三
二月一日。三年生が自由登校になって、校内がすっかり静かになってしまった。三年生の教室にはごく一部のひとしかおらず、そのさらに一部は図書室で勉強しているようだ。そして、雨は降っていないのだが陸上部は室内トレーニングをし、サッカー部は部活中止ということで、グラウンドはぽっかりと静まり返っていた。そしてそんな中、私たち文芸部は、あろうことかグラウンドを借りることになった。本当に、どうしてこうなったのか。もちろん理由はある。なんと、珍しくも橋枝に雪が積もったのだ。降っても少量、多めに降っても滅多に積もらない橋枝に。
ただし、その後が問題だった。私と莉子ちゃんは本来なら暖房の効いた部室でのんびりする予定だったのだが、先生が急に雪合戦をしようだなんて言い出したのだ。そんな子供みたいなこと、もちろん嫌だ嫌だと言ったのだが、先生と、触発されたるりちゃんが許してはくれなかった。ちなみに桜ちゃんはどっち付かずで迷っていたのだが、先生にすぐに攻め落とされてしまった。
「季語に触れる時間も、大切だ」
なんて、格好付けた言葉で。それが桜ちゃんには効果てき面だったらしく、桜ちゃんまで私の腕を引っ張るようになり、しぶしぶ外まで出て来た。
吐く息が淡い白になり、喉に触れる空気がひんやりとしている。外は一面真っ白に覆われていて、そこを歩いた誰かの足跡がくっきりと残されていた。雪は日曜日に積って、その夜から今日の朝まで降り続いた。そのため足元の雪を掘ると、踏み固められた氷のような雪が顔を出す。恐らく日曜日には誰かがここで遊んでいたのだろう。
「まりちゃん先輩、隙ありです!」
「へっ……?」
頭に緩やかな衝撃を感じると、水が髪の間に、そして地肌に触れてくすぐったいくらいの冷たさに襲われる。振り向くとるりちゃんがしたり顔で雪玉を構えていた。
「やったねえ……ええいっ!」
足元の雪を丸めて力いっぱい投げると、緩やかな放物線を描きながら、るりちゃん――ではなく、その向こう、準備に手間取っていてようやく現れた莉子ちゃんの顔面に直撃した。莉子ちゃんはゆっくりと顔の雪を除けると、投球姿勢のまま固まっていた私に満面の笑みを見せていた。
「まーりーちゃーん?」
「あ、あの違うの、違くないけどあのその、ごめんなさ――」
言い終わるより先に、莉子ちゃんの放った雪玉が私の顔を撃ち抜いた。私はそのまま真後ろに大の字に倒れ、雪の柔らかな感触に包まれる。
「まりちゃん先輩、何やってるんですかー。ルリはこっちですよー」
「あはは、何やってんのまりったら」
雪を踏み歩いて、莉子ちゃんが手を貸してくれた。私は雪に寝た感覚に胸を躍らせながら、るりちゃんに対峙した。
「おお、やってるな」
「ちょっとルリちゃん! 一緒に出る約束だったじゃない……まったく」
「さくらんも先生さんも、やる気満々ですね! 遠慮なくいきますです!」
そしてコートにマフラー、サングラスと重装備で現れた先生と、少し頬を膨らませながらも楽しそうに目尻を緩めた桜ちゃんとを加えた、五人の雪合戦が始まった。空はまだまだ晴れそうになかった。
やがて、手袋の中まで濡れ始めた頃、雪合戦は休戦となった。桜ちゃんとるりちゃんは雪だるまを作り、先生は何やら他の先生――陸上部の顧問だっただろうか――と話し込んでおり、私と莉子ちゃんはかまくらを作っていた。グラウンドの端に、作りかけのものがあったのだ。勝手に触ったら申し訳ないのだが、莉子ちゃんは莉子ちゃんだけに利己的だった。
「休戦の雪合戦や……これ十二音だね」
「まり、それ職業病よ」
「なんか癖でやっちゃうんだよね、あ、桜ちゃんなら休戦やって切るのかも」
『休戦や合戦場の雪に寝る』なんて考えて、口には出さなかった。良し悪しは後で桜ちゃんに聞くとしても、やはり恋愛句でないと物足りない感覚があった。先日誠二くんにも言われたように、気負わずに、詠みたいものを詠むと決めたのだから、私は恋愛句を突き詰めるのだ。
隣で莉子ちゃんは黙々とかまくらを掘り進めている。
「あー……あのね、そう、莉子ちゃんって恋って、したことある?」
「もう何言い出すの。中学の頃、覚えてるでしょ」
そう言えばサッカー部の先輩に告白していた覚えがある。案の定――と言っては悪いが――失敗して、一日何も食べなかったほどに落ち込んでいた。
「逆にさ、まりは好きな人とかいないの」
「私?」
「そう、まり。だってまりの浮いた話とか聞いたこともないし、なのに俳句は恋のことばっかりで、ずっと気になってたんだよ? 最初は背伸びしたいのかと思ったんだけどね、もしかしたら私の知らないところで、なんて思ったのよ」
「そんな、いないよ。そもそも莉子ちゃんに隠せるはずもないじゃん」
「せめて気になる人とかさ」
「気になるひと……うーん」
