーチス真由美も、自転車置き場で理沙の顔を見ると、大きく声をかけた。

「おはよーっ」

 と声だけは元気に出して、理沙。

 理沙の二年三組のオリジナル演劇の上演時間は、プログラムによると十時二〇分である。まだまだ時間はあるものの、他のイベントを熱心に見ている時間はなさそうである。体育館で、先に上演する演目をちょっと観ている間に準備の時間が迫ってきてしまうだろう。

 二人はロッカーにカバンを放り込むと、文化祭用企画告知ポスターがべたべたと貼ってある廊下を体育館へと向かった。今日は授業がないし、教科書やノートの入っていない学生カバンはぺったんこで、ロッカーにもやすやすと入った。

 体育館に入ると、ずらりとならんだパイプ椅子(そういえばこの椅子を並べる作業も手伝ったのだった)には大勢の生徒がすわっていた。最初に文化祭の開始を告げるセレモニーがあるからだ。全校生徒がまずはここへ集まることになっていた。

 セレモニーのあと、体育館に残ってステージを楽しむか、展示を見に行くか、または視聴覚室で映画を眺めるかは自由である。

 わいわいと騒がしい。窓にはカーテンが引かれ、やや薄暗い。ステージの横の時計を見ると、まだもう少しセレモニーには時間があった。クラスごとにすわる椅子の位置が決められていたので、理沙と真由美は一応、そこへと向かう。

 担任の先生の姿が見えない。それをいいことに、決められた席につかず、みんな勝手な場所にすわっていた。だいたいこの辺りだったかな、という見当で、理沙と真由美は腰を下ろした。あまり前の方ではない。

 いよいよ始まる文化祭に、皆が浮かれていた。ざわつく体育館。

 チャイムが鳴った。いつもどおりのチャイムだ。

 はじまるのかな、と思ったところに、幕の開いたままの舞台に三年生の生徒会会長が登場した。中央のマイクスタンドまで歩むと、正面を向いた。生徒たちの私語がいくぶん減った。

 あ、あ、あ、とマイクの動作を確認して、

「ちゅうもーく!」

 生徒会長の声が体育館に響き渡った。

「これより、第三十六回、月野町中学校文化祭の開会式を始めます。本日、待ちに待った、文化祭が始まります!」

 それは、先生による堅苦しい挨拶ではなく、いかにも楽しげで、生徒主動でおこなわれるということをはっきりと示すパフォーマンスとなった。校長先生のだらだらと長い話とは違う、何人かの生徒会役員によるコントのようなショーめいた演出もあり、初めての一年生は呆気にとられた。十五分ほどの開始セレモニーが終わり、最後に、

「それじゃ、みんな、おおいに楽しもう」

 と締めくくられた。

 ステージが早々に模様替えされ始める。最初のプログラム、クラス出し物の演劇がすぐに始まるのである。

「まずは三年二組の演劇ね」

 と薄暗い中でプログラムを広げて真由美。

 理沙はどきっとした。京一郎のクラスである。京一郎が舞台に立つことは事前につかんでいたが、どの役なのか、どの程度出番があるかまではわからなかった。ぜひとも見ておきたかったが、理沙たち二年三組の演劇がその直後で、その準備のため、これから始まる演劇を最後まで楽しむことはできない。というか、もう招集がかけられた。スピーカーから、二年三組の生徒は舞台裏へ集合するように、と流れた。

「なんだ、もう集合?」

 真由美が不平を漏らして立ち上がる。「ま、しょうがない。わたしたちの出番が終わったら、思う存分、あちこち見に行きましょ」

 理沙も立ち上がり、ステージを気にしつつ真由美につづいた。

 理沙も真由美も裏方だったが、幕の切り替わりで書割を移動させたりしなければならないし、ちょっとだけだが、通行人の役で舞台に立つ。なにもしないで気楽に舞台を眺めてばかりもいられないのだった。

 舞台の両側にあるドアは、舞台袖へとつづいている。右側のそこへ入っていった。

 狭い舞台袖は騒然としていた。まもなく開演の三年二組の生徒たちが忙しく準備している。

 理沙は、そのなかに京一郎がいないかと目をやったが見つからず、横を抜けて舞台裏へと入っていった。舞台裏には二年三組の生徒がすでに何人か来ており、さらにぞくぞくとやってくる。役をもらった何人かは、もう衣装を着ていた。

 ブザーが鳴った。三年二組の開演である。舞台袖にはすごい緊張感が張りつめて、出演者や裏方係が出番に向けてスタンバイ。とても「どんな様子かな」などと気軽にのぞける雰囲気ではない。

 開演中は静かにしなくてはならない。そんななかで理沙のクラスの演劇の最終確認が行われていた。再演のないたった一度の本番である。テンションはいやがおうにも上がってくる。理沙もそれにつられて自分の仕事に熱を入れた。

 準備も一通り済み、いよいよ開演を迎えるばかりとなり、それと同時に、上演中の演目もクライマックスを迎えつつあった。

 理沙のクラスも出番が近づいてきたとあって、出演者たちがそわそわしだした。

 理沙も、それにつられるようにドキドキしてきていた。舞台の袖からそっとステージを見ていると……。

 京一郎がいた。中央でスポットライトを浴びたその姿は、理沙の目には一層神々しく映り、はっと息を飲むほどだった。

 そのとき、京一郎の後ろの書割が大きく傾いだ。高さ三メートルほどの背景が、京一郎の立つほうに向って倒れていくのが、スローモーションのように見えた。あわてて支えようとしている裏方の生徒を見て、これが演出ではないことがわかった。

 ――あぶない!

 理沙はとっさに念じた。

 すると――。

 パンッ!

 火花が散って、書割が四散した。ばらばらに砕け、破片が広範囲に飛び散り、一部はアリーナにまで達した。

 体育館にいた全員が驚き、騒然となった。スムーズに進行していた演劇がそれで中断してしまった。舞台に立っていた何人かが、その衝撃でその場に倒れてしまっていたのだ。

 一番驚いたのは理沙自身だった。顔面が蒼白になった。今の爆発が自分の力によることは疑いもなかった。

 舞台で倒れている何人かのなかには京一郎もいた。駆け寄るクラスメイトたちに囲まれて、その姿が見えなくなる。先生も駆けつけてきた。その光景を目にして理沙は怖くなった。

 舞台袖で様子を見守っていた二年三組の一団から抜け出し、体育館の出口へとアリーナを走った。真由美も千景も騒動のため気がつかない。

 ――とにかく、誰もいないところへ。

 体育館を出て、廊下を走る。何人もの生徒とぶつかりそうになりながら、身を隠す場所を、心を落ち着ける場所を探した。もしかしたら京一郎に怪我をさせてしまったのではないかと思うと理沙はたまらなかった。月神人としての能力が制御できないことに、いいようのない不安を覚えた。普通の人間でありたいのに、その希望とは逆に、月神人としての能力は確実に発達してきていた。しかもその能力は父親に似ず高かった。そのせいで、とうとう京一郎に害をなしてしまった。

 ――このままだと人生終わりだわ。

 プールの裏側までやってきた。そこで一息つくが、心臓が激しく鼓動するのは走っているせいばかりではなかった。

 大きく息を切らしながら呼吸が整うのを待った。ふと目を上げると、奥のほうで数人の生徒がたむろしているのが目に入った。ただよってきた煙草の香りが鼻腔をついた。

「なに見てんだよ!」

 そのうちの一人、髪を茶色に染めた女子生徒が声を荒げた。

 塀とプールの狭い隙間はどこからも目が届かず、上級生が煙草を吸っていると噂になっていたことを思い出した。すぐにでも立ち去りたかったが、体がもう少しの休憩を求めて足が動かなかった。

「さっさとどっかへ行っちまえ!」

 怒鳴った女子が立ち上がり、近づいてくる。ほんの十メートルほどの距離。ほかの生徒は静観していたが、目つきが鋭い。特に男子は野獣のような顔つきだった。その一人が言った。

「おい、待てよ。せっかくだから、おれたちと遊ぼうぜ」

 ――やばい!

 そう思った次の瞬間、彼らの手にしていた煙草の火が火炎放射器のように燃え上がった。悲鳴をあげて飛び退く男女を、理沙は呆然と見つめる。

 突然、腕をつかまれた。

「こっちだ!」

 驚いて振り向くと、大伊豆だった。

 熱い熱い、と大騒ぎでわめく生徒を残し、理沙は「どうしてこんなやつといっしょに」と思いつつも大伊豆と走り出していた。



 ランチルームはすいていた。文化祭は始まったばかりで、生徒たちはそれぞれの企画を楽しむのに夢中で、休憩しようという者はほとんどいなかった。

 適当に座ると、

「危ないところだったな」

 と大伊豆が言った。

「…………」

 口を開きかけた理沙だったが、どうにも気まずく、「べつにあんたが来なくても……」と小声で言い返した。

「でも、あのままだとあいつらがどうなるかわからない。どんな不良でもこの学校の生徒だし、普通でない怪我を負わせちゃ、やっぱりまずいだろ」

 大伊豆の指摘は的を射ていた。精神が不安定な状態だと、能力も暴走しそうだった。しかもどれだけのパワーがあるか本人にもわからないとくる。それだけに予測がつかず、取り返しのつかないことにでもなれば一大事である。

 理沙は大きく息をつき、両手で頭を抱えた。体育館では今頃どうなっているだろう――。知るのが怖かった。異常を知らせる校内放送もないし、救急車のサイレンも聞こえてこないことから、最悪の事態は避けられたようだが……。

「とにかく、落ち着くまでここにいたら? コーヒーかなにか飲むかい?」

「午後の紅茶を午前に飲みたい」

「おごるよ」

 大伊豆は席を立ち、自動販売機で買ってきた缶飲料をテーブルに置いた。

「まだホットがなかったから、冷たいやつね」

「恩を着せるつもりなら、あいにくよ」

 理沙はひったくるように缶をとるとプルトップを開けた。

「そんなつもりはないさ。ただ、ぼくらは同類だ。月神人の先祖をもった者同士。近所付き合いは大事だよ」

 大伊豆はホットの缶コーヒーをすする。

「それは大人になってからでもいいでしょ」

 喉をならして紅茶を流し込むと、理沙は眉を吊り上げた。「あんたといるところをだれか知ってる生徒()に見られたら大変だわ」

「そう意識することもないだろ。今の鳥野さんは一人で問題を抱え込もうとしている。ぼく自身はまだ能力が発動したことがないが、及ばずながら力になるよ」

 理沙はテーブルの上で握りこぶしに力を込めた。奥歯を噛みしめた。悔しかった――いろんな意味で。よりにもよって、相談できるのが、こいつしかいない。目の前が真っ暗だった。



「理沙! どこに行ってたのよ」

 なにもかも大伊豆のせいだと八つ当たりしてランチルームを飛び出し、一人心ここにあらずといった理沙が廊下をあてもなく歩いていると、真由美に声をかけられた。

「捜したわよ。いつの間にか体育館からいなくなってるんだもの」

「ごめん。ちょっとね。……演劇はどうなった?」

「ん。あのあと少し時間がずれたんだけど、ちゃんと無事に終わったよ」

「そう……あの、京一郎さんは……」

「大丈夫よ。あのあとすぐに立ち上がって、劇のつづきを始めたから。ま、とんだハプニングよね。でもなんであんなことになったんだろ」

 真由美にも本当のことは話せない。そのことで心が苦しかった。

「とにかく、わたしらの出番は終わったんだから、あとは自由に見て回れるよ」

「そうね……」

 歩き出す友人。とにかく、動揺しないよう平静に振る舞い、さらにまたなにか起こさないよう注意しながら行動するしかなかった。

 美術部の絵画や園芸部の鉢植えを眺めたり、パソコン部のゲームの列に並んだり、新聞部の一時間おきに発行される新聞を受け取ったり、視聴覚室で上映される映画をのぞいたり、なるべく平穏にすごすことを心がけた。体育館では、コーラス部や軽音楽部や有志のバンドやカラオケ大会など、次から次へと多彩な出し物でにぎわっていたが、理沙はなんだか行きづらくて、そっちへは足が向かなかった。

 正午をすぎ、お昼のランチルームは混雑していた。それを予想してお弁当をあいている教室ですます生徒もいたが、理沙と真由美は少し時間をずらしてランチルームを使うことにした。普段はあまりここで昼食をとることが少なかったから、たまにはいいのでは、と真由美が言うからだった。

