四
わっ、と会場がざわめき始める。どちらが勝っても不思議ではないと、自分でも思う。政涼のひとたちも同じことを思っているらしく、両手を組んで祈っている。
「これが事実上の決勝戦だと言わんばかりの熱い議論でした。それでは、判定に移りたいと思います」
審査員が赤と白の旗を緩める。私たちも、五人で手を繋ぎ合って祈りのかたちを取る。
「それでは…………判定!」
一斉に顔を上げる。そして二度、白の旗を数え直した。
「赤四本、白一本で、赤チームの勝利です!」
政涼のひとたちが安堵する。そして、私たちはある不安に憑かれていた。
桜ちゃんの句が勝てなかったという事実、それはただの敗北よりも大きなものだった。
「評価の内訳です。寺山先生、赤:作品点九点、白:作品点八点。鑑賞点一点が白チームに加わり、九対九ですが、作品点の高い赤に挙げております。松永先生、赤:作品点八点、白:作品点七点。鑑賞点一点が白に……」
九点という数字に耳を疑ったが、鑑賞点はほとんど橋枝が取っていた。句を見てほしい政涼と、ディベートを変えたい橋枝と、どちらの高校も自分たちの戦い方が光っているという証拠だった。
それが唯一の救いで、まだ闘志は揺らぐことさえなかった。せめて作品点が同じなら、鑑賞点で勝てるのだ。
「選評を伺ってみましょう。赤になんと九点を入れました寺山先生、お願いします」
「群像劇、というのが良い取り合わせだったと思います。それについて白の子から『てふてふという表記が群像的だ』という指摘があったのも良かった。その指摘は私達もできなかったかもしれませんね。白のディベートは相手の句をより良くしていて、もしかしたらそれが敗因だったかもしれませんね」
ははは、と審査員が冗談半分に笑う。悪い気はしなかった。むしろ、褒められているのだから。
「ありがとうございます。続いて中堅戦に移ります。赤白攻守の順番が入れ替わります。まず、白チーム代表の方、ご起立の上、二度俳句を読み上げてください」
赤:てふてふの二度目のてふの青さかな
白:蝶々の軌跡を微分して銀河
政涼の二句目は佐伯さんの句だった。一目で良い句だと分かるのは、流石という他にないだろう。
「それでは白チームの句に対して、赤チームの方、質疑をお願いします。
質問のある方、挙手をどうぞ」
政涼から、五本の手が上がる。
「赤チーム、降旗君」
「蝶々の軌跡を微分して銀河、とのことですが、軌跡を微分するという表現では伝わらないと思うのですが、これは何を伝えたかったのですか」
やはりその質問が来た。最初に来るだろうと予測していた私たちは、五人で手を挙げる。
「白チーム、文月さん」
「はい。まず『微分』という用語についてですが、これは物事の成分を見ることだと理解してください。つまり、この句は『蝶々の軌跡が何でできているか見たら、銀河のように見えた』という読みになると思います」
佐伯さんが二度頷いて、手を挙げた。
「赤チーム、佐伯さん」
「はい。そうですね、蝶が鱗粉を撒き散らしながら飛んでいると思えば、その道はきっと天の川みたいに綺麗だと思います! でも、その景を言うためなら、もう少し分かりやすい言い方があったと思います。例えば『蝶々の鱗粉銀河らしくあり』みたいな。なので、軌跡や微分といった難しい言葉を使った理由について教えてください」
会場から拍手が沸き起こった。そして、完全にペースを持って行かれてしまった。私はいよいよ焦り始めていた。
考えなしに手を挙げてしまったが、それより先にるりちゃんが挙げていた。
「白チーム、苫屋さん」
「ルリは別に良いと思うです。だって、この句には、そちらの山中くんが言ったような、俳句の本質があるですから。自分の見たもの感じたものを、自分の言葉で表現する。それも俳句の本質だと思うです。この表現の方法自体がこの句の味であると、理解すべきだと思うです」
瑞姫ちゃんに手を握られる。一分前の看板が挙がった。
「赤チーム、坂井君」
「なるほど、確かにそうかもしれませんね。さて、この句で気になるのは『銀河』という言葉、つまりは天の川という、季語を使っている点ですよね。しかも天の川は秋の季語ですから、この季重なりは重大な欠陥だと思うのですが、いかがでしょうか」
「白チーム、遠山さん」
「季語の銀河というのは、秋の夜空に広がるものですが、ここでは比喩としてそれを指しているだけであって、実際に天の川が広がっている訳ではありません。なので、季重なりは問題にならないと思います」
