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第1章 『8月』

 原色の季節は始まったばかりだ。

 宿題に頭を悩ませるのには少々気が早く、子供たちにはまだ無限の時間が残されていた。子供はいつでも好奇心とエネルギーのかたまりだし、夏休みの開放感と少しの退屈はかれらの冒険心をかきたててくれる……。

 山道をふたりの少年がのぼっていた。道というよりも、動物か人が草を踏みしめた痕跡、所により急な斜面といったほうが正しいのかもしれない。ときおり高く生い茂った雑草が視界をさえぎり方向感覚を失わせる。

 鳥野航聖(とりのこうせい)はすこしずつ膨れあがってくる不安をまぎらわすように口笛を吹いた。今までの航聖にとってここは足を踏み入れることを考えることさえできないような秘境だった。いや、本当は今の航聖にとってもそうだが、前を歩く野浦(のうら)銀次郎の存在が彼にぎりぎりの勇気を与えていた。

 野暮なことを言ってしまうと実際には秘境でもなんでもない、月野町商店街の裏側にある小山(一応、月読山(つくよみやま)という名がついているが歩いて頂上に至るに一時間も要しない)にすぎないのだが、子供特有の感受性と、航聖がこの場所の意味をそれとなく知っているせいもあって、そこには人を寄せ付けない「気」のようなものが漲っていたように感じられた。

 セミの声と日差しが容赦なく降り注いでいた。

 草と土の匂いは管理された緑地のような心地いいものではなく、その生々しさには、少年たちに対する悪意が潜むような、そんな思いを抱かせる力をもっていた。その特有の本能に訴える迷信じみた恐怖心は山頂に近づくにつれて増していき航聖を圧迫しはじめていた。

 頼りない弟を守る兄貴のようにふるまう銀次郎だが実際にはふたりは同級生――まだ小学五年生だ。銀次郎だって航聖と同じような不安や畏れを抱いているはずだが、銀次郎は歩調を緩めるようなことはしなかった。

 ――もうよそうか。引き返そうよ。

 幾度、この言葉を喉の奥に飲み込んだことだろう。航聖にだって男の見栄(別名、プライドともいう厄介なお荷物)があった。軽蔑されたくない思いが、その言葉を発することをためらわせていた。……が、高まる不安感はそろそろ限界にきていた。

 銀次郎の背中に声をかけようとしたとき、銀次郎が振り返った。

「航聖、あそこ見ろよ。なんかいるよ」

 猫? それとも犬?

 ここら周辺はまだまだ自然が多く残っているから、イタチやイノシシはもちろん、キツネやキジを見かけることもあった。

 が、草叢にうずくまっていたのは、そのどれでもなく、白い体毛の小さな生き物だった。仔猫ほどの大きさで、全体のフォルムは犬に近い。が、明らかに犬でも猫でもないことは、背中の翼と額の角が雄弁に語っていた。眠っているようだ。

「なんだと思う? 犬じゃないよな」

 航聖はそれを見て息を飲んだ。そして、駆け出そうとする銀次郎の腕をつかみ叫んだ。

「銀ちゃん、こいつに近寄っちゃだめだ!」

 一人前と認められていない年齢の彼が正式に教わったわけではないが、それが何者であるのか、航聖にはわかっていた。そして部外者の銀次郎に口外してはいけないことも承知していた。

 なにかを知っているような航聖のセリフに、銀次郎は感じ取るものがあって、

「どうしてさ?」

 つい、唇を尖らせた。

「銀ちゃん、だれにも言わないって約束できる?」

 おぼろげにしか知らない航聖に説明できることは限られていた。この生き物は月神獣(つきかみ)という魔獣の一種で、人間の敵であること。満月の夜に魔獣はパワーアップすること。自分たちの一族は月神人(つきひと)と称し、大昔からこの月神獣と闘ってきたこと――。

 それらをつっかえつっかえ、説明していった。

「すげえ。それ面白いな。じゃあ、航聖は正義の味方ってわけか」

 どこまで本気にしたのか、どこまで納得したのかわからないが、銀次郎の目が輝いた。

「人類を守るため月神獣と闘おうよ、航聖」

 覚えたての空手のスタイルで間合いを縮めていく銀次郎に必死ですがりついた。そういう「設定」で楽しもうと決めたらしい。そんな気楽な遊びではないのだ。

「待てってば! ぼくの言ってること信じてないだろ。これは遊びじゃなくガチなんだよ」

「信じてるって。だって、こんな変な生き物がいるんだから。コイツの存在が一番の証拠だよ……って……おい」

 空手の構えをした状態のまま銀次郎の動きが停った。

「航聖」

 静かな口調で振り向いた。

「な、なに?」

「こいつ、よく見ると、すごくかわいいよ」

 銀次郎の肩越しに見ると、小さな月神獣は目を覚ましていた。ぐぐっと伸びをして、大きくあくびをする様子が、とてつもなく愛くるしい。

 やっつけようなどという無粋な考えは急速にしぼんで、代わりに可愛がりたいという願望がむくむくと頭をもたげて、頬がゆるんだ。

 闘うという気持ちも遊びの延長で、ヘビを見たときのような強い嫌悪感があったわけではなかったから、すぐに感情と態度が切り替わった。

「さ、おいで……」

 空手の戦闘モードを解いて、銀次郎は手をそっと伸ばした。月神獣は、目をぱちくりさせて、鼻先まで近づいた指先を見つめる……。航聖のつたない説明では理解できなかったかのような銀次郎の行為だった。

「あぶないよ。咬みつかれるかもしれないじゃないか」

 航聖は、危険が分かっているから近づこうとはせず、不安げに様子を見守る。「やめようよ」とは強く言えず。それは、どこまで危険なのか、本物を見たことのないために、リアルには想像できないからだった。

 こんなに小さいのなら、もしかしたら平気なのかも、と猛獣であるライオンやトラでさえも、赤ちゃんのときは可愛くてそれほど危険ではないという知識があるため――というのもあった。