 一時半ぐらいに行くと、そこそこ混雑してはいるものの、空席も目立つようになっていた。

 食券を買い、Aランチをトレーに乗せて、二人向かい合わせに席に着いた。

 タイムテーブルを広げ、「次、どこに行こうか?」と真由美。

「展示はおおかた見てきたし、ステージプログラムにしようか……」

他に行くところがないとなれば、体育館に行くより仕方ない。「なにをやる予定なの?」

「もう終盤だしね……。クイズ大会がある。エントリーする? 二人一組なんだって」

「間に合う?」

「微妙かな」

「や、二人とも。楽しんでる?」

 そこへ千景が現れ、明るく声をかけてきた。そのとなりにはどんよりした顔の松岡が疲労のオーラを発していた――たぶんあちこち引きずり回されたようである。千景は文化祭が始まる前からはしゃいでいたから今日は格別楽しいに違いない。今朝のことなど些事にすぎないと、突発的な事故としかとらえて気にもしていない様子。まさか理沙がそれに関わっているとはもちろん想像すらしていない。

「まあね」

 と返す真由美。

「でももうあと二時間もないのよね。時間がない。こうしちゃいられない。さ、次、行くわ。それじゃ」

 千景は松岡の腕を引っ張るようにしてランチルームから出てゆく。

 すわったまま二人を見送って、真由美は肩をすくめる。

「見せつけてくれちゃって」

「いいじゃない。仲良さそうで」

「理沙の気持も知らないでさ」

「いいのよ、別に」

「よくはないでしょ。ま、わたしとしては、いつまでもこだわらず、新しい恋を探すことを勧めるけれどね」

「今は別の人って、気分じゃない」

 理沙は、ふと大伊豆の顔を思い浮かべてしまった。さっきはひどいことを言ってしまったと思った。今回の騒動については、大伊豆に何も非はないのに、八つ当たりしてしまった。だが恋愛となると話はべつだ。あり得ない!

「でしょうね」

 うなずいて、真由美は同意した。

「真由美はどうなのよ?」

 理沙は水を向けた。いつまでもつつきまわされたくなかった。

「なに?」

「だれかいるわけ?」

「全然」

「うそ。陸上でいい成績上げて、目立つじゃない」

「どうかな。そういうのって反って敬遠されるものよ。気軽に付き合えないって思われるんじゃない?」

「そんなもんかな」

「それが女と男の違い。そんなもんよ。さてっと――」

 トレーをもって、真由美は席を立つ。その、実にさばさばした性格にも原因があるのでは――とは思っていないようである。「もたもたしてたら文化祭が終わっちゃう」

 理沙も席を立った。

 ランチルームから出ようとしたときだった。

 ばったりと会ってしまった。野浦京一郎である。そのとなりには、名前の知らない京一郎のクラスメイトの女子。

「!……」

 なにを言っていいかわからず、理沙は口ごもった。

 理沙の眼を見た京一郎だったが、それは一瞬のことで、「あの……」と言いかけた理沙の脇を抜けて、ランチルームに入っていった。すれ違いざま、京一郎は、「もう近づかないでくれ」とぼそっと言った。

 振り返って京一郎の後ろ姿を見る理沙の目に、大粒の涙が浮かんできた。

 決定的な瞬間であった。



 文化祭が終了した。生徒たちは後片付けに追われていた。

 展示物やあちこちに貼られたポスターは撤去され、模様替えされていた教室も元の通りに戻された。

 理沙のクラスは演劇だったので、後片付けにそれほど時間はかからなかった。舞台の大道具や小道具で、廃棄するものは臨時で作られた校舎裏のゴミ捨て場へ持っていき、衣装などで記念にしたい物は各自が持って帰ってもよかった。

 ホームルームで月曜日の確認が終わると、解散。

「さ、帰ろか」

 真由美が理沙に声をかける。今日はほとんど二人でつるんでいた。帰り道も途中までは同じ方向だ。

 ん、とうなずく理沙。

「でもちょっと待って」

 真由美を残し、理沙は、帰り仕度を終えて教室から出ていこうとする大伊豆を呼び止めた。

 振り返る大伊豆に、

「あの……さっきはごめんなさい。あんたのせいじゃないのに、怒鳴ったりして」

 借りを作りっぱなしなのが嫌だった。弱みを握られているわけでもあるし、対等な関係じゃないと、態度にそれがでてしまう。今日のことはここで少しでも清算しておきたかった。

「鳥野さんが大変なのはわかるよ。感情も不安定だし。でも一人で抱え込まないことだよ」

「べつに大変でもないわ。あんたの力を借りなくても平気よ」

 理沙は強がった。現実には乗り越えがたい壁が目の前に迫っていた。京一郎とのことが、もしなかったとしても、これはそう簡単にはいかない一生の問題だ。月神人の運命(さだめ)は重過ぎて。

「だいたい、学校(ここ)ではその話はしないでほしいし」

「それはこっちもわかってるさ。同じ立場なんだから」

「なら話は早い。わたしに話しかけてくる必要もないって」

「話ぐらいいいじゃん。ぼくは鳥野さんのこと、好きなんだし」

 沈黙。あまりにさらっと言うので、面喰った。言い返すのに、数秒かかった。

「な、な、なに言ってんの?」

 金魚のように口をぱくぱくさせ、理沙は言い放った。

「ばっかじゃない? こんなときに言うか? なに考えてんだか」

 大伊豆の脇をすり抜け教室を出ると、わき目もふらず大股で廊下を歩く。

「――真由美、帰るよ!」

「あ、待って」

 真由美が後を追いかけた。

 心臓が高鳴って顔が火照るのは、怒りのせいか、それとも動揺か、理沙自身、混乱してよくわからなかった。

 晴れた青空に浮かぶ雲が少し赤く染まっていた。もう秋の陽が山の向こうへと傾きかけていたのだ。その光を受けて、自転車をこぐ理沙の頬も紅く熱く、いっしょに走る真由美に気取られずによかったと安心するのだった。




   §



 航聖は毎日心配していた。月読郷へ行ったシロは、また戻ってくるのだろうか――。

 シロの帯びた使命は、勇樹にとっては重要なことであるが、航聖には大人たちの関わる遠い問題にしか感じられなかった。航聖が気がかりなのは、ただただ、シロが無事に戻ってくること――それだけだった。

 月読郷に帰ってしまっただけでも心配なのに、それだけではなく、容易ならぬ課題を預かって、その結果なにかとんでもない事態に陥ってやしないだろうかと、まったく状況がわからない故、やきもきするしかない。

 シロが祠に消えて半月がすぎた。十一月に入り、見事な紅葉が山々を彩り、豊かな実りのもたらしていても、航聖の心は晴れなかった。

 もうシロは戻ってはこないのではないか、というあきらめに近い気持ちが日に何度か去来して、そのたびに泣きそうになった。学校にいるときはまだ気がまぎれた。銀次郎もいたから希望をもちえた。しかし寝る前にひとり部屋にいると、どうしようもなく切なくなった。

 たった二ヶ月とはいえ、毎日欠かさず会い、面倒をみてきた。言葉すら覚え、それは犬や猫のような単なる可愛がるペット以上のつながりだった。

 もちろん、このままシロを秘密基地に匿いつづけるのは不可能で、早晩大人たちに露見してしまうだろうとは子供の航聖でも予想し、どうしたらいいだろうかと銀次郎と相談していた。が、いい考えはでなかったので、今回の作戦が成功すれば、晴れて堂々と――といってもさすがに町内から出ることは無理だろうが――シロと遊ぶこともできる。そんな希望もあればこそ、なのだが……。

 そんな元気のない航聖をみても、一方、勇樹にはどうしようもなかった。勇樹にとっても今回のことは、是非とも成功してほしかった。航聖とは思いは違い、ややそろばんずくなところはあったが、生活がかかっているだけにより切実ではあった。

 シロが目的を果たし、月神獣側の使者をつれてきたとしても、そこから先がまた長かった。シロは月神獣の代表を連れてくるだけである。和平への会談であるとは聞いていても、それ以上のことは知らされていない。町興しなどという人間側の勝手なイベントに付き合えというのはあまりに虫がよすぎる話である。

 どう話を切り出すべきか、勇樹はずっと考えていた。人を呼ぶにはどんなイベントにすればいいか、また、それによってどんなメリットが月神獣側にあるのか――。総合的に考え、いくつものパターンを提示できるようにするべきだろう。しかし考えるとはいっても簡単ではない。月神獣の言い分がほとんどわからない状態では検討しようにもあまりに未知数が多すぎた。今のところ秘密作戦であるわけだから、だれかに助言を求めるわけにもいかない。孤独な戦いであった。

 ろくなアイデアも出ないうちに半月がすぎていた。ひと月なんてあっという間だ。勇樹は店先にパソコンを持ち込み、合間にネットで調べたりワープロソフトにとりとめもなく書き込んだりしだした。

 そうやって時間を費やしているうちに、ついにそのときはやってきた。



 月野町商店街の夜は早い。だいたいの店が午後六時には閉まってしまう。居酒屋やスナックでさえも十時には閉めてしまう(その代わり開くのは早く、日の高いうちから営業しだす)。

 深夜一時となればだれもがすっかり寝静まり、物音ひとつしなかった。

 だからいくら小さな音でもよく聞こえた。窓ガラスなんかたたかれたら、家じゅうに響きわたった。

 その部屋でぐっすり眠っていた航聖よりも先にその隣の部屋にいた理沙のほうが音に気づいた。学校の宿題と、通信講座の課題を片付けていたら十二時半ぐらいになってしまい、やっとベッドに入ったところだった。宿題も通信講座の課題も、こんな時間になるほどの量や難しさではなかったのだが、勉強中にいろいろと他のことに考えが及び、なかなかはかどらなかったのである。悩み多き思春期の少女なのだった。

 枕を抱いた体勢で眠りに入ろうとしたところで、苛立たしげな音が耳ざわりに響いた。風の音なんかではない。泥棒?

 理沙は気になって起き上がる。そして、部屋の電気はつけずに窓辺にすすみ、カーテンを開くとアルミサッシを静かに開けてみた。さらに物音が大きくなった。思いきって夜の冷気のなかへ顔を出すと――。

「シロ……!」

 航聖の部屋の窓ガラスをたたいていたのは月神獣だった。星明かりに青白い体を浮かび上がらせて、その姿は神々しく幻想的であった。

 月神獣が振り向いた。シロ、と呼び掛けてから、その月神獣がシロなのかどうかわからないことに気づき、しかしシロ以外の月神獣であるはずもないだろうと思いなおした。

『こんばんは』

 月神獣は、人間とは違う、独特の声で言った。人懐こい声音が理沙の心に染み通るようだった。

「ちょっと待って!」

 理沙は窓を開け放ったまま引っ込み、自室を出ると隣の航聖の部屋のドアを開けた。

「航聖! 起きろ、シロが戻ってきた!」

 壁のスイッチを手探りして電気をつけると、部屋の中央に敷いてある布団をまたいで勢いよく窓を開けた。

「さ、入って。だれかに見られたらまずい」

 シロを手招きした。

 理沙の手に導かれて、シロは音もなく野生の獣のように室内に飛び込んできた。そして、まだ眠っている航聖の顔を優しく舐めた。

「航聖!」

 理沙も布団の上から航聖の体をゆすった。

 それで熟睡していた航聖はやっと目を覚ました。

 眩しそうな目で周囲を見回していたが、シロの存在を認めると、いっぺんに目を覚ました。

「シロ!」

 布団をはねあげて、抱きついた。

「シロ、帰ってきてくれたんだ!」

 感激のあまり涙があふれる航聖を、愛おしむかのような眼差しで見つめるシロ。まさに一日千秋の思いで待っていた航聖の気持ちをシロは受け止めていた。そこには正真正銘の絆が存在していた。いっしょにいた二ヶ月という、子供にとっては短くない時間がそれを育んでいたのだ。傍らでその様子に触れた理沙にもそれが伝わった。

『約束を守ったよ。月神獣の代表を連れてきた』

 そう言って、シロは開いたままの窓のほうを向いた。その視線を追って、航聖と理沙が窓を見ると――そこにもう一頭、シロよりも大柄の見知らぬ月神獣が、アルミサッシの框に脚をかけて室内の様子を見つめていた。その眼は精悍で、なにものにも怯まない意思の強さをみなぎらせていた。防人ノ儀の月神獣から発するときの力強いオーラは、シロにはないものだった。まさに戦士の面構えであった。

