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第3章 『10月』

 夏休みが終わり、シロとは頻繁に遊べなくなってひと月が過ぎた。

 十月――。

 朝夕はめっきり涼しくなり秋がやってきていた。紅葉を楽しむにはまだまだ早いが、食卓に並ぶ野菜の種類が変わってきたりコオロギが鳴きはじめたりと、季節は着実にすすんでいた。

 そしてシロも柴犬ほどの大きさに成長していた。それに伴って、背中の羽根も額から生えていた角も、だんだん立派になっていった。もはや遠くからも見ても犬や猫とは明らかにちがうシルエットを見せていた。

 二学期が始まって日中の大半を学校で過ごすことになり、二人の少年――鳥野航聖と野浦銀次郎が、シロと思いきり遊べるのは土日だけとなった。平日は、夕方、ほんの少しの時間しかとれなかったが、二人は毎日シロに会いにいくようにはしていた。

 この幸せな日々を一日でも多くすごしたいという思いがあった。他のどんなことよりも、シロとの時間が大切になっていた。

 しかし異界の獣であるシロがいつまでもこの世界で平和で過ごせるというのはありえなかった。月神獣は、大人たち――とりわけ月野町商店街の月神人にとっては忌むべき存在だからだ。

 露見してしまったら最後、シロは殺されてしまうかもしれない。

 成長していくシロを見るにつけ、どうやってそれを回避すればいいかを真剣に決めなければならないと、二人は遊ぶ合間にも考えるようになっていた。とはいえ、いったいどうすればいいかというアイデアがあるわけでもなかった。

 時間は止まってはくれず、日々は無情にすぎていく。

 そしてついに、事件は起きた。



 月読山は月野町所有の土地だったが、その管理は先祖代々、月野町商店街が担ってきていた。そのため一般人の立ち入りはできないし、開発(これまでそんな話は一度もなかったが)もされなかった。

 しかし結界が張ってあるわけではなかったから、立ち入り禁止の立て看板を無視して、入ろうと思えば足を踏み込むことはできた。

 ただ、松茸がとれるわけでもない、草木の生い茂った古墳のような貧相な丘になんの用事があるわけでもなかったから、誰も分け入ろうとはしなかった。ただし、普通の人なら――。

 実際、航聖と銀次郎はそこへ入った。

 少年は冒険心を満足させたい気持ちが強く、そんな愚かな性分を生まれながらに持ってしまっていた。大人になると、そんなこともあったという気持ちをつい忘れてしまうが……。

 なんにせよ、そういうわけで、秘密基地に近寄れるのは航聖と銀次郎だけではなかった。

 最初にそれに気づいたのは銀次郎だった。

 ある日のこと、学校から帰ってから、いつものように秘密基地に来てみると、目立つほどではなかったが荒らされた形跡があった。秘密基地は主に銀次郎が考え作ってきたようなものだったから、その分愛着が大きく小さな変化を見逃すことはなかった。どうやら自分たち以外の人間がここへやって来たようである。

「航聖」

 銀次郎はカミソリのような声で呼びかけた。

 シロと遊び始めた航聖は、銀次郎が感じたような変化に気づかなかったから、

「なに?」

 と陽気な声で応じる。

「おれたちがいない間に、だれかがここへ来たみたいだ」

「えっ?」

 航聖は立ち上がる。

「なんだって?」

「ほら……まわりが散らかっているし……。壊されているところも……」

「でも、シロは無事だよ」

 だれかが来たとなれば、異界の生き物であるシロも見つかったはずだ。無事ではいられないだろう。

 航聖はそう思った。

「それはわからないぜ。秘密基地を見つけて近寄ったはいいけど、番犬がいたんで帰ったとか……いや、それだと荒らされやしないか……。だけど……」

 銀次郎はいったん口ごもった。

「また来るかもしれないし、そのときシロがどうなるか……」

「…………」

 あまりに銀次郎の表情が硬かったため、航聖も押し黙った。

 二人がここにいなかったとき、いったいなにがあったのかは推測するしかないが、少なくともシロの存在は露見したことになる……。

 もしそれが月野町商店街の月神人で、ひとめでそれと知られたなら最悪である。おそらく人を集めてきて、すぐにでも大挙押し寄せてくるだろう。

「場所を変えようよ!」

 航聖は提案した。それしか思いつかなかった。

 ここにいては危険というならそれしか手はない。子供二人でシロを守りきるなんて不可能だ。

「そうだな……」

 銀次郎は悔しそうにつぶやいた。

 場所を変えるとなると、当然、この秘密基地は放棄されることになる。人が手を入れなくなると、たとえだれかに破壊されなくても、あっという間に荒れてしまう。せっかくの力作が失われてしまうのが残念でならなかった。しかしシロの命には代えられない。

「わかった。じゃ、今から移動しよう」

「でもどこへ行こう……?」

 場所を変えようと言い出したものの、家に連れて帰るわけにはいかないし、航聖は困った。

「月宮神社の裏の秘密基地しかないだろ」

「あっ、あそこか……」

 航聖は思い出した。シロを最初に見つけたとき、こっそり飼う場所として思いついた場所だった。

 そこは以前に遊んだことのある、銀次郎の家の近くにある月宮神社の裏の雑木林のなかある秘密基地である。この秘密基地は、数年前、銀次郎と、銀次郎の兄・京一郎の手によって作られた。彼らの言葉でいうところの「歴史ある秘密基地」だった。幼い頃からの思い出のいっぱい詰まった場所である。大人たちに見つからない場所としてはもうここ以外にない。

 道中遠いが、自転車の後ろの荷台に乗っけて板で覆いをすれば、シロの姿は人目につかない。

「行こう」

 シロに、おいで、と促して、秘密基地をあとにしようとしたが、二人の足はそこでぴたりと止まった。

 だれかがこちらへやってくるのである。

 人影は三人。いずれも航聖たちよりも体の大きな少年たちで、どうやら中学生らしい。

 留守中、秘密基地にやって来たのはこの三人に違いなかった。

「坂本……」

 と、銀次郎はつぶやいた。

「知ってるの?」

 航聖が聞く。

「有名だよ……。悪ガキのリーダーだよ。あちこちで悪いことばかりしてる。あいつに泣かされたやつはいっぱいいるよ」

 高校生とケンカして勝ったとか、カツアゲや万引きなどの噂を聞いたことがあった。

 その男子中学生、坂本が、航聖たちの姿を認めてニヤリと腹黒そうな笑みを浮かべた。

「どこへ行く気だ?」

「どこでもいいじゃん。なんの用さ」

「用があるのはおまえらじゃない。おまえらが連れているそのへんな犬っころだよ」

 やはり狙いはシロだった。

 航聖はシロを後ろにかばう。

「今日は、そいつを捕まえに来た。捕まえるのに網がいるかと持ってきたんだが……ちょうどいい、そいつをよこしな。捕まえる手間が省けた」

 坂本は勝手なことを言う。確かに後ろにひかえる二人は大きな網を持っていた。農作物をイノシシなどの害獣から守るための防護ネットらしかった。それでシロを捕らえるつもりでいたらしい。おそらく昨日シロを発見して、ぜひ捕まえようと思ったのだろう。

「だれがやるかよ」

 銀次郎が気丈に言い放った。

「はあ? おまえ、だれにもの言ってんのか、わかってんのか」

 一歩前にでて、威圧するような坂本である。

「なんで、わたさなきゃいけないんだ」

 しかし銀次郎はひるまない。

「わかんねぇやつだな。そいつはただの生き物じゃない。おまえら子供がどうにかできるわけがない」

「自分だって子供のくせに!」

「うるせえ。おまえらよりはものを知ってるぜ。――さあ、よこせよ」

「いやだ。シロはおれたちの友だちだ!」

「友だち? おまえら、アタマおかしいんじゃないのか?」

 後ろにいる二人の中学生も失笑する。

「おいおい、なにいつまで話し込んでんだよ」

 網を持った中学生の一人が業を煮やして、言った。

「そんなやつら無視してさっさと捕まえようぜ」

「シロはわたさない」

 ちっ、と舌打ちすると、「どけ!」

 中学生たちがいっせいに飛びかかってきた。

 対峙していた銀次郎が坂本にぶつかっていった。

 が、体格が違った。

 懐に飛び込む前に腕をつかまれた。

 銀次郎は勢いを流されて転がされる。

 残る二人の中学生が網を持って、航聖とシロに迫る。

 航聖はシロをかばった。背中を向けて、シロを抱きかかえるように。

 航聖は肩をつかまれ引きはがされたが、シロに網をかぶせようとする中学生の一人に果敢に立ち向かっていった。腕にかみついた。

「なにしやがる!」

 ぶん殴られた。

「航聖!」

 転倒した銀次郎が起き上がるが、シロの側へ行く前に坂本に蹴っ飛ばされた。

「邪魔するな!」

 前のめりに倒れ込んだ銀次郎の背中を踏みつけた。

 航聖と銀次郎、二人とも腕力では勝てない。一方的に殴られ、蹴られた。

「おい、つかまえたぞ!」

 その間、三人目の中学生がシロに網をかけることに成功した。ばたばたと暴れるシロを、網を絡ませて動けないようにした。

「こいつめ、動くんじゃねぇよ……」

 網で絡めとったシロを二人がかりで抱きかかえ、もう一人が航聖と銀次郎が反撃してこないよう、押さえつけていた。

「さっさと帰ろうぜ!」

「ああ」

 坂本はのたうつ二人の小学生を一瞥し、

「手間とらせやがって」

 言い残すと、三人は足早に去っていった。

 残された航聖と銀次郎はなすすべもなく、打撲の痛みに耐えながら悔し涙を流すほかなかった……。




   §



 防人ノ儀の前日集会が今夜ある。またそこで町興しのアイデアを募集するだろうが、これといった提案が出てくることはないだろうと勇樹は思った。

 どう考えても防人ノ儀を町興しの呼び物にするしか月野町を救う方法はない。

 勇樹はそう結論した。ありきたりの思いつきでは魅力がない――田舎者の勇樹でもその程度の認識はあった。月野町ならではの歴史と伝統に裏付けられたイベントでなければ、だれも集まらないだろう。特徴的な伝統がないばかりに町興しに苦労している地方自治体がいくらもあるなか、月野町には幸いにもコンテンツがあり、それを活用するのが一番効果を期待できよう。