 月神獣は、銀次郎の指先をしばらく見つめたあと、ぺろぺろと遠慮がちに舐めはじめた。

 これには航聖も驚かざるを得なかった。

 銀次郎は気を良くして、調子に乗って口走る。

「なあ、航聖、こいつペットにできないかな?」

「それはまずいよ!」

 航聖は、銀次郎の提案に瞠目して、さすがに声を荒げた。

 月神獣は秘密の存在であるのに、こともあろうに飼おうなどと――。しかも成長した月神獣と人間とは敵対関係にあるのだ。その外見がどんなに無害に見えようとも、人類に害を及ぼす存在なのである。

「それに、親が捜しているかもしれない」

 子を取られたと思った親が現れたら、きっと想像もできないほどの凶暴性を発揮するにちがいないのだ。

 航聖はそれが大人たちへのとんでもない迷惑になるんじゃないかと心配になった。

「でもさっきの航聖の話だと、親はきっと戦いで殺されているよ」

 航聖の説明を半分も理解できていないのではないかと疑っていたが、銀次郎はしっかり聞いていたようである。

 たしかに、銀次郎の言うのも、可能性としてはあり得た。

 こんなところに、こどもの月神獣がいること自体、不自然だった。親のあとを追って来たが、親が殺されてしまい、帰れなくなって、そのうち疲れて眠ってしまった……。

 そういうシナリオがいちばんしっくりきた。

「そういうことなら……」

 航聖はそう口にすると、そう信じたくなり、そうにちがいないと思えた。

「でも、家へ連れて帰るのは、やっぱりまずいよ」

 さすがにそこは躊躇した。

 いくら可愛くても大人たちにとっては脅威の的だから、もし見つかったりしたら大騒ぎになるのは明らかだ。

「うーん」

 航聖は思案顔で腕組みする。

 銀次郎は小さな月神獣を抱き上げる。子供の手の中でもすっぽり入ってしまいそうなほど小さな生き物は、大人しく、暴れることもなかった。

「いいこと考えた!」

 銀次郎は、自身のひらめきがすごいと確信したのか、ニッと笑みを浮かべた。

「秘密基地にかくして飼おうぜ!」

「秘密基地……神社の裏側の?」

 銀次郎の家の近くにある小山には月宮神社があり、その近くにある雑木林に秘密基地を作っていた。航聖はときどき遊んでいたそこを思い浮かべた。

「そうじゃないよ」

 と、銀次郎は大きく息を吸って、「この近くに新しく秘密基地を作るのさ。第2基地」

「……うーん」

 またも航聖はうなった。

 銀次郎はさらに勢いよく言葉を重ねる。

「それに、親が死んでいるんなら、この子はいずれ死んじゃうじゃないか。今日から、おれたちが親がわりさ!」

「うん……わかったよ」

 航聖は銀次郎の勢いにうなずいてしまう。

 どうやって育てていくか、という現実的な点に考えが及ばなかったのは、心のどこかで真剣に考えているわけではなく、遊びの延長という感覚でいたせいだった。秘密基地という男児特有の発想もそこからきていた。

「そうと決まれば……」

 月神獣を抱くようにして、銀次郎は意気揚々と歩き出す。

 航聖はそのあとをついていく。

「どこに基地を作るんだい?」

「この近くでいいんじゃないか」

「だめだよ。ここは入っちゃいけないところなんだから」

「だからよけいに都合がいいんじゃないか。だれも来ないなら、見つかりにくいじゃん」

「でも……」

 自分たちがこの立入禁止区域に入っていることが大人たちにばれてしまったら、もうここには来れなくなる。それを航聖は心配した。

 だが銀次郎はあまり本気で心配していない。航聖ほど、月神人の掟をリアルに感じていないのだ。それはしかしやむを得ないともいえる。さっき航聖からかいつまんで聞いたばかりで、しかもそんな非現実的な話がすべて頭に入るわけがなかった。――月神獣という明らかな証拠を手にしてもなお、そんなものだった。

 子供にとって、ファンタジーはわくわくするものであって、リアルな危険を伴うものでは決してないのである。



 二人は少し歩いて山の北側へ回り込んでいった。あまり人が入らないことから、ますます草深くなっていた。鳥が運んできた木の種が勝手に発芽して、あちこちに木々が成長していた。藪には蚊も多く、虫よけのスプレーをふっていなかったら体じゅう刺されていたところだ。

「ここらなら、いいんじゃないか?」

 銀次郎は、藪の間に空いた空間を見つけた。山の北側は、ぐるりと取り囲んだ道路が近かったが、藪や木々にさえぎられて、まったく見えない。

「うん、そうしよう」

 航聖も同意した。

 二人して、その近くから秘密基地の材料になりそうなものを集めてきた。といっても木の枝ぐらいしかなく、今日のところはそれで間に合わすことにした。

「明日になったら、もっと本格的にやろうぜ」

 銀次郎は、葉のついた枝を重ねた、ゴリラの寝床みたいな秘密基地に満足していなかった。とりあえず夏の直射日光と雨露はしのげるといった程度だ。ここで長時間楽しく遊べるぐらいの秘密基地にしたい銀次郎だった。

「そうだ、航聖」

「なんだい?」

「月神獣って、なに食べるんだ?」

「え?」

「生きているんだから、エサぐらい食べるだろ?」

「それは……」

 航聖でもそこまでは知らなかった。地球上の生命ではないのだから、なにを食べるかなんて想像すらできない。

「お父さんに聞いてみるよ」

 大人に聞いてもこたえが得られるかどうかは自信がなかった。なにせ月神人は月神獣を殺すことしかしないから、なにを食べているか知る必要がない。月神人が、月神獣についてなにもかも知っていると考えるのは都合のいい希望にすぎなかった。

「そうか。じゃ、おれは秘密基地の材料に、もっといいのを持って来るよ」

 銀次郎がそう言って、分担が決まった。

 ともかく、もう陽も傾いてきていた。夏の夜は遅い。明るいといっても時刻は七時をすぎてしまったりするから、早く帰らないとまずい。

「ここにいるんだぞ」

 幼い月神獣に向かってしっかり言い残して、二人は自称・秘密基地を後にした。

「逃げたりしないかなあ……」

 と、何度も後ろを振り返りながら。




   §



 古墳のような小山を半周する道路に沿って二十軒あまりの商店が軒をつらねる月野町商店街は、日本のどこの田舎にもありそうなありふれたごく普通の小さな商店街だった。

 商店街を中心に広がる田畑に囲まれた町の人々が主な客で、その中だけで経済が回っているような、そんな山あいののどかな里は、八月の熱い太陽の下でセミの鳴き声が響いていた。