「お父さんを呼んでくる」

 本物の月神獣の迫力に気圧されて、理沙は危険に似たものを感じ、さっさと退室したかったところだった。

 部屋を出て、お父さんお父さん、と呼びながらドタバタと階段を下りた。

 一階の居間の隣の和室が夫婦の寝室だった。居間の明かりをつけ、ふすまの奥に向かって何度か呼び掛けていると、がさごそと気配がした。

「来たか」

 ふすまを開けるなり、勇樹は言った。パジャマの上にカーディガンを羽織っている。ただならぬ理沙の様子に、すでになにがあったのか察していた。

 理沙はうなずいて、

「シロの他にもう一頭いるわ」

 勇樹は満面の笑みを浮かべた。

「でかした!」

 二人して二階へかけあがった。

 部屋に入ると、感動の再会を果たした航聖はもう落ち着いていて、新しい訪問者を前にやや緊張した空気が漂っていた。シロとは違う雰囲気を持ったその月神獣は、部屋の隅にうずくまり、一見おとなしそうであるが、防人ノ儀のときに感じる殺気に似た気配を放っていた。それを感じて、二人は一瞬、沈黙する。

「シロ、よくやってくれた」

 勇樹はまずシロに駆け寄り、礼を述べた。背中を撫で、感謝の気持ちを伝える仕草が自然とでた。

「さっそく代表者と話をしたいんだが……」

 月神獣の言葉はわからない。シロに通訳してもらわなければならない。

 シロはうなずいた。そして、異様な存在感を発する月神獣を見やると、例のうがいのような声でギャオギャオと発した。それは言葉というより鳴き声だった。

 すると、シロといっしょにやってきた月神獣も、勇樹が防人ノ儀でいつも耳にするような威嚇的な声とは違う鳴き声でこたえた。

 シロがそれに短く応じ、人間の言葉に直した。

『戦いをやめようという月神人の意見は聞いている。それはわかった。実はボクらも同じ意見だ』

 勇樹は瞠目した。最初、シロから聞いた話と違うではないか。人間と戦うために地球へやって来る――。月神獣の指導者である長老がそれを脈々と数百年もやってきたのではないのか。

 そう指摘しようとすると、シロはさらに言った。

『ボクは、月神獣の長老じゃない。代表者というほど偉くもない』

 本当はもっと的確な日本語訳があるのだろうが、シロのボキャブラリーは航聖から学んだから語彙に乏しく甚だ緊張感に欠けた。けれども勇樹は必死にその意味を汲み取ろうと集中した。

『名前は×××』

 シロは、月神獣の言葉で名前を言ったが、その発音は聞き取れなかった。不可聴音域も混ざっていたかもしれない。

「ちょっと待ってくれ」

 勇樹が口をはさんだ。混乱していた。まだ興奮していた頭が、状況の理解を妨げていた。

「代表者じゃないって? シロ、月読郷でなにがあったんだ?」



 シロが語り終えると、室内は静かな空間に戻った。深夜だけあって、外からも物音一つしない。間もなく二時になろうとしていた壁掛け時計の秒針の、時を刻む規則正しい小さな音だけが部屋中に満ちて。

 いったん目を覚ました航聖だったが、さすがに話の途中で寝入ってしまっていた。

 腕組みしながら聞いていた勇樹は眉間にしわをよせ、ううむ、とうなった。想像を超える事実だった。月読郷の実態が、まさかこのようなものであったとは!

 もともと月読郷と月神獣、それと月神人は、常識を超える存在だったから、その向こうになにがあるのかは人智の及ばぬところだと追究されることなく今日に至っているわけであるが、たしかにこんなバックグラウンドが隠されていたとは、まったくもって驚異であった。

 このスケールの大きさは、へたをすると全人類をも巻き込む様相を呈しており、田舎の町興しなんてローカルな事柄なぞとるにたらない小さなことにすぎないと思えた。

 が、しかし――。

 勇樹は地球の未来を考えられるほど人間が大きくはなかった。知り得た情報で、検討してきたプランを実現すべく方向にしか頭がはたらかなかった。豪華な食材を前にしても焼くぐらいしか思いつかない料理下手な人のようである。

 勇樹の事前の予想どおり、やはりスムーズに事が進みそうにはない。不毛な戦いをやめようという勇樹の意志は、月神獣側の首脳に伝わったわけではない。ゴュジョ(シロが連れてきた月神獣の名前を無理から日本語で表記するとこうなった〉は、いわば非公認の反政府勢力の代表者で、そこへ通じただけでは、まだまだ目的が達せられたとは言い難い。ほんの少しの前進ではあるが、シロの話を聞く限り、そこから先は苦労しそうだった。

 とにかく、事情がはっきりしたからには、それに応じた作戦を練って挑まなければならないだろう。事前にまとめていたメモを修正して細部をつめていく作業が必要だ。

「よし、わかった」

 勇樹は膝をパンと叩いて決意を示す。

「しばらくここの部屋でシロと待機してくれ。明日以降、対処の仕方を考えるから、それまで外へ出ないでほしい」

『うん、わかった』

 シロは地球の状況を承知しているから、素直だ。

「理沙もご苦労だった」

 ずっと眠らずに付き合ってくれた娘をねぎらい、

「もう遅いから寝よう」

 と立ち上がる。

「眠れるの?」

 すっかり話を聞いて、理沙は父親が取り組もうとしていることのスケールにたじろいでいた。坂本龍馬ばりの行動力がなければ、この仕事をやりとげるのは無理だろう、とそんな感じがして、とても自分の父親にやりとげられるとは思えなかった。

 勇樹は理沙のそんな気持ちを察し、

「心配するな」

 笑顔を作った。

「それより、おまえこそ明日も学校だろ。早く休みなさい」



 翌朝――。

 昨夜のことが夢ではなかったと、自分の部屋に二頭の月神獣がいるのを見て興奮を抑えきれない航聖と、やや寝不足で、ただでさえ朝が弱いのに今朝はさらに欠伸の絶えない理沙の二人が学校へ行くと、勇樹はシロとゴュジョを一階の居間に呼び、膝をつき合わせての作戦会議を始めた。

 航聖がいたならシロもより安心するし、航聖も話し合いの中身が気になるだろうが、そんなに悠長にはしていられない。というのも、今月も防人ノ儀が迫っていた。当然、そのときには戦いで、いつものとおりなら月神獣が死ぬ。シロとゴュジョにとって同胞が死ぬのは決していい気分ではないだろう。できることならそれまでになんらかの手を打っておきたかった。

「ゆうべの話でだいたいの状況はわかりました」

 勇樹が口を開くと、すかさずシロが月神獣語に通訳する。シロが通訳しやすいよう、勇樹はゆっくりとできるだけ平易な言葉を使うよう心がけた。

「その計画を成功させるために、人間は協力をします。しかし、月神獣の長老の考えをどうしたら変えられるのですか」

『われわれ平和を望む何人かは、長老に戦いをやめるよう言いましたが、長老はきいてはくれず、われわれを牢屋に閉じ込めました。長い間閉じ込められて、やっと出してもらえましたが、もう長老に意見を言うことができなくなりました。しかし、いつまでも戦い続けては、月神獣も人間も、〈創造主〉の奴隷です。そうならないためにも、戦いをやめなくてはならない。長老の考えを変えるのに、協力してほしい。それには、人間も和平を望んでいることを長老に知ってもらうのがいいだろう』

 ううむ、と勇樹は思わず唸った。確かにそうだろう。お互いの考えを知らなければ、猜疑心のために和平なぞ実現しないだろう。だが、人間、というか、月神人の意思をどうやって長老に伝える?

 答えは単純明解、直接話せばよい。

「やはりそれしかないか」

 つぶやくように勇樹は言った。

 月読郷へ行くのである。長い月神人の歴史においてさえ、誰一人として行ったことのない未知の世界。外国へ行くのとはわけが違う。そこは月神獣が支配する世界だ。なにが起こるかわからないという危険から、だれもが二の足を踏んで、大挙して軍団を送って月神獣を殲滅しようなどという勇ましい主張さえ、触れてはいけないタブーのように、習慣的な毎月の戦いの中に埋没した。

 しかし今回ばかりは覚悟を決めて月読郷へ飛び込まなくてはならないだろう。それも大勢ではなく単独で。それでも勇樹には味方がいた。シロとゴュジョがいっしょなのは心強い。

 考えてみれば、ゴュジョもリスクを冒して地球へやって来たのだ。ゴュジョにとって地球は未知な場所であり、どんな危険があるかわからなかったはずである。シロがいてこそだったとはいえ英断だったにちがいない。ならば勇樹もそれに応えるのが礼儀というものだろうし、そうでなくてはゴュジョの信頼も得られない。

「わかった」

 勇樹は大きくうなずいた。「今夜、発とう」

 だが、と言を継いで、

「行って、それからは? ただ行っただけで、長老と話ができるんですか」

 シロの通訳を聞いて、ゴュジョは大きく首を振った。そして、なにか言った。シロが通訳する。

『正面から行っても無理でしょう。人間がいっしょだということで、もしかしたら会ってくれるかもしれないが、それは期待しないほうがいいだろう。むしろ捕えられてしまうかもしれない。作戦を立てていくのがいいと思う』

 勇樹はうなずく。ゴュジョの意見はもっともである。まともに行ってすんなり会談できればよいが、そうはいかないことを考慮して行動すべきだ。とはいえ勇樹にはなんの考えも浮かんではこなかった。月読郷に明るくはないからそれは当然で、ここはゴュジョに頼るほかない。

「なにかいい考えでも?」

 勇樹はうながした。シロが通訳する時間がもどかしい。

『城に忍び込む。そして長老がひとりになるときを狙って近づく。あとは勇樹(おとうさん)が説得してほしい』

「分かった」

 長老を説得する自信はなかったが、そこから先は勇樹の仕事だ。

『では、細かいところまで決めて、お互いに情報を共有しよう』

 細部をつめて、作戦を遂行する全員が、各自がどんな役目をもってどのタイミングでなにをするのかを把握してこそ、計画は首尾よく実行できる。準備は十分にやっておくべきだった。



 学校から帰ってきた航聖は、説明を聞いて「えっ?」と言ったきり唖然として声も出ない。シロとゴュジョが勇樹を連れて今夜月読郷へ発つ――航聖にしてみれば急な話であった。せっかく戻ってきたシロともっといっしょにいたかったから、どうしてそんなに急ぐのかと文句を言った。

「防人ノ儀の日が迫ってきているんだ。その前に解決しておかないと、こじれてしまいかねない」

 勇樹はこんこんと諭した。

「大丈夫。絶対に帰ってくる。今回はお父さんもいっしょだから、余計安心だろ」

「だったらぼくも行く」

「それはだめだ」

 勇樹は血相をかえた。月読郷がまだ安全なところだというわけではない。必ず戻るとの口約束も、いくらゴュジョがいるといっても守れないかもしれないのだ。子供の航聖をそんな場所へは連れていけない。遊びに行くわけではないのだ。

『大丈夫だよ』

 すると、シロが口を開いた。やんわりとした口調に、膨れっ面の航聖の不満が少し治まった。

『ゴュジョとその仲間たちはすごく頼りになる。きっと、全部うまくいくさ。だから安心して。そのうち航聖にも月読郷に行けるときがくるから』

「シロ……」

 航聖はシロの首を抱き寄せた。



 その夜――。

 再び月読山の上の祠の前。

 半月ほど前にここにそろった顔が今夜もあった。銀次郎も来ていた。学校で航聖から話を聞き、まっすぐ家に帰るとすぐに駆けつけてきたのだ。ところが、ろくにシロとの再会を喜ぶ間もなく、また見送らなければならないことに航聖同様落胆した。

 ゴュジョは月を見上げる。

 十一月になり、日が暮れる時間が早い。太陽が没したころにはもう月が頭上に輝いていた。だがまだ満月には遠く、半月より少し太った程度。月齢九・一。しかしそれでも通路を通って地球へ移動できたゴュジョの魔力はかなり強力だといえる。もしゴュジョと戦うなら強い魔力を持つ月神人二、三人でかからないと傷ひとつつけられないだろう。とてもではないが魔力の貧弱な勇樹に太刀打ちできるはずもなく、それを思うと、勇樹はぞっとした。