 だが――。

 勇樹の意見は先日の集会で一蹴されてしまった。その理由はわからないでもない。

 二十一世紀の現代において、異界の獣との戦いなんて公開したらどんなことになるか――。日本じゅうを巻き込んだオカルト騒動になり、これまで守りつづけてきた秩序が破壊されてしまいかねない。その結果、人間側の混乱に乗じて月神獣の侵入を許し、地球が支配されてしまうかもしれない。

 決して大袈裟な話ではない。月神獣に物理的な火力は通じないのだ。アメリカ海軍機動部隊をもってしても、たった一頭の月神獣に傷を負わせることすらできないだろう。問題はまだある――月神人の存在だ。一般の人間にとってはミュータントに等しい月神人を、人々はこれまでどおりに接してはくれないだろう。最初こそ珍しがられてもすぐにそれは恐怖の対象となり、排除されてしまうに違いない。

 町興しどころの話ではない。皆の危惧は当然といえよう。月神人や月神獣の存在を知っているのは、商店街の人々の他は月野町の中でもごく限られた者だけであり、同じ町内に住む者でも「言い伝え」としてならぼんやりと聞き及んでいる人でさえも、実態がこれほどリアルなものであるとは知らない。それを公開することの危険性を考えての反対である。

 とはいえ代替案があるかといえば、そんなものはなく、このまま先送りしていてはただいたずらに時間がすぎて町が朽ちていくばかりだ。

 もはやあきらめるしかないのか……。

 否、そうはいかない。勇樹は月神人の一人として当事者だ。あきらめては自分たちの生活が成り立たなくなり、ひいては月神獣を抑える力をも失なうことになる。正義の味方でも食っていかねばならない。つらいところである。

 なんとかこのアイデアを実現できないものだろうか。たとえば皆から意見を出し合ってみるとか。三人寄れば文殊の知恵というし、皆の協力を仰いでみるのもいいのではないか。

 しかし――。

 勇樹は皆に知恵を借りるのは難しいだろうとも感じていた。

 先日の防人ノ儀でも醜態をさらし、皆からの信頼を得られていない勇樹の発言をまともに聞く者はいないだろうからだ。前回発言したときと同じように相手にされない。

 ――せめて皆の足を引っ張らないぐらいの魔力があったら。

 勇樹は大きくため息をついた。こればかりはもって生まれた素質だ。漢方薬でも魔力を大きくすることはできなかった。早く代替わりしたいところだが、息子の航聖はまだ小学生で、月神人としての覚醒には少なくともあと五年はかかるだろう。

 気がつくともう夕方になろうとしていた。十月に入り、山里の田舎町は急速に秋が深まってきていた。日が沈むと途端に冷え込み、気温の低い朝は霧が立ち込めるようになった。山の緑も次第に黄色く色づきだし、あっという間に冬がやってくる。

 今日も静かな一日だった。客もポツリポツリとやって来ては、売薬を買ったり、前もって調合を頼んでいた漢方薬を受け取りにきたり。あとは何本かの電話。なくなりかけていた漢方薬の材料を買い付けに行かなくてはな……と思いながら店をしまおうとしていると、なんだか家のほうが騒がしい。

 ――また何かやらかしたか。

 勇樹は、反抗期にさしかかった娘や、やることがだんだん大きくなっていく息子を、やれやれと思いながら店の戸締まりをし、電灯を消して家に上がった。

 が、居間に入ってびっくりした。

 顔に青アザをつくった航聖を直美がせっせと手当てしていたのだ。

「ケンカか?」

「この子ったら、なんにも言わないのよ!」

 直美が不機嫌に言った。氷で冷やし、軟膏を塗っている。

 ――そりゃ、言わないだろう。

 転んだとか、そんな事故でない限り。航聖も男の子だ、ケンカで作った傷だなんて母親に言うのはプライドが許さない。勝とうが負けようが、航聖自身は意識しなくても言いたくはないのだ。母親にはしかしそういう「男の子」の気持ちというのがわからないようだ。

「あなたからも、なにか言ってください」

 航聖は黙っている。

 手当てを終えて直美が退くと、勇樹は、さてどう言葉をかけたものかと思いつつ、航聖の前にすわった。

 航聖がなにも語らない以上、なにがあったのかは想像するしかないが、手傷を負うほどだったところを見ると余程のことがあったに違いない。そこまでして押し通す自分の主張がどんなものなのかは知る由もないが、航聖にとっては譲れないことだったのだ。その気持ちを安易に妥協しろとは言いたくなかった。

「航聖」

 呼びかけると、息子は上目遣いで父親を見る。なにを言われるのかと警戒しているのが、勇樹にはわかった。

「父さんはなにがあってもおまえの味方だ。だからおまえのやることは応援する。自分の気のすむまで突き進め。それが大人の男になるためには大事なんだ。大切なものを守るためには、ときには戦う必要もある。戦わなければ、戦い方がわからないまま大人になって、今よりもっと守らなければならない、かけがえのない大切なものを守れなくなってしまうんだ。そうなってからでは遅い。父さんの言いたいことはそれだけだ」

 勇樹は立ち上がり、航聖の肩をポンとひとつ叩くと、「さ、晩ごはんにしよう」

 直美は無言で配膳を始めている。テーブルには野菜の天ぷらが大きなお皿に載っていた。月野町農協には朝市ができ、近隣の農家から規格外の野菜が持ち込まれて直売されるのである。さつまいも、ごぼうとれんこんのかき揚げ、しいたけ、かぼちゃ……。どれも採れたてだ。

「理沙はどうした?」

 ダイニングに理沙がいない。

「まだ部屋にいるよ」

 と、航聖。

「呼んできてくれ」

「うん」

 素直に呼びに行った。父親の言葉をそれなりに受け止めて納得したようである。その背中を見て勇樹はそう思った。それから、

 ――航聖には、勢いでああ言ったものの……。

 その言葉の意味を改めて自分自身で吟味した。

『戦わなければ守れない』

 その通りだ。――しかし、自分自身がそれを実践できているか? ――否。

 守るべき家族の生活がある。そのための町興しなのに、自分は己の考えを封印しようとしている。それでは逃げているのと同じではないか。自分の考えが正しいと思うなら、立ち向かっていって皆を説得せよ。他人任せではなにも解決策が出ないまま滅びてしまうぞ。危機感を持っているのはだれでも同じだ。ならば打開策を実現できないはずはない……。

「そうだな。やってみるか」

「なにか言いました?」

 直美が首をかしげた。

「いや、なんでもない。独り言だ」

 勇樹が席につくと、二階から子供たちが下りてきた。



 食事を終えると、勇樹は集会所へ赴いた。防人ノ儀の前日の集会である。一番槍やその他の担当を決めるいつもの行事。だいたい三十分ぐらいで終了する。

 すでにおおよその参加者は集まっており、自治会長も前に立ち、全員がそろうのを待っていた。開始時刻まであと数分といったところである。

 勇樹はいつものように部屋の奥の隅のほうにすわった。

 ほどなくして全員がそろった。

「えー、では皆さんそろいましたので、時間前ですが、始めます」

 と自治会長が宣言した。

 いつものように、明日の戦いに備えて籤で一番槍を決め、そのあと戦いの結果を占った。大勝利が宣言され、盃が回され、粛々と行事が終了した。

 そして、自治会長が言った。

「では、先日からの議題であります、町興しについてですが……」

 なんとなく、やる気のない投げやり的な口調。いいアイデアが、ここ一ヶ月足らずで出てくるわけがないと思っている様子が窺えた。

 事実、会長が提案を求めると、二十人もいるとは思えないほど座は静かになり、厳しい先生が教壇に立つ授業中のように、だれも意見を言おうとしない。先日の集会で、勇樹の意見をさんざん批判した人たちも黙っている。最初に町興しの話をしてから二ヶ月も経つというのに、だれもアイデアを出さないのである。というより、なにも思いつかないのだ。

「あの……会長さん」

と、手をあげたのは、酒屋の主人、高柳である。

「はい、どうぞ」

 指されて、高柳はおずおずと言った。

「このような大事な案件を短期間で求めても、なかなかいい案がでないのとちがいますか。もっとじっくりと時間をかけていかないと、毎度毎度、聞かれてもなあ……」

 最後は皆のほうを見渡し、同意を求めるような仕草である。

 うなずく者、「異議なし」などと言う者。

 あーあ、と勇樹は思った。問題を先送りしようとしている。確かにこの雰囲気ではそれもやむを得ないかという気もする。だが時間をかければ良い案が浮かんでくるだろうというのはあまりに楽天的だ。一年たってもノーアイデアという事態になりかねない。そのうち代替わりして、息子たちの世代がなんとかしてくれる、などと思ってやしないだろうか。

 高柳は言を継いだ。

「私も、このままなにもしないでいいとは思っていませんよ。重要なことだと思う。しかし慎重にすべきことだとも思うから。どうでしょう、来年あたりにべつに会合を開いてみるのがいいのでは……」

 うなずく者、「異議なし」などと言う者。さっさと終わらせて帰りたい、という気持ちもあるのだろう。

 自治会長もうなずき、

「皆さん、今の意見、どうでしょうか?」

 と言った。

 ほぼ全員が、口ぐちに同意した。一人を除いて。

「ちょっと待ってください」

 勇樹が立ち上がった。

 また鳥野さんか、というつぶやきが漏れた。

「なにか、案がありますか?」

 自治会長が期待を込めて言った。

 勇樹は、非難を覚悟で意見を述べた。

「ずっと考えてきたんですが、やはり月野町には防人ノ儀しかないと思うんです。それ以外のもので、この町を救えるほどのコンテンツは見つかりません。それを除けば、月野町はごく普通の山里にすぎません。そんな月野町に活気を取り戻すには、この町の特徴を活かした呼び物が必要です。もっとも、前回、皆さんが指摘されたように問題は多々あります。しかしなんとかしてそれを克服することはできないものでしょうか。なにかいい方法がないか、そこを検討すべきではないか、と思うんです」

「なにかいい方法って、なにかあるんですか?」

 自治会長が訊いた。

「それを我々で考えるんです」

 皆がざわつきだした。

「方法って、言われてもなあ……」「無理だよ、無理」「畏れ多い」

「皆さん、お静かに」

 自治会長が制した。

「鳥野さん、皆もああ言っていますし……」

「危機感がなさすぎます。いくら時間がたっても問題は解決しません。町興しなんか、一朝一夕にできるもんじゃありません。実行までこぎつけるには時間がかかります。今動かなければ、手遅れになりかねない。検討することぐらい、してもいいんじゃありませんか?」

