第2章 『9月』
夏休みが、さまざまな思い出や名残惜しい気持ちを引きずりつつ、終わった。
新学期。しかもいきなり月曜日で、ほとんどの生徒は気が重く登校していた。中学生ともなれば、部活のほかにも大量の宿題をこなしたり受験用の夏期講習に参加したりで、遊んでいる間もなく忙しく、気がついたらひと月半はすぎさっていた、あるいは、これといった具体的な目標もなく、なんとなくだらだらと過ごしているうちに九月がやってきてしまったとか……。
鳥野理沙は、年々暑くなっていく夏がようやく終わるのかと少し安堵しながら、学校までの道を黙々と自転車をこいでいた。九月とはいえまだまだ暑いには違いなく、白いヘルメットの下で髪の毛が蒸れてしまいそうだった。
家から学校まではおよそ十分。クラブ活動に参加していない理沙にとって久しぶりに通る道だった。夏休み直前に鳴り響いていたセミの鳴き声も途絶え、すっかり伸びきった田んぼの稲は花を咲かせていた。
みんなどんなに日焼けしてるかな、などと理沙は久々に会う友だちを想像する。夏休みを境に急に変わってしまう人もいるかな?
学校が見えてきた。鉄筋コンクリートの三階建ての校舎が左折した道路の向こうに現れた。周りは田んぼとまばらな人家のため遠くからでもよく見えた――見えてはいるけれど、校門まではまだ五分程度かかった。
前後に同じ中学指定のヘルメットをかぶる自転車通学組。学校が近くなってくると、あちこちから集まって、さながら中国の通勤風景のよう。
吸い込まれるように校門から入っていく自転車の群が自転車置き場へと流れていく。理沙もその流れに乗って指定された場所に停める。施錠。
「おはよう!」
いきなり声をかけられた。
全校生徒の約四分の三が自転車通学ということもあって、塀に沿ってL字型に作られた自転車置き場は広大で、クラスごとに停める場所が決まっていた。クラスメイトとは同じ枠内に停めることになるから、いきなり知っている顔と会うことになる。
振り返ると、同じクラスの霧山千景だった。
「久しぶり!」
明るく返事をした。
仲のよかった友人と最初に会えたことで、新学期ブルーだった心がいくぶん晴れた。学校へ行く意味が、それぐらいしかない理沙だった。
「ずいぶん日焼けしたんじゃない? 部活で?」
「まあね」
千景はバレーボール部に所属していた。毎日毎日、練習に明け暮れていたに違いない。クラブ活動していない理沙は、なにかやることないの、と千景に言われたこともあったが、具体的になにかというのがなくて茫漠と日々を送っていた。
「千景……?」
と、そのとき、自転車置き場にひょっこりと見知らぬ男子生徒が顔をのぞかせた。長身で、千景と同じように日に焼けした笑顔の歯が異様に白かった。
「紹介するわ。松岡くん。で、その……」
「まさか、あんた――」
理沙は絶句し、それからにやりと笑みを浮かべると、二の腕を千景の首に巻きつけた。みなまで言わずともこの状況でわからないわけがなかった。
「どういうことよ。ええ?」
「えへへ……。実はそうなの」
と、照れくさそうに千景。
「やったじゃん!」
理沙はつんつんと横腹をつついた。
「どうしてこうなったのさ。教えなよ」
まさかこんな絵に描いたような体育会系のボーイッシュに彼氏ができるなんてまったく予想していなかった。現実に目の前に現れてみてもなお信じがたい。というより、この夏休み、自分はなにをやっていたんだろうと翻ってみて新学期早々ちょっぴり自己嫌悪。
「ま、そのうちね……。遅れるわよ」
ごまかして、さっさと彼氏と校舎へ入っていく千景。
それを追いかけながら、今日から学校が始まるという憂鬱さが戻ってきたような気分の理沙だった。
昭和に建てられた古い校舎は酸性雨で汚れた壁面が陰気くさかった。生徒用玄関から入って、久しぶりに開ける自分のロッカーに脱いだ通学靴を放り込み、洗っても汚れの落ちきれなかった上靴に履き替えた。すでに千景は廊下から二階の教室へと階段を上っていくところだった。もちろん彼氏と肩を並べて。
――どのクラスだろう?
松岡。理沙の知らない顔だった。もちろん同じクラスではない。では学年は同じかというと、とっさのことで名札をちゃんと確認できなかった。この学校では名札の色で学年が区別されているのだ。一年が緑、二年が青、三年が白。
理沙が階段を上がりきると、歩いていく二人の背中が廊下の先に見えた。
夏休み中、理沙と千景はメールでときどき連絡を取り合っていた仲だったが、彼氏ができたなどとはまったく知らせてこなかった。
――気をつかってのことなのだろうか。それともなんとなく気恥ずかしかったからなのか。
千景の心理を想像していると、友人は先に二年三組の教室に入っていく。ボーイフレンドの松岡はそこからさらに先へと進んでいく。
校舎の同じ階には同じ学年が入っていて、二年生は四クラスあったから、ということは、松岡は二組か一組……。
廊下には登校してきた生徒が大勢歩いており、注意して見ていないと同じ制服に紛れて見えなくなってしまう。
「おはよー! 元気だった?」
いきなり後ろから抱きつかれた。
ひゃっと叫んで振り向くと、クラスメイトのカーチス真由美だった。名前からわかるように外国人とのハーフである。父親が外国人。だが本人は日本で生まれ日本国籍で日本語のほうが得意だ。
「そんなにびっくりすることないじゃない」
日本人離れした茶色い髪の真由美は、理沙の過剰な反応に驚くが、理沙はそれどころではなかった。おかげで松岡を見失ってしまった。
?マークが頭上に浮いていそうな顔の真由美に向かって理沙は言った。
「ちょっと考え事してたもんだから。いや、そんなことより聞いてよ。千景に彼氏ができたんだって」
「え? ほんとに? だれ?」
「よく知らないんだけど、別のクラスみたいよ」
「ふうん……そうなんだ……聞いてみよ」
真由美はさっと教室へ入っていった。理沙も続いた。
教室は話し声で満ちていた。クラスの半数ほどがもう来ていて、誰もが約ひと月半ぶりのおしゃべりに夢中だ。夏休み中でもそれぞれがメールや電話で、あるいは直接会ったりしていたのだろうが、学校という環境が作り出す雰囲気は独特だった。もうすぐ体育館で始業式が始まるはずだが、それを知らせる校内放送はまだなく、それがあるまでのおしゃべりタイムだった。
カーチス真由美は教室の奥、千景のすわる窓際の席へと一直線に歩み寄ると、
「はーい。聞いたわよ、千景」
「ちょっと待って」
大きな声で話しかけられた千景は、あわてた様子で真由美を制する。
そこへ理沙が追いついた。
「あまり堂々と言わないで」
千景は二人に向かって言うのである。
「どうしてよ」
理解できない、といった顔の真由美。
「だって――」
そう言った千景の心理を理沙は理解した。ここで話題にされてはクラスじゅうに知れ渡ってしまう。駐輪場で理沙に紹介したのは理沙が友人だからであって、おおっぴらにしたいわけではなかったからだ。