「ではそろそろ行くか」

 山道を登ってきて息が上がっていた勇樹は、しばらく呼吸が整うまでその場に座り込んでいた。

 やっと落ち着いて立ち上がり、祠に向かって一歩を踏み出すと、ゴュジョが風のようにさっと勇樹の前に出て先導する。そして、シロが勇樹を守るようにその後ろについた。

「気をつけて行ってくださいね」

 そう声をかけたのは直美だった。いままで登ったことのない山頂に初めてやって来ていた。不安げな表情が弱い月明かりに浮かび、これ以上ないほど心細げに見えた。余所から嫁いできて、月神人としての魔力のない一般人の直美にとっては、得体の知れない世界に赴こうとする夫が、まるで地獄へでも旅立とうとしているかのように感じられて。

 そして理沙も――。母親同様、ここへは来たことがなかった。だが能力が目覚め、このまま魔力が強くなっていけば、いずれは月神人として跡を継いでここで戦うことになるかもしれないと思うと、父のやろうとすることを心配しつつも応援する気持ちが強くなっていくのだった。過去から延々と続いてきた戦いが終わるのなら、そんなファンタジーゲームのようなことをするなんて真っ平だった理沙にとっては、万々歳だった。月神獣といっしょに旅立つ父を心配する気持ちと同時に、そんな計算高い思いもあって。

 ゴュジョは祠の二メートルほど手前で歩みを止めた。祠の上の空中に視線をそそぎ、精神を集中した。防人ノ儀のときに感じるような、いや、それとは雰囲気は異なるが、強烈な〝気〟のエネルギーを有するオーラがゴュジョから発せられ、人間たちはおののいた。勇樹ですら感じたことのないレベルの〝気〟で、ゴュジョを正視することさえ困難だった。

 シロが振り向いて、航聖と銀次郎を一瞥した。

『いってきます』

「シロ……」

 二人は同時に呼びかける。

 ゴュジョが姿勢を低くした。獲物に飛びかかろうとする獣のように。周囲に放つ〝気〟が一層強くなって――。

 跳躍した。

 祠の上、一メートルほどの空中でゴュジョの体は消滅した。

 それを見て、勇樹もジャンプした。こんな場合でなければ、とても飛び込む気にはなれなかったはずである。

 消えた勇樹の後を追って、シロが続いた。

 そして、静寂。

 ここで超自然的な出来事があったという痕跡すらなく、ただ静かな初冬の夜。

 航聖は寒さに身震いした。

「さ、帰りましょう」

 直美の声に、それぞれうなずき、祠に背を向ける。

 成功するかどうか、地球に残る者たちには、もう祈ることしかできない。

 山を下りる寸前で、航聖は一度振り返り、月の光を浴びて浮かび上がる祠をほんの少しの間、見つめるのだった。



  地球で見る月よりも二倍はありそうな青白い半月が頭上で照り、周囲を浮かび上がらせていた。

 ここが、月読郷――。

 周囲は夜の森だった。一同が出現したのは、木々が倒されでもしたのか、小学校の校庭ほどの開けた場所だった。

 勇樹は、意外と冷静に周囲を観察できていた。人間が過去だれも踏み込んだことない異世界だというのに、自分でも驚くほど興奮していない。それは、月の大きさ以外は地球の自然と一見変わっていないからだろう。

 これが馴染みのない不思議な光景なら、少しは違った気持ちにもなるのだろうが……。

 どこにでもありそうな森の中だったが、しかしたったひとつだけ明らかな人工物があり、それが異様な存在感を示していた。

 その人工物は、高さ十メートルほどで、上へいくほど細くなっている。単純な角錐ではなく、途中でいくつもの段が設けられていた。表面には見たことない文字か模様が刻まれ、石かコンクリートでできているようだった。

「あれは……?」

 と勇樹が問うと、ゴュジョがこたえた。

『あれは祠。地球のとは、ずいぶん違うけど』

 とシロが通訳した。

 月の大きさが二倍なら、祠は二十倍だ。月神獣の魔力の秘密を見た気がした。

「今、何時ごろなんだ?」

 勇樹はつい訊いてしまったが、月神獣の時間単位が人間と同じなわけはないと気づいた。

『ここは地球より一日が短いんだ』

 すると、シロが自分の意見を述べた。『正確にはどれくらい長いのかわからないけれど、ボクはそう感じたんだ』

 両方の世界に長くいたシロの感じた感覚だから、正しいのだろう。

 ゴュジョが声を上げた。遠くまで届きそうな、遠吠えのような声だった。

 と、森の木々が揺らぎ、一頭の月神獣がのそりと現れた。

 今までこの場所には自分たちしかいないと思っていた勇樹はギクリとした。ゴュジョのような離れていても感じる気配はまったくなく、少しも気がつかなかった。城へ手引きしてくれる仲間がいるとは聞いていたが……。

 その月神獣は、軽い身のこなしでゴュジョのもとへやって来ると、なにやら言葉を交わした。

 シロが説明する。

『あの月神獣は、前に月読郷に来たとき、ボクを助けてくれたんだ。名前はツャアピ。元老員のメンバーなんだ』

 ゴュジョとツャアピは会話を終えて歩き出した。

『ついておいでって』

 とシロ。

 言われなくてもそうだろうと勇樹にはわかったが、今の会話の内容がわからないでは、なんとなく不安な気分だった。打ち合わせでは城へ行くことになってはいたが……。

「すぐに城へ行くのかい?」

『そうだよ。時間があまりないからって』

 さっきのゴュジョとツャアピの会話を聞いていたシロがそう言った。

 たしかに悠長にかまえてはいられないのだ。何日も月読郷に滞在するつもりはなかったし、そんな準備もしてきてはいない。焦ってコトを進めるつもりはないが、最終的な目的達成までの見通しが、目下のところ気が遠くなるほどつかない分、てきぱきやってちょうどいいくらいだ。

 月の照らす夜道を足音もたてず進む月神獣たち。勇樹の足はそのスピードについていけず遅れがちになる。あらためて月神獣の運動能力の高さを思い知った。

 アスファルトで舗装されていない道を進むこと数分、森が終わった。開けた視界は遠くまで見渡せ、彼方には山が霞んでいた。そして、その広い土地にあったのは――月神獣の町だった。

 土地がふんだんにあるにもかかわらず小さな家々が十分な間隔をおいて整然と配され、その数数百といったところ。夜も深いせいか、それともインフラが存在しないのか、どの建物からも灯りはもれていない。

 月の冷たい光の下で静かに眠る町の中央に、まっすぐに伸びる広い道があり、その突き当たりに大きな建造物がそびえ、あれが長老のいる城なのだろう。

 ――まるで古代の都のようだな。

 このような町が存在しているとは想像していなかった。

 人間とは姿の違う月神獣はどこか非現実的で、「生活」というものから程遠いイメージを勇樹はもっていた。むろんそれは勝手な感じかたにすぎないのであり、月神獣にも歴とした生活や文化があるわけで、祠の上の空間から魔法のように湧いて出るのではない、通路の向こうには月読郷という世界がたしかに存在しているのだと、勇樹はこのとき強く実感したのだった。

『待って』

 前へ進もうとした勇樹を、シロが止めた。ゴュジョとツャアピがなにか言っている。

『大通りを行ったら、見つかっちゃう』

 とシロ。

 それもそうか、と勇樹は思った。いくら深夜で他の月神獣の姿が見えないといっても、堂々と正面から門をくぐろうとしては、せっかく立てた作戦の意味がない。特に勇樹はここでは目立つ。

 ゴュジョとツャアピが路地へと進む。

『こっち』

 シロがうながす。

 勇樹はあとを追った。

 路地といっても、大通りに比べれば小路になるのだろうが、家と家の間隔が広く「路地」を歩いている気がしない。

 一軒一軒の家は小さかった。勇樹が父親から受け継いだ築二十五年の二階建てより小さかった。小屋といってもいいような。ということは、月神獣の家は単に雨風をしのぎ、夜眠るためだけの機能しかもたず、彼らの活動はもっぱら屋外とみていい。にもかかわらず長老以下の元老院の面々が城に閉じこもっているのは、その特殊性を象徴しているといっていいだろう。

 ――長老とは、どんな月神獣なのだろうか。

 勇樹は、これから赴く城と長老のことをとりとめもなく想像した。

 一行は動くもののない深夜の町を行く。石造りの小さな家には月神獣が眠っているのだろうが、いびきすら聞こえてこず、気配すらない。家には扉はなく、かといって内部が丸見えかというとそうではなく、部屋へ通じる通路は外壁に沿って巻き貝のように曲げられ、内外の視界をさえぎっていた。どの家も同じ構造だった。

 進むにつれ、城の外観がはっきり見えてきた。

 学校の校舎ほどの大きさで、高さは三階建てぐらい。窓らしきものはなく、壁は石垣のようだった。

 ――こちらの姿は見られていないのだろうか。

 大通りではないとはいえ、さして有効な遮蔽物のない場所を進んでいるわけだから、上から眺めていたら見つけられてしまいそうである。町が寝静まっているからといって、城まで機能を停止しているなどということがあり得るだろうか。

 それとも、「城」という訳語から抱くイメージと違い、あれはどちらかというと役場のような、あるいは宗教的な意味合いの強い――教会とか神社のような性質の建物なのかもしれない。

 結論の出るわけでもない考えを巡らしているうちに、城の壁面へとたどり着いた。城の正面からかなり離れて、端の角に近い場所だった。

 垂直にそそり立つ頑丈そうな石造りの壁が、月光をあびて濡れたように光っていた。

 扉らしきものは見当たらない。

「どこから入るんだ?」

 勇樹は周囲に響かないよう小声で訊ねた。できるたけ声のトーンを落としたつもりだったが、静まり返った空気を震わせて耳に届いた。テレビの最小ボリュームでも夜中ならよく聞こえるように。

『こっちだって』

 壁に沿って城を回り込むゴュジョとツャアピについて行った。城の奥行きは幅と同じくらい。ということは、城を上から見ると正方形になる。内部はかなりの広さになるだろう。城以外の一般住居と比べてこの大きさの差はなんとしたものだろう。長老はそれだけの権力を握っているということなのか、それとも、もっと合理的な理由がこの建築物には隠されているのだろうか。

 壁を右に見て黙々と進む。側面にも扉らしきものは見えてこない。

 いったいどこから、どうやって城の内へ入るのだろうか。

 その疑問を抱きながら歩いていると、ツャアピが立ち止まった。上を見上げており、視線を追っていくと壁面の上の方――高さ十メートルほどのところに直径およそ二メートルの円い穴があいていた。穴の中は暗い。

 ツャアピがジャンプした。壁を蹴り、一気に穴の縁に到達したかと思うと、さっと内へと入っていった。素早い身のこなしに、勇樹は瞠目する。地球で見た月神獣にあそこまでの運動能力はない。ということは、月読郷では月神獣の能力は強くなるのか。あの大きな月の存在は、勇樹にそんな想像をさせた。ならば、自身の魔力もアップしているかもしれないと期待したが、もともとないに等しいほど貧弱な魔力がいくらか強くなったところでたかがしれているだろうし、ここで魔力を使う戦闘が始まることはないと思い直した。

 それより、ツャアピが入った壁の穴にどうやって登っていくか、である。ツャアピは穴から顔を出し、早く来い、とでも言っているのか、こちらを見下ろしている。

「人間には、あの高さまで跳ぶのは無理だ」

 勇樹ははっきりと言った。月神獣には人間の限界がわからないのだろう。たとえ魔力が強くなっていても無理だろう。

 ゴュジョが姿勢を低くしていた。

『ゴュジョの背中に乗って』

 シロが言った。

「大丈夫か?」

 最近、中年太りで重くなってきた目方を気にした。

『ゴュジョは力持ちただよ』

 なんでもないといった口調のシロ。

 勇樹は他にあの壁の穴に至る手段を思いつけず、ゴュジョの背にまたがった。白い大きな獣の首筋にしがみつく様は、なにかのアニメの一シーンを思い起こさせ、勇樹は苦笑した。