 鳥野薬局は、月野町商店街に昔からある店舗のひとつで、先祖代々一家で守ってきた店だった。もともとは漢方薬店だったが、今は製薬会社の製造する売薬も扱って、普通の薬局が漢方薬も処方するという店になっていた。

 現在の主人である鳥野勇樹(とりのゆうき)は四十四歳。先代の父親が一昨年に他界したあと、妻と二人で店を支えていた。子供は二人いたが、娘は中学二年、息子は小学五年で、まだ二人とも店の手伝いができるような年ではなかった。



 田舎の夜は早い。日の長い夏場、まだ十分に明るく、いつ日が沈むのかと思える陽気であっても、時計の針が七時を回ろうとする頃にはどの店も戸をしめてしまう。

 鳥野勇樹も早々に玄関のガラス戸に鍵をかけ、深緑色のカーテンをひいた。そして、今夜は集会があったな、なとどひとりごちて店の奥へと入っていった。

 自宅兼店舗なので、店の奥へ一歩入ればそこは生活スペースである。靴を脱ぐ小さなたたきがあり、四畳半の座敷。窓のないその和室の右手側の障子をあけると廊下になっており、窓から西陽が差し込んでいた。そこまで来るとやっと漢方薬独特の生薬の匂いから解放される。代わりに晩ごはんの匂いがかすかに鼻に届いた。今夜はカボチャの煮物か、と思い、質素なおかずも仕方ないかと納得した。この店の上がりだけで生活していくわけであるからやむを得ず、今日の夕飯後の集会でまた肉が配られるわけだし、そうなればしばらくは豪華なメニューにありつける。

 洗面所で念入りに手を洗いダイニングキッチンに入ると、子供たちはもうテーブルについていた。勇樹がいつもの席につくと、

「ねえ、お父さん、月神獣ってなにを食べるの?」

 息子の航聖が訊いてきた。今日は一日中外に出ていた。男の子らしく元気がいいのはけっこうなことだが、この季節は気をつけないと日射病や脱水症状などになりやすい。そんな親の心配なんか気にもせず夏休みを遊びたおしてるんだろうなと勇樹は思いつつ、

「魔草だな。月読山の頂上にある祠から出てくる月神獣に種がくっついてくるんだろうな。その周辺に生えているよ。月神獣はそれを食べる、といわれてる」

 鳥野勇樹は漢方薬の材料として魔草を集めていた。それらの知識は先代から受け継がれていた。ただ、材料として多くは集められないから、それで作った漢方薬も量が知れているので、大々的に売り出すというわけにはいかず、この商店街でなじみの客にだけこっそり売っている程度だった。とても大きな利益を上げる商品にはなり得なかった。

 それに、月神獣のことは秘密なのである。この商店街の人々、月神人だけが知る存在なのだ。もちろん、魔草のことも……。

「ふうん、どんなの?」

 航聖はさらにつっこんで訊いた。

 唐突な質問だったが、父親の勇樹は、男の子によくある脈略のない思考には慣れていた。全然自分とは関係のない話をすることがよくあったから、とくにそんな質問をすることに疑問ももたず、

「そうだな……毒々しいピンク色をしているから、すぐにわかるさ。中には花の咲くものもあるけど、花は緑色なんだな……」

「それならすぐに区別がつくね」

「まあな。航聖も大人になったら、魔草取りを手伝っておくれよ」

「うん。わかった」

 いつにもまして明るく返事する息子の態度を、勇樹はとくに気にしなかった。

「お父さん、今日集会なんでしょ?」

 と妻の直美が言った。

「ああ、わかってる」

「じゃ、明日はステーキにするわよ」

 ショボい献立にがっかりしているのは勇樹だけではない。

「でもゆうべはそんなに月神獣が現れなかったからな。分け前は少ないかもしれないよ」

 勇樹は昨夜の戦いを思い返して言った。

 家族が楽しみにしているのは、牛肉でも豚肉でも鶏肉でもなかった。

 月神獣の肉だ。月に一度の戦いで倒した月神獣はその場に放置せず、商店街の人々によって精肉店に運ばれ、解体される。精肉屋の主人によってまる一日かけて切り分けられた月神獣の肉は、その夜の集会で山分けにされるのが昔からの習慣だった。もちろん解体作業の当然の役得として精肉店の取り分は多く、一部は店頭で販売されていた。ただし、これも魔草同様大量に仕入れられるものではないので、店先に並ぶのはわずかな量だった。

 味と食感は鶏肉にそっくりだった。しかも引き締まった肉質の高級地鶏に見かけも味も似ていた。昔から食べられてきたため、違和感もなく食卓に上がった。もっとも、一般に販売される際は、まさか月神獣の肉などと得体の知れない名前で売るわけにもいかず、違法を承知で「鶏肉」と偽装表示していた。

 直美が配膳を終えて、全員で「いただきます」

 夕食が始まった。いつもと変わらない日常。だが、いつもより静かだ。娘の理沙は中学生になってから急に口数が少なくなった。思春期の難しい年頃なのだと勇樹は想像するが、それがわかったからといって特別な態度で接することはなく、そんな必要があるとは思っていなかった。だいたい、そもそもそれができるほど器用ではなかった。

 だが理沙はともかく、普段はよくしゃべる航聖までが今日は静かだ。いつもなら昼間の出来事を話してくれるのだが、魔草のことを聞くとなにかを考えているように口を閉ざした。

 とはいえ、大人にとってはどうでもいいような些細なことを熱心に聞かされるのはわずらわしかったから、勇樹もそれ以上は気にするのをやめ、それよりもこの後の集会に気をもんでいた。

 昨夜の戦いで負った怪我はたいしたものではなかったが、またヘマをしてしまったと気分が晴れなかった。十八歳のときから参加しだしてもう二十六年になる。先祖から受け継がれた血は勇樹の体にも流れているが、発揮できる魔力は他の誰よりも弱く、月神獣との戦いではいつも十分な働きができなかった。それでも若い時分は体力でカバーできた。しかし四十の声をきく頃になるとボロが目立ちだした。