もし自分が千景の立場だったら……と理沙は思った。初めての彼氏との間をやたらと冷やかされたくはなかった。理沙にもそれを具体的に思い描く相手がいたから――。
充実した夏を送っていた千景に比べてあまりに怠惰に無益に過ごしてきたのを理沙はすごく後悔した。
「わたしもなにかしてればよかった……」
などと独り言がついて出た。
「そうよ」
と、それを察した千景、「あんたも、ぼやぼやしてたら、先輩をだれかにとられちゃうよ」
「うん……まあ……」
理沙は気のない返事。
チャイムが鳴った。鳴り終わると放送が言った。
「始業式が始まります。生徒は全員、体育館に集合してください」
ぞろぞろと生徒たちが教室を出て行く。
「わたしたちも行きましょ」
千景がイスから立ち上がると風を残して歩き出す。
理沙と真由美も教室から出て行った。
校舎の外ではまだまだ熱い太陽がまぶしかった。
当面の目標は、いかにして野浦先輩に近づくか、という一点だ。まずそこをクリアしないことには次へは進めない。
だがそれは以前からわかっていた。すごくわかっていたことだった。にもかかわらず、理沙はなにもできないでいた。
野浦京一郎。三年二組、出席番号十五番。陸上部所属。
その名を知ったのは一学期が始まって間もなくことだった。各運動クラブは夏の県大会をめざして本格的な活動に入っていた。理沙の通う中学も新一年生を迎え活発に練習に励む生徒の姿が放課後、運動場や体育館で見られるようになった。
理沙自身はどのクラブにも所属してなかった。自分がなにをやりたいのかはっきりしなかったし、得意なものもなかったから。かといってレベルの高い高校めざして早くも受験勉強に勤しんでいるかというとそこまでの気負いもなく、つまりはなんの目標もなく毎日をそれなりに送っていた。が、だからといって焦りもなかった。友だちとつるんで毎日をそこそこ楽しく過ごして、それで満足していた。
そんな漫然とした日常に転機が訪れたのはゴールデンウィークだった。連休だからといってどこかへ行く予定もなかったところへ千景から電話、
「陸上競技場へ行かない?」
聞けば同じクラスの生徒が出場するのだという。そのクラスメイト、カーチス真由美はアメリカ人の父親とのハーフで、その恵まれた体型を買われ入学早々陸上部に勧誘された。その期待に応え一年生のときから代表選手として公式試合への出場を果たしていた。二年生になり、いよいよ上位入賞も狙えるかと話題にはなっていたが、理沙はあまり興味がなかった。クラス替えからひと月あまりでそれほど親しかったわけではなかったし、唐突な誘いにどうしようかと迷ったが、他に暇のつぶせそうな、中学生が楽しめるような気のきいたスポットがこの田舎町にあるわけでなし、誘いに乗ることにした。クラブ関係者に混じって母校の選手に声援を送るのもいいじゃないか。
その日、バスと鉄道を乗り継いで約一時間、田んぼの真ん中に忽然と建つ隣町のくたびれかけた陸上競技場へたどり着いた理沙と千景はさっそくスタンドに上がってみた。
快晴の五月の空の下にそこだけ異空間が存在していた。こんな場所に来るのが初めてだった理沙にとっては新鮮な眺めだった。
県内各地から集まった陸上競技の選手たちがトラック内で各種競技をおこなっていた。あちらで高跳び、こちらで幅跳び、トラック上では一万メートルだろうか、選手が一団になって走っている。手元にプログラムがなかったから、いつどんな競技が始まるのか、うちの学校の選手がどこに登場するのか全然わからない。
理沙は訊いた。
「ねえ、カーチスさんはどこにいるの?」
千景は、さっき自販機で買ったペットボトルの冷えたお茶を、喉を鳴らしながら飲むと、
「エントリーした競技は何種目かあったと思ったけど……それより応援団を探そ。そこなら詳しく聞けるだろうし」
ペットボトルのキャップをしめ、階段状になったスタンドを歩き出した。
あちこちから声援の飛ぶスタンドを歩き回ること十分、ようやく母校の一団と合流できた。
二十人ばかりの集団。横断幕もチアリーダーもない地味な応援団だった。本当に近しい関係者しかいない。理沙の学校だけではなく他校もそんなだった。その程度の大会なのである。
「なんだ、あなたたちも来たの」
体育教師が来ていた。赤いジャージの上下はいつもの授業のときと同じだが、心なしか今日は化粧が濃いような。髪もアップではなく後ろに流しているし。――二人がわざわざ来ていることが意外だったようだ。
「今日は予選だぞ」
本選ならともかく、予選から見に来るなんて。
「カーチスさん、どこに出るんですか?」
なにか言おうとする体育教師をさえぎって千景が聞くと、
「カーチスの応援か」
と合点して、「あいつは百メートルと二百メートル、走り幅跳びにエントリーしてるよ」
差し出された大会プログラムを受け取った。頭をよせあって二人して目を通す。
「カーチスはうちのホープだからね。女子は長年本選出場者を出せなかったから、私も期待しているのよ」
「あっ、走り幅跳びなら今やってるところじゃん」
プログラムから目を上げて、千景はアリーナを見る。
「カーチスの跳躍はもう終わったよ」
「なあんだ……」
「結果は?」
理沙が訊いた。
「暫定三位。なかなかの位置よ。このままこの位置をキープできたら本選出場となるんだけどね……」
あと五校も跳躍が残ってる、と体育教師。
「今、本人はどこにいるんですか?」
「あそこ」
先生の指差す先は向こう側のスタンドの下、トラックの外側だった。
「見えるかな。顧問の先生とベンチにすわって結果を待ってる」
理沙が小手をかざして見ていると、
「この分だとしばらくは競技には出ないようね」
千景がため息をついた。どうやらそんな感じ。プログラムによれば、女子の百メートルと二百メートルはもう少しあとのようだ。トラックではハードルの準備が進められているところだった。
突然まばらな拍手がなった。なにごとかと理沙が応援団のほうを見ると、生徒や保護者に迎えられて一人の長身の男子がやって来た。
みんなから、おめでとうおめでとうと祝福を受けている。
「一万メートルで予選を突破した三年の野浦くんよ」
体育教師が教えてくれた。
競技用のウェアから体操服に着替えていたから汗も引いて爽やかな印象。笑顔で祝福にこたえていた。
それが、理沙が野浦京一郎を知った最初だった。
もっとも、理沙は自分の感情を初めは理解していなかった。野浦京一郎を思う気持ちが日に日に強くなっていくのを不思議に感じていた。
放課後、校庭でランニングしている姿を毎日眺めてから下校しいるうちに、ああそうかこれが恋かと、そうじゃないかと察しつつもあからさまにはそう断言するのを躊躇っていた理沙は、しかしどう行動したらいいか、彼との接点がないために心にもやもやしたものを抱えるようになった。
先の予選からひと月、本選である中学陸上競技関東甲信越大会が開かれ、今度は学校をあげての応援団が組織された。参加希望者を募っていたので理沙は当然のように手を挙げた。カーチス真由美も期待通りに予選を突破し、二年三組から応援団に参加する生徒は多かったから不自然ではなかった。千景も参加した。