『しっかりつかまって』

 シロに注意されるまでもなく、勇樹は腕に力をこめた。激しい動きに振り落とされてはかなわない。

 次の瞬間――。

 ゴュジョの体は空中にあった。勇樹の体重なぞないが如く、軽々と跳躍し、一瞬で十メートル上の穴まで到達した。そのまま壁の穴に入った。恐るべき膂力である。

 穴の奥には闇が待っていた。明かり取りの窓はない。

 シロも登ってきた。まだ子供のシロでさえ、さほど苦労した様子でない。彼ら月神獣を生み出した〈創造主〉とは、如何なる存在なのだろうかと、ゴュジョの背から下りて勇樹はふと思った。

『この奥だよ』

 シロは平然と言ってのけるが、

「真っ暗でなにも見えないぞ。足下はどうなっているんだ?」

 勇樹は歩き出すのをためらった。

『ぼくたちはよく見えるのに』

 シロは不思議そうにもらすと、ゴュジョがなにか言った。

『また背中に乗って、って』

 勇樹は肩をすくめ、

「そうしたほうがよさそうだ」

 格好なぞ気にしていられない。もう一度月神獣の背にまたがった。

 前進。

 目をつぶっているようなものだった。城の内部構造がまったくわからない。上下に揺れる月神獣の乗り心地は悪く、上がっているのか下っているのかもわからない。闇のなかでは方向感覚も失われ、時間の経過もはっきりしなくなってきた。それでいて眠気はなく、いつどこからなにが現れるかわからない、お化け屋敷にいるような緊張感があった。

 闇に目が慣れる、ということはなかった。いくら瞳孔が開いても、光がまるっきりないでは見えない。

 だから前方にうっすらと小さな灯火が、暗さに慣れた目に写ったときは、眩しくさえあった。

 ――ロウソクはあるのか。

 深夜とはいえ、まったく明かりのない町を見てきただけに、ロウソクが存在することに驚く勇樹だった。

 石造りの巨大な城は、まるで古代文明の遺跡のようで、使われているという生活感がまったく漂っていなかったのだが、火が見えたことでやっと城らしく感じられた。

 すると、ゴュジョの体毛が逆立った。ピリピリした〝気〟をみなぎらせて。

 そうか、と勇樹は思った。灯りにホッとしている場合ではないのである。我々は長老に直談判しにきたのだ。長老に会う前に排除されるわけにはいかない。もしここで城内の警備係に発見されたら厄介である。灯りがあるということは、近くにだれかいるかもしれない。ゴュジョの緊張はそれを警戒してのことなのだ。

 そしてその予感は的中した。回廊の奥――小さな灯火の彼方から接近してくる影が認められた。

 どうするか逡巡した。回廊の途中で、突破すべきか、それとも後退して逃げるか。隠れてやり過ごす場所はない。

 しかしいずれにせよ、もはや城への潜入は露見した。こうなった以上、一気に長老のもとへ到達するしかない。

 だが勇樹には月神獣のように、闇を高速で走る能力はない――人間だから当たり前である。ゴュジョの背中にしがみついていれば、通路を進めない心配など無用だろうが、振り落とされない自信はなかった。

 それよりも、ここで各々が別々に動いてはぐれてしまうのが心配だった。城内に詳しくここまで誘導してくれたツャアピ、人間との通訳のできるシロ、改革派リーダーのゴュジョ。だれが欠けても今後の交渉は困難となる。

 意思の合意を決めかねているうちに、前方から迫る影が大きくなっていった。その速さは素早く、なにかの行動を起こせる余裕がなかった。

 影は一つだった。たった一頭なら正面突破も可能だ。

 が、小さな明かりに浮かび上がった月神獣の姿を目にして逆立っていたゴュジョの毛が戻り、周囲に発散させていた殺気に似た気配が消え、代わりに畏怖を含んだ緊張感が漂い出した。

 その月神獣の歩みが止まった。そして、出会った月神獣たちの間で短いやりとりが交わされた。静かなやりとりに、勇樹は、なにか想定外のことが起こっているのを感じた。

 やがて、シロが言った。

『月神獣の長老だよ』

「えっ……」

 絶句した。のこのこと、供の者も連れずに現れるなんて。われわれが、ここまで苦労して忍んで会いに来た長老とは、こんなに軽い存在なのか?

 それとも、勇樹たちの行動は、すべて筒抜けで、それで待ち構えていたのかもしれない。長老故、ゴュジョたちを相手に立ち回っても圧倒するほどの魔力なりをもっているから。

 勇樹はなにか言わなければと、ゴュジョの背から下り、ズボンのシワを直した。と、

『月神人よ、そなたの来た目的はだいたい想像がついておる』

 言ったのは長老だった。長老は人語を話せるのか!

 月読郷に来て、ここまでの驚きはなかった。まさかシロ以外に、人語を話せる月神獣がいるとは。しかもそれが長老である。

 シロが人語を解するということは、月神獣にはその能力があるわけで、だから考えてみれば、しゃべる月神獣が他にいても不思議はないのだが、それが長老となるとまた別の意味をもってくる。

 長老といえども人語を自然と習得できるわけもなく、習得する目的があるはずだった。いったいそれはなにか――。

『全員、こちらへ来たまえ。話はそこで聞こう』

 長老が回れ右して歩き出す。

 ゴュジョたちは催眠術にでもかけられたかのように無言でその後について歩き出した。

 勇樹も続いた。どんな形にせよ、長老との接触には成功した。いよいよ、会談である。



 その部屋は広かった。ロウソクの火が壁のところどころにゆらめき室内を照らしてそれがわかる。とはいえ、人間の目にはまだまだ暗く、目が慣れてきたといっても互いの顔の細までは判別できない。

 議会場、と呼ばれる部屋かもしれなかった。長老以下、元老院の面々が集まり、月読郷の日々の政を行ったり、ときには突発的に起きる問題を解決したりするのだろう。

 今、その部屋には長老のほかは勇樹たち月神人との和平を望むグループの代表者だけがいて、元老院のメンバーは、ゴュジョと通じ、勇樹とシロをここまで案内してきたツャアピ以外は、だれもいなかった。

 長老との直談判は、ここに実現したわけであった。

 だが、人数的にも四対一で有利であるはずなのだが、長老の放つ存在感がゴュジョやツャアピを圧倒し、会談はのっけから雲行きが怪しかった。

『月神人がここへ来ようとは、さすがに想像せなんだわ』

 長老は勇樹をじっと見つめ、人語でそう言った。呆れたような、自嘲しているような口調。

『そうまでして和平を望む理由はなんだ? このまま戦いを続けても、月神人にはなにも損はないはずだが』

 これまで連戦連勝、人間側には怪我人こそあっても死亡者は出なかった――長い歴史の間には死者がいたかもしれなかったが、記録上ではそうなっていた。

「だが、その行き着く先はなんなんだ? 人間は将棋の駒じゃない」

 月神獣との戦闘を重ねていくにつれて、次第に魔力が高まっていく。そうやって仕組まれた進化の目的が、優秀なソルジャーの育成なら人間は利用されていることになる。何百年も続いてきたこの計画をどこかで断ち切らねばならない。

 月神獣側も、月神人を育てるための道具だ。そのために産み出された生命体とはいえ、いつまでも道具であり続けるのか? 自由を手にしたいとは思わないのか。

『われわれは、〈創造主〉の支配から脱することはできない。〈創造主〉の管理なくしては、われわれは生存できないのだ。故に、〈創造主〉には逆らえず、この戦いをやめられぬのだ。戦いによって失われる同胞は尊い生け贄である』

「それは知っている。でもなにか方法があるはずだ。端から不可能だと決めつけて、なんの検討もせずに仲間を見殺しにし続けていいわけがない。月神獣がどうやって産まれてくるのか、それを〈創造主〉ではなく、人間に制御できたら、〈創造主〉から見放されてもいいわけだろう?」

『ゴュジョの口車に乗ったか。月神人よ、そなたの希望が叶わぬという証拠を見せよう。そして納得して地球に帰ってもらう』

「証拠?」

 勇樹の訴えを軽く受け流す長老の自信は、どうやらそこにあるらしかった。

 〈創造主〉が創り出したこの呪縛から抜け出すのは不可能である。長老はそう主張する。それに対してゴュジョは、その方法に見通しがあるという。いったいどちらが正論なのか?

『ついて来るがいい』

 長老は歩み出す。証拠、というのを見せる気なのだ。

 自信ありげな長老の態度に、勇樹は不安にかられる。

 ――いったいどんな証拠を見せられるのだろう。

 長老が部屋を出て、真っ暗な通路へ入っていく。ごそごそと続くゴュジョたち。鼻をつままれてもわからないような闇へ入る前に、勇樹はまたもゴュジョにしがみつく。

「シロ、いるか?」

 通路に入り、どこにいるかわからない相手に呼びかけた。

『なあに?』

 耳元で声がして、勇樹は反射的に振り向くが、まったく見えない。見えないが、すぐそばにシロはいるのだ。見えない相手に向かって勇樹は話す。

「長老は、人語で話すほかに、月神獣の言葉でなにか話してしていなかったか?」

『少しね。月神人を連れてきても無駄だって。月神人があきらめて帰れば、ゴュジョたちも愚かな考えを棄てられる、と。元老員たるツャアピは、裏切り者として処罰するところ、今回は不問とするって』

 少しといいつつ、かなりの情報量だ。長老とは自分との会話以外にそんなにしゃべっていたのかと勇樹は首をかしげた。月神獣の言語は、人間のそれとは構造がまったく違うのかもしれない。短い音の中に複雑な意味をもたせられるのかもしれない。人間にはとても月神獣語がマスターできるとは思えないが、一方で月神獣は人語が解せるのは、そういう複雑な言語構造が理由なのかもしれない。月神獣語に比べたら、人語は単純で簡単なのだろう。

 ゴュジョが立ち止まったのがわかった。と同時に前方から重い石を引きずるような音が聞こえてきた。その音がしばらく続くと、真っ暗闇の前方に縦のラインが現れた。それは徐々に太くなり、それとともに光が射し込んできた。それは決して強い光ではなかったが、闇に慣れた目にはまぶしく、しばし勇樹は目を閉じる。

 ゆっくりとあけた目に映ったのは、月読郷の夜明けだった。

 城の外へ出ると、まだ陽は出ていなかったが周囲はすっかり明るく、振り返ってみると城の壁面に石の戸が開いていた。

 町はまだ眠っていた。通りには動くものがなく、静かであった。鳥の声さえしない、静寂な朝。

 小さな家々が整然と立ち並ぶ通りを、長老を先頭に進んでいく。歩いているうちに朝日が顔を出した。町の外に広がる森の向こうからまぶしく差し込む光は、地球のそれより弱かった。太陽が小さいのか、はたまた距離が遠いのか……。

 町の外に出た。細い道が一本、森の中へと消えている。まるで来る者を飲み込もうとしているかのように、道の先は暗くなっていた。なにかの罠が待ち構えているのではないかという恐怖が勇樹の背筋を這い登ってきたが、危険な罠があるとするならすでに城内で仕掛けられていただろうと思い直した。

 森の奥へとわけいる道を進むこと数分、テニスコートほどの広い場所に出た。木々は伐られたというより初めから生えていないかのようで、草すらない。そこに、いくつもの墓石が立っていた。少なくとも勇樹にはそれが墓石に見えた。

『側へ寄って、見てみよ』

 長老がそれらの墓石を指し示した。

 言う通りに勇樹が数歩前へ出ると――。

「あっ」

 絶句した。ひとつひとつ確かめた。

 間違いなかった。ぜんぶ昔の日本人の墓だった。十基ほどあり、おそらくすべて月神人のものだろう。朝露に濡れた墓石の文字から、相当古いものとわかった。

『彼らはここで死んだ』

 呆然とする勇樹に、長老は語りかけるように言った。

『これが意味することはわかるか? 過去にここへやって来た月神人だ。彼らもそなたと同じ願望をもって、我に訴えた。だが、それは叶わぬ望みなのだ。彼らはあきらめなかったが、和平は実現することなく、この世を去った。悪いことは言わん、月神人よ、地球へ帰るがよい』

 勇樹は黙っていた。

 月神人の歴史にはなかった事実を見せられ、先人たちの行動力に思いをはせたと同時に長老の言いたいことを理解した。死ぬまで問題解決に努力しても、できなかった、というわけだ。

 しかし勇樹は納得していなかった。自らの挑戦は、まだなにも始まってはいないのだ。この目で確かめないことには、あきらめきれない。もちろん、その結果、手も足も出ずに尻尾を巻いて退散することになるやもしれぬ。それでもやってみなくては分からないではないか。