 一気に言った。

 集会所内は唖然と静まりかえった。

 やがて、高柳が言った。

「鳥野さんとて月神人の一人。事の重大性はよく承知のはず。その上でそこまで言うんでしたら、いっそ鳥野さんが中心になって進めてみてはどうですかな」

 と、周りを見回す。

「ということで、どうでしょう?」

 すると、そうだそうだそのとおりだ、と皆激しく同意した。

 自治会長も言った。

「では、皆もああ言っていますし、ここは一つ、鳥野さんに立案をお任せするということで」

 一同、拍手。

「え……?」

 と勇樹は絶句。

 案に同意はしてくれたものの、これでは厄介ごとを押しつけた、という展開だ。こうなることは十分予想できたはずなのだが、しかしこうなった以上、拒否はできなかった。そんな空気ではなかった。もちろん、今後どんなことをすればいいか、などというプランが具体的にあるわけでもなかった。

 ――えらいことになった。

 勇樹は引きつった笑みを浮かべ、

「わかりました。では……やってみましょう」

 と皆に応えた。もちろん、なんの見通しも、やりとげる自信もなかったが。

 明日の一番槍の籤は外したが、貧乏くじは見事に当ててしまった勇樹だった。




   §



 戦わなければ守れない――。

 前日、父・勇樹に言われた言葉は、航聖にとって衝撃的だった。

 航聖は自室に入って思いを巡らせた。そして、決意した。

 ――シロを取り戻そう。

 傷はまだ痛んだが、気力はみなぎっていた。

 航聖は登校すると教室に銀次郎をさがした。まだ来ていなかった。もしかしたら怪我の具合が悪くて今日は休むんじゃないかと心配していると、銀次郎が現れた。

 が、いつものような覇気がない。とぼとぼと、打ちのめされた者の姿だった。当然といえば当然だ。あれだけ熱を入れていたのに、それが力ずくで奪われてしまったのだ。夏休みからこっち、時間も手間もそそぎ、かけてきた思いは航聖より熱かったかもしれない。シロとすごした二ヶ月以上も日々はかけがえのないものだった。

 ランドセルを机の横にひっかけ、暗い気持ちでイスにつく銀次郎に、航聖は明るく声をかけた。

「銀ちゃん、シロを取り返そう!」

 単刀直入に言った。

 うなだれていた銀次郎は、信じられないものを見るような目で航聖を見た。

 それができれば苦労はない。だが、できるとは思えない。

 銀次郎の目はそう語っていた。

「どうやって……? なにか作戦でもあるのかよ」

 拗ねたような物言いだった。

「なにもない。でもこのままじゃ悔しいよ」

 銀次郎はがっかりした表情に戻った。

「それはおれもさ。でも相手はあの坂本だよ。無理にきまってる……」

 坂本の数々の伝説的武勇伝を聞いていた銀次郎は、とてもではないがシロを取り返せるとは思えないのだった。昨日のケンカでのされてしまい、実力の差ははっきりしていた。まともにぶつかって勝てるわけがない。悔しさに思わず下唇を噛んだ。

「だから作戦を考えるんだよ」

 暗く沈んでいる銀次郎とは対照的に、あれだけの手傷を負わされたというのに航聖は明るかった。

「作戦か……」

 いつになく積極的な航聖に、銀次郎も、もしかしたら……という気持ちがわき上がってきた。

「でも、どうするんだい?」

「うーん」

 と航聖は腕組みして、

「とにかく、敵のアジトがどこにあるか知らないとね……」

「家ならわかるだろ」

「知ってるの?」

「いや、おれは知らない。けど、このクラスのだれかが知ってるかもしれない。なにしろ有名だからな」

「OK。じゃあ、まずはそこからだ!」

 チャイムが鳴った。

「あとでな」

 航聖は席に着いた。



 休み時間、航聖と銀次郎はクラスの全員に坂本の家を知っているか聞いて回った。

 坂本の名前を聞いたことのある生徒は数人いたが、自宅の場所まで知っているとなると一人しかいなかった。

 ただ、坂本を知っている者は皆一様に、「近づかないほうがいい」などと言う。触らぬ神に祟りなしといった感じで、近づいたら取って食われてしまうかのような反応だった。噂が都市伝説となっていくのを実感する航聖と銀次郎だった。

 そして放課後、書いてもらった地図を頼りに、二人は坂本の家を偵察することにした。

 小学校の正門をいっしょに出て、徒歩で坂本の家に向かう。

 シロがどこに連れて行かれたのかはわからない。しかし、坂本の家に閉じこめられているだろうと想像した。もしそうでなかったとしても、おそらく坂本をマークしていれば、シロの居場所がどこかわかるのではないかと思われた。

 とにかく、正攻法では坂本に歯が立たない。なんらかの作戦を立てる必要がある。それにはまず坂本の自宅を調べ、それがわかった上でなにか考えることにしようという航聖の主張は、なんの足がかりもない今、すんなり通った。

 ランドセルを背負い、小学校から歩いて約十五分……。

 田んぼが広がる月野町には、人家が集まる地域がいくつかある。銀次郎の住む地域も昔ながらの集落だったが、坂本の家は比較的新しい住宅地にあった。昭和時代に作られた建て売りで、クルマで三〇分ほど走ったところに大きな工場が建ったことで、農業を継がない世代がそこへ勤めにでて建てたのである。当時としてはモダンな住宅だったが、今やどれもこれも古ぼけていた。

 地図を見比べつつ、うろうろする。

「このへんだよな……」

 周囲を見回しながら、銀次郎が言う。

 まだ中学生が下校する時間ではない。だが、あまりのんびりしていたら坂本と鉢合わせてしまうから早めに探してしまわないと……。

 歩いていくと、どこかから犬の吠える声。

「あっ、あれかな……」

 コンクリートブロックの塀に囲まれた家の表札に「坂本」と書いてあった。

 塀の内側にぴったりと収まっている家は二階建てで、薄汚れた白い外壁に屋根瓦が青かった。プロパンガスのボンベが二本、クルマの出払ったガレージの端に固定されていた。玄関横に自転車が一台。

 シロがどこにいるかは外側からは見えない。この家にはいない可能性もあった。

 月神獣であるシロは、犬や猫と違って異界の生き物だ。それを知らない坂本であっても、普通の生き物でないことはシロの外観から明らかにわかる――問題はその扱いだ。

 大人たちには、おそらく隠すだろう。

 独占欲の強い坂本なら、大人たちに見せる場合、どうしたら一番自分にとって実があるかを考えるだろう。だからそこは慎重になる。いきなりネットに写真をアップするということはしないだろう、と。シロの所有権が自分にあることを確かなものとしなければ、たちまち奪われてしまう。そこを考慮する狡猾さが坂本にはあった。

 坂本がシロをどういう形にせよ大人たちに見せる前に取り戻す必要があった。

 シロは室内にいるのだろうか……。

 家はわかった。しかし、それだけでは次の手は思いつくものではない。

 航聖は行き詰まった。

 銀次郎もなにか手はないかと思考を巡らす。

 すると、そのとき――。

 ぎゃ、という叫び声がした。

 その直後、坂本家のブロック塀の向こう側から白い固まりが飛び出してきた。それは、一直線に航聖と銀次郎に向かってくる。

「シロ!」

 二人の足下にシロがまとわりついてきた。

 しゃがみこんで、シロを撫でる様子は飼い主と犬の姿そのものだった。

 ギィ……と鉄扉が開いて、家の前に坂本がでてきた。

 ハッとして、シロとたわむれていた銀次郎が立ち上がる。

 学校をサボって、ここでシロを見ていたようである。この世ならざる生き物に感心があったのと同時に、目を離しているわけにはいかないという気持ちがあったのだろう。

 その坂本は、右腕を押さえていた。おそらくシロに咬みつかれでもしたのだろう。それとも、月神獣の特別な能力によって負わされた負傷か――。その眼は異様な光をたたえてシロと航聖、銀次郎を見つめていた。人知を超える存在に触れてしまったような畏れに似た感覚をたたえて。

「おまえら……」

 と、坂本は指を突きつけた。その指は震え、これまで経験してこなかった敗北感に戸惑っていた。

「そいつをどうするつもりだ?」

「行こう」

 坂本の問いにこたえず、銀次郎が短く告げた。

 うん、と航聖。

「おいで、シロ」

 シロは一度振り向きて坂本を一瞥すると、

『シロ、航聖と銀ちゃんについていく』

 と言った。

 衝撃が走った。

 航聖と銀次郎は目を見開いて、シロを見る。

「シロ……おまえ、口がきけるんだ……」

 航聖は、月神獣が、ただの猛獣ではないとは知っていたが、知能が高いとかは聞いていなかった。おそらく、戦ってばかりの月神人も知らないのではないだろうか――。

 それで坂本の態度が理解できたような気がした。

「とにかく、行こう」

 歩き出す銀次郎。

 航聖とシロはについて歩き出した。

 坂本は追ってこなかった。



「――にしても、シロがしゃべれるなんて……」

 しばらく歩いてから、ホッとして航聖がつぶやいた。図らずもシロを取り戻せ、まずは安心していた。

「ね、銀ちゃん。やっぱりシロはすごいね。ぼくたちの会話とか、ちゃんとわかってるってことだよね」

 しかしこんな驚くべきことがあっても、銀次郎に浮かれた様子はない。

「で、これからどうする?」

 聞くまでもなく、どうするかはもう決まっていたが、一応、声をかけた。シロが坂本にさらわれしまう直前に決めたことは、まだ有効だった――どころか、より重要になっていた。

 シロの存在が一般人に露見してしまったからである。一刻も早く秘密基地へ逃げ込み、人目からシロを隠さなくてはならない。こうやって徒歩でシロを連れ歩くことすら危険だった。すれ違いざまに見るなら「犬」だと思われるかもしれないが、二度見すれば犬でないことは明らかだった。

 悔しそうな眼をしていた坂本が、どんな手を打ってくるかわからない。事態は悪い方へとすすんでいた。

「家出しよう」

 銀次郎のセリフは唐突だった。

 航聖は目を丸くした。

「シロとおれたちのことが大人たちにバレるのは時間の問題だぜ。シロは普通の動物とはわけが違う。そうなったら、間違いなくシロは大人たちに奪われてしまう。シロを守れるのはおれたちしかいないんだ。そのためには、おれたちもシロといっしょにいてやらなくちゃいけない」