競技場で熱い声援を送ったが、理沙はすっきりしなかった。大勢のなかに自分の声はまぎれてしまい、野浦京一郎にとって理沙はその他大勢の一人にすぎなかった。
好成績を残し、みんなの喝采を浴びたカーチス真由美に対し、京一郎の成績はふるわなかった。しかしそんなことはどうでもよかった。この調子だと高校にあがればインターハイも夢じゃないね、と真由美を誉める千景の言葉も上の空だった。
どうしたらこの状況から発展させられるだろう? いきなり告白? そんな度胸はなかった。真由美に協力してもらう? 同じ陸上部なら紹介してもらうのもアリか。しかしそういうのもちょっと……。
なかなか前へ進み出せないでいるうちに日にちはどんどん過ぎていった。
理沙が恋煩いしていることは、なにも語らなくてもオーラとなって周囲に伝わり、とりわけ女子はそのことに敏感だった。
あるとき、真由美も入ってお弁当を囲んでいるとき、千景は唐突に訊いた。
「理沙って好きな男子いるの?」
むせた。一分ほど咳で苦しんでから、
「なによ、突然」
そう言いながら、理沙は顔が熱くなっていくのがわかった。
「理沙ってば、わかりやすーい」
けらけらと千景は笑う。
「えっ? マジ? だれなの?」
パッと目を輝かせ、真由美が身を乗り出した。
「いや、その……」
言おうかどうか迷ったが、拒絶できない空気がそこにはあった。だれにも言っちゃだめよ、とお決まりのセリフを言い、理沙は二人にしか聞こえないよう小さな声でポツリと言った。
「へえ、そうなんだ……」
千景は意外だったらしい。
「わたしが話してこようか?」
真由美が言ってくれた。
「待って。そういうのは……」
「どうしてよ。女子と男子で違うけど、一応陸上部だから、全然知らない生徒じゃないし。簡単だよ。大丈夫、わたしにまかせて」
「簡単じゃないって!」
「でもこのままじゃあ……。なんか考えでもあるの?」
理沙は黙った。自分の気持ちを上手く言葉にできず。
真由美はふっと息を吐いた。
「まだ心の準備ができてないって感じね。いいわ、その気になったら言ってね。でも早くしないと夏休みに入っちゃうよ」
「うん、ありがと……」
焦りはあるものの行動に出られなくて、ずるずると時間は冷酷に過ぎていき、期末試験に突入した。そして真由美がいった通りなにも進展しないまま夏休みを迎えた。――夏休み中にちゃんと意志を固めて計画を立てて、二学期になったら即行動よ、頑張りな! そう励ました千景のほうに先に彼氏ができた。
理沙は、自分でもどうしてこんなにも勇気が出ないのだろうと情けなかった。
「遠くから見ているだけじゃ、どうにもならんだろうが」
千景は当たり前のことを言った。彼氏持ち故、へんに説得力があった。
まさか千景に先をこされるとは思ってもみなかっただけに、なんとかしなければと思いつつ下校すると、店とは違う、住居用の玄関前に弟の友だちが来ていた。夏休み中に何度か来ていたのを見ていたから顔は知っていた。弟と同じクラスの、確か銀次郎とかいう名前だった。なんだかシブい名前だな、なんて思ったっけ、と理沙は、こんにちはと挨拶する少年に微笑み、中に入ったら?と返した。そういえば野浦センパイも京一郎で、ちょっぴり古風な名前だ。
自転車のサドルにまたがった銀次郎は小学校の制服を着たままで、胸に名札をぶら下げていた。なにげなく目に入った文字に理沙は釘付けになった。
野浦銀次郎――。野浦……!
野浦なんて苗字、そんなありふれたものではない。
理沙は心臓をどきどきさせながら訊ねた。
「ねえ、きみって、お兄さんいる?」
「うん、いるよ。中学三年」
何かを感づいた様子もなく、さらりとこたえた。
間違いない!
理沙は確信した。野浦京一郎の弟だ。
弟同士が友だち! なんという偶然だろう。
これは使える、と理沙はほくそ笑んだ。弟にかこつけて会えば自然な流れで親しくなれるではないか!
理沙の心のなかで天使が盆踊りを始めたとき、玄関のドアが開いて航聖が飛び出してきた。危うく理沙にぶつかりそうになった。
「あっ、お姉ちゃん。ちょっと出かけてくる」
「気をつけていっておいで」
いつもと違う姉の態度に航聖は不審そうに見返したが、友人を待たせていたので、
「うん、行ってきます」
と言って友だちと裏の月読山の方へと歩き出した。
航聖は大きなレジ袋を手に持ち、銀次郎の押す自転車の前カゴにもなにか詰め込まれていたが、理沙はそれに気が向かない。頭のなかで天使がブレイクダンスを始めていて、いかに京一郎に近づくかと思考するのに忙しかった。
どこでなにをしてきたのか、航聖は夕食直前に帰ってきた。今夜のメニューは月神獣の肉がたっぷり入ったカレーライスだ。こうして煮込んで混ぜてしまえば、チキンカレーとかわらない。肉質がさっぱりしていて美味しいのは知っているが、理沙は食べない。カレーに限らず理沙は肉を食べなかった。太るのがいやだと両親に言えば、無理に食べろとは言わなかった。
食事が終わると、航聖は居間でテレビを観だした。民放のバラエティー番組だ。
理沙はその横に腰を下ろす。
「今日来てた子と最近よく遊んでるみたいね」
そう声をかけてみた。
「うん」
テレビから目を離さず、航聖はうなずく。
「近くに住んでるの?」
「ううん。うちの近くじゃないよ。月宮神社の近く」
航聖は振り向いた。その目に疑い深げな影がさしていた。
「その子の家にも行くことあるんだ」
「うん。ときどきね。普通に遊んでるだけだよ」
「親友になれそう?」
「うん。一番信頼できるやつだよ」
親友ならしばらくは関係が続くだろう。
「なにか困ったことがあったら、お姉ちゃんに言いなよ」
「ん……。べつに、なにもないよ。気持ち悪いなあ」
理沙が航聖の交友について話しかけることはなかったから、怪しまれるのは無理なかった。だが弟を利用しない手はないのだ。なんとしてでもきっかけをつくる。そのためには多少強引な手を使うのもいとわないつもりだった。
作戦は、こうだった。
まず第一段階として野浦京一郎の家をつきとめる。
翌日、理沙が学校から帰ると、航聖は早くに帰っていて、もう遊びに行ったあとだった。宿題もやらないで、と母・直美は愚痴をこぼしたが、理沙にしてみれば早くもやってきたチャンスだった。
航聖が帰ってくるのを待った。二階の窓から外を監視する。いつものパターンなら夕方ごろに帰ってくるのだが油断はならない。時計を気にしつつ窓際に立つ。
時間はゆっくりとすぎていった。ツクツクボウシが独特の鳴き声を響かせる夏の終わりの午後――。空には秋の雲が浮かんでいるのに日射しはまだまだ強く、窓を閉めてエアコンを入れたいところだ。扇風機を最強にして汗をふきつつ待っていると――。
傾きかけた陽を背に裏の月読山の方角からやって来る二人の人影。二人とも子どもで一人は自転車を押している。
――帰ってきた!