 勇樹は振り返った。

「長老、言いたいことはわかった。だがわたしにも一度見せてくれないか、月神獣を産むシステムというのを。その上で決めたい」

『よかろう』

 ゴュジョは可能かもしれないと言った。百年前ならともかく、現代のテクノロジーなら可能性はある、と。だが問題は、その技術が一個人の手に負える代物なのかという点だ。たとえば原子力などの大袈裟な装置が必要なら、勇樹一人の力ではどうにもならない。

 そこまではゴュジョでもわからない。具体的な方法にまで言及してはおらず、だから確実にできると保証しているわけではない。ゴュジョの想像にすぎないのであるが、それが当たるかどうか――。

 一方、長老は、人類がなんの進歩もしていないと思っているのかもしれない。それはあり得そうだった。人語を知っている理由が先人たちとの接触によるもので、たびたび地球にやって来ているからではないとしたら。人類の文明はここ二百年で急速に発達した。人類の歴史にとって二百年といえば非常に短い。長老がいまだ人類が高度な科学文明を持たない未開状態であると思っていても不思議はない。

 長老が元来た道を戻る。

 町は目覚めていた。目覚めた月神獣たちが通りに出ていた。ところが――。

 勇樹は、長老の後について歩きながら、町の様子を無遠慮にじろじろと見た。

 あれだけ建物が存在しているのに、通りにいる月神獣の数が少ない。しかも、なんとなく活気がない。昨夜、ゴュジョやツャアピの力強さを目にしているだけに、そのギャップに当惑した。月が出ていないからなのか――そう想像したが、昨夜、月が出ていても町はひっそりと眠っていた。ということは、ほかに理由があるのだろう。

 シロに訊いてみた。

『普通だよ。いつもこんな感じ』

「昼も夜も?」

『うん。人間はどうしてあんなにせかせかしているのか不思議だね』

 人間は、というより日本人は、なんだろうなと勇樹は思い、今はそんな人生観を考察している場合ではないと、シロに質問を重ねた。

「月神獣が能力を発揮できるのは、月が出ているからで、月がなければ、能力はすごく下がってしまうのか?」

『そうだよ。でも月が出てても、能力をやたらと使ったりしないよ』

「どうしてだい?」

 シロは即答した。

『だって疲れるもの』

 多くの肉食獣がそうであるように、月神獣もまた瞬発力には優れていても持続力には劣るのだろうか。月神獣が肉食獣なのかどうかはわからないが、少なくとも外見は肉食獣だ。いや、魔草を食べるから、草食か。



 城に戻ってきた。正面で立ち止まった長老が振り返った。

『月神人よ、この建物がなぜこれほど大きいのか疑問だったろう』

 勇樹は、いきなり振られた話題に一瞬戸惑いつつもうなずいた。たしかに、それは気になっていた。一般の月神獣の住む家に較べて、違いすぎた。ここまで差があるのはなぜだろう。宗教的な理由からか。支配者たる長老の威厳を誇示するためという安っぽい理由ではないだろう。

『ここは、われらの生まれし場所なのだ』

「生まれし……」

 城の壁面が二つに割れた。両側へとスライドしてゆく巨大な石の壁。さっき城から出たのが勝手口だとしたら、いま開きつつあるのは正面玄関だ。

 幅十メートルほどの入口が開いた。まっすぐな昇り階段が伸びている。そこを昇れば入城する殿様か国王の気分である。

 長老が階段をゆっくりと昇りだす。

 人工生命体である月神獣が生まれる場所――ということは、この城は工場――いや、装置ということなのか。それが巨大であるがために、城が大きくなっているのか!

 全員が城の最上階へとたどり着いた。最上階に床はなかった。城の大半を占めるであろう体育館のような柱のない広大な空間を、天井付近から見下ろしていた。

「これが……」

 勇樹は瞠目した。

 東大寺の大仏のように、広い空間にどっしりと居座る異形のプラント……。この装置が、月神獣の母。何百年も月神獣を生み出し続けてきた異星人の機械……。

 当然、なにがどうなっているのか勇樹にはさっぱりわからないが、このようなものを見ることが叶い、興奮した。この装置の存在こそが、すべての元凶なのだ。それを思うと目眩に似た感覚を覚えた。

『この装置から我らは生まれるが、そのためには材料が必要だ』

 自らの体を作り出す物質を「材料」と言う長老。たしかに材料には違いないが、勇樹はそれでクローンを連想した。月神獣はクローンなのかもしれない。大掛かりな装置を見て、そう思った。

『その供給はほぼ我々で用意できるが、ただ一種類だけ、〈創造主〉からの提供に頼らなければならない薬品がある。我らが〈創造主〉の命に従わねばならない理由がそれなのだ』

 装置を眺めていた勇樹はハッとして長老を振り返った。

「どんな薬品なんだ?」

『ついてくるがよい』

 長老は歩き出す。装置をぐるりと見渡せるキャットウォークは幅が五十センチほどしかないうえに手すりはなく、勇樹は足が震えてどうしようもなかった。

 反対側へ達すると、階段になって下へ降りられるようになっていたが、長老以下、月神獣たちはひらりと飛び降りた。彼らにはキャットウォークも階段も必要ないのだろう。だからこれらの設備は〈創造主〉のためのものなのだ。してみると〈創造主〉は地球人より小柄なのだろう――勇樹の頭にとりとめのないことが浮かぶ。

 下のフロアで待っていた長老が、降りてきた勇樹に装置の一部を差し示した。

『ゴュジョは、そなたにこれが作れるかもしれない、と言っておるが、真実か?』

 勇樹が知らないうちに、月神獣の間で会話が交わされていたらしい。

 装置には窓があり、黄色い液体が見えていた。どうやらこれが問題の薬品のようである。

「これは、なんだ?」

 見るだけではまったくわからない。

『やはり無理か――』

「待て!」

 いきなり結論を出そうとする長老を制した。

「持って帰って調べたい。可能か?」

 サンプルが入手できれば、成分を分析できる。

 勇樹は興奮した。過去の月神人が成せなかったのも無理はない。薬学に通じていても、祈祷師(シャーマン)程度の知識では歯が立たなかっただろう。けれども現代科学をもってすれば可能性はある。

 装置には操作盤があった。人間の使うそれとはずいぶん違う。幾何学的模様(異星人の文字?)が描かれた板で、長老が触らなければ操作盤だとは思わなかったろう。前足で器用に操作する。

 ガコン、と音がしたので、下のほうをのぞき込むと、長老が矩形の口から缶コーヒーを取り出した。まるで自動販売機のようである。

『これがそうだ』

 石の床にゴロンと出てきたそれを勇樹は拾い上げる。缶コーヒーでは、もちろんない。金属製で大きさも缶コーヒーほどだがプルトップもなく、缶切りで開けられるだろうかと危惧する。この中に、あの液体が入っているということか……。

「しばらく時間が欲しい」

 勇樹は長老に言った。考えがあった。もしかしたら、なんとかなるかもしれない。

『あと半月で、戦いの夜が来る。それまでに、それを用意できるか?』

「努力する。だから待ってくれ」

 あと二週間あまりだ。間に合わないかもしれないが、やるだけやってみるつもりだった。

 真剣な目の勇樹を見つめる長老。その表情からはなにを考えているのか読み取れないが、やがて言った。

『よかろう。次の戦いには代表を送るから、結果を聞かせてくれ。だが一度きりだ。それで進展がない場合は、その次からはいつも通りだ。我々にも使命がある』

「わかった。なんとかしよう」

 勇樹はこたえた。ここは勝負所だぞ、と思った。チャンスは一度きりだ。それをはずせば、次はない。

 なんとしてでも、ここで結果を出さなければ――。

 勇樹は強く、そう思った。




   §



 電子音をがなりたてる目覚まし時計を手探りで止めると、理沙は気力を振り絞ってベッドから起き上がった。

 毎朝毎朝、憂鬱な瞬間である。ついついしてしまう夜更かしを改めて早寝すれば、睡眠時間が多く取れて気持ちのいい朝を迎えられるというのはわかっているのだけれど……。一生懸命に勉強をしているならまだしも、そうでないのがまた痛い。

 十一月ともなると朝夕はしっかり冷えて、季節はすっかり冬であり、室内もかなり冷え込んでいた。起きるのが一層つらくなってくる季節である。布団にもぐりながら制服に着替えると、階下へおりた。

 と――。

 自営業故、いつもはゆっくりしている父が、今日は早起きしていた。

「おはよう」

 ネクタイを締めている父親の姿を見るのは、中学校入学式以来だった。

「お父さん、今日はなにかあるの?」

 理沙は聞いた。

「うん、大学時代の友人に会いにいくんだ」

「スーツなんか着て?」

「製薬会社の工場に勤めているんだ。だからね」

「へえ、そうなの?」

「遊びにいくわけじゃないからな。ほら、例の、月読郷から持ち帰ってきた物質を分析してもらうんだ」

 ゆうべ、月読郷から帰ってきた父・勇樹から、無事な帰還を喜ぶ間もなく家族全員で話を聞いた。いつになく興奮しながら語る父を、理沙は「すごい体験だな」と思いつつも、普段と違う様子を奇妙な感覚で見ていた。

 一方、自分は――と、理沙は、ますます暗い気持ちになっていくのだった。

 大伊豆星司。よりにもよって、あんな男にコクられるなんて……。

 登校すると、同じクラスだから、イヤでも意識してしまう。

「気に入らなければ振っちゃえばいいじゃん」

 と真由美は簡単に言う。

 それはそうなのだけれど……。

「なになに? なんの話?」

 机に突っ伏していると、千景がやってきた。

 すかさず真由美は千景の耳元で、ごしょごしょごしょ。

「えー、マジーッ?」

「シッ、声が大きい」

 真由美は人差し指を口の前で立てて。

「実はそうなのよ……」

「その様子だと、困っているようね」

 腰に手をあてて、理沙をのぞき込む千景。

 普通なら、真由美のいうように「振っちゃえば」いいのだけれど、それだけではすまない事情があるなんてだれにも言えない。自分が月神人として目覚め、それから逃れられないということがはっきりして、一方、大伊豆も将来月神人になるだろうと思っていて、おそらくそうなりそうだった。そのことが理沙の気を重くしていた。



 学校から帰ると、もう父・勇樹は帰宅していた。

 いつものように店に出ていた。いつものように漢方薬の調合をしているのかと思えば、パソコンを開いて、メモをしている。

「もう用事は終わったの?」

 と、店に顔を出し、訊いた。

 普段なら父親の行動に関心などよせるはずがないのだが、ここのところ日常の仕事ではないことで忙しそうにしている父の、どこか今までと違う雰囲気の変化を感じて、つい声をかけてしまった。

「ああ」

 と勇樹はこたえて、理沙を振り返る。

「でも、これから、ちょっとばかし外出が増えそうだ」

「町興しのこと?」

「うん。ここまで来た以上、なんとかしたいしね。他人に頼っていても、すすまない」

「…………」

 二階の自室に引き上げた理沙は、着替えもせずにベッドに倒れこんだ。

 もし父親の仕事が順調に運べば、月神獣と戦うという憂鬱な将来は回避される。しかし、それが実現するのかどうかは、はっきりしない。

 父はがんばっていた。それは理沙にも十分感じられた。しかし、努力がすべて実るかといえば、そうではないことを知らないほど理沙は子供ではなかった。

 失敗したら、なにかとんでもないことになりそうな気もしていたが、それよりも……。

 もやもやした気持ちの整理をどこかでつけないことには、精神的に落ち着かない。

 理沙はベッドから起き上がった。

「話そう」

 気合いを入れるかのように、言った。

 話すことで、気持ちの整理をつけるのだ。大伊豆星司と――。

 理沙は出て行った。

 月野町商店街の鳥野薬局から県道を渡った向かい側の五軒右隣の店が大伊豆靴店である。

「いらっしゃいませ……」

 と声をかけようとした店主が、店先に現れたのがだれかを知ると、

「ああ、理沙ちゃんか。今日はどんな靴がほしいんかね?」

 と笑顔を向けた。

「いえ、星司くんに……」

 小学校の低学年ぐらいまでは、ときどき遊んでいた。けれども三年生、四年生と学年が上がるにつれて、学校でできた気の合う友だちとつるむようになり、幼なじみとはだんだん縁遠くなってしまっていた。ここにくるのも靴を買うときぐらいで、そのときだって大伊豆星司と話すことはなかった。中学校に上がれば集団登下校もないから、ますます距離が離れた。