 もともと向いていないのだ、月神獣と戦うなんて野蛮なことは――。

 しかし義務は果たさなければならなかった。それがこの月野町商店街に生まれた者のさだめなのだ。向いていようがいまいが。

「アナタ、そろそろ時間じゃないの?」

 直美の声に勇樹は考え事を中断する。

「ああ、そうだな」

 勇樹は、壁にかけられた、理沙の出産祝いにもらった装飾過多の時計に目をやる。食事はすでに終わっていた。ふっと息をつき、湯呑みに残っていたお茶を飲み干すと席を立った。



 月野町商店街の外れには住民用の集会所が建っていた。十五年ほど前に、それまで使われていた老朽化の激しい木造小屋を倒して建てたプレハブだった。

 開け放った玄関を入ると、もうすでに何人か来ていた。大勢の人が出入りできやすいよう広めに作られたたたきで靴を脱ぐと、小学校を思わせる何段にもなった横に長い下駄箱の隅のほうに入れた。ガラス障子を開けると冷房の効いた二十畳の和室が広がっていた。

「こんばんは」

「ご苦労さん」

 と、先に着ていた人が返す。勇樹は奥の隅のほうにすわった。

 毎回、月神獣との戦いの翌日には反省会が開かれていた。が、形骸化して、肉を配るのと戦いの労をねぎらう飲み会となっていた。集会所には小さなキッチンがあるのだが、そこに置かれた冷蔵庫には今日も缶ビールがぎっしり詰め込まれていることだろう。

 娯楽の少ない田舎の常として、ここでも大人たちの最大の楽しみはアルコールだった。毎月徴収される自治会費の大半がこの飲み代に消えていることを、持ち回りで自治会役員を引き受けたときに勇樹は知り、自治会費をそんなことに使っていいものなのかと内心疑問には思ったものの、他に使い道がそうそうあるものでなし、そんな野暮なことを誰かの前で口に出したりはしなかった。

 全員が揃った。戦いに参加した商店街の各家の代表二十人が集まったのである。自治会長が前に立つ。自治会長は、就任すると、自らが引退するまで何年も勤めることになっていた。若井畳店の主人が現自治会長になってから、そろそろ十年になろうとしていた。

「えー、みなさん。お疲れのところお集まりいただき、ご苦労さまでございます。昨日の防人ノ儀の反省会を執りおこないます」

 月神獣との戦いのことは、「防人ノ儀」と古来より呼ばれていた。先祖代々、一般の人々に知られることなく何百年もの昔から続くこの戦いは、この商店街の人間だけに「使命」として受け継がれてきた。

「みなさん大きな怪我もなく、なによりでした」

 と会長は皆をねぎらう。

 勇樹は左手に巻いた包帯をさりげなく右手で覆い隠した。今回の月神獣は数も少なく大した魔力も持っていない小型のものばかりだった。そんな相手では倒すのも容易い。が、そんななかで唯一負傷したのが勇樹だった。軽傷で、病院へ行くほどの怪我ではなく、自前の漢方薬を処方しておいたのだが、周囲の勇樹を見る目は冷たかった。あの程度の月神獣相手になにやってんだ――。口にこそ出して言わないものの、役立たずのレッテルを貼り、しかもそのとおりの体たらくなのだから、もはや挽回のしようがなかった。

 そんな勇樹の惨めな気持ちなぞ気づく様子もなく会長の発言はつづく。

「今日は、皆さんに一つ提案があります。みなさんもお気づきでしょうが、ここ十数年の月野町商店街の売り上げは下がる一方です。お客さんである町の人口が高齢化とともに減少しているのが原因です。他の地域なら廃業して引っ越すこともできますが、我々はそうはいきません。先祖代々からの土地を離れるわけにはいきません。先日、役員会でも話し合ったのですが、ここでひとつ町興しをしてみてはどうか、と。なにもしなければ、事態は好転しません。ここはぜひ、みなさんの知恵を貸してください」

「しかしそう言われてもなぁ……」

 困惑した顔で言ったのは、高柳酒店の主人である。

 皆お互い顔を見合わせ、突然の提案に戸惑っている。

「いきなりアイデアを出せと言っても無理ですから、次回の集会のときにまた訊ねます。どんなことでもけっこうです、なにか提案がありましたらお願いします」

 若井会長は座を見回し、

「では大西さん、肉を配ってもらえますか」

 ずんぐりした体型の中年男が大儀そうに立ち上がった。大西精肉店の主人である。部屋の隅に積み上げられた発泡スチロールの箱をひとつ両手に抱え、

「今回は獲物が少なかったので、一家族あたり三キロです。順番に受け取ってください」

 皆ぞろぞろと立ち上がる。

「受け取られたかたからお帰りになってけっこうですが、このあといつものように慰労会をおこないますので、お時間のあるかたは参加してください」

 と会長。余程の事情がない限り帰る者はいない。そんななか、勇樹だけが部屋を出た。下戸というわけではなかったが、居づらい雰囲気を感じて、いつもすぐに帰っていた。だれもなにも言わなかった。

 わいわいと騒がしい声を背中に受けながら、三キロの月神獣の肉の入った発泡スチロールの箱を持って集会所の外へ出ると、もうとっぷりと陽は暮れ、光量の頼りない街灯が人通りの絶えた商店街をむなしそうに照らしていた。

 自宅へと歩きながら勇樹はつぶやいた。

 町興しか――。

 たしかに会長の言っていた通り、勇樹の薬局も例外ではなく、売り上げがここ数年落ちてきていた。薬という生活必需品であることもあって極端な落ち込みではなかったが、なにかしなければならないとは、勇樹も思ってはいた。しかし……。

 なにをすればいいのだ?