理沙は階下に下りると店に回って、
「ちょっと出かけてくる」
両親に向かって言うと、玄関でスニーカーをはく。ただいま、と家に入ってきた航聖とすれ違って外へ出た。玄関わきの庭先に停め置いてある通学用自転車にまたがる。
道に出ると、野浦銀次郎の後ろ姿がすごい勢いで遠ざかっていくのが目に入った。見失ってはいけない。理沙はあわてて後を追った。
「男の子って、なんで急いでいるわけでもないのに全力で自転車をこぐのよ」
そうつぶやきながら理沙も必死でペダルをこいだ。尾行に気づかれる様子はなかった。
田畑の間をつっきり、橋を渡り、県道を横切り、溜め池の横を通った。
時間にしては長くはなかったが、かなりの距離を走った。もう航聖の言っていた月宮神社の近くだ。そこそこ大きな神社で、今年も夏休みの始まる直前に夏祭りがあり、理沙も航聖を連れて来ていた。十月になれば秋祭りが開かれるはずだ。
この辺りは大きな家が多い。昔ながらの漆喰を塗った白い土壁の塀や焼き板を張った建物の間を抜ける。お屋敷のような家が多い。もしや野浦センパイの家も……と思っていると、三十メートルほど先を行く銀次郎の自転車が大きな門の前で止まった。門の戸は開け放ってあり、銀次郎は自転車を下りて押して入っていった。
理沙はその門の前に至ると横目で見ながらゆっくりと通りすぎた。表札には確かに「野浦」と書いてあった。料亭を思わせる偉そうな門の両側にのびる瓦をのせた塀の向こうにそそりたつのは、どっしりとした和風の大豪邸だ。塀の外からでは重厚な屋根しか見えないが、庭には手入れの行き届いた前栽や、一匹数十万円はする見事な錦鯉がゆったりと泳ぐ大きな池でもありそうだった。
絵に描いたように立派な野浦邸を前に、理沙は「あっちゃー」とつぶやきながらいったん通りすぎた。
野浦センパイに近づくのは容易ではないぞ、と理沙は思った。家が大きいからといって負い目を感じることもないのだが、恋に立ちはだかる壁をのりこえようと努力する健気な自分の姿に酔いたかったのだ。
まずは、第一段階はクリアした。あしたから第二段階に突入だ。理沙はUターンすると、口元に笑みを浮かべつつ家へと帰っていった。
作戦第二段階――。
野浦京一郎の家をつきとめた翌日、理沙は夕方になってから出かけていった。
夏休みが終わっても、航聖は毎日銀次郎と遊んでいる。なにが楽しいのか知らないが、理沙にとっては好都合だった。
銀次郎が帰ってくる前に先回りした。いつも同じ時間に航聖が帰ってくるのは、銀次郎には門限があるからなのだろうと、あの家構えを思い返して理沙は想像した。
京一郎の家の近くで時間をつぶし、頃合いを見計らって自宅に向かって自転車をこぎだした。うまくいけば途中で銀次郎と鉢合わせするはずだった。それが理沙の計画だった。作戦第二段階なのである。
理沙はゆっくりと、昨日のコースをまちがえないように注意しつつ自転車のペダルをこぐ。銀次郎と出会えないで家に着いてしまってはなんにもならない。
しばらくすると、猛烈な勢いでこちらへ向かってくる自転車が見えてきた。理沙の思惑通り、銀次郎がやってきたのである。
道は農道であまり広くない。ラッキーだ。広い道路だとスピードをゆるめることなくすれ違えるが、この道幅だとそれは危険だ。スピードを落としたところで声をかけるつもりだった。
「あら、銀次郎くん」
あと数メートルという距離で、理沙はいかにも偶然出会ったといった口調で声をかけた。
あっ、と銀次郎は気づいた。まさかこんなところで友だちの姉に会うとは思っていないから、気がつかなかったのだ。
こんにちは、と自転車を止めて銀次郎。
「今日も航聖と遊んでたんだ」
なにも知らないフリをして理沙は言った。
「うん、そう」
航聖と同様、どこでなにをしていたのか言わないが、理沙の目的は京一郎に接近することであり航聖の素行調査ではないから、銀次郎がなにを言おうと言うまいとどうでもよかった。
「それじゃね」
理沙は軽く手を振ってペダルをこぎだした。今日のところはここで切り上げだ。
作戦成功である。
これを何日か繰り返すつもりだった。すると、おそらく京一郎の耳にも理沙のことが届くだろう。それが狙いだった。
理沙も一応友だちの家からの帰りということにした。銀次郎は疑わなかったから、それでよかった。
銀次郎とは毎日会えた。会うたびに会話の時間をのばした。アメ玉をあげたり学校でのことを聞いたり、わずかな時間であったが印象づけることに必死になった。
一週間がすぎた。
そろそろ作戦を第三段階――最終フェーズに移行すべきときだと判断した。いよいよ京一郎と直接話すのである。理沙は翌日、決行の決意をかためた。
カーチス真由美によれば、三年生の陸上部のクラブ活動は他のクラブと同様、一学期までだそうである。だからといって帰宅時間が早まるかと思えば、放課後、受験用補習授業があって京一郎はそれを受けているそうである。それが終わる時間に合わせ、京一郎の家のそばで待ち伏せた。京一郎が門の前まで帰ってきたとき、さも偶然その時間に通りかかったかのように現れて話しかけるのである。
あまり気合いの入った服装では不自然だし、かといって部屋着のような格好ではみっともない。微妙に小綺麗な身なりを選ぶのに一晩かかった。というよりゆうべは今日のことを思うと眠れなかったのである。おかげで昼間の授業中居眠りしてしまい、先生に叱られた。
それはともかく、理沙の作戦はここまで完璧だった。あと一息なのである。千景も真由美も頑張ってとエールを贈ってくれた。
理沙は心臓をどきどきさせながら、来るべき瞬間を待った。自転車のハンドルを握る手のひらが汗ばむ。
ちらりちらりと腕時計を見ては、道路の向こうを凝視する。通りすぎていくのは、みんな違う人だった。
が――。
「来たっ!」
向こうからやって来る自転車に乗っているのは、理沙の通う中学の制服を着た長身の男子生徒だ。
心臓が高鳴った。こめかみまでびくびく脈打つ。これほどの興奮を覚えるのは生涯初めてであった。
理沙は「落ちつけ」と自分に言い聞かせると、大きく息を吸い込んで自転車のペダルを踏み込んで路地から通りへ飛び出した。
京一郎が門の前で止まった瞬間、声をかけるのだ。
だが、陽も傾きかけ、この時期この時間は薄暗くなってきていた。門の前なのに止まらない自転車に乗った少年が京一郎ではないと気づいたのは、かなり接近してからだった。しかもその自転車の少年は理沙の知っている人間だった。
クラスメイトの大伊豆星司……。しかも月野町商店街の靴屋の息子である。
理沙はブレーキをかけて停止する。
しまった、人違い。どうする……。
しかも、大伊豆のほうが理沙に気づいてしまった。
「あれ? 鳥野さん……」
クラスメイトとはいえほとんど口をきいた記憶もないほどだったから、その場は気づかないフリをして通りすぎようとしたが、声をかけられてしまい、理沙は困った。
なんでオマエなんかがここにいるんだ!