「ああ、星司ならもう帰っているよ」

 星司の父親である店主は、店の奥へと引っ込んだ。

 しばらく待つと、二人して下りてきた。

「なに?」

 大伊豆星司は小首をかしげた。

「学校じゃ話せないこと」

店先(ここ)じゃ、まずいな……。ぼくの部屋にあがる?」

 理沙は一瞬迷ったが、

「いいわ」

 とうなずいた。

 店の奥へと進む。

 ――おじゃまします。

 この家の中へと入るのは理沙には久しぶりだった。もう何年前だろうか、幼い頃の記憶はぼやけていて、はっきりしない。間取りも、調度品も、おそらくそれほど変わっていないだろうが、見覚えのあるような、ないような……夢の追体験のような不思議な感じだった。

「こっち」

 大伊豆はドアを開けている。

「入って」

 理沙が以前に入ったことのある、大伊豆の部屋だった。幼い頃、おもちゃが散らかり放題だったその部屋はきれいに片付けられ、理沙が負い目を感じるほど整頓されていた。本棚には本が整然と納められ、教科書やノートも机の上にきちんと置かれていた。

 自分の部屋とこれほど違うのかと驚くと同時に、大伊豆の意外な面に感心した。あれだけあったおもちゃがないことで、すでに大伊豆は子供ではないとの自覚が表れているのだと理沙は感じた。幼いころはリサちゃんと呼んでいたのが、いつしか鳥野さんと言ったときから、なにかが変わっていったのだろう。

「座って」

 カーペットの敷かれた床に大伊豆はあぐらをかいた。

「で、話って?」

 理沙は言われるままに腰を下ろした。

 そして、部屋の雰囲気に気圧されつつも、努めて毅然とした気持ちをみせて、居住まいを正した。

「最初に、こないだの話の返事だけど……」

 大伊豆は表情を変えない。

「あんたの気持ちはわかったけれど、それには応じられない。ここのところは、きっちりしておきたい」

 はっきりと言った。

 大伊豆はうなずいた。

 でも、と理沙は言った。

「そのうえで、月野町商店街の人間として、わたしの話を聞いてほしい……」

 図々しいとはわかっていたが、自分の気持ちを偽りたくはなかった。

「…………」

 大伊豆は、ふんふん、とうなずいて静かに言った。

「ぼくは、鳥野さんが月神人の能力に目覚めたことがうらやましかった。いずれは自分も月神人になるだろうとは思っているけど……ならないかもしれないから。ほら、うちには兄がいるだろ? ぼくの気持ちは、そこが出発点だ。たぶん、きみはぼくのその思いに気づいた……意識はしていなくても。それで納得いくよ」

 いや、そうじゃない――言いかけて、理沙は口をつぐんだ。あまりかき回したくはなかった。大伊豆が理沙の気持ちをくんで、あっさり引き下がってくれればそれ以上は求めない。

「そういう感情抜きで、じゃあ、話を聞こうじゃないか」

 理沙はホッとした。

 強引に交際を迫るタイプではないとわかっていたが、いつまでも待っている、などと重いことを言われたらどうしようかとプレッシャーを感じずにはいられなかった。たぶん、心のどこかでは穏やかではないだろうが、そこまで感じ取れるほどの余裕は、今の理沙にはなかった。

「月神人について、どれだけ知っているの?」

 安堵した気分で理沙は訊いた。

 大伊豆はきょとんとした。理沙の質問を予期していなかったようである。が、立ち上がると、本棚から一冊のノートを取り出した。

「これは、ぼくなりに親や他の大人たちから聞いた話なんかをまとめたものなんだ」

 ノートを開くとびっしりと書き込まれていた。

「月神人、月神獣、防人ノ儀について書いてある」

「へええ……」

 意外とマメなんだ……。

 と、理沙は感心した。

「月野町商店街にきちんとした古文書が残されているわけじゃないけど、月宮神社に伝わる記録によると、そもそもの始まりは、鎌倉時代にさかのぼる。当時からここには市場があったらしい。ぼくたち先祖だね」

「鎌倉時代……? ということは、ざっと千年近く前ってことなんだ……」

 具体的なことを知らなかった理沙は、へええ、と感心した。

 大伊豆は、ノートに目を落としながら解説した。

「最初、満月の夜に月読山に突如出現した月神獣は、当時、月神と呼ばれ、人々に恐れられた。妖怪の類で、とくに人を襲うようなことはなかったんだけど、物の怪を退治しようという一団が組織されて、それが月神人の始まりのようなんだ。大人たちが月神獣と戦いはじめ、その当時は、特殊な能力なんかなく、ごく普通の農具とかで戦っていたらしい。しかし、次第に月神獣が強くなり始め、月神人も、戦ううちに次第に、特殊な能力を持つようになった」

「じゃあ、月神人といっても、もともとは普通の人間だったってこと? それがどうして、月神獣と戦っていったら、月神人になったの?」

「進化だと思うよ。人間にはもともとそういう素質があったんだと思う。それが、月神獣との戦いの中で鍛えられた」

「まさか」

 理沙にはにわかには信じられない。そこまでくると、ちょっといかがわしい。

「月神人の能力が、月神獣の肉を食べることによって少しずつ遺伝子に蓄積されていったというのも疑う?」

「それは……」

 理沙は口ごもった。自分は食べないようにしていたが、幼い頃はそんなことも知らずに食べていたし、先祖代々食べてきたとなると遺伝子にその能力が備わってきたとしてもおかしくはない――かもしれない。

「月神獣をいつごろから食用にしてきたかという記録は見つからなかったんだけど、鎌倉時代ではイノシシやシカの肉は普通に食べられていたから、たぶん、食料が豊かではなかった時代だし、それほど抵抗もなく月神獣の肉も食べられるようになったんじゃないかと思う。江戸時代には食肉は禁忌されていたというイメージがあるけれども、都ならともかく、山の中の里では、あいかわらず食肉は続いていたようだよ。体力のいる農作業を、スタミナのつく動物性タンパク質なしでやっていけ、というほうが無理だと思う」

「そして、徐々に月神人の能力も強くなっていったって――?」

 大伊豆はうなずいた。

「そう思うよ。ぼくたちの先祖は代々、その時代時代にあった商売をしながら、延々とここを守ってきた。しかし、それは公にはされなかった。物の怪と闘うのを当時の役人が民に不安を与えるという理由で禁じたからなんだ。その代わり、税を免除して商売を続けさせた。近代になってもそれは続いていたけど、明治以降、藩から町に変わったことで、それを引き継げなくて、今や役場はだれも月神獣も月神人もわからなくなった。しかし、当の月神人は、愚直にそれを守って今に至っている。月神人の矜恃なんだろうね」

「きょうじ……?」

「プライドだよ。自分たちが日本を怪物から守っているんだと」

 大伊豆はノートのページをめくる。

「じゃあ、次は、具体的にどのような能力を獲得していったのか、ということだよね」

 大伊豆はノートから目を上げて、

「これもいちいち調べていたら、きりがないくらいだったんだけど……。二つの系統に分かれていたよ。ひとつは、魔力を宿した武器。普通の刀剣に魔力を注入するんだ。道具屋が代々それをやっている。そして、それを使いこなす魔力を持つ月神人。その相乗効果で月神獣に対するんだけど、それぞれが発達してきて今に至っているんだ。月神獣のほうも、今や魔力をもって闘わないと倒せないように変化してきている。うちの場合、日本刀を使ってる。見せてもらったことがあるけど、なんだか怪しい雰囲気が出てたよ。もちろん本物だから普通に人も斬れるし、怖さを感じた。で、鳥野さんのところは、槍だよ」

「槍……」

 理沙は、そういえば、父・勇樹が槍を防人ノ儀へ持って出ていくところを見たことがあった。あれはただの槍ではなかったのである。

「月神人の魔力が高ければ、武器もより威力を増す。覚醒した鳥野さんの能力は、ぼくが調べたなかでは、強力な部類に入るね」

 あっさりと言われた。

「これだけの魔力が備わっているなら、月神獣との戦いも心配ないと思うよ」

「冷静な分析、どうもありがとう……」

 理沙は自嘲気味に言った。そんな魔力など、ほしくはないのだが。

「でも、どうしてここまで調べようなんて?」

「将来のことを知ろうとするのは、そんなにおかしくないよ」

 大伊豆は、さも意外そうな顔をした。

 それに、と付け加える。

「自分が何者なのかを知るためだよ。いずれは能力が目覚めて、月神人になる。でも月神人ってなんだろう? なんで月神獣と戦わなきゃならないのか、月神獣とはなにか? それが疑問で調べ始めた。我々月神人が戦わなければ、月神獣が地球で暴れる――だから戦うんだという理屈なんだけど、どうも、本当にそうなのかと疑っているんだ。何百年もの間、そんな戦いが延々と続くと思うかい? 戦っているのは事実だけれど、その理由に……どこかひっかかるんだ――でも、いまだにこたえが出ない」

「そうなんだ……」

 理沙は舌を巻いた。理沙も、疑問には思ってはいたものの、ここまで調べようなどとは思わなかった。思ったとしても、実行に移すとなるとあまりに面倒で、結局なにもしなかったろう。

 そこへくると、大伊豆はしっかりしていた。学校で見るときとはずいぶん印象が違った。

「よかったら、このノート貸してもいいよ」

 ううん、と理沙はかぶりを振った。

「今度は、わたしの話を聞いて」

「ん? ――ああ、いいとも」

「でも、ここで話したことは、まだだれにも言わないでほしいの」

「……ん? ――ああ、いいとも」

「月神獣を、この目で見たことはある?」

 だしぬけな質問だったかもしれない。

 いや、と大伊豆は言って、その質問の意味に気づいた。

「……見たことあるのかい?」

 理沙はうなずいた。

「そうなの……。もし、月神人と月神獣とが戦わずに共存できるとしたら……そんな話、信じる?」

「それは無理だろう。何百年もの間、積み重ねてきた歴史が証明するように、ちょっとやそっとのことでそれを覆すことなんかできやしない」

「自治会で、町興しの話が出ていることは知ってる? ここからは、あくまで可能性の話なんだけど、防人ノ儀を町興しに利用できないかって――」

「そんなことができるの?」

 大伊豆は考えてもみなかった話に、目を白黒させた。

「あんたがうすうす気づいているように、この戦いには、カラクリがあるのよ。あんたの知識を、わたしにも貸して。わたしの父がやろうとしていることを手伝えることができたら……いいと思うの……」

「詳しく教えてくれる?」

 大伊豆は興味を抱いたようだった。

 理沙はうなずいた。

「でも、このことはくれぐれも、だれにも言わないでほしい。たとえ、親であっても」

「わかった。約束するよ」

 理沙は、自分でも気づかないうちに、考え方がかわっていった。町興しに対して、月神に対して、そして大伊豆に対して。

 これまで逃げてきたけれども、それを受け止めて、それをねじ曲げようと――。




   §



 クルマで二時間――。

 山を切り開いた広大な工業団地は、開発からずいぶんたつというのに、まだまだ空き地が多かった。自治体が地域の景気対策として多額の費用をかけて造成し誘致したものの、アテが外れてしまったという典型だった。だいたい日本中に同じような工業団地がいくつあると自治体は思っているのだろうか。余程の特徴でもない限り、誘致に応じようなんて企業は少ないに違いない。