「赤チーム、竹内君」
「はい。天の川は比喩だとおっしゃいましたが、それならば――」
「――そこまでです!」
そこまで、の看板が挙がって、忘れていた呼吸を繰り返す。政涼の怒涛の攻めは、一切の油断を許してはくれなかった。
だが、私たちが輝くのはここからだ。私たちのディベートで、俳句甲子園を変えるのだ。
「それでは攻守が入れ替わります。赤チームの句に対して、白チームの方、質疑をお願いします。質問のある方、挙手をどうぞ」
まず挙がるのは、やはり瑞姫ちゃんの手だ。
「白チーム、文月さん」
「はい。私、この句に詠まれている蝶がどんな蝶なのか気になります。二度目のてふ、というのが何を指すのかが読み手に大きく依存するとは思いますが、私は蝶の羽ばたきを数えているのではないかと思いました。翅を上げたときが一度目、下ろしたときが二度目で、そのときの蝶の翅の、鮮やかな青が目に映ったのだと読みました。作者の方はどんな蝶を見たのでしょうか」
佐伯さんが拍手をした。大きな拍手だった。嬉しそうな、けれども悲しそうな表情をしていた。彼女はすぐに手を挙げた。
「あ、赤チーム……佐伯さん」
「はい。やっぱり橋枝さんのディベートは素敵ですね。それで……蝶について、蝶についてですよね! 私が見たのは、後から図鑑で知ったのですが、ルリシジミという蝶だと思います。青くて、少しグラデーションの掛かった、幻想的な蝶でした。良かったら、帰ってネットとかで調べてみてください!」
私は、本当にその読みが正しいのかと、疑問を募らせていた。確かにそうとも読めるし、瑞姫ちゃんの読みが間違ったこともなかった。
私はふと、あの日の言葉を思い出した。
『俺は言ったはずだ。その句の在り方を決めるのは小原自身だと。他人がどう読んだかは関係ない。小原がどう読んだかが大切なんだ。もちろん鑑賞の技量では遠山に及ばなくとも、小原には小原の読み方がある。それで良いんだ』
あの頃の私は、臆病だった。他人と違う道を選ぶことが怖くて、正解が欲しくて、他人の言葉を信じるだけの人形だった。
だが、私はもう一人じゃない。道を間違えても、支えてくれる仲間がいる。だったら、失敗を恐れる必要なんてない。私は私の読み方で良いのだ。
「白チーム、小原さん」
「はい! 私は、この句の作者は鉛筆で『てふてふ』と書いているように思いました。授業中でしょうか、舞い込んできた青い蝶を見ながら、ノートに書いたのです。その字を見つめたとき、二度目の『てふ』の部分がどこか青く見えてしまう。そこにはきっと自分の弱さや幼さが隠れていて、作者はそれに気づいているのかいないのか、でも、きっとどこかで、自分を変えたいと思っているのではないかと思いました。いかがでしょうか!」
先生が拍手をしていた。先生が拍手をしていた。あの先生が、私に拍手をしていた。私はマイクを手から離せないまま、椅子に座った。ふわふわとした実感を噛み締めながら、窓の外を見つめた。膨らむ入道雲が、確かな夏を告げていた。
その後ディベートは続き、三分間という短い質疑応答が終わった。
「現在赤が一本リードしております。このまま赤が全国出場を決めるのか、それとも白が取り返し、大将戦にもつれ込むのでしょうか。それでは……判定に移ります」
「お願いします……」
神様がいるのなら、なんてありふれた言葉だけれど、もし神様がいるのなら、あと一回だけでも、まだ俳句をしたい。俳句甲子園を楽しみたい。
指の骨が折れそうなほど、人生の幸運を全て失っても良いくらいに、祈った。
「――判定!!」
真っ赤な旗が三本、白い旗が、それより少ないように見えた。全身から力が抜けるように、背もたれに体を預けた。
「楽しかった」
ふとこぼした言葉は、そんなものだった。私は笑っていた。とても清々しい気分だった。
『小原が大人になれば分かるさ』
一年前のこの場で先生に言われた言葉が、心の深いところから聞こえた。
「赤チームの勝利が決まりましたため、大将戦は披講のみ行います。白チーム代表の方、二度俳句を読み上げてください」
立ち上がると、室内全体が見渡せた。全員が私たちの句を待っていた。マイクの電源を入れると、大きく息を吸い込んだ。
「てふてふや、ではまた明日あの駅で」
暖かい響きだと思った。自分だけの句ではない。みんなと作り上げた一句だから、こんなにも暖かくて、やさしいのだ。
「てふてふやではまた明日あの駅で!」
私たちの俳句甲子園が終わった。懐かしい風が吹いていた。