「偶然だね。どこか行ってたの?」
呑気そうに聞いてくる大伊豆だったが、理沙はそれどころではない。今にも野浦京一郎が帰ってくるのではないかと気が気ではなかった。なのに、そんな理沙の事情なぞ知る由もない大伊豆は、
「ぼくはこれから学習塾なんだ」
などと興味のないことを言ってくる。しかも京一郎の家の前での立ち話。そんなことをしている場合ではない。早くこの状況から脱しないと……。
しかしそのタイミングがつかめず理沙は怒りがこみ上げてきた。
――この間抜け野郎! さっさとどっかへ行きやがれ!
だが理沙の願いは届かなかった。道の向こうからやって来る自転車は、今度こそまぎれもなく野浦京一郎だったのだ。
――ヤバい!
苦労してここまで積み上げてきた成果が、あと一歩というところで想定外の邪魔が入ってしまい、理沙は猛烈に焦った。
京一郎は、大伊豆の背後数メートルにある自宅門にたどり着いた。今声をかけなければ京一郎は家の中へ入ってしまう。
せっかくのチャンスを逃してなるものか!
もはや前もって考えていたプランなんかにこだわっている場合ではない。
理沙はいきなり自転車を投げ捨てるようにして降りると、大伊豆の脇をすりぬけ門までの数メートルをダッシュし、京一郎の前に立ちはだかるようにして唐突に言った。
「こんにちは。わたし、銀次郎くんの友だちの鳥野航聖の姉です。弟がいつもお世話になってます」
理沙の眼がかっと見開かれ血走っていたため、京一郎はややたじろいで、
「えっ……」
と返答がぎこちなくなった。
それは、実に唐突で不自然な出会いだった……。
§
「町興し、ですか……?」
直美は細い目をぱちくりさせた。
「そうなんだ。集会でそんな議題が出たんだ。なにか思いついたら、次の集会で発表する」
「といってもねえ……」
「考えてくれとはいってない。そう簡単に思い浮かぶものじゃないからな」
集会でそんな話があったよ、というだけだ。いつになることやらわからないが、もしも町興しをやることになったら商店街総出で準備にかかることになるだろうから、そのつもりでという意味だった。もっとも、保守的な商店街の面々に気のきいたアイデアがだせるだろうか、と勇樹は懐疑的だったから、結局は立ち消えになるんじゃないかと、妻に話すほどのことではなかったかな、とも思った。
だから数日後、直美から提案があったとき、勇樹はひどく驚いたものだった。しかもその内容ときたら――。
「ちょっとまてよ」
確かに月野町ならではの、というか、月野町でしかあり得ない企画には違いない。だが実現の可能性は、といえばかなり厳しい。
勇樹も直美と同じことを考えないこともなかった。というより、それしかこの月野町をアピールできるコンテンツはないだろう。ギネスに挑戦するようなありきたりの企画では、たとえ一度は成功しても商店街が活性化するほどの継続性は望めない。
月神獣と防人ノ儀。それを公開し、観光資源にしようというのである。
数百年もの昔より延々と続けられてきた戦いは祭りのような象徴的な行事ではなく、ちゃんとした目的をもって成果を求められる実戦なのである。ガチなバトルなのだ。
相手である月神獣も無論本気で襲いかかってくるから、当然怪我もする。もし月神獣と戦う商店街の人々――月神人が一度でも敗れれば、月神獣は地球になだれ込み、この世はカオスとなるだろう。
そんな危険を伴うものを公開する――。たとえ十分な安全策を講じたとしても、そもそも月神獣の存在はこれまで秘密にしてきたし、特殊な能力をもつ月神人のことをも。これまで守ってきた秘密を公にしてしまうということは……大きな災厄をもたらすことになりはしないだろうか。というか、確実に、とんでもない事態になるだろう。
「ま、言うだけ言ってみたら?」
直美も本気ではないのだ。軽く言った。だから勇樹も、この提案を集会の席で積極的に発言する気にはなれなかった。
とはいえ――。
他にいい代案があるだろうか。
勇樹には思いつかなかったし、となれば、このとんでもない提案を議題に乗せてもいいかもしれない。商店街の人々がよってたかって知恵を出し合えば、あるいは問題をクリアできるかもしれない――。
そう思えないこともなかった。
集会は、防人ノ儀の直前にも行われた。作戦会議といえばそういえなくもないが、実際は勝つための現実的な方法を考えるわけではなく、古くからの習慣で、一番槍を決めたり占いをしたりしていた。
一番槍なんか決めても実戦にはなんの意味もないのだが、習わしなのでだれも異議を唱えなかった。そして、これも形式だけのものであるが、占いによって明日の戦いの成果を確かめるのである。
古式に則った作法で行うため、集会所にはそれ用の小さな祭壇が設けられていた。もっとも、白木の祭壇は昔から伝わってきたものではなく、近年になってできあいのものを購入したものだ。それでも神器である鏡が据えられ、それなりの格好はついていた。普段の占いは商店街の人々だけでおこなうが、年に一度、年始の占いでは、月宮神社の神主を呼んで物々しく神事を執りおこなったりした。神社の神主も月神人・月神獣の存在は承知していた。
祭壇の前に自治会長が進み出て、礼を献げる。二度、三度、柏手を打って、また一礼。そして三方に乗せられた八角柱の籤箱を取り上げる。神社でよく見るおみくじと同じものだった。籤の棒が何本か入っており、小さな穴から取り出した棒に赤い印がついていたら「当たり」である。
籤を引くのは年齢の順番だった。一人一人引いていった。勇樹も引いたが今回も外れた。内心ホッとした。最初に月神獣への攻撃をしかけなければならず、緊張するものなのだ。だが名誉ある役目だとされているため、一応選ばれた者は、本心はともかく表面上は喜んだ。
一番槍が決まると、次は明日の戦いがどんな結果になるかを占った。榊を振って、御神酒を皿に垂らしてどの方角に滴が広がるかを見て判断するのだが、大抵は「大勝利」となる。豊作を祈る儀式のようなもので、期待や希望が表れているにすぎない。実際、負けることはなかった。多少の怪我人はでるものの、月神獣を駆逐できなかったことはなかった。長い歴史のなかでは死者の出ることも少なからずあったといわれていたから、それもあって、そんな祈祷のような習慣が定着したのだろう。
「明日も、大勝利なり」
自治会長が占いの結果を皆に伝えた。拍手。そのあと、集まった月神人たちに盃が回された。明日の戦いの勝利を願っての酒である。