「でも……」

 銀次郎の決意に、航聖は及び腰だった。いくらシロを守るためとはいえ、家出とは……。

「おれたちがシロをかくまっていることが知られてしまったら、大人はおれたちからシロの居場所を聞き出そうとするに決まってる。だからおれたち自身も身をかくさなきゃ」

 理屈は通っていた。

 月神獣のことをよく知っているはずの航聖よりも、銀次郎のほうが危機感が強かった。

 シロと航聖の関係が親たち――月野町商店街の月神人に知れたら大変なことになる。どうなるかはわからずとも、天地を揺るがす一大事であるのは航聖の知識でも想像できた。

 いつまでシロを隠し通すことはできない――。それはシロをこっそり飼い始めたときから、いつか訪れるであろう未来であると、わかっていたことでもあった。ただ、それをリアルに考えたくなかったのだ。

 しかしそれが現実となってしまった以上、甘えを棄てる覚悟が要った。

 自分たちがどれほどシロを大事に思っているか――。それを態度で、実行で、示すのである。

 銀次郎の家の近くにある月宮神社――山の中腹にあるそこは、この里の神事を代々担ってきた古い神社で、毎年の夏祭り、秋祭りには、航聖や銀次郎も出かけていて、月野町の人々にとっては馴染み深い場所だった。

 公表はされていないが、月宮神社では月神人の神事もとりおこなっており、当然、月神獣のことも知っていた。

 シロを連れてのんびり歩いていてはいけないと、駆け足で向かう。

 時たますれ違うひともいたが、あまり注意を向けられることなく、事なきを得た。

 月宮神社の近くには銀次郎の家があり、その付近まで来ると、

「先に秘密基地に行っててくれ。要りそうなものを取りに行ってくるから」

 と、航聖とわかれた。

 家出となるとなにが必要なのかとっさには思いつかない航聖だったが、銀次郎は道中ずっと考えていたようである。

 神社に上がる石造りの階段を、鳥居をくぐって一段一段上っていく。

 秋晴れの夕暮れ――。祭りのときは賑やかであるが、今はひっそりとしていた。シロを連れていたから、だれもいないのは助かった。

 石階段を三〇メートルほどあがったところの神社の境内にも人影はなく、ひばりのさえずりがするのみだった。大きな神社でないから訪れる人も神事のあるときぐらいで、だから社務所も閉まっていた。

 石灯籠が立ち並ぶ境内をつっきり、社殿へつづく石畳を外れて、高さ二メートルほどもある生け垣に沿って歩くと、裏手へ続く細い道の入り口があった。

 ためらうことなくそこへ入っていく。

 坂道に石を埋め込んで造った階段は山頂付近に作られた御堂へと続いているが、航聖はその道の途中で雑木林に入っていった。

 山の斜面は落ち葉が重なり、歩きにくいことこの上ない。

 ほとんど人の踏み込むことのない雑木林を記憶を頼りに歩いていくと、木々の間から小屋のような小さな建屋が見えてきた。

 しばらく使っていなかった秘密基地はすっかり荒れ果て、クモの巣が張ってただのゴミのように見えた。このままでは使えない。とはいえ、どこから手をつけていいかわからなかった。

 航聖はしばらく呆然としていた。

 シロが航聖の足下でうずくまっている。

 ともかく、ぐずぐずしていたら夜になってしまう。

 航聖はランドセルを置き、崩れかけた秘密基地の板を持ち上げた。突然の訪問者に起こされて逃げまどう虫。

『ここに住むの?』

 シロが聞いてきた。

 あまり気が進まないが、そうするしかなく、

「他に行くところがないんだ……」

 がさがさと、落ち葉を踏む音がして振り返った。

 銀次郎だった。背中に大きな荷物を背負っていた。荒れた秘密基地の惨状を見て、

「長いこと使ってなかったからな。こんなこったろうと思ったぜ」

 背中の荷物を下ろす。

「なんだい、これは?」

「キャンプ用のテントさ。水はそこの神社で手に入るからいいとして、他にライトとか、非常食とか持ってきた。シロのキャベツもな」

「すごいや」

 航聖は感心する。自分ではとてもここまでは用意できない。

「テントの設営を手伝ってくれ。早くしないと夜になる」

 銀次郎の言うとおり、十月の夕暮れは早い。

「うん、わかった。手伝うよ」

 銀次郎の指示で、作業を始めだした。

 家出一日目の夜が来ようとしていた。




   §



 かかってきた電話はあまりに唐突だった。小さな画面に表示された名前を見て、理沙はあわてふためいた。

 ――京一郎さん!

 番号を教えあったものの、これまで一度たりともかかってきたことはなかった。しかし理沙とて同じで、京一郎に電話をしたことはなく、ならばお互い様なのだが、理沙の場合は、大した用件もないのに電話するのが畏れ多かったからだった。

 何度か携帯電話を取り落としかけて、通話ボタンを押した。

「はい、もしもし……」

 直に会って話すときよりなぜか緊張した。どんな第一声かとどきどきしながら耳をすましていると、

「鳥野さん、たいへんだよ」

 電話の向こうの声はひどく切迫している。

 理沙は驚き、

「どうかしたんですか?」

 これまで電話をかけてこなかったのは、急ぎの用事がなかったからなのだ。逆に言えば、電話がかかってきたということは、緊急事態というわけである。

「航聖くん、帰ってる?」

「航聖?」

 隣の航聖の部屋からは物音がしないし、玄関があいた気配もなかったから、たぶんまだ帰ってはおらず一階にもいないだろう。だが念のために携帯電話を耳にあてながら家の中を見て回った。さして広くもない家だから三十秒とかからない。

「まだ帰ってないです」

 なぜ京一郎が航聖のことを訊ねるのだろうかと理沙は思い、そしてすごく嫌な予感がした。

「あのう……航聖がなにかやらかしたんですか」

 理沙は恐る恐る訊いた。

「やっぱり……」

 京一郎の吐息まじりの声に、理沙は不安を覚える。

「どうやら、うちの銀次郎と家出したようなんだ」

「家出?」

 想像していなかった言葉に、声のトーンが上がった。それを感じとったのか、京一郎は取り繕うように言った。

「でも小学生のやることだから、そんなに遠くまでは行けないだろうし、探せばすぐに見つかると思うんだけど……。でも航聖くんを巻き込んでるとなると、笑い事じゃすまなくなると思うから」

「銀次郎くんじゃなくて、航聖がそそのかしたのかもしれないから、銀次郎くんを責めるのは――」

 とっさにそう言った。

「書き置きがあるんだ。とにかくそっちへ行くよ。いいかい?」

「はい。あっ、でもわたしの家――」

「住所は電話帳でわかるから、ケータイの地図使って行くよ。十五分とかからないと思う」

「わかりました」

「じゃ、後で」

 電話が切れた。

 理沙は、耳元で京一郎の声がするということに軽い興奮を覚えていたが、静かになった部屋でその余韻が徐々に引いていくと、現実的な問題が頭に浮かびだした。

 ――京一郎さんが家に来る。

 航聖の家出より、まずそのことに考えが及んだ。用件はともかく、突然の訪問に、理沙は舞い上がった。うきうきするような高揚感。どうしよどうしよ。

 ひとしきり部屋の中をぐるぐると歩き回って、床に放り出していたフリースに足をひっかけた。

 ――まずい、部屋を片付けねば。

 乱雑に散らかった部屋は見慣れた日常の光景なのであるが、よくよく冷静に見てみると、これはまことに汚い。衣類はあちこちに脱ぎ散らかされ、空のペットボトルは棄てられずに放置され、雑誌の類いは本棚に入るのを拒否しているかのように飛び出して、ゴミ屋敷といってはオーバーだが、そうなりかかっているといっても否定する人は少ないのではなかろうか。

 さすがにこの部屋を見られては、人生最大の汚点となろう。しかしそうはいっても、まもなく京一郎が来るというのに、これからきれいに片付けるなど、魔法使いじゃあるまいし、まったくもって不可能だ。

 途方に暮れた。

 だが――。

 落ち着いて考えてみると、その懸念は取り越し苦労にすぎなかった。京一郎の訪問の目的は理沙の部屋で談笑することではないのだから。

 航聖が家出した――?

 電話口で京一郎は確かにそう言ったが、理沙にはどうも実感がわかない。

 時計を見ると、五時を回っており、屋外(そと)はもう暗くなりかかっている。日の長い夏ならまだしも、今の季節ならとっくに帰っていなければならない時分だ。気温も下がって寒くなる。いったいどこでなにをやってんだか……。

 ともかく、そんな理由で京一郎がやって来るのだから、当然親とも話すわけで、店先か居間か、そんな場所で話すことになるだろう。

 ――え? いきなり両親に会うってこと? わー、どうしよ。

 顔が赤くなってきた。

 ――なにを考えてるんだ。

 京一郎は航聖の友だちのお兄さんとして来るのだと自分に言い聞かせた。

 妄想しているうちに二分ばかし無駄にした。その間にも京一郎はこちらに向かってきているのだ。ぼやぼやしている場合ではない。

 さぁ、どう説明したものかと思案しながら店に下りた。

 が、母・直美しかいない。

 ――ああ、そうだった。今日は防人ノ儀の日だった。

 日が暮れるのが早くなると、満月も早く輝きだすから、出かける時間も早くなるのだ。月神獣が何時ごろ出現するのかはわからないから、早くから準備しておく必要があり、父・勇樹は家で夕食をとる時間がないため手弁当を持っていっている。