 カーナビの案内で、勇樹はとある工場にたどり着く。守衛の前で五年前に買ったワゴンRを停めて降りると、来訪目的を告げてお客様バッジを借りる。

「第二研究棟でしたら右のほうですよ」

 と守衛に教えてもらった。来客用駐車場にクルマを入れると、着なれないスーツとネクタイに違和感を覚えつつ、目的の建物に向かって歩き出した。

 ジェイエスシー製薬・研究センター。会社勤めでない勇樹は、やや緊張した面持ち。

 倉庫のような大きな建屋が整然と並んでいる敷地内に人影はまばらだ。

 数分ほど歩いて三階建てのビル――第二研究棟にたどり着くと、守衛からの電話で勇樹の到着を知った白衣姿の研究員が玄関の前で出迎えてくれた。

「久しぶりだなぁ、おい」

 メガネの向こうの目尻を下げて近づいてきた。

「やあ、しばらく」

 と、勇樹も応じた。

「遠いところをよく来てくれた。ま、中へ入ってくれ」

 二人して玄関をくぐると、研究員はセキュリティカードをカードリーダーに通す。建物の奥へとつづく廊下をとうせんぼしていたドアのロックがカチャンと解除される。

 白く清潔な廊下を進んで、とある部屋の前。

「ここへ入ってくれ」

 照明が灯る。小さな理科室のような部屋だった。白い作業台が四つ。壁ぎわには実験にでも使うような正体不明の機械装置が並んでいる。

 作業台の丸い椅子を引き寄せて、まぁすわってくれ、と研究員。

「会うのは何年ぶりだろうなぁ」

 感慨深げに言う。

「大学を卒業して以来だから、かれこれ二十五年だ」

 と勇樹。

「そんなになるか。薬学部から、おれは就職し、おまえは家業の薬屋を継いで、それ以降か……だけどおまえ、変わってないなぁ。いや、アタマが薄くなったか」

「そ、そうか……?」

 勇樹は頭を気にした。が、そんな無駄話や昔話をしにきたのではないと、真顔になる。

「そんなことより、わざわざこっちの職場まで訪ねてきたのは、なにか話があるからなんだろ?」

 そんな勇樹の気持ちを察してか、旧友は言った。

 月読郷から月神獣発生の物質を持ち帰った直後、勇樹は大学時代の友人で、製薬会社に勤めているはずの原田に電話してアポを取った。幸い、原田は転職もせず製薬会社の研究センターに席をおいてくれていた。

 今回、そのコネを使うのである。月読郷の城内で装置から取り出した缶を月神獣の長老から受け取ったとき、これしかないと思った。

「実は、電話でも言ったとおり、図々しい頼みがあるんだ」

 勇樹はショルダーバッグから、月神獣の長老からもらった缶を取り出した。

「こいつの中身を分析してもらいたいんだ」

 作業台に置く。

 原田はそれを手に取りしげしげと眺める。

「なんだい、これ?」

「詳しくは話せない。だが危険なものではないはずだ」

「ふうむ。中身を取り出すには容器に穴をあけることになるが?」

「それはかまわない」

 原田は沈黙した……。

「いつまでにやればいい?」

 これがただの缶でないことに気づいたようだった。出どころは聞かなかった。

「なるべく早いほうがいい」

 上目遣いで、原田は勇樹を見た。危険なことに手を出したな、とその目は語っていた。

「だろうな」

 と、原田は微笑した。

「わかった。面白そうだ。引き受けよう。明日には分析結果を出せるだろう」

「そんなに早く!」

「仕事はあるが今は納期に余裕があるからな、間に潜り込ませればできるさ。おれが直接やる分にはバレないだろうしな」

「ありがとう! 助かるよ」

 勇樹は頭を下げた。

「礼は改めてさせてもらうよ」

「大袈裟だな。それには及ばんよ」

 勇樹に感謝されて、原田は相好を崩した。

「ついでに、もしその物質の正体が判明したなら、それを合成できるかどうかも教えてほしい」

 原田の顔から一瞬にして笑みが引いた。

「おまえ、なにをするつもりなんだ?」

「すまん。それは今は話せないんだ。時期が来たら話せると思うから、それまでは待ってくれ」

 すべて無事に完遂したとしてもどこまで話せるかは勇樹自身、今の段階ではわからなかったが、少なくとも今は、なにひとつ話すことはできない。心情的には話したいところではあるが……。

「よほどのことなんだな。わかった、追及はすまい」

「恩にきるよ」

 原田は、いたずら小僧のようにニヤリとした。毎日のルーチンワークのなかに、ポッと湧いた秘め事に、なんとなくわくわくするものを覚えて。

 そのあと二人は昔話に花が咲いたが、原田は勤務中のため、そう長居はできなかった。

「また来てくれよ」

 原田は旧友らしく、工場の門まで見送ってくれた。終始、ご機嫌だった。



 翌日の夕方、パソコンを見ると原田からのメールが来ていた。

 そこには、詳細な分析結果と、その物質の合成方法が記されており、最後に原田の考察で結ばれていた。

 それを読み、勇樹は勝ったと指を鳴らした。

 そして、メールのとおりに物質の合成を試みてみることにした。手持ちの材料では足りないので、買いに出掛けた。

 そして……。

 防人ノ儀の前日に行われる定期集会に出席した勇樹は、いつもに増して緊張していた。

 恒例の決め事の前に、自治会長が集まった面々の前に出る。

「えー、みなさんお集まりのようですので、これより始めたいと思います。明日の戦いの一番槍の決定と、戦いの勝利祈願を、古式に則って執り行います。みなさん、よろしいですかな」

「会長」

 異議無し、の声がする直前、勇樹の手があがった。

「鳥野さん、どうぞ」

 自治会長の許しを得て、勇樹は立ち上がって前へ出る。何事が始まるのだろうと、全員が注目した。

「みなさんに、今日は大事な話があります。お時間、よろしいでしょうか」

 集まった一同を見回し、勇樹は家でさんざん考えてきたシナリオを懸命に思い出しつつ言を続けた。

「かねてからの懸案事項の町興しについて、みなさんに話すべきことがあります。防人ノ儀を町興しに利用するのは、先日、現状では不可能だと結論されました。私もそう思います。しかしそれに代わるアイデアといってなにがあるか、いろいろと検討してみましたが、月野町らしい企画は見つかりません。そこで今一度、現状ではできない防人ノ儀を、ではどうしたら町興しに使えるようにできそうなのか、を考えてみました。すると、それには月神獣の協力が必要だろうという結論に至りました。ですが、そもそもこれまで対話できなかった相手と話ができるのか、という疑問があります。一ヶ月前に私が経験したことを、これからお話します。何百年も続いてきた戦いがなんのためなのか、月神獣がなぜ戦いをやめないのか、そしてこのまま戦い続けて月神人である我々は、最後にはどうなるのか――」

 勇樹は、シロとの出会いから月読郷での体験の顛末を語り始めた。



「これがその物質です」

 話の締めくくりに、勇樹は合成した液体を入れたペットボトルを掲げた。

 驚嘆すべき事実が勇樹の口から明かされるたびにどよめきが部屋に満ちた。特に息子の航聖がシロをこっそり飼っていた段では野次がとんで騒然となった。何度か話の腰を折られつつも、なんとか予定の原稿を消化できた。

「明日、これを差し出せば、月神獣は戦うことなく引き上げるでしょう」

 と勇樹は結んだ。

「独断専行だ」

 と、ひとりが言うと、そうだそうだと口々に賛同する声が上がった。

 勇樹はうなずいた。予想していた反応だった。しかし、いちいち自治会の同意を得てから行動していたのでは、おそらく実現しなかったろうと内心苦笑して、勇樹はたたみかけるように言った。

「たしかにその通りですが、我々の最終目的である町興しの、ほんの可能性を検討している段階ですよ。具体的にはまだなにも始まってないんです。そして検討を私に命じたのは、他ならぬ前回の集会に出席したみなさんですよ」

 一同が静まった。

 だれかが、しかし伝統が、と言ったのを勇樹は聞き逃さなかった。

「防人ノ儀は五穀豊穣を願う祭りじゃない。命をかけて世界を守る戦いです。できれば、みんな、そんなこと続けたくないはず。たしかにこれまでは死者もでずに勝ってきたかもしれない。でも内心、次回もそうだと言い切れなかったのと違いますか。少なくとも私は毎回不安でたまらなかった。死ぬんじゃないか、死ななくても大怪我して半身不随になってしまうんじゃないか。自営業だから商売に影響するし、息子にもこんな危険なことを継がせるのかと考えたり。こんなのを伝統だとして認め、続けて、最後には宇宙人の兵隊として召集される――一刻も早く終わらせるべきだと思います」

「ちょっといいですか」

 自治会長が割り込んだ。当初考えていたシナリオをこえて熱くなっていた勇樹は、際限なくしゃべってしまいそうだった。

「時間も遅くなってきました。鳥野さんが見聞きしことが真実であるかどうかは我々には確かめようがない。ですが明日の防人ノ儀は、鳥野さんに一番槍を務めてもらい、槍の代わりに別のもの――こしらえた薬でも可とし、それで月神獣が大人しく引き下がったらよし、引き下がらなかったらいつも通り全員で戦う、というのでどうでしょう」

 異議無し、異議無し、と一同が口々に言う。さすがに長年役員を務める自治会長の言うことなら、誰も異を唱えない。

「では鳥野さん、明日はお願いしましたよ」

 勇樹は、はい、とうなずいた。なんとか切り抜けられて、ホッとした。と同時に、ようし、やってやろうじゃないか、と気合いが入った。自治会連中の驚くところが目に浮かぶようだった。



 翌日の夜――。

 いつもの勇ましい出で立ちで戦闘に備える月神人の中にあって、勇樹はただ一人なんの武器も持ってはいなかった。

 勇樹の話を頭から信じていないわけではなかったが、月神獣がそんなに話のわかる相手だとの実感がなかったし、長年の習慣もあった。自治会長の懸念が的中して、月神獣が戦いを挑んでくるかもしれない。

 実際にこの目で見ないことにはなかなか信じられないというのが本音だった。

 勇樹が作ってきた薬品は二リットル入りペットボトル一本。中身を確かめてもらうには十分な量だろう。

 陽が沈んで気温はますます下がっていった。焚かれたかがり火のそばに自然と集まってくる。各自、月神獣がいつ現れてもいいように準備万端である。

 月は丸く、天中にかかろうとしていた。全員が見つめる先にある祠が月の光に浮かび上がって。

 一番槍として、他の者より前へ出ていた勇樹は、祠の上の空間が陽炎のようにゆらぎだしたのにいち早く気がついた。一番槍といっても、勇樹はもちろん戦うわけではなかった。だからこの状態でもし月神獣が襲ってくれば、怪我ではすまないかもしれない。それを心配して、何か武器を持てばと言ってくれる人もいたが、勇樹は大丈夫だと断った。まったく恐怖はなかった。前回までは恐ろしさで膝が震えていたのだが。

 祠の上の空間の歪みが大きくなってきた。

 ――来る!

 勇樹の背後で月神人たちが身構えると、いつものように月神獣が空中の歪みから飛び出してきた。

 二頭だった。一頭は大きく、もう一頭は小さい。

 戻ってきたか、と勇樹は思った。この月神獣は――。

 小さいほうの月神獣が、静かに前へ進み出る。周りの月神人たちが、それぞれの武器を構えて殺気立つなか、勇樹の前で立ち止まった。

『お父さん』

 月神獣が声を発した。

 どよめきが沸き起こった。

「シロ」

 勇樹は笑みを浮かべる。月神獣の中で人語を解するのはシロと長老だけなら、ここはシロが来るべきだということになる。当然といえば当然だった。

「後ろにいるのはゴュジョか?」

『うん、そうだよ』

「そうか……。よく来てくれた」

『航聖はいないの?』

 周囲を見回して、シロは訊ねた。

「今日は来られないんだ。だがこれが成功すれば、いつでも会えるようになるさ」

 勇樹は薬品の入ったペットボトルをシロに見せる。

『できたんだね!』

「ああ」

 勇樹はうなずいた。

 後ろで控えていたゴュジョが近づいてきて、すっと首を出した。

 勇樹はペットボトルをビニール製のエコバッグに入れ、ゴュジョの首にかけた。

「頼んだよ」

 そっと体を撫でてやる。勇樹の気持ちが通じたか、あるいはシロが通訳したのかもしれなかったが、ゴュジョは大きく首を降った。

『長老の返事をもらえたら、また来るよ。じゃあ、帰るね』

 シロは言って、回れ右をしようとした。

「ちょっと待ってくれ」

 勇樹は呼び止めた。

『なぁに?』

「みんなに紹介したいんだ」

 勇樹は振り返ると、驚きの眼差しで見守っていた月神人たちに言った。

「ここにいる月神獣が、きのう私が話したシロです。見てのとおり、会話もできるし友好的です。ですから、これからみなさん、協力を願います」

 二頭の月神獣と並んでいる姿に、成り行きを見守っていた全員が声を失い呆気にとられているのを、勇樹は得意な気持ちで見返した。

 それは、歴史的な瞬間だった。


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