それらいつもの行事が終わったあと、前回の宿題であった町興しの提案を求められた。なにかいいアイデアはありませんか。そう言う自治会長自身、この場でなんらかの提案があるだろうと期待している様子はなく、たぶんなにも意見がでなくても仕方ないとあきらめているような雰囲気だった。
それは集まった人たちも同様で、集会所は静かになった。
「なにもないようでしたら、また次回までに――」
「ちょっといいですか」
自治会長が集会を締めようとしたとき、鳥野勇樹が手をあげた。
全員がいっせいに注目する。
自治会長は、一瞬だけ不審な表情を浮かべたが、
「どうぞ」
と発言を促した。
勇樹は緊張しながら口を開いた……。
「なにをばかな!」
勇樹がまだ意見を言い終わらないうちに声があがった。するとそれを合図にしたかのように、あちこちから非難の声。
「無理に決まってる」「我々の崇高な戦いをなんだと思ってるんだ」「月神獣のことが世間に知れたら大変なことになる」「戦いなんだぞ、怪我人がでたらどうする」
ボロクソである。確かに皆の言う通りで、勇樹に反論の余地はなかった。
「お静かに!」
あまりの非難囂々に、自治会長がたまらず制した。放っておいたら、いつまでもやまなさそうだった。
「鳥野さん――」
やっとのことで場が治まってから、自治会長が申し訳なさげに言った。
「それができれば苦労しませんよ」
「はあ……まぁ、そうでしょうな」
予想通りの展開に、勇樹もうなずくほかなかった。
集会は解散となった。翌日は防人ノ儀である。
集会所の玄関を出た際、勇樹は背後にこんな声を聞いた。
「まったく鳥野さんときたら、月神人としての能力は弱いし、自覚が足りないんじゃないのかね」「まったく。薬だって、自分が一番よく使ってますからね。あんまり役に立たない人だ」
提案したのは失敗だったかな、と思った。かえってさらに印象を悪くしてしまったようだ。
翌日、満月の夜――。
勇樹は防人ノ儀に赴く直前、いつものように自ら調合した魔力増強薬を服用した。鳥野薬局に代々伝わる月神の薬である。
鳥野薬局は普通の漢方薬の他に月神獣に関連する薬を取り扱っていた。月神獣が時空の裂け目から地球に現れるとき、その体には植物の種が付着していることがあり、祠の周囲にはそれらが芽を出し、他の場所では見ることのない異様な姿と色の植物――魔草が繁茂していた。
それら魔草を材料に、鳥野家門外不出の製法で調合された薬は、地球で作られたどんな薬より効能が優れていた。防人ノ儀で重傷を負っても信じがたいほどの短期間で完治した。
勇樹が飲んだのも、そういう薬だった。月神人としての魔力が弱い勇樹は、毎回この薬の力を借りて戦いに臨んでいた。この薬――魔力増強薬は、短時間ではあるが魔力を引き上げることができた。だが効き目が切れると、約ひと月は魔力が消えた。防人ノ儀以外で魔力を使うことはなかったから、それでなんの問題もない。ただ、そうして増強した魔力でも、ほかの月神人よりは劣っていた。勇樹はそれほどに魔力が弱く、己の出生の宿命を嘆いていた。
時間である。勇樹は家を出た。
月野町商店街は、丘のような小山を半周する道路に沿って店舗が並んでおり、その小山の頂上に時空の裂け目をふさぐ祠が建てられていた。月読山と呼ばれているその小山の高さは五十メートルほどで、頂上へ至る道が二本、斜面をまがりくねって通っていた。
勇樹が登り道にさしかかると、夕陽が小山を赤く照らしていた。山を覆う草木を染めて、西陽は目にまぶしかった。
山を上がる道の前方には頂上へ向かう月神人たちが登っているのが点々と見え、勇樹は一歩を踏み出す。
年齢とともにだんだん坂道がつらくなってきていた。槍の柄を杖代わりにしてゆっくり登っていくと、頂上へ着くまでに何人かに追い越された。やっと頂上に着いたころには小一時間ほどがすぎており、すでに陽は沈んで東の方角からは赤い満月が顔を出していた。今月は九月、しかし中秋の名月を愛でている余裕は月神人にはない。
頂上の広場にはおおかたの月神人が集まっていて、勇樹は最後のほうだった。
雑木林を開いて作った広場は祠を中心に半径三十メートルほどあり、小山の頂上にしてはかなりの広さで、異形の怪物と闘うには十分だった。
石造りの祠は小さなもので、これで時空の裂け目がふさげるのかというほどちっぽけだったが、結界の強さに祠の大きさは無関係だった。強力な魔力によって維持された結界は、月神獣の侵入を何百年もの間防いでくれていた。だが、満月の夜だけ月神獣の魔力が強くなり、時空の裂け目がこじ開けられて地球への侵入を許してしまうのだ。そこで月神人の出番となるのである。
満月の冷たい光と、祠を囲むように焚かれたかがり火が、広場を明るく浮かび上がらせていた。月神人は各々武器を持ってそのときを待っていた。
月神獣には通常の物理的な攻撃は通じなかった。たとえ自衛隊を総動員してもなんらダメージを与えることはできない。月神獣に対するには魔力が必要で、魔力なしでは傷ひとつつけられないのである。魔力を持たない普通の人間では月神獣に太刀打ちできないのだ。
月神人の持つ武器は魔力を増幅させる特別な武器だった。古えより伝わる魔力を宿した刀剣。故に月神人の使う武器に飛び道具はない。銃砲はもちろん弓矢でさえも。もっとも、敵味方入り乱れての、文字どおり乱戦となる場合がしばしばあるので、同士討ちの危険性から飛び道具は使いづらかった。
月が徐々に高度を上げ、赤色から黄金色に変わっていった。
いつもながら緊張する。どんな月神獣が現れるかわからないのだ。過去には死人もでたという。強力な敵に大怪我をすることもあるし、いくら治療薬が万能でも喰われた手足は元には戻らない。
勇樹は槍を持つ手が汗ばみ、何度か服で拭った。
全員が祠を見つめていた。息苦しい空気がその場を支配する。
「来た!」
だれかが小さく言った。するとまるでそれが合図だったかのように、祠の上の空間が歪みだした。その歪みは見る見るうちに拡大してゆき――。
勇樹は身構えた。槍を両手にしっかりと握りしめた。
祠の前に一人が進み出た。飛び出してきた月神獣に先制攻撃をしかける一番槍である。
「我こそは月神人の一人、自転車屋の藤本誠なるぞ! いざ参る!」
古来のしきたりにしたがって叫ぶと切れ味の鋭そうな槍の切っ先を祠に向けた。
空間の歪みが激しくなり、時空の裂け目がついに現れた。
ガァ!