「お母さん、航聖まだ帰ってないでしょ」

「そうなのよ。日が暮れる前に帰ってきなさいといつも言ってるのにねぇ」

 薬の在庫をノートに書き込む手を止めて、上がり口から店をのぞきこんでいる理沙を見た。

「どうせその辺で遊んでるんだと思うから、アンタちょっと呼んできて」

「あの、それがね……」

 理沙はためらいがちに口を開いた。

「航聖が家出したらしいの……」

 再びボールペンをノートに立てようとした直美は、怪訝そうに理沙を見つめた。なにをばかなことを、とその目は言っていた。家出の理由に思いあたらないのだ。

「今さっき電話があって、航聖の友だちといっしょで、どうもその子と家出したってことらしいの。で、その子のお兄さんがこっちに来るって」

「航聖の友だちって、銀次郎くんね」

 直美はふんふんとうなずいた。小学生の家出なんてと端から真剣に考えていない様子だ。

「わかったわ。今日はお父さんが出かけてるから、理沙が対応してちょうだい」

 そのとき、店の戸が開いた。

「いらっしゃいませ」 

 反射的にそう言って、直美は振り向いた。そこには長身の少年が立っていた。

「野浦センパイ……」

 理沙は絶句した。来るとわかっているのに、家に京一郎がやって来たというのが、たまらなく不思議だった。

「こんばんは」

 と頭を下げて、京一郎は挨拶した。



 京一郎は銀次郎の書き置きを持ってきていた。直美への挨拶もそこそこに、学校でもらったPTA役員会のお知らせのプリントの裏に鉛筆で書かれた「書き置き」を広げた。

『航聖といっしょに家出します。どうしても守らないといけないものがあるからです。さようなら』

 唐突な文章だった。文中にある「どうしても守らないといけないもの」にまったく思い当たらず、京一郎は訪ねてきたのだった。小学生ではそう遠くへは行けないだろうと京一郎も思ったが、かといって気楽にかまえて放置できなかった。弟思いの兄なのだった。

 それに、銀次郎の友だちの航聖の姉が、いまではよく知っている相手だということが、京一郎にとって相談しやすくさせていた。

 しかし理沙にも、守らないといけないものがなんだかわからなかった。いっしょに家出したということは、航聖にとっても大切なものなのだろう。だが航聖の言動を思い返しても、まるで心当たりがない。というか、航聖の普段の生活や思考にほとんど無関心だったことに気づいた。

 ぜんぜんわからなくてごめんなさい、と理沙は謝った。

「いいさ。だれにも言えない二人だけの秘密だったんだろう」

 京一郎は、気にしないで、と応じた。

「でもどうしよう……」

「手がかり不明なら、二人が行きそうな場所を片っ端から回ってみるしかないよ」

「そうね……」

 と、京一郎の意見に、直美は賛成した。

「あなたたち二人で行ってきなさい。ひょっこり帰ってくるかもしれないし、お父さんも留守だから、わたしは(ここ)に残っているから」

「わかったわ」と理沙。

「もう暗いからいっしょに行動すること。京一郎くん、頼んだわよ」

「わかりました」

 力強くうなずく京一郎。

 はからずも二人きりでの外出が実現して、もちろんデートではないし、京一郎も意識していないだろうが、それでも理沙の心は踊った。



 自転車にまたがり、さてどこへ行くか困った。航聖が行きそうな場所って、どこだ? 学校? それはないだろう。いくらなんでも、すぐに見つけだされる場所に行くわけはない。航聖だって、家出したのだから、家族が探しているのだろうと予想して見つかりにくいところへ行くだろう。

「どこか思い当たるところ、ありますか」

 理沙一人では途方に暮れるしかなかったが、心強いことに一人ではない。しかもそれがだれあろう京一郎なのだ。今理沙のなかで、京一郎の存在はこれまで以上に大きくなっていた。この機会に一気に距離を縮められる……。

 理沙は口元がゆるむの抑えるのに苦労した。

「そうだな……」

 京一郎は顎に手を当て考え込む。

「神社の裏手かもしれないな……」

「神社?」

「うん、そう。月宮神社の裏山。そこに秘密基地がある」

 京一郎は説明した。

「男の子ってのは幼稚でさ。そんな自分たちだけの遊び場を作るんだよ。女の子にはわからない男のロマンってやつだよ。小学生の頃はぼくも作って弟とよく遊んでた」

「じゃ、きっとそこですよ」

 理沙の顔が明るくなる。「そこなら大人たちもわからない」

 ただ――と京一郎は笑顔がない。

「秘密基地を作ったのは、もうずっと前だ。今でも残っているかどうか。今は放置されて全然使っていないかもしれない」

 理沙は、京一郎の言う秘密基地というものが、具体的にどんなものなのかイメージできなかった。

「考えていてもしょうがない。とにかく行こう」

 京一郎はペダルをこぎだした。

 すっかり暗くなって、人通りの絶えた道を自転車のLEDライトが二つ進んでいく。

 満月が東の空に光っていた。今ごろ月読山の上では防人ノ儀が始まっているのだろうか。

 京一郎は月宮神社への最短距離で自転車を走らせる。

 月宮神社は、京一郎の家の近くにある、この里で一番大きな神社である。とはいえ、地方の田舎のこと、いつも参拝人で賑わうわけではなく、神事のない日はひっそりしている。

 夜風が頬に冷たく当たった。つい最近まで暑かったのにな……と衣装ケースから出したばかりのパーカーの襟元を気にしつつ、理沙は京一郎の後ろをついていきながら、並んで話ができたらな、と思う。

 自転車で夜道を走ること十五分、神社の鳥居前に到着した。高さ五十メートルぐらいの山の中腹に作られた本殿へは、急な石段を登っていくしかない。

 まだ宵の口だというのに周囲に広がる森は夜の闇に沈み、静かに眠りについていた。祭の夜ならあんなにも賑やかなのに、自転車を停めて石段の前に立つと、不気味なほどの静けさに、子供二人でこんなところにいるのかなと首をかしげたくなる。

「神社の裏山って、この奥ですよね?」

 石段を上りかけた京一郎の後ろから、理沙は確認した。石段を照らす外灯は間隔が開き、足元はそれほど明るくない。裏山となると、鬱蒼と繁る雑木林はさらに暗い。自転車から取り外した乾電池式のLEDライトがあるとはいえ、薄気味悪かった。

「うん。夜に秘密基地へ行ったことはないけど、迷ったはしないよ」

 平気な顔の京一郎に、理沙はホッとすると同時に頼もしく思え、ますますときめいた。コオロギの鳴き声がしてすっかり秋であるが、肝試しに行くペアのように、理沙は京一郎の後ろにそっと寄り添った。

 石段を上りきると境内である。石の鳥居が二人を迎え、石畳が正面の本殿までつづいている。向かい合う二頭の狛犬が月明かりに照らされ、妖しい怪物のように今にも動きだしそうだった。左手側には本殿より小さな社務所。窓口は閉められ、この時間は無人だ。

 理沙は、祭のとき以外でこの神社に来たのはいつだったろうかと思い、幼い頃に遊んだ思い出がよみがえった。

「こっち」

 京一郎が手招きする。直線的で白いLED光が、右手側の生け垣を照らし出した。高さ二メートルほどもあり、その向こうへは行けなくなっていたが、一ヵ所だけ生け垣の途切れている場所があった。幅は一メートルほどで、そこから小道がのびていた。山の頂上付近に作られた御堂へ通じているのである。

 理沙は幼い頃に、一度友だちとそこまで行ったことがあった。確か一本道だったはず。

 そこへ入っていく京一郎の後をぴったりとついていく理沙。道は細く、石段も門前のようにしっかりしてはおらず歩きにくい。

 京一郎は突然道から外れると、藪の中へ分けいった。

「ここから足元がわるくなるから気をつけて」

 京一郎は理沙を振り返って、「大丈夫かい?」

「平気です」

 気遣ってくれるのがうれしかった。月も出て真っ暗闇ではないし、明かりもある。多少足元が悪くても、なんとかなると思った。それに京一郎がいっしょなのが心強かった。

 道のない雑木林の中を進む。かつては薪や堆肥用の落ち葉などをあつめるために作られた人工の森は、人々のライフスタイルの変化によって今や人があまり踏み込まなくなり荒れてきていた。落ち葉を踏みしめる音がガサゴソと耳障りだった。

 単調な前進がつづいた。おしゃべりすることもなく、理沙は時間の感覚がなくなってきた。自分が山のどの辺りにいるのか皆目わからなかった。

 永遠に終わらない行軍かと錯覚しそうになったとき、前方に小さな明かりが見えた。一瞬それはまるで人魂のように見え、だがすぐに目的を思い出して理沙は京一郎を見る。

「あれが?」

「ビンゴだ! まだ基地が残ってたよ」

 明かりは小さくて、秘密基地がどんなものかは見えなかったが、数年ぶりに訪れた場所が健在であることに、京一郎は感激していた。

 木々に視界が遮られていたから、距離は思うほど遠くないだろう。京一郎は明かりに向かって弟の名を呼んだ。理沙もそうした。

 何度も名前を呼びつつ明かりに向かって近づく。自然と足早になった。

 明かりは、たぶん理沙たちと同じLEDライトだろう。それが揺れている。理沙たちが現れたことであわてているのだろう。

 と――。

「シロ、だめだよ!」

 そう叫ぶ声が耳に届いた。銀次郎か航聖かは判然としなかったが、ひどく切迫した声音だった。

 そして次の瞬間、一陣の風とともにひとつの影が急接近してきた。その正体がなにかわかる間もなく、強烈な衝撃が二人を襲った。クルマにはねられたかのように体が後方へ吹っ飛ばされ、太い幹に背中をしたたかに打ちつけた。一瞬気が遠くなり、悲鳴すら出なかった。

 痛みに顔をゆがめながら、なにが起こったのかと理沙は周囲を見るが、暗くてよくわからない。取り落としたLEDライトが近くに転がって見当違いの方向を照らしていた。

「鳥野さん」

 京一郎の苦しそうな声に、振り向く。

「野浦センパイ!」

「大丈夫かい?」

 京一郎が手を差し出していた。理沙はその手をつかむと立ち上がる。大きな手の感触に、天にも昇りそうな気持ちになったが、その余韻に酔っている場合ではなかった。

 今のは、いったいなんだったのか――。単なる自然現象だとは思えない。

「今のは……?」

 京一郎はライトの光を周囲に巡らした。光が、なにかを求めて目まぐるしく動き回った。

 そして――。

 光が異形の生き物を捉えた。それは、白い獣だった。狼のような外観だが背中にはまるでグリフォンのような翼があり、額からはユニコーンを思わせる一本の角が生えていた。まさしくこの世ならざる姿だったが、神々しく、近寄り難いオーラを発していた。

「なんだ、あれは……」

 初めて目にする異界の獣に、京一郎は驚きのあまり絶句した。目をこすり、見えているものが信じられない。

 初めてなのは理沙も同じだったが、京一郎と違い、その正体がなにかはわかった。

 ――月神獣!

