一
苫屋瑠璃は自他ともに認める変人であり、人一倍楽しいことに目がなかった。
小学校の卒業文集には、将来は冒険家になると書いていた。その夢を未だに失っていないのか、彼女は毎朝地域の散歩に出かけていた。散策や探検と言っても差し支えはないだろう。時には町から大きく離れた場所に行って帰れなくなることすらあった。
普段は行き先を決めないようにしているのだが、年始のこの日だけは決まって初詣に行くことにしていた。
「今年も良いことありますよーに」
まだ朝も早い境内に、小さな小さな二拍が響いた。
この日、一月七日は県立橋枝高校の始業式だった。真っ白な毛並みの猫を追いかけて隣町に行ってしまった彼女は、案の定遅刻してしまった。息を切らす疾走の果てに、クラスメイトに笑われながら迎えられた。皆既に新学期早々の大掃除に取り掛かっていた。
「あけおめ、ルリ。また迷子?」
「おめでとー。それがさー、気づいたら隣町にいたんだよ」
「もう、本当に自由人なんだから」
クラスメイトと談笑しつつ、箒を手にする。一掃きで埃が舞い上がり、咳込んでしまった。
「うーわ、積もりすぎでしょ」
「誰かさんが年末の掃除サボってたからでしょ」
瑠璃は、てへへ、と誤魔化し半分に笑う。内心、もう少し遅れて来た方が良かったかも、なんて考えていた。
掃除は思いの外早く終わり、余った時間で丸めた新聞紙を投げ合っていた。
瑠璃は始業式が嫌いだった。もちろん終業式もだが、それは大半の女子が共有する感情だった。正装徹底とやらの方針により、タイツもセーターもなしに寒い寒い体育館に座り続けることになっていた。
しかし唯一、進路の先生の話だけは好きだった。落ち着いた口調に紛れた遊び心も、乱暴な思考に見え隠れする丁寧な心遣いも、瑠璃には興味深い存在だった。
校長の退屈な挨拶を欠伸混じりに聞き流すと、進路の西村先生が顔を出した。瑠璃は膝の上で枕代わりにしていた腕を解いた。
「あけましておめでとう、進路の西村だ。三年には言ったことがあるんだが、今日は進路についての話をしようと思う。ほらそこ、驚くな。俺だって一応進路担当なんだ」
くすくすと笑い声がする。これだから、瑠璃は西村先生が好きだった。退屈な話しかしない教師と違って、生徒に寄り添うような語り口、それはある種の変人であり、そこに親近感を感じていたのかもしれない。
「さて、今から話すのは『普通とは何か』だ。三年は確認程度に聞いてくれ。俺はな、無難に逃げること以上に危ないことはないと思っている。特に学生のお前らは、だ。ここは進学校だが、だからと言って難関大学に行く必要はない。スポーツ選手や芸術家になっても良いじゃないか。もちろん普通が悪いとは言わない。無難な道というのはリスクが少ないから無難なんだ」
瑠璃は見えないアンテナのようなものが反応した気がした。スカートの布地越しに伝わる床の冷たさも忘れ、食い入るように先生を見つめていた。
「普通じゃないと怖いか? まあそうだろうな。だがな、お前らはまだ学生で、まだ子供だ。失敗を恐れる必要はない、むしろ失敗しろ。失敗したお前らを支えるのが俺たち教師の仕事だ。無難に囚われず、果敢に挑戦しろ。俺からは以上だ」
挨拶と言うより演説のような熱弁に、会場が拍手に包まれた。古い天井は崩落するのではないかと思うほど、ミシミシと音を立てていた。
気づけば瑠璃は両手を固く握っており、そこにはうっすらと汗が滲んでいた。心臓は鮮魚のように跳ね、目は煌々としていた。
そんな瑠璃は一つのことを考えていた。部活を始めよう、と。
終礼が終わると、瑠璃は一目散に駆け出した。目指すは昇降口前の部活動掲示板だった。そこには各部活動の大会予定や表彰、そして勧誘ポスターが貼られている。
瑠璃は唐突に部活がしたかった。その抑えがたい感情を満たせるならば何部でも良かった。何かそれに見合う部活はないものかと、各部のポスターを凝視していた。
「ねえ、あなた。一緒に俳句しない?」
「ちょっと莉子ちゃん、急に失礼だよ」
肩をちょんちょんと叩かれた。瑠璃の目の前には二人の女子生徒がいた。片方は瑠璃よりやや高い身長の、クリアブルーで縁の薄い眼鏡を掛けた短髪の女子だ。もう片方は、おずおずとポスターのようなものを手に、髪をピンクの紐リボンでハーフアップに結った、小さく可憐な少女だった。二人とも胸のリボンが赤なので二年生の先輩だ。
思わぬ事態に瑠璃が目を丸くしていると、小さい方の少女が補足した。
「実は、私たち文芸部は部員が足りなくて、今募集中なんです。俳句甲子園に出たいんです! どうかお話だけでも!」
見掛けの割によく喋る子だった。大抵こういう気の弱い子は初対面だと物怖じするものだが、それだけ必死なのだろう。瑠璃はそう思うと共に興味が湧いた。この子を本気にさせるものが何なのかと。