飛び出してきたのは、狼のような四肢動物。灰色の背中から二対の翼が天へとそそり立ち、しなる。額から突き出た一本の角は長く鋭く尖っていた。鋭い牙が大きくあいた口の中にのぞいた。
月神獣は一番槍の一撃を角で受けて返した。
いったん槍を引いて、もう一度突こうとする隙に、さっとかわされた。
時空の裂け目からは次々と月神獣が飛び出してきた。
「かかれ!」
号令の元、各自手近の月神獣に斬りかかっていった。叫び声。
魔力を宿した刀剣は、月の光を浴びて妖しくきらめいた。
勇樹も、及び腰ながら月神獣に立ち向かっていった。槍を突きだし、わああっと叫びつつ月神獣の背後から突っ込む。
しかし月神獣はその巨体に似合わない素早い動きで勇樹の突進をかわすと、地球の重力なぞ無視した動きで着地した。
口を大きく開いて、がっ! と吠えた。睨む双眸は赤く、眼光鋭い。
勇樹もひるんでばかりいられない。気を取り直し、再度攻撃。槍を振るった。が、いとも簡単にかわされた。
「くそ」
槍が突き刺さりでもすれば月神獣にダメージを与えられるのだが、矢尻がかすりもしないのでは話にならない。他の月神人は魔力でもって運動能力を高め月神獣と互角にわたりあっていたが勇樹はそれができなかった。
それでも必死に戦った。不様でも、勝てなくても。
戦いは、一頭の月神獣に対して数人であたっていく戦法で、次第に月神人側が圧倒しだした。罵声を浴びながらも、勇樹の槍も少しは月神獣に傷を負わせることができた。しかし動きは相変わらずで、そのうえ月神獣の尻尾の一撃で気を失ってしまった。
頬をたたかれて気がつくと、
「佐々木さんが負傷した。薬を頼む」
いきなりそう言われて勇樹は起き上がる。周りを見回すと、すでに勝敗は決しているようだった。ひっくりかえっている月神獣が何頭かいた。今回も月神人側の勝利である。
指差された方向に、仲間に囲まれて倒れている一人を発見し、立ち上がる。背中のデイバックを肩から抜いて駆け寄ると、倒れている男の傍らにしゃがみこんだ。
「やられちまったよ。うかつだった」
本屋の佐々木は苦しそうに顔をゆがめた。
「怪我の処置をしますから、しばらく辛抱してください」
勇樹は傷口を見、デイバックから薬やら包帯やらを取り出して、てきぱきと治療を始めた。普通の病院なら治るのに二週間はかかりそうな怪我だったが、勇樹の特製薬なら数日で完治できた。
治療の間、皆が語らっていた。
「今日は久々に手強い相手だったな」「おれも危うくやられそうだったぜ」「今回肉の分け前は期待できそうだ」
治療が終わった。
「これでもう大丈夫ですよ。安静にしていればすぐに治ります」
「ありがとう、助かります」
佐々木は礼を言い、しかし、と付け加えた。
「鳥野さんはあまり戦いには貢献できてなくても、これができるから悲観することないですよ」
勇樹は苦笑した。おまえは戦いに参加せず怪我人の治療だけをやっていればいいんだ。要するにそういうことなのだ。わかってはいたが、それを認めてしまうのは癪だった。
§
多少不自然なところはあったにせよ、とりあえずは成功した。晴れて野浦京一郎との接触がかなったわけである。
だがまだやっとスタートラインに立てたところだ。理沙の初恋が成就するかどうかはこれからだ。
カーチス真由美からの情報だと、現在特定のカノジョはいないとのことで、十分に理沙にもチャンスがあるということであるが油断はできない。なにせ高校受験をひかえているから京一郎自身、それどころではないかもしれない。スポーツ推薦で高校からオファーがきて受験の心配がないならいいが、陸上部ではそこまでの成績はおさめられなかった。
ともかく、京一郎が卒業してしまうまでどれだけ親しくなれるか――。とりあえず知り合いにはなれた。あとはどこまで近づいていけるか、だ。
「よかったじゃない」
少なくとも真由美と千景に経過を知らせると、真由美は理沙の肩をばんばん叩いて喜んだ。
「でも、告白したわけじゃないんでしょ」
が、千景は手厳しい。理沙にしてみればかなり頑張ったのであるが、千景はそれでは満足しなかった。
「これからよ。これから」
理沙は軽く余裕ある口調で受け流したが、内心ここからどうすればいいか具体的に見えていなかった。
自分の部屋で冷静に、今後のプランを考えた。
――やはりデートにこぎつけたいよね。でも……。
そこは露骨な行動をとることには抵抗のある理沙だった。学校では、会うたびに挨拶するように――といっても、京一郎の行動をよんだ上で会えるよう先回りしていたのだが――それで少しずつ会話の量を増やすようにしていた。
霧山千景にしてみれば、なんだかじれったかった。そんなにのんびりしてたら、センパイ、卒業しちゃうよ。さっさと告白すりゃいいのに。
だからそれができないんだってば!
千景は理沙のその気持ちが理解できない。
千景の言うようにさっさと告白したら早いのはわかっているし、そうできればいいなとは思うのだが。
理沙はしかしそれでも着々と足固めをしていると実感していた。十一月に開催される文化祭に照準を合わせていた。ここで是が非でもいい思い出をつくり、その後に発展させる心づもりだった。
毎日、京一郎の行動をチェックし、それとなく近づいた。
しかしある日、ちょっとした事件が起きた。それは理沙にとっては思ってもみなかった出来事で、順調だった計画が狂い始める最初のきっかけでもあった。
いつものように補習を終えた京一郎に会えそうな時間を見計らって待ち伏せしようと、自転車置き場へ向かった。校舎を出て、グラウンドの脇のコンクリート舗装の道を通って自転車置き場へ行こうとしたときだった。前方に、グラウンドを眺めている京一郎の姿を認めた。
足早に駆け寄ろうとして、理沙は足を止めた。京一郎の視線の先――練習に汗を流すいくつかの運動部のなかに陸上部員たちがいたのだ。
――ほんとは引退なんかしたくなかったのかな?
クラブ活動は好きでやっているのだからその気持ちは当然なのかもしれないが、三年生は半強制的に引退させられて受験に備えよといわれる。確かに勉強時間は必要なのだから仕方ないのだろうが……。
それとも、単に後輩の練習が気になるだけなのか。一応、県予選を突破して地区大会本選まで駒を進めた京一郎はそこそこの実力だといえる。高校へ進学しても陸上部を続けるなら成績ものびるかもしれない。そんな自分に続いて欲しいと、陸上部の未来を期待してもおかしくはない。
京一郎の気持ちをそうやっていろいろと想像するのは楽しかった。理沙は駆け寄り、
「野浦センパーイ」
と明るく声をかけた。京一郎さん、と呼びたいところだったが、そこまでの度胸はなかった。
京一郎が振り向いた。
「やぁ、鳥野さん」
その直後、視線をグラウンドから離した京一郎めがけてサッカーボールがとんでくるのが目に入った。
「あぶない!」
理沙は叫ぶと同時に、どうか京一郎さんに当たりませんようにと願った。すると――。
サッカーボールが空中に静止した。そしてその一瞬後、運動エネルギーを失ったボールは地面に落下した。
その光景に、理沙は絶句する。
――これは、まさか……。
思い当たることがあった。鳥野家の血筋を受け継ぐ者に現れる月神人の能力……。
でもまさか、わたしに――?