 あの姿形。間違いない。伝えきいていたそのままの姿だ。だがなぜここにいるのか……。

 そして理沙は、瞬間的にその理由に思い至った。

 ――まさか、家出の原因というのは……。

 まさかとは思ったが、それが一番あり得そうだった。置き手紙にあった「守りたいもの」というのがあの月神獣だとするなら、すんなりと理解できる。

 しかし理解はできても信じ難かった。月神獣は、月野町商店街の人々――理沙自身その血をひく月神人が、何百年も間代々戦ってきた相手である。命懸けで地球への侵入を防ぎ、月読山の頂の結界内に閉じ込められているはずの月神獣――それが今、目の前にいる。月神人として父親の跡を継ぐことはないと決めつけていた理沙にとっては、一生相まみえることはないだろうと思っていたのだが。それがどうして……。航聖が結界の外へ出したとは考えられず、けれどもなんらかの事情は知っているだろうと思えた。

 月神獣がこっちを睨んでいた。赤く輝く眼が敵意をみなぎらせていた。

 さっきの衝撃は、あの月神獣だ。

 まずい、と理沙は思った。月神獣の強さは聞いていた。月神人の魔力がなければかなわない。

 一方、京一郎はあまりのことに動けないでいた。非現実な光景に混乱しているのだ。弟がすぐ近くにいて、この獣から救けなくてはならないが、どうやったら救けられるのかわからないのだ。

 それはしかし理沙も同じだった。月神人としての能力のない理沙が月神獣に立ち向かえるわけがないのだ。

 月神獣が跳躍した。雑木林の木々の間を縫って、白い体が風のように接近する。

 あっと思ったときには、もう月神獣の鼻先が目の前にあった。

 ――やられる!

 反射的に理沙は体の前で腕を交差させた。

 そこへ飛びかかる月神獣――。

 が――。

 月神獣と理沙たちが接触する直前、フラッシュのような強烈な光が理沙の体から発せられた。次の瞬間、月神獣はなにかに撥ね飛ばされ、後方へと落下した。木の枝が折れて葉が舞った。

 次の瞬間、理沙は――三メートルほど空中に浮いていた。そして、起き上がろうとする月神獣を見下ろす。無表情で、その眼は異様な光を放ち、べつの魂が憑依したかのように、さっきまでと明らかに様子が違う。

 再度飛びかかろうとする月神獣に向かって両手を突き出した。すると、手の先から幾筋もの光条がほとばしった。それは鞭のようにしなり、月神獣の体に巻き付いた。ロープで縛られたかのように動けなくなり、悲鳴をあげる月神獣。

「お姉ちゃん!」

 航聖が、銀次郎とともに血相をかえて駆け寄ってきた。もがく月神獣のもとへたどり着くも、そこで立ち尽くしてしまう。

 航聖が理沙を振り返った。

「お姉ちゃん、やめて。シロを殺さないで!」

 泣き顔で訴えた。

 すると、空中に浮かぶ理沙の顔に人間らしい表情が戻った。月神獣の前に立つ航聖を見た。

「航聖……」

 理沙はそこでやっと我に返った。自分のやったことと、今の状況を瞬時に理解した。常識的思考がはたらいて、理沙は空中に浮いているのが信じられない。

「きゃあ!」

 そう思うと、もう浮いていられず、落下した。下生えの上にしりもちをついた。

「ててて……」と打った場所をさするのももどかしく、理沙は周囲を見回した。

 京一郎は少し離れたところで腰を抜かしていた。無理もない。初めて月神獣と遭遇し、しかも理沙は……。

「野浦センパイ……」

 理沙は思い出して、そっと呼び掛けた。

 京一郎の顔は青ざめていた。しかしそれは、木立の間から照らす満月のせいばかりではなかった。




   §



 月神獣に向けて槍を突き出しながら、勇樹の心は別のことに及んでいた。

 町興しである。しかしただでさえ魔力が弱いというのに、そのうえ集中力が落ちていては月神獣を倒すどころではない。当然のことながら向かっていっても軽くあしらわれ、地面にへたばった。

「鳥野さん、さがっていてください!」

 加勢が来た。勇樹は這いながらその場を離れる。少し離れたところで、槍で体を支えながら立ち上がった。仲間の奮戦を冷静な思いで見守っているうちに呼吸が整ってきた。

 自分に戦いが向かないのははっきりしている。そうであるなら、余計にべつの貢献をしなければ釣り合わない。いつまでも足を引っ張る木偶の坊では情けない。

 とはいえ……。

 これをどうやって町興しに使う? 目の前で繰り広げられている流血バトルの激しさはシャレにならない。日本各地には、ときには死者もでるほどの激しい祭もあるが、それらはあくまで神事であり、危険は予測の範囲内だ。

 戦さを表現した古からの伝統儀式とはわけが違う。これをそこまで昇華できるかと問われたら、たしかに皆が言うように、ちょっと無理ではないかと思う。

 まったく違うアプローチで考えないといけない。しかしいったいどうすれば……。

「鳥野さん、危ない!」

 左手方向から声がかかった。振り返ると、一頭の月神獣が倒れかかってきた。魔力攻撃を受けたのである。

 勇樹はたまげて飛び退こうとして足がもつれた。それでもなんとか下敷きになるまいと這うように逃げた。寸前で接触を免れたが、そのとき足をひねってしまった。痛みに顔をゆがめていると、声をかけた仲間がかけつけてきた。

「大丈夫ですか」

 喫茶だるまのマスター、香川である。まだ若い。先代のあとを継いで月神人となったのは昨年だが、魔力は強力で早くもベテラン組にも劣らぬ月神人の主力となっていた。

「すまない。考え事をしていた。また迷惑をかけてしまった」

 立ち上がろうとしたら足首の痛みでふらついた。槍で体を支える。

「町興しを任されるなんて、鳥野さんも貧乏くじを引きましたねぇ」

 香川は同情し、倒れて動かなくなった月神獣を見ると、

「なにかいいアイデアでも浮かびましたか?」

「いや……」

 勇樹は正直にこたえた。どういう方法があるだろうか、見当もつかない。任せられても、できるかどうか暗中模索である。しかし、誰かが指揮棒を振らなければ町興しは実現しないし、商店街も活性化しない。

 ――いったいどうすればいいだろう。

 勇樹は唇を噛んだ。



 本日も大勝利である。三頭の月神獣を倒した。負傷者は軽症がただひとりである。その一人は勇樹だったが。

 片足を引きずりながら、勇樹は仲間とともに山を下りた。戦傷といえば聞こえはいいが、実際は自身の不注意だったから、きまりが悪かった。

 帰ったらよく効く膏薬を調合しよう、と勇樹は痛む足を気にしつつ、家に向かう。

「ただいま」

 玄関に入ると、なにかいつもと空気が違った。家族以外の気配を感じた。それは人間ではない、なにか――。邪悪ではないが、乱れた感情……。

 勇樹は首をかしげつつ、奥へと入っていった。壁に手をついて、ひねった足になるべく体重をかけないように居間へ入った。そして、そこにいるはずのないものを見て、瞠目した。

「月神獣じゃないか!」

 居間の端にうずくまっているのは、柴犬ほどの大きさの、一頭の月神獣だった。ついさきほどまで命懸けで戦っていた相手である。

 それが自分の家にいるという事態が飲み込めなかった。目の錯覚か、それとも疲労のせいか。ここにいるのが本物なら、月神人はその侵入を防ぎきれなかったということになる。だがいつの間に……。すべての月神獣を倒したと思っていたのだが、包囲網を突破されてしまったのか。

 それだけではない。そもそもなぜうちにいるのか――。

 人間とは相容れない月神獣が人間の家にいる。

 ――いったい、どうなってるんだ?

 呆然と、なすところを知らずつっ立っていると――。

「待って、お父さん!」

 航聖が飛びついてきた。

「シロを殺さないで!」

 と必死に訴える。

「シロ……?」

 勇樹は状況を理解した。この件には航聖が大きく関わっているらしい、ということ。そして、シロとはこの月神獣を指しているのだということを――。

 見れば、月神獣はおとなしくしており暴れだすような気配はない。いっしょにいる直美と理沙も落ち着いている。もっとも、落ち着いてはいても不安げであるが。

 とにかく事情を聞こうと、勇樹はすわった。

 警戒しているのか、うずくまったまま目で勇樹の動きを追う月神獣。

「いったい、これはどうなっているんだ?」

 勇樹は訊いた。

「なんで月神獣がここにいるんだ?」

 勇樹を除く家族全員がすでに事情を知っているようだった。



 航聖がすべてを打ち明けてくれた。それで勇樹が知ったのは、驚くべきことだった。話の途中で航聖は何度もシロの保護を求めた。

 航聖がシロを大事に思っているのはわかったが、月神人としてそれは認め難かった。月神獣の侵入を許したとあっては、先祖代々守りぬいてきた秩序が保たれない。商店街の月神人たちの耳に入れば大挙して押しかけてくるだろう。

 勇樹は頭を抱えた。

 それでなくとも、町興しという難題を抱えているのだ。この上もう一つ厄介な案件を抱え込むことになるなんて。

 勇樹は腕組みをし、考え込んだ。犬のようにうずくまる月神獣を見つめた。ついさきほどまで戦っていた相手である。航聖の説明を聞いている間に直美に湿布してもらった足首の痛みを思いつつ、勇樹は複雑だった。目の前にいるこれと毎月戦い、その肉を日常的に食べてきたのである。航聖のように、ペットあるいはそれ以上の対象として見たことはただの一度もなかった。人喰いザメをペットにする感覚に等しい。しかも人語を解するという……。

 航聖の話だとある程度のコミュニケーションができるらしい。警戒して今は話さないが、ということのようだが。

 ひょっとしたら……。

 勇樹の頭のなかで、探していたジグソーパズルのピースが見つかったような感覚があった。

 シロは使えるかもしれない――。

 どうにも八方塞がりだった町興しの手段として。もちろん、リスクはある。失敗するかもしれない。そうなれば収拾がつかなくなる恐れもあった。

 だがついさっき経験した防人ノ儀を思い返すに、思い切った方法でもって対処しなければ町興しなど成功しないだろうとも思った。

 で、どうするか――。

 おそらくシロにひと働きしてもらうことになるだろう。だが具体的になにを、というと皆目思いつかなかった。

 ならば、まずやるべきことは――。

「なぁ、航聖」

 勇樹は息子の頭をくしゃっと撫で、

「シロと話をさせてくれないか」

 航聖は父親の意図がわからずまだ不安そうな顔をしている。

「シロを殺さない?」

「父さんが全力で守ろう。それにはシロにも協力してもらわなきゃならないがな」

 航聖の顔にやっと明るさが戻った。



 それにしても、まさか月神獣と会話することになろうとは――。

 航聖の話では、シロは二ヶ月前に拾い、そのときは今よりずっと小さく、どうやらまだ子供だったようである。今が大人なのかはどうかはさておき、ともかく話をし、それを参考に今後の対応を考えるのだ。