「俳句……ですか。俳句っていうのは、楽しいです?」
「はい!」
小さい方の少女の真っ直ぐな瞳に、瑠璃はにっと笑った。
「ルリで良ければ」
握手をすると、少女はぱあっと目を輝かせた。向日葵みたいだ、と瑠璃は密かに思った。
「良かったね、まり」
「うん!」
莉子とかいう女子は、姉のような面持ちで少女の頭を撫でていた。
太陽が雲間を抜けたのか、暖かな日差しが舞い込んだ。階段から騒がしい足音がして、サッカー部やラグビー部、次いで陸上部が駆け出して行った。
「ここだとあれだし、部室に移動しようか」
莉子は瑠璃の手を取り、文芸部室へと招いた。
「私はまり、小原まりです。こっちは友達の莉子ちゃん。莉子ちゃんは部員じゃないんだけど、部員集めだけ手伝ってもらってるの」
へえー、と生返事をしながら、瑠璃は部屋を見回した。木製の本棚には高さが様々な本が並べられており、その上には数枚の賞状があった。
「ルリはルリです、苫屋瑠璃っていいます」
「そういう訳だから、早速一句詠んでみようか」
「ちょっと、莉子ちゃん、流石に急すぎるよ」
まりが慌てて止めようとするが、瑠璃は至って落ち着いていた。じっと机の上に焦点の合わない瞳を向けると、ふう、と息を吐いた。その様子を見てまりは息を飲んだ。それはまりの敬愛する先輩が句を編む時の目であった。
「…………って」
「え?」
「俳句って、季語がある方です? ない方です?」
瑠璃は視線を上げることなく尋ねた。
「一応ある方、かな。無季俳句っていうものもあるんだけどね」
まりはつま先で床を二度叩くと、本棚から歳時記を取り、瑠璃の左手側に備えた。瑠璃はそれに構うことなく窓辺を見た。白んだ空は暗く、冷たい。この間まで積っていた雪は既に解け、遠くの木立は裸木ばかりが並んでいた。
「見えました」
瑠璃はそう呟くと手元のノートにさっと書いた。
一滴の水を葉とする冬木立
「あれ……普通に上手い? ねえ、まり」
莉子はまりをちらちらと窺うが、まりは少し難しい顔をしていた。
「まり……?」
莉子は再度声を掛ける。
「こういうときって、どうしたら良いのかな。私より上手いよ」
「ルリ、上手いんですか。でも、なんか物足りないです」
「えええ……本当にどうしたら良いのかな」
まりが困って指を唇に当てると、部室のドアがガラガラと開いた。
「よう、新入部員がいると聞いて来たぞ」
「誰から聞いたんですか。いえ、丁度良いです、それよりも彼女の……」
そうして現れたのは、文芸部の顧問こと、西村先生だった。まりは瑠璃の手元の一句を指した。
「ほう、なるほどな、一滴の水を葉とする冬木立、良い句じゃないか。で、どこが不満なんだ?」
「分かりませんです、何か物足りないです」
瑠璃は口をやや尖らせる。先生はそうかそうか、と頷いて本棚を漁り始めた。そうして何冊かを机の上に置くと、ドアに手を掛けた。
「宿題だ、苫屋。どんな句を詠みたいか考えること。それは参考までにな、あと小原も一応な」
そう残して先生は立ち去った。部室には妙に静かな空気が残っており、まりは莉子と目を合わせた。しかし何を語るでもなく、静かに机の上に視線を流す。そこにあったのは句集だった、有名らしい俳人の句集から、学生の作品を集めたものもあった。有名な俳句賞のものから、地元の小さなもの、果てには俳句甲子園の作品集までがあった。
「今のって……西村先生さんですよね、ルリの名前知ってたんですね」
瑠璃はブラウスのボタンを指先で弄りながら、ほんのりと頬を赤らめて俯いていた。
「うーん、あの先生は何から何まで知ってるから、あんまり気にしなくて大丈夫だよ。別に目立ってるとかじゃないよ、きっと」
まりがそう伝えるも、瑠璃の鼓動は早まったままだった。
「そうですね、きっと」
その夜、瑠璃は幾つかの句集を持ち帰った。
ブレザーとセーターをベッドに脱ぎ捨て、クッションを枕に寝転ぶと、パラパラと句集に目を通した。
「なんか……違う」
もちろん瑠璃には俳句の良し悪しは分からないのだが、目に入る句の全てが瑠璃には退屈だった。ただ椅子に大人しく座ったような音の並びが、教科書を真似たような字の並びが、自分で歩くことを忘れたような怠惰な思考が瑠璃には不満でしかなかった。
それは瑠璃自身が詠んだ句に対しても、であった。
「はああ……ルリ、ダメダメですね」
瑠璃は床に身を放り出して天井を仰ぐ。瑠璃はこれまで何をするにも苦労したことがなかった。買いたいものがあれば買ってもらえ、したいことがあればさせてもらえた。そんな瑠璃だからこそ、満足できない事実に納得ができなかった。
「もうちょっと探しましょう……」
中には五七五の定型を無視したものも多く見受けられたが、どうも瑠璃には合わなかった。そうして夜を過ごすうちに、瑠璃はいつしか眠っていた。