私が関わっている男の子なんて、誠二くんくらいのものだ。その誠二くんに何か特別な感情を抱いているかと言われれば、比較する男の子がいないから分からないのだけど、普通の友人だと思っている。
「へえ……誰かいるんだね」
思考が声に出ていたのかと焦ったが、そんな創作じみたこと滅多に起こらないはずだ。莉子ちゃんは悪戯っぽく笑っている。
「…………莉子ちゃん、さては反応試してる」
「あははっ、お見通しなのはお互い様か。でも残念、半分正解だけど半分間違い。まりが一瞬でも悩むって、つまり誰か男の子がいるんだよね」
はっ、とさせられて持っていたスコップを落としそうになる。
「なんかずるい……」
「まあまあ、それより誰? 私も知ってる人?」
「誠二くんだよ、六年の時の、衣川誠二くん。この間帰り道で会ってね、背も高くなって、顔も男のひとらしくなってて見違えたよ」
「うっわ、懐かしい名前……で、まりは誠二のことが好きと」
「そこまで言ってない!!」
顔が一気に熱くなる。
「にしし、ならこの壁の外に誠二――いや、誠二くんがいると思って」
「へ……そんなの……」
胸が狭窄感に襲われ、不意に苦しくなる。私は内側から湧きあがるその感情に耐えられず、思わず外に飛び出していた。外はちらほらと雪が降り始めていた。まるであのクリスマスの日のように。
「どうしたの、まり。そんな真剣に考えちゃった?」
莉子ちゃんはのそのそとかまくらの入り口をくぐり抜けて、私の頭に乗った雪を払う。
「どうしよう莉子ちゃん……」
「冗談の、つもりだったんだけどねえ……」
莉子ちゃんは私の心中を察してくれていた。
どうにも私は、他でもない誠二くんに恋をしてしまったらしい。
かまくらを隔てて恋のはじまりぬ
そんな句を壁に残して、かまくらは完成した。私と莉子ちゃんの二人が丁度入りきる程度の、小さなかまくらだった。莉子ちゃんと肩を触れ合わせながら、地面の雪を木の枝で弄る。
「私、莉子ちゃんの俳句が見たい」
莉子ちゃんの肩に頭を乗せて、そっと呟いた。
「どうしたの急に」
「なんとなく、見たいの」
「えー、だって私に才能なんてないし、下手な句しか作れないよ」
「それでも良いの。私、莉子ちゃんの句が見たい」
「仕方ないなあ、笑わないでよ」
数十秒悩んで、読み上げた。
まりちゃんが妹みたいな雪合戦
「あはは、俳句っぽくもないね」
莉子ちゃんは照れ隠しのように誤魔化した。
「ううん、そんなことない、すっごく莉子ちゃんらしいよ。昔はそうやって、まりちゃんって呼んでたよね……懐かしいよ」
「そうだね。なんでかな、俳句詠もうとしたら、昔のことばっかり思い出しちゃって」
「少し、分かるかも。小学校の頃のこととか、不思議と思い出しちゃって、懐かしくなるの」
「そっか、まりも一緒なんだ」
莉子ちゃんが私の頭に頭を預けた。お互いに寄り添うかたちになって、二人で目を閉じる。
「ねえ、まり」
「うん」
「誠二は昔と変わってない?」
「うん、外見はすごく変わったけど」
「ねえ、まり」
「うん」
「誠二は昔から、こっそり気の利いたことする奴だったけど、多分今もそうなんだよね」
「うん」
「そっか……なら、大丈夫だと思うよ」
「うん……」
「頑張って」
「ありがとう……莉子ちゃん」
私はそのままゆっくりと眠った。日が落ちる頃、誰かに抱えて運ばれた感覚だけは覚えていた。
その日の帰り道、偶然にも誠二くんに会った。中途半端に眠ったせいか、電車内で熟睡していた私を起こしてくれたらしい。雪は夕方より少し強めに降っていて、傘を学校に置いてきてしまった私は誠二くんの傘の中にいた。さっきの今でそんなことになって、私の心臓は壊れんばかりに跳ねていた。眠気も何もかも吹き飛んで、誠二くんへの想いだけが今にも口からこぼれそうになっていた。
「あ、あの……」
「どうした小原」
「あの、ね……私、その……」
「ああ、この間の相談か。もしかして上手くいったのか?」
「この間?」
きょとん、として立ち止まる。
「ほら、小原が恋に悩んでたみたいだからさ、その件かと」
「ああ、えっと、それは解決したの、本当にありがとう。でも、その、ね、今はそれじゃなくて」
「大丈夫か? ちょっと落ち着こう。何か飲み物でも……」
「待って!」
私に傘を預けて近くの自販機に向かおうとした誠二くんを引き留める。
「あの、私……私、誠二くんのことが……!!」
「俺? 俺がどうかしたのか?」
「誠二くんが好――」
き、という言葉は続かなかった。不意に私の心を覆うような気持ちが溢れて、それ以上を言えなかった。言ってしまったら、壊れてしまう。やっと手にしたこの恋心で、やっと私の句が詠めるはずなんだ。だから、伝えちゃダメなんだ、と。
「小原……?」
「……ごめんなさい、何でもないの、またね……」
私は雪の中を駆けた。脆い恋心を必死に抱え込んだまま。