 シロと航聖に向かい合って勇樹はすわった。航聖がシロの背中を撫でる様は、飼い犬を可愛がっているかのようである。

 時計は午後十時を回っており、これから話をしようとなると真夜中になってしまいそうだった。勇樹はともかく、航聖はいつまでも起きているわけにもいかず、かといって航聖抜きで話をするわけにはいかない。なにしろシロが心を許しているのは航聖か、航聖の友だちの銀次郎だけなのだから、そばに航聖がいなければシロは警戒してスムーズな意思の疎通は期待できないだろう。そこで本格的な打ち合わせは明日にし、今夜はシロに今の状況を説明し、危害を加えることはないからと、安心して眠ってもらうことにした。なにしろ月神獣なのだ、家のなかで暴れられては困る。

 シロの寝床は航聖の部屋に作った。とりあえず毛布を敷いて。いっしょにいればシロも航聖も安心するだろう。ここまでの間に、いろんなことがあって疲れているだろうし。

「あなた、本当に大丈夫なの?」

 子供たちが二階の部屋へ引き上げ居間が静かになると、直美が心配そうに言った。家の中に月神獣がいるというのはなんとも奇妙な感覚だった。

「これは僕の挑戦だよ」

 勇樹はダイニングテーブルにつき、肩肘をついてコップの底のビールの残りを飲み干した。防人ノ儀の後は、無事にお勤めを果たせた意味で晩酌をするのだが、今夜はホッとできる気分ではない。

「何百年もつづいた月神人の歴史が変わるかもしれないわけだからな」

「あなた一人が抱え込むような問題じゃないでしょうに……」

 直美は空のコップを流し台へと持っていく。

「いや。航聖が関わった以上、これは僕がケリをつけなきゃならない」

「…………」

 直美は黙った。夫がこれほど大きな仕事を成そうと決意しているのを見るのは初めてで、それに水を差すようなことを言うのはためらわれた。もちろん心配である。生来穏やかで、口角泡飛ばすところなど見たことがなかったし、そういう性分だから結婚を決めた。体を使うことは苦手で、しょっちゅう怪我をして山を下りてくる――今日もそうだ――とてもではないが、後世に名を残すような大仕事ができるとは思えない。だから不安でしかたがない。

「さ、今日はもう休もう。明日は土曜日だから小学校は休みだし、航聖を交えて朝から始められる」

 勇樹な椅子から立ち上がる。

 月神人が月神獣を保護するなぞ、まさしく前代未聞。あり得ないことである。月神人の本分をわきまえぬ不祥事といっていい。発覚すればどのような仕打ちをされてもしかたがない行為だ。

 だが、その毒を逆手にとって、災い転じて福となす、という諺を実践するのである。

 勇樹が生涯味わったことのないキワドイ計画になろう。それでも、覚悟を決めた以上は……。



 翌朝。

 朝食後に、すぐに始めることにした。

 勇樹たち一家はいつもの純和食の朝食。味噌汁に納豆に玉子焼きを直美が用意したが、シロは何を食べる?

 月神獣が魔草を主食とすることは知っていた。

 今でこそ一般医薬品を扱っているが代々漢方薬店を営んできた鳥野家は、月読山で魔草を採って漢方薬の材料にしていた。月神獣の体についてきた異界(月読郷(つくよみきょう)と呼ばれている)の植物の種が発芽して育ったもので、それでつくる漢方薬は万能薬として古くから売られていた。もちろん他にはない特別な薬である。店の薬箪笥には、魔草のストックがまだあるはずだった。ところが、

「シロは、キャベツが好物なんだ」

 などと航聖が言うのである。

「えっ?」

 月神獣は魔草しか食べないものだと思い込んでいた勇樹は一瞬驚くが、

「そうか、わかった」

 と納得した。二ヶ月の間、航聖らに育てられ、人間の食べ物をもらってきたのだ。キャベツを食べたとて不思議ではない。

 冷蔵庫の野菜室にあった半分に切ったキャベツをシロの前に置いた。

 生のキャベツをむさぼり喰うシロの姿は、さながら動物園の草食獣を見るようで、実に平和な光景だった。

 いつもと違う雰囲気での朝食が終わると、一階の居間で勇樹は、航聖、シロと差し向かった。直美と理沙は席を外した。必要以上のプレッシャーをシロに与えないためだった。慣れていない人間が何人もいては警戒心をとかないかもしれない。特に理沙はシロを捕らえたということで、その魔力を怖がるだろうし。

 理沙に月神人としての能力が備わっていたことには驚いたが、それが将来の懸念材料になりそうなのは、気にはしつつも今はそれを棚上げにした。それよりも目前の問題に全力でとりくまなければ。

「まず、昨日話してくれた話を確認するところからしよう」

 と勇樹は言った。昨日の時点でわかったことを時系列順に挙げ、紙に書いてつまびらかにする作業をおこなった。主観や想像を排除し、事実だけを列挙していった。それによって先入観や思い込みをなくし、可能性の幅を拡げるのである。人間、長年の習慣で、つい自分の考えを混ぜてしまいがちだから、なかなか難しい作業だったが、航聖がシロを拾ってからうちに連れてこられるまでの二ヶ月間が明確化された。航聖が掟を破って月読山に入ったことは、本来叱るべきなのだろうが、今は不問にした(声を荒げてシロを怯えさせてもいけない)。航聖の記憶があいまいな部分もあったが、まずはこの情報だけをもとにスタートした。

 次に、勇樹はシロからできるだけ月読郷の情報を得ようと考えていた。

 月読郷については伝承しかなく、その上だれも行ったことがないので、月読郷の正確な姿はまったくわからなかった。そもそも、月神人と月神獣との攻防は、なぜ数百年もつづいているのか――。しかもいつも月神人側が勝利している。過去にはきわどい戦いもあったというが、月神人側の勝率は異常であり、カエルがヘビに勝てないかの如く、月神獣にとって月神人は天敵のようだった。しかしそれはなぜなのか。月神獣側にしても、いつまでもやられっぱなしで、特に戦法を変えるという知恵すら見られない。そのことを不思議に思ったのは、もちろん、勇樹だけではない。月野町商店街に生まれ、防人ノ儀を知る者はだれでも一度は必ず疑問に思うのだが、月読郷へ行くことが不可能な以上、明確なこたえが得られるわけもなく、そのうち「そんなものだ」と納得し、あるいは納得したフリをして抱いた疑問を忘れた。

 だからシロの存在は、先祖代々からの疑問を解決しうるキーといえる。むろん、月読郷の謎を紐とくのが目的ではないから、それを知った上で、どういった町興しができるのかを考え出さなければならない。そこまでしてやっとシロの存在を商店街の月神人たちに公開できるだろう。そのとき、月神獣を匿っていたことを糾弾されるかもしれないが、結果が出れば許してもらえるだろう。逆にアイデアに困り煮詰まった場合、勇樹の立場は一層悪くなる。ハイリスク・ハイリターンという、これまで賭け事に無縁で生きてきた勇樹に似合わないやり方だった。アイデアが固まったら固まったで、次はそれを実現させるまでもっていくプロデューサーをも務めなくてはならない。勇樹の胸に徐々にプレッシャーが押し寄せてきた。

 勇樹はペン先をノートに当て、シロに問うた。

「では、次は月読郷のことを教えてくれるかい? 最初に、シロの身近な月神獣について教えてくれ。どんなのがいる?」

 シロは勇樹とのやり取りに慣れ、スムーズに返答してくれるようになっていた。

『ぼくの仲間は、たくさんいるよ』

 人間の声とは違う、電気的に合成されたような声は、二十世紀に作られた映画に登場する宇宙人のようだった。

『みんなタマゴから生まれるんだ。ぼくもタマゴから生まれたよ』

 勇樹は口述筆記する。ここからは未知の領域だ。実は昨日からずっと聞きたくてしかたがなかった。

 月読郷になにがあるのか――。

「みんなって、どれくらい?」

 シロは、考えているのか、しばらく黙り、

『わからない。とにかくいっぱい。大人になったら、地球へ行く。ボクは地球がどんなところか知りたかった』

「まってくれ。地球に行った仲間たちがどうなったか、知っているのかい?」

『知らない。帰ってこないから』

「怖くなかったの?」

 勇樹は重ねて訊いた。興奮に、声が上ずった。質問が泡のように頭に浮かんだが、落ち着け、と心に言い聞かせ、ゆっくりと問う。

『怖いって、なに?』

 シロはこたえた。

「シロはぜんぜん怖がらないんだよ。台風のときも、怖くなかったんだって」

 航聖がすかさず補足した。

 月神獣には恐怖という感情が存在しないのかもしれない。月神獣との戦いを思い返し、勇樹はうなずいた。月神人が圧倒しているにもかかわらず、なおしぶとく立ち向かってくる月神獣の行動は、恐怖を感じないからだとすれば納得できた。

 わかった。それじゃ、と勇樹はさらに質問した。

「大人になるまで地球に行けないの? それとも行こうと思わないの?」

『だれが行くかは長老が決めるの。決まるまでだれも行かないよ』

 ということは、長老というリーダー的存在があり、ある程度の社会が成立しているといえる。

 勇樹はサルの群を思い浮かべた。その程度のレベルだと瞬間的に思ったからだ。いくら会話ができるとはいえ、人間ではないのだから、とオオカミに似た姿形に知的生命体であるという気持ちを抱けなかったのである。

「長老には会ったことはあるの?」

『ないよ。偉い月神獣だから』

 人間は月神獣と呼んでいるが、かれらはかれらで自身の呼び方を持っていた。しかし月神獣の言葉は人間には聞き取れなかった。まるでうがいをしているときのような声で、音の違いがまったくわからなかった。だから「月神獣」という人間の呼び名を使っていた。