 勇樹は星空を見上げる。都会から遠く離れたこの里の空には、天の川がくっきりと流れていた。

 途方に暮れた。




   §



 シロ。

 それが、この子――月神獣の名前だ。白い体だから、シロ。子供らしい、単純だがわかりやすく、親しみやすい発想だ。

 翌日、鳥野航聖と野浦銀次郎は朝早くからここへ来ていた。

 昨日のことはすべて幻ではなかったかと心配していたが、作ったばかりの秘密基地に来てみると、現実だったことにホッとする二人だった。月神獣はおとなしくそこにおり、逃げ出したりはしていなかった。

 銀次郎は、秘密基地の材料にと、どこから調達してきたのか小ぎれいな板きれ(廃材だそうである)を何枚も自転車に積んできて、ちゃんとした秘密基地らしくすると言い、一方航聖は、月神獣のエサがなにかわかったので、これからそれを集めに行くと言い、それぞれ行動を開始した。

 月読山と呼ばれる小山の頂上には祠があり、その祠の周囲は草が刈りとられ、広場となっていた。

 満月の夜、その広場で繰り広げられる壮絶な戦闘を航聖はまだ知らない。父親から聞いた話は断片的で実際を見たこともなかったし、いずれは知ることになるだろうが、航聖はまだ十一歳だった。月神人(つきひと)としての能力が目覚めるのはもっと先のはずで、やがてはそのときが来るはずだと知識としては知ってはいても航聖にとってそれは具体的なイメージのわかないはるか先の未来だった。

 初めて上ってきた山の頂上。真ん中には石造りの小さくて苔むした古そうな祠が不気味に立っており、父・勇樹の話に聞いたピンクの草は確かにところどころに生えていた。葉は長方形で分厚い。手で触ると、ぷにょぷにょとした弾力性があった。世界中探してもこんな形状の植物はなさそうで、まさしく異界の植物といえた。

 ヤブ蚊が舞うなか、航聖は持ってきた鎌でピンクの草を刈り取っていく。全身にくまなくふった虫除けスプレーの隙をかいくぐって刺してやろうと近寄るヤブ蚊だったが、どういうわけか魔草のそばにいるとやってこなかった。

 朝とはいえすでに陽は高く、強烈な日光が暴力的な暑さをもたらしていた。ヤンキースの帽子との隙間から流れる汗を首からかけたタオルでふきつつ黙々と作業した。

 蝉時雨のなか、ほんの三〇分ほどで持ってきたレジ袋はピンクの魔草でいっぱいになった。軍手がピンクに染まった。

 これで足りるかどうかよくわからなかったが航聖は秘密基地へと引き上げた。

 戻ってくると、秘密基地の様子はずいぶん変わっていた。

 勝手に生えている木瓜の木を柱にしてベニヤ板で三角屋根ができていたし、床も板を張って靴を脱げるようにしてあった。壁も採光を考えて配しており、すべてを釘で固定してあった。

 廃材を集めて作った素朴な秘密基地だったが、少年たちの目には、たとえ犬小屋より見劣りがしても魅力のある素晴らしいものに映った。

「すごいや」

 と航聖は関心する。

 へへへ、と得意そうな笑顔の銀次郎、

「ところで、シロのエサは?」

「これさ」

 航聖はぱんぱんにふくらんだレジ袋を見せる。鮮やかなピンクが目に痛いほどだ。

「これが、魔草……」

 初めて見る異界の植物は確かに浮世離れした印象を受けないでもないが、現実に目の前にあって差し出されると、この世ならざるものという感じは薄くなった。

「さっそくあげてみよう」

 航聖は、秘密基地の板張りの床に敷かれた新聞紙の上でじっとしている月神獣の子供の前に、ひとつかみの魔草をおいてみた。

 すると、鼻先を魔草によせて匂いを嗅いだ。そして猛烈に食べ始めた。

 よほどお腹がすいていたとみえた。

「ほら、どんどん食べなよ」

 航聖はレジ袋の中身を全部出した。

 ガツガツと魔草を食べるシロを見ていると、なんだかすごく幸せな感じがする二人だった。いつまでもこうして見ていたい……。

 しかし……。

「魔草が足りなくなるんじゃないか?」

 銀次郎はあまりにも食欲旺盛なシロを見て心配した。

「そうかも……。もっと集めてこようか」

「うん。そうしようぜ」

 二人して魔草の追加を集めに出て行った。

 頂上の広場に着くと、二人とも汗だくだった。とくに航聖はこの日二度目だ。いくら小高い丘程度とはいえ、夏の暑い盛りということもあって。

 持ってきたペットボトルのお茶もすっかり熱くなっていた。熱中症にならないようにと、それを少しずつ飲んではいくが、飲むしりから汗となって出て行く感じだった。

 ピンクの魔草を、今度はさっきより多めに刈り取った。もう一度ここへ集めにいくのはこりごりだったから、なるべくたくさん。

 二人ともレジ袋に入りきれないほど詰め込んで秘密基地へと坂道を下る。

「こんなに刈り取っても大丈夫かなあ……」

 歩きながら、航聖が心配する。

「どういうことさ?」

 銀次郎は、不安を口にする航聖の気持ちがよくわからなかった。

「魔草がなくなったらどうしよう……と思って」

 魔草は無限に生えているわけではない。花をつけて増えていくにせよ、月神獣についた種が芽を出すにしろ、それでシロの食べる分をまかなえるのかどうかわからない。もし魔草が枯渇してしまったらどうなるんだろう。

 それを言えば、この先、シロが大きくなってきたら、ということに当然、思いが至ってもいいはずなのだが、そこは遠い未来が見通せない少年たちだった。

 シロはちゃんと待ってくれていた。

 すでに最初に航聖が最初に持って集めてきた魔草は食べつくされていて、まだ食べ足りない様子。あれだけの食べた草が、あの小さい体のどこへ行ってしまうのかと思うほどである。