月神人の魔力は、男性に現れる。だが稀に女性にも現出した。今現在、防人ノ儀に参加する月神人二十人のうち、女性はたった一人である。
可能性はあったものの、鳥野家には長男・航聖がいるから、父・勇樹の跡を継いで月神人となるのは自分ではないと理沙は思い込んでいた。
だが。
今のはなにかの間違いだ。そう、目の錯覚に違いない。風が吹いたんだ。
理沙は念じるようにそう信じた。
「陸上部の練習、見てたんですか?」
なにも気づかなかった京一郎の様子にホッとしながらも、こちらの動揺からなにかを悟られないように、早口でしゃべりかけた。
「うん。まぁね……」
「気になります?」
京一郎は苦笑し、
「なんか、あそこに自分がいられないのが不思議な感じだ」
「高校では、陸上部に入らないんですか?」
「たぶんね。地区大会で自分の実力はわかったし、高校では違うことに挑戦してもいいかなって。ま、高校に入れればの話だけどね」
「入れますよ! ぜったい」
理沙の力の入った言いように、京一郎はややたじろぎ、
「部活に時間をとられてた分、頑張らないとね」
京一郎が歩きだす。理沙はさりげなく並んで。
自転車置き場までの一、二分、理沙はハッピーだった。これで帰る方向までいっしょだったらな、と校門を出たところで京一郎とわかれた理沙は、遠くなっていく後ろ姿をその場にたたずんで眺めていた。
「鳥野さん――」
余韻にひたっていたら、邪魔が入った。だれかと思って振り返ると、
「うっ」
いつぞや苦労して仕込んだ京一郎との出会いを台無しにしようとした――と理沙は思っている――大伊豆星司だった。
お邪魔虫め、と理沙は苦々しく思ったが、大伊豆にしてみれば、そんなつもりはなく普通に接しているだけだったから、理沙の感情は理不尽である。大伊豆に非があるとしたら、タイミングが悪いということだけで、しかし人によってはそれこそが罪なのだといいだすかもしれないが。
「なんの用?」
理沙はやや刺々しい口調。
だが大伊豆はそんな理沙の態度を気にしていられない様子で言った。
「さっき、ボールが空中に止まったろ」
理沙は雷に撃たれたような衝撃を感じた。見られてた!
「なんのこと?」
が、努めて平静を装ってしらばっくれた。
「隠さなくてもいいだろ、同じ月野町商店街の人間なんだ。月神人となって人間を、地球を守るために――」
「わたしは女よ。月神獣と戦うなんて考えたこともないし、関わりたくもない」
だからそれを知ってからずっと月神獣の肉なんか食べずにいたのに。
「でも魔力が発達してきたら、月神人としての責務から逃れられない」
「うるさいわね。さっきのはそう見えただけよ。うちには弟がいるんだから、月神人になるのは弟よ」
これ以上話すのは不愉快だ。理沙は自転車にまたがると、まだなにか言いたそうな大伊豆をおいてペダルをこぎだした。振り返ることなく、走り去った。
見間違いだと断言したものの、内心不安が去らない理沙だった。それを振り払うように京一郎との今後を妄想した。初デートのプランを練るだけで理沙は顔がにやけ、いつかはそれを実現したいと強く願った。
体育祭が近づいていた。このイベントもできれば利用したいと思っていた。
理沙の通う中学では、例年、紅白青黄の四チームに分かれて競技を行っていた。一年、二年、三年が合同で一チームを構成するので、学年を越えた一体感を体験できた。なかでも応援合戦は各チーム毎年工夫を凝らした応援をするので体育祭の名物となっていた。
――同じ組になれたらなぁ。
理沙はそう思い、またも妄想が頭を支配しだしたが、こればかりは祈るしか手がない。
組分けが発表された。掲示板に張り出されたそれを見た理沙はガックリと肩を落とした。理沙の二年三組は白組で京一郎の三年二組は青組だった。
残念だったね、と真由美。
「うん。でもしかたないよ」
確率四分の一ならあきらめもつく。
かくして運動会に向けての応援合戦の練習が放課後、三年生主導のもとで始まった。
白組の応援は男子生徒によるラインダンスというあからさまなウケ狙いで、女子生徒はそのための衣装を用意することになった。
青組はどんな応援パフォーマンスをするんだろう、と気になる理沙だった。
体育祭がやってきた。
小学校のうちは土日におこなわれていた運動会が、中学校では平日に開催される体育祭となる。懸念されていた台風も逸れ、快晴の空のもと、校長や来賓の退屈なあいさつを上の空で聞き流すと、競技が始まった。
団体競技やら個人競技やら団体演技やらが、息つく間もなく消化されていった。
生徒たちは、それぞれの色ごとに分けられたエリアからトラックに向けて熱い声援を送った。
理沙も白組を応援していたが、京一郎が出場する競技では、こっそり京一郎を応援していた。
青組の応援席を気にしつつも、京一郎と直接話せる機会はなく、少し歯痒く欲求不満だった。
昼食を終えた直後のプログラムは応援合戦である。紅、白、黄色、と順番に行われた応援パフォーマンスはそれぞれ趣向が凝らされ、なかなか意外と楽しかった。そして、最後に理沙が注目する青組の応援パフォーマンスが始まった。
なんと、寸劇だ。
数人が前に出て声を張り上げる。そのなかに京一郎がいた。理沙のテンションが上がった。
ストーリーは、負けてくじけそうになった選手がみんなの励ましによって立ち直り、逆転勝利をつかむというもの。京一郎はその主役を演じていた。
理沙は真剣な眼差しでその演技を凝視する。ああ、カメラがあったらな、と思う。
やがて盛大な拍手のなか、応援合戦が終わった。次の競技に出場するために理沙が席を立ち、青組の様子を見つつ移動していると――。
京一郎が理沙の知らない女子と談笑しているのが目に入った。
それだけなら別段気にするほどのことでもない日常の光景にすぎないのだが、そのときの京一郎は大笑いして実に楽しそうだったのだ。理沙には見せたことのない表情で。
いきなりブルーになった。真由美の情報では特定のカノジョはいない、ということだったから、チャンスは十分あると踏んでいた。
だが陸上部所属のスポーツマンなのだから、そこそこモテてもなんの不思議もないのに、理沙はあまりに安穏とかまえていた。もっとあせらないといけなかった。
――あれはカノジョなんかじゃない。
そう思い込もうとした。
それでもなんだか気分が晴れず、競技に集中できなかった。
「どうかしたの?」
千景に揺さぶられるまで声をかけられていることに気づかなかった。
体育祭も終盤、男女の四百メートルリレーがおこなわれ、陸上部では短距離ランナーではなかったが、京一郎は選手に選ばれていた。
体育祭の間、とうとう一度もしゃべれなかったな、と思いつつリレーに声援を送ったが、だれが勝つかなんてどうでもよく、京一郎といっしょにいた女子がだれなのかが気になってしかたがなかった。
こうして、体育祭は理沙の心に漣波を残して終わったのであった。