「普段、長老はどこにいるの?」

『大きな家だよ。そこには何人か住んでいて、みんな偉いんだけど、長老が一番偉い』

 殿様と家老、その他実力者がいる城のイメージ。各自が役目をもっていると想像された。

「なんのために、長老は地球へ行けと言うか、知ってる?」

 シロはしばらく黙った。二、三秒という間をあけて、口を開いた。

『人間と戦うため……』

 その直接的なこたえに、勇樹は唖然とした。

「なぜ人間と戦うんだろ。その理由は知ってる?」

 肝心なところである。人間側は、地球を守るためという大義名分を掲げて月神獣と戦ってきたが、そもそも月神獣の目的は地球の支配なのだろうか。もしそうだとしたら、大軍を投入して月神人を駆逐しようとしてもよさそうではないか。数百年もの間、わずかな手勢で攻め込んでばかりなんて能がないにもほどがある。子供向けのヒーロー番組に登場する悪の組織でももう少しマシな作戦を考える。月神獣は、まるで負けるために出現しているようだ。おそらく今後もその戦法に変化はないだろう。これでは地球の支配どころか、たった一つの拠点を作ることすら永久にかないそうにない。ということは、月神獣の目的は、人間が思っているような「地球の支配」または地球におけるテリトリーの確保なんかではなく、まったくべつのものであるのかもしれないし、その可能性は高そうだった。過去にも、そう考えた月神人もいたろうが、月神獣とのコミュニケーションがとれなかったため、検証することができなかった。その機会が、今、目の前にあった。

 勇樹はシロのこたえを待った。

『それは知らない。ボクはそれを知りたくて門を通ったんだ』

 勇樹は内心肩を落とした。

 シロは子供である。月読郷の事情に詳しくないとしても、仕方ない面はある。情報を聞き出そうといくら頑張っても、大したことは聞き出せないかもしれないわけである。

 ある程度月読郷で成長した月神獣なら、大人の言う言葉が理解できるだろうが、子供のシロではそこまで上位の情報に触れることは少ないのだろう。

 できるだけ聞き出して対策を考えようという方向性はかわりなかったが、現実には難しい気がしてきた。

 勇樹両目を閉じ、しばし黙考した。

 そこへ引き戸をあけて直美が入ってきた。

「航聖、銀次郎くんが来たわよ」

 勇樹は目をあけた。

「それじゃ、休憩にしよう。友だちにここへ入ってもらいなさい」

 言って立ち上がると、リビングを出ていった。



 直美に代わって漢方薬の匂いに満たされた店に降りた勇樹は、カウンターの後ろの丸椅子に腰を下ろし、深くため息をついた。

 今さらながら事の難しさを感じていた。月神獣からの情報を統合、分析すればなんらかの対応策がひねり出せるかと思ったのであるが、そう簡単ではない。もちろん容易いとは思っていなかったが、予想以上に困難だ。次の手を考えねば……。

 ――だが、さて、どうする?

 最終的な目的は町興しだ。そのためには月神獣との平和的対話が必要となる。それには月神獣を知らなければならない。

 勇樹はノートをカウンターに広げ、今しがた書いたメモをひと項目ずつ丁寧に黙読した。

「鍵は月神獣の長老か……」

 そしてつぶやいた。

 月神獣の行動は、長老か、もしくは長老を中心とした意志決定機関が支配しているようである。となれば、そこと話をしなければ先へは進めない。月神獣との何百年にもおよぶ戦いに終わりは来ないというわけである。しかし逆にいえば、そこと話をしさえすればいいということになる。問題はどうやって、そこまで持っていくかである。

 勇樹はこめかみを指先で押さえ、両目を閉じた。

 客の来ない静かな店内に、壁にかけた時計の秒針が動く規則正しい音が、やけに大きく聞こえた。

 一分半ほどして、勇樹はペンをとり、考えを整理するべくノートに向かった。



 その夜――。

 昨夜の戦いの後が生々しく残る月読山の頂上に、数人の人影があった。月に一度、満月の夜のみにしか立ち入りを許されていないため、だれもいるわけがない――それが月神人の掟だった。

 それを知っていながら、そこにいた。昨日傷めた足を引きずりながらやっとの思いで頂上までたどり着いた勇樹は、後ろを振り返る。父親の後につづいて登ってきた航聖と、その親友・銀次郎の二人が、神妙な面持ちで勇樹を見返し、さらに後ろを振り返った。

 子供たちのすぐ後から登ってきていたのは、オオカミに似た生き物だった。

 ――月神獣・シロ。

 今はまだ子供であるが(聞き取りでそれがわかった)、将来、運命が狂わなければ勇樹たち月神人と戦うことになるはずの月神獣は、月の光を浴びて白く輝き、額から生えた一本の角が天を向いていた。

「着いたぞ」

 勇樹が顎をしゃくった先には草を刈られた広場があり、燃え尽きたかがり火がいくつも立ち、あるいは倒れており、昨日の戦いの痕跡を晒していた。その広場の中央には石造りの小さな祠が静かにたたずんでいる。昨夜、ここから月神獣が出現したのだ。

 間近でその光景を見ていた勇樹は、今日も月神獣が現れるのではないかという錯覚を覚えた。中天に蒼く光る月は昨夜の満月と変わっていなかったし、祠を取り囲むかがり火も大勢の月神人もいなかったが、この空間が発する独特の霊力のようなオーラが依然として強く感じられて。

 だがもちろん、今夜月神獣が現れることはない。月読郷との通路が開かれないからだ。それが開いて月神獣が現れるのは満月の夜で、しかも一度現れたら、次の満月――月が欠けてまた満ちるまで開かれない。それは法則のように大昔から変わらなかった。今夜もまだ満月だったが、そういう理由で今は静かな山頂だった。

「ここまで登って来たはいいが……」

 勇樹は心配だった。

 ――果たして、今夜シロは月読郷に戻れるのだろうか。

 なにしろ昨日通路が開いて、普通なら次に開くのはひと月後なのである。通常のタイミングを外れて月神獣が通路を通ることができるのだろうか。しかも地球から月読郷という逆方向に。

 しかし今日という日をおいて他になさそうであるのも確かだった。月神獣ももちろん魔力を持っていて、それは月神人と同じで満月のときに最も強くなる(これも聞き取りで判明した)。通路を通るには魔力が必要だろうから、それが強くなる日を選んだほうがいいと結論できるだろう。とすれば今日が最適であるといえるのだ。明日、明後日となれば、月は欠けていき、魔力もそれにしたがって弱くなり、通路を通るのも難しくなると思えたからだ。

「さ、シロ。行ってくれ」

 と勇樹はシロをうながした。

 一か八かの策だった。

 勇樹の考えた作戦はこうだった。

 月神獣側の主義はどうあろうとも、ともかく人間側とコミュニケーションをとり、一時的にでも休戦して話し合いのテーブルについてもらい、これまで数百年も間、一度として開かれなかった月神獣と月神人との会談を執りおこなおうというである。そのためには人間側の意志を月神獣側に伝えなければ始まらない。幸い月神獣の社会には長老を頂点とした意志決定機関が存在することがわかったから、そこへメッセージを届けることができれば、会談実現の可能性も見えてくる。

 そこでシロに使者を務めてもらおうというわけなのだった。月神人が行くことはできなかった。物理的に可能か不可能かという以前に、リスクが高すぎた。人間を殺す理由がはっきりしない以上、身を守る手段がとれない。地球へ戻れなくなるかもしれない。

 そのてんシロなら月神獣であるし、なんの問題もない。ただし責任は重大だ。最終的には町興しの呼び物にまで昇華させようという途方もない計画の第一段階を全面的に任せるわけなのだから、まだ子供といっていいシロには荷が重いといえよう。そもそも勇樹のそんな意図をシロが正しく理解しているのかどうかという不安もある。かといってだれかを同行させるわけにはいかない。シロとの信頼関係を築いている航聖や銀次郎は、シロにとっては心強いだろうが、子供たちに危険を冒させるわけにはいかない。

 そして勇樹はこうも言った。たとえ失敗したとしても、決してシロを責めたりしないよ。長老がシロの話を聞かなければ、あるいは耳に入っても黙殺されてしまっては、シロにはどうすることもできないだろう。勇樹はシロの立場を慮って、そう言ったのだった。なんといってもシロは子供だ、まともに相手をしてくれない可能性は十分にあった。人間の社会のよりも寛容なことを祈るばかりである。

 シロは前へ進み出た。

「シロ……」

 航聖が悲しげに声をかけた。今回のことを勇樹に説明され、説得に応じた航聖と銀次郎だったが、もしかしたらこれがシロとの永遠の別れとなってしまうかもしれないのだと思うと、心が揺れた。もちろん、大きくなっていくシロをいつまでも秘密で飼う――というか暮らすわけにはいかないとわかってはいた。しかしこんなに早く……。

 シロは振り返った。

『大丈夫だよ、航聖。ボクは必ず戻ってくるよ。ボクの友だち、航聖と銀ちゃんに、また会いたいもん』

 シロの赤い瞳が、強い決意をたたえて二人の少年を見返した。

「シロ、信じてるからな。がんばってこいよ」

 銀次郎が涙声で言った。

『うん。まかせて』

 シロは正面に向き直り、石造りの祠へと一歩ずつ歩む。

 勇樹は不安を隠しつつシロと祠を見つめる。はたして通路を通ることはできるのたろうか。地球へ来たときのように、帰ることもできるのか――。人間は過去それを試みたことはない……。

 やがてシロは祠の前で歩みを止める。祠の上の空間を見つめると、額の角が妖しく光りだした。それは魔力を宿した、神妙な光だ。

『じゃ、行ってくるね』

 四肢を折って姿勢を低くし、まるで獲物に飛びかかろうかという体勢のシロは、次の瞬間、大きく跳躍した。祠の上の空間に至ったとき、シロの体は夢でも見ているかのように消滅した。あっという間だった。

 シロが消えて、山の頂上に日常が戻った。祠は依然として魔力の気配を漂わせてはいたが、そこに月神獣がいたとは思えないほどごく普通の景色が満月に照らされたたずんでいた。

「行っちゃったね……」

 航聖が勇樹を見上げた。

 ああ、と勇樹はうなずいた。

 結果がどうなったか判明するのは、早くとも次の満月だ。

 勇樹は心の中で言った。

 ――頼んだぞ、シロ。


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