 そこへ大量の魔草を追加した。

 シロはまたガツガツと食べ始めた。

 二人が飽くことなくその様子を眺めていると、シロはやっと満腹になったのか、かなり残っているも、それ以上は食べなくなった。

 食べる終わると、今度は遊ぼう、ということになる。

 オモチャはいくつかもってきていた。ゲームなんかではなく、テニスボールだったり、ヨーヨーだったり、ミニカーだったり、シロといっしょに遊べそうなものばかりだった。

 空腹がまぎれたのか、元気になったシロは二人の少年のもってきたオモチャとたわむれ始めた。警戒心がまったくないことで、航聖も銀次郎も夢中になってシロと遊んだ。

 シロの体は手で持てるほど小さいからいっしょに走り回ったりはできないけれど、子猫やインコのようにじゃれていつまでも飽きなかった。



 気がつくと時計は五時をまわっていた。二人とも昼ごはんすら食べていない。それでも気にならないぐらい、この異界の動物に心を奪われていた。

「あしたも来ようぜ」

 七時になろうとするころ、銀次郎が言った。

「うん、あしたもな」

 と、うなずく航聖。

「おれ、もっとちゃんとした秘密基地にしたいから板きれを持ってくるよ。運ぶの手伝ってくれよ」

「うん、わかった」

「朝、九時ごろ、おれの家に来てくれ」

「板きれって……たくさんあるのかい?」

「近くに木工所があるんだ。そこには廃材がいっぱいあって取り放題なのさ」

 銀次郎は楽しくてしかたないふうである。航聖も、その笑顔にこの先の不安などまるっきり見えなくなった。

「じゃあ、シロ、あしたまた来るから、ここでおとなしくしてるんだぞ」

 そう言うと、まるで言葉がわかるかのように、シロは黙って二人を見つめた。

 二人は明日のことを考えて、うきうきしながら秘密基地を出た。

 たいした出来事のない退屈な田舎の夏休みに、いつもの夏とは違う、二人の少年たちだけの秘密の遊び……。それはたまらなく魅力的な輝きとなって、二人の目の前にまぶしく光っていた。

 翌日、朝から自転車に乗って、航聖は銀次郎の家に向かった。自転車で二十分ほどの距離にある神社の近く、古くからの村落のなかに銀次郎の家はあった。

 一面、田んぼがつづく農道を行くと、前方に家々が固まっている集落が見えてくる。それら古くからの家々は、高い塀で囲まれ、内には白い壁の蔵が建っていたりして、まるで江戸時代かなにかにタイムスリップしたような歴史を感じさせる佇まいだった。

 その一郭に、銀次郎の野浦家はあった。何度か遊びに行ったことがある航聖だったが、いつ来てもその家の広さに圧倒された。広いは広いが人間が日常生活を送っている場所は少しだと、銀次郎は、敷地内に自分が踏み込んだことのない場所が多いと言っていた。

 航聖が銀次郎の家の前まで来ると、銀次郎はすでに門の外で待っていた。

「よし、行くか」

 銀次郎も自転車にまたがる。今日も一日中遊びたおす予定で、弁当まで持って来ていた。

 近くにあるという木工所へ行くと、銀次郎はそことは顔なじみのようで、遠慮もなく敷地内へと入っていった。航聖は勝手がわからず、銀次郎のあとを小さくなってついていった。

「おじさーん。今日も来たよー」

 電動ノコギリの材木を切る音が響き渡るプレハブ工場の開けっ放しの開口部から、銀次郎は大声で呼びかけた。

 すると――。

「おお、銀ちゃんか」

 内で働いている数人の大人たち……のなかからひとり、ランニング姿の男の人がやってきた。うっすらとヒゲをはやし、日焼けした腕は太く、いかにも肉体労働者という見かけだが、荒くれといったふうではなく気のいいおじさんといった感じで、どうやらずっと以前からの知り合いのようである。

「また、廃材をもらっていい?」

「いいとも。あそこにあるやつならね」

 と、軍手をした手で指さす先に、コンクリートブロックで囲まれた一画があった。

 見ると、細長いベニヤ板や角材の切れ端や四角くない厚板とかが無造作に積まれて廃棄されるのを待っていた。

「ありがと」

 ぺこっと頭を下げると、「行こうぜ」と銀次郎は一目散に廃材置き場へと駆ける。

 航聖は犬のように銀次郎についていく。

 銀次郎は散らかるのもかまわず、秘密基地用の建材に使えそうなものを検分する。いくら廃材とはいえ、もとは製品になる材料だったから、それほど汚れてもおらず割れてもいない。少年たちにとって、それはまるで宝の山のように見えた。いくらでも持って行きたい衝動にかられたがそうもいかず、自転車で運べるだけの板材を厳選した。

 バランスが悪くなってふらつきながら自転車をこいで木工所を後にすると、シロの待つ秘密基地へとたどりついたときにはもう陽はだいぶ高くなっていた。

 秘密基地の改築は後にして、まずはお腹をすかせたシロ(昨日食べ残した分の魔草はもうなかった)のために魔草を刈ってくる。

 二人して頂上まで登り、鎌で魔草を刈り取った。十分な量を刈り取ると秘密基地にとって返し、シロに与える。シロが魔草を食むのを見てから、今度は運んできた板きれで秘密基地の改修に取り組んだ。ノコギリでさらに成形し、釘で打ちつけて、不格好ながらも作業はすすんでいった。

 二人とも一生懸命だった。暑いなかでの労働でも、少年たちにとっては「遊び」だったから真剣に取り組めた。

 やがて完成した。なんの経験もない子供が作ったわけであるから、荒っぽい出来栄えだったが、少年たちはそれで納得した。

 組み上がった秘密基地のなかで、持ってきた弁当を食べていると、シロがなんだか物欲しそうな顔をする。

「そんなもの食べさせたら病気になるんじゃない?」

 サンドイッチをかじっていた航聖が制すると、つまんでいたベーコンをシロに与えようとしていた銀次郎はそのベーコンをしばし眺め、

「じゃ、これならいけるかも」

 と、今度はキャベツの千切りを箸でつまみ上げた。

 人間が食べるような味のついた食べ物でないなら大丈夫な気がした。

 試しにシロの前に置いてみた。

 シロはくんくんと匂いをかぐと、千切りキャベツに食いついた。もしゃもしゃと咀嚼する様子はなんとも形容しがたい可愛らしさだ。

 おいしかったのか、シロは立ち上がり、もっと欲しそうに銀次郎の膝元へとよってくる。

「そうかそうか、おまえ、キャベツが好きか!」

 キャベツがあまり好きではなかった銀次郎は大喜びしてシロにキャベツを全部あげた。

「魔草がだんだん少なくなってきたから心配だったけど――」

 航聖も思わぬ発見にホッとした表情を浮かべた。山の頂上にはまだまだ魔草が生えていたが、こうやって毎日のように刈り取っていたらいつかなくなってしまうだろう。が、キャベツなら簡単に手に入る。

「そうだ、あした、農協の朝市で買ってこよう」

 すると、銀次郎は次々と思いついて、早口でまくし立てた。

「互いにお金を出し合ってさ。百円あれば買えるだろうし、それなら小遣いでなんとかなるじゃん」

「……そうだね。うん。そうしよう」

 さすがに家の冷蔵庫から持ってくるわけにもいかない。航聖は貯金箱にいくら入っていたかなと思い出そうとして、あんまり入ってなかったな、と思う。なにに使ったのかさえよく覚えていない。

 弁当を食べ終えると、やっと遊びの時間である。

 すっかり慣れたシロも、二人と遊ぶのが楽しいらしく、じゃれあったりするようになった。その様子は子犬や子猫と変わりないように見えたが、こんなにも小さいのに木に登ったかと思えばさっと飛び降りるところは、ただの犬猫の子とは違う身のこなしだった。

 航聖も銀次郎もそんなシロとの時間が楽しくてしかたがなかった。こうして、二人にとって充実した時間が過ぎていくのだった。



「おや、今日もおつかいかい?」

 レジのおばちゃんにそう言われて、銀次郎は「まあ、そんなとこ」とほくそ笑む。

 農協の朝市である。各農家から直接農協へと持ち寄られた野菜などが販売されている。

 時刻は午前七時半。早朝といっていい時間だ。

 ここでキャベツを買うのも何度目だろうか。毎回ここでキャベツばかり買うので、お好み焼きでも作るのかと聞かれたこともあった。

 シロのエサにと、キャベツのほかにもブロッコリーやアスパラガスやモロヘイヤなんかも試してみたが、どれも食べてはくれず、結局キャベツばかり買うハメになってしまっているのである。

 魔草は、生えている量が減ってきたのと刈り取るのが面倒ということもあってだんだん与えなくなり、代わりにキャベツが増えてきた。それでもシロはすくすく育ち、わずか数日で見た目にわかるほど大きくなっていった。

 キャベツの代金を払い、秘密基地へと急ぐ。

 朝市は銀次郎の家の近くの農協で開かれるため、キャベツを買うのはいつも銀次郎の役目だった。農道をつっきり、橋をわたり、航聖のいる月野町商店街へは二十分ほどだ。

 月町商店街は、真ん中を県道が通り、道路の両側に十件ほどの商店が並ぶ。昔ながらの商店街だ。コンビニやファーストフードの店はなく、狭い歩道に面した各商店はすべて自宅を兼ねた店舗である。

 じんわりと過疎化が進む田舎町のなんの特徴もない商店街だが、つぶれてしまった商店があってもおかしくないのにまだ閉店してしまった店はなく全部生き残っているのが特徴といえば特徴かもしれなかった。大型のスーパーマーケットの進出がないことも、その理由のひとつだろう。

 航聖の鳥野薬局は、商店街の端から三軒目にある自宅兼店舗。

 農協の朝市で買い物をした時間が早いから、銀次郎がやって来たとき、商店街はまだ眠っていて、開いている店はパン屋など、ほんの数店だった。

 店舗の横に細い路地があり、航聖の家の玄関はそこに面していた。路地へ入ると、航聖が待ってくれていた。

「おはよう!」

 銀次郎は手をあげ、自転車を急停止する。前かごに入れていたキャベツがごろんと音をたてた。

「はい、これ」

 航聖は握りしめていた小銭を銀次郎に手渡した。キャベツの代金はいつも折半だ。

「じゃ、行くか」

 自転車をおいて、月読山へと分け入った。今日も楽しい一日が始まる。

「なあ、銀次郎――」

 二人して歩きながら、航聖は声を低くした。

「あしたぐらいに台風が来そうだよ……」

 今朝、天気予報を見ていたら、数日前の予想進路から外れ、もろに直撃しそうなのだった。台風が接近しそうだからと、今日は念のために秘密基地を補強しようということになっていたのだが、どこまでのことができるか不安になってくるのだった。

 ただの基地ならもう一度作り直せばいいやと開き直れるが、今の秘密基地はシロが住む家でもあるのだ。風で吹き飛ばされないようにしたかった。

 いつものように魔草とキャベツを与えると、すぐに補強工事に取りかかった。最初に持ってきたときに使わなかった板きれが基地の周囲に放置されていたから、材料はそれでまかなうことにした。

 自生する木に針金で板をくくりつけ、釘で打ちつけ、考えられる限りの補強を施した。

「これでだいじょうぶだろう」

 銀次郎は額の汗をぬぐう。風が吹きつけて汗で濡れたシャツが涼しいが、その風が心なしかいつもより強く感じられた。

 どうやら本当に台風がやってきそうな気配である。台風が来るなどと想定していなかった事態にあたふたと準備したものの、所詮子供の工作の域を出ない故、あとはあまりひどい台風でないことを祈るのみだった。予報だと今日の夕方から明日の明け方まで台風の暴風圏内に入る。両親からも今日は早く帰って来いと言われていた。

 いつものように日が暮れるまで遊んでいるわけにもいかない。

 補強工事に時間を費やした分、いつもより遅くなった弁当を食べ終わり、少しの間シロと遊んでいると、だんだん雲行きが怪しくなっていった。

「そろそろ帰らないか?」

 航聖が空を見る。雨が降り出したら嫌だった。一応、傘は持ってきてはいたが、風が強くなると役に立たないだろうし、自転車で遠くまで帰る銀次郎はきっとずぶ濡れになってしまうに違いない。

「そうだな……」

 二人ともシロのことが心配だった。家にいったんこっそり避難させることも考えたが、わずか十数日でおとなのネコほどの大きさになっており、だれにも見つからずに部屋に入れるのは少しばかり無理そうだった。運動量も木から木へジャンプするようになり、走り回ると少年たちより速くなっていた。なんとか部屋へ隠したとしてもどんなことになるかわからない。

 秘密基地においておくしかなかった。

「シロ――」

 しゃがみこんで、航聖はシロの目を見つめる。

「もうすぐ台風がやってくるんだ。今からあしたの朝まで、ここでじっとしてるんだよ」

 いつもと違う航聖の雰囲気を感じ取ったのか、シロも不安そうな表情で鼻を鳴らした。

 銀次郎は、ふかふかの毛に覆われた体をいっぱい撫でて、

「少しの間だけだから。嵐がすぎたらちゃんと来るよ」

 シロはそれで少し安心したようだった。



 その夕方、天気予報のとおりに台風はやって来た。降り始めた雨は徐々に激しくなってゆき、強い風と相まって家の壁をたたきはじめた。

 航聖は台風ニュースを横目で見つつシロのことが心配だった。家族そろっての晩ごはんも心ここにあらずといった具合で。もちろん、いくら気になっていてもシロのことはだれにも話せなかった。なにを食べているかも味もわからず、話しかけられても上の空だった。

 時間が遅くなるに従って風雨は強くなり電線がびゅうびゅうと鳴った。

 築二十五年の古い木造家屋である鳥野家は、昨年屋根瓦を葺き替えたばかりだった。

 だからちょっとやそっとの台風ならだいじょうぶよ、と航聖の母の直美は言う。

 父の勇樹ものんびりと他人事のようにテレビを見ているし、姉の理沙はいつものように、食事が終わるやいなや二階の自室へ引き込んでしまっていた。

 もし避難指示とか出たらどうしよう、といつもより真剣な顔つきで台風ニュースに注意を向ける航聖に、勇樹が声をかけてきた。

「珍しいな。いつもテレビゲームばっかりしてるかと思ったら、台風ニュースを見てるなんて」

 テレビでは、夜にもかかわらず屋外で強風に吹かれながらマイクを手にしたレポーターが必死の形相でなにかしゃべっていた。

「ぼくだって少しはニュースぐらい見るよ」

 避難勧告が出そうな様子はなかった。山間の里である月野町に、かつて避難勧告や避難指示が発表されたことはなかった。そうそう気にするほどでもないという態度の勇樹と比べて航聖は不安げだった。

「夏休みだからっていつまでも起きてないで早く寝るのよ」

 直美の小言に、航聖は「うん」と生返事。シロの姿が頭の中にちらちら浮かんで。

 何度か同じことを言われて、航聖はようやく腰をあげた。

「おやすみなさい」

 ゴウゴウと外が騒がしいなか、のろのろと階段を上がってゆく。

 しかしベッドに入ってもなかなか寝つけなかった。

 初めて経験する強い風と雨におびえてやしないか――。

 頑丈に補強したとはいえ、秘密基地は壊れずにいてくれるだろうか――。

 そんな心配がずっと心に渦巻いていた……。

 それでもいつしか眠りにおちて、翌朝はやってきた。



 台風は未明に去っていった。雨はあがり、窓の外は明るい太陽が輝いていた。

 最近は朝早く起きていた航聖だったが、昨夜は遅かったせいで八時をすぎてもまだ布団に入っていた。台風が運んできた夏の熱い空気が漂って、いつもより暑い朝に寝汗がひどい。

 それでも電話がかかるまで寝息をたてていた。

「航聖、電話よ。野浦くんから」

 母・直美の呼ぶ声でやっと目を覚ました。

 ぱちりと目を開けて、

「銀ちゃん!」

 がばっと上体を起こした。

 あわてて階下へいくと、航聖はリビングの電話に飛びついた。

「シロの様子が心配だ。もう台風も通り過ぎたし、今から行こうぜ」

 銀次郎の興奮した口調が電話口から伝わってきた。

「わかった。行こう」

 航聖は即答した。言われるまでもなかった。起きるのが遅くなってしまったが、シロの様子が心配なのは航聖も同じだ。

「お母さん、早く朝ごはん!」

 電話を切るなり振り返った。

「はいはい、今トーストを焼くから。今日もお弁当いるの?」

 まったく、毎日毎日どこでなにをしているのかと思いつつも夏休み中ずっと家にいられるのはうっとうしくてしかたがなかった直美は、多少面倒くさいと感じながらも適当に弁当をこしらえていた。

 一度、二階の自室へ着替えに戻った航聖は、リビングにとって返したときには焼き上がっていたトーストをほおばる。

「はい、お弁当」

 差し出されたランチボックスを、牛乳を飲みながら受け取る航聖、

「ごちそうさま」

 あわただしく朝食を終えた。

 虫除けスプレーを体中にふるのももどかしく玄関を飛び出すと、銀次郎を待った。

 ほどなくして自転車でかけつけた銀次郎が現れた。電話を切ってからの時間をみると、いつもより急いで来たようである。はあはあと荒い息をつき、汗がTシャツに浮き出ているのは暑さのせいだけではないだろう。

「行こう!」

 ろくすっぽ休憩もせず、ペットボトルのお茶(家で作ったのを空容器に入れたもの)をがぶがぶ飲んで銀次郎はうながした。

 シロのことが気になってしかたがないといった様子がありありと出ていた。

「うん、行こう」

 航聖はそんな銀次郎に「少し休んだら」とも言えず、二人して月読山に作った秘密基地へと向かった。

 雨に濡れた夏草が生い茂ったなかをどんどん進むと、やがて見えてきた。

 はたしてどうなっているのか……。

 どうか無事でいてくれと祈りながら、近づいていった。

 すると――。

「シロ……!」

 シロが駆けてきた。

 背中の羽根を広げて二人に飛びつくと、交互に顔を舐める。

 シロ、シロ、シロ!

 大げさなほど喜ぶシロは、おそらく怖い思いをしたのに違いなかった。

「怖かったか? もうだいじょうぶだぞ」

 航聖は雨で白い体毛がべっとりとなったのもかまわず、シロを抱きしめる。

「秘密基地はどうなった?」

 銀次郎はそちらも気になっていた。

「行ってみよう」

 航聖は立ち上がる。

 秘密基地はすぐ近くだ。二人の少年は目印の木瓜の木立を目指して歩を進める。シロが後から、まるで飼い犬のようについてきた。

 草の間から見えた秘密基地を前に、二人はしばし立ち止まった……。

 秘密基地は半壊していた。あり合わせの材料での素人工事で、台風に耐えるものを作るなど、どだい無理な話であった。

 しかし少年たちは落胆しない。

「よし、修理を始めようぜ」

 銀次郎は前向きだった。

「うん」

 返事をする航聖。

 だが……。

 夏休みは間もなく終わる。少年たちの幸福な毎日はどうなるのか……。次第に大きく成長していく月神獣……。

 いつか終わりを告げるだろう。

 言葉には出さなくともその日が遠くないことは二人とも想像できてはいたが、それがどんな形の終焉になるのか……。

 そして――。

 まったくもって思ってもみない現実に翻弄されることになろうとは、少年たち自身、まだ知る由もなかった。


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