六
「それでは、他に句はありますか?」
「あ、うん。蝶と桜餅、両方あるよ」
ノートを数枚戻って、蝶の句を見つける。
蝶々や明日も駅に待ち合わせ
冷やかしたいと言わんばかりに、桜ちゃんは口角を緩ませている。るりちゃんが、ふと、私からペンを取って句に書き込む。机の反対側から身を乗り出しているものだから、スカートが心配になる。
るりちゃんが変えたのは、「も」の一字を「は」にしただけだった。
「明日は駅に待ち合わせ……すごいね! 「も」だと毎日会ってる感じだけど、「は」だと明日を楽しみにしてる感じがする!」
読んでみると、一気に句に新鮮さが宿ったように思った。
「別に毎日会ってるなら「も」でも良いんですけどね」
るりちゃんはペンをくるっと一回転させる。
「助詞変えるだけでこんなに違うんですね。初めてのデートの前夜みたいに思えます」
瑞姫ちゃんはやや嬉しそうに言う。
「あの、ちょっと良いですか」
「う、うん。どうしたの?」
宗谷くんが尋ねてきた。さっきまで人形みたいに大人しくしていただけに、少し驚かされた。
「蝶って夜はいませんよね。でも、姫が言うように夜の印象があるんですけど、これって良いんですか?」
「あ…………」
桜ちゃんが間の抜けた声を出す。
「あー、でも私、この句は夕方のつもりで作ったの。別れ際に、明日も駅で会おうねって約束するような、そんな句のつもりだった」
「それで「も」なんですか」
「別れ際の要素が要りますかね」
「去り際とか入れてみますか」
「そこまでしちゃうと説明しすぎな気もするんですよね」
「でも入れないと夜になるんですよね」
「難しいですね……」
当の本人である私を置き去りに、矢継ぎ早に意見が飛び交う。そこに、瑞姫ちゃんが控えめに手を挙げる。
「あの、だったら鍵括弧とか入れたらどうなのでしょう……こんな」
蝶々や「明日も駅で会いましょう」
瑞姫ちゃんは、どうですか、と恐る恐る小声に付け足す。
「私も悪くないと思いますです。そのまま変えていったら上手くいけそうです」
「……じゃあ、明日……」
記憶からあの日の会話を思い出す。確かもっと素直な言葉だった。
「じゃあ、また明日駅で。そう、そうだ。思い出した!」
思い出したそのフレーズを、十七音に揃えて一句にする。
蝶々や「じゃあまた明日あの駅で」
「どう、でしょうか」
妙に敬語になりつつ、句を見せる。
「とても良いと思います。鍵括弧は少し強気な選択ですけど、上手く機能しているかと」
「ルリも良いと思うです」
宗姫ペアの二人も、頷く。
「先生、どうですか」
「悪くはないな。句意はしっかりしていると思うが」
先生は、趣味悪げに一呼吸置いた。
「小原、その句を読み上げてみろ」
「読み上げ……?」
あまり理解が追いつかないことを言われて不安になりつつも、句を二度読み上げた。
「これは……」
「あー……」
すると、桜ちゃんとるりちゃんが揃って何かを理解したようだった。
「何? 何か変だった……?」
「えっとですね、リズムと言いますか」
「音楽なら変調ですか」
宗姫ペアも首を傾げている。リズムを意識しつつ、二度、三度と読み上げてみると、少しずつ違和感が鮮明になってきた。
「「や」のゆっくりした感じから、急に「じゃあ」の明るさに変わってる……ってこと?」
「ああ、言われてみれば分かります! 別れの場面なら、もう少し落ち着いた音の方が、惜しむ感じが強くなって良いのかもしれませんね」
瑞姫ちゃんも続いて理解したようだ。宗谷くんは感覚の話は苦手らしいから、苦い顔をしている。
落ち着いた音。逆に、落ち着いていない音は恐らく「じゃあ」の二音だ。だとすると、そこを変えるべきだろうか。
「ではまた明日あの駅で」
思い付いた音を二度読み上げて、よし、と頷く。それをノートに書こうとして、ふとひらめいた。
てふてふやではまた明日あの駅で
「…………」
「まりちゃん先輩?」
句ができてから、茫然としていた。今までのどんな達成感よりも大きく、けれども落ち着き払った感情が、頭からお腹の下の方に降りてきた。
「鍵括弧を抜いて、蝶々の表記も変えたんですね。どういう意図ですか?」
「何だろう……そうした方が良い気がしたの。よく分かんないけど」
誰に言われたわけでもないが、誰かに言われたように書き換えたのだ。
「これで完成ですかね」
「うん」
自信を持って返事をした。皆も頷いてくれた。
「ところで」
るりちゃんが宗谷くんの肩に、ちょん、と触れる。
「さっき何考えてたんです?」
「そうなんですよ、ルリ先輩。先輩のお陰でひらめいたんです。この句見てくれますか」
不安になるほどに考え込んでいた末に、一体どんな句ができたのだろうか。私の句はあと一句あるのだが、下校時間も近づいているので、今日は諦めよう。宗谷くんがノートを開く。
蝶々の軌跡を微分してみたい
「あ、良いです……」
ルリちゃんが言いこぼす。桜ちゃんはまたしても、扱いに困りそうな顔をしている。当然のように私にはよく分からない。そう言えば宗谷くんは理系の子だったと思い出しつつ、微分についての知識を振り返っても、頭が痛くなるばかりだった。
「これってどういう……そのままの意味で良いんだろうけど、でも蝶々の軌跡って微分できるの……? あ、だからしてみたいって言って……あれ?」
頭がこんがらがる。字面はそのままの意味でしかないのに、軌跡を微分するという概念が根本的に理解できないのだ。
「宗くんまた分かんないことする……」
「姫なら読めると思う」
「それずるい……えっと、微分って何?」
それを習うのは二年生の秋を過ぎた頃か、もっと前だったか、どちらにしても私以外は習っていないはずだ、学校では。宗谷くんは独学だろうか。あんなものをよくも一人で学べるものだ。
「微分っていうのは、独立変数に依存して決まる値あるいは従属変数の変化の感度を測るものですね。これはひとつの点における函数の導函数がその点における函数の線形近似として働く点が有為で、一般化すると複素変数の――」
「はいそこまで。宗くん落ち着いて」
謎の言葉を発する宗谷君を、瑞姫ちゃんが制止する
「えー、ここからが面白いんだよ。姫は分かってないなあ……」
やれやれ、とお互いに呆れ合って、宗姫ペアが笑い合う。
「仲睦まじいのは喜ばしいのですが……それで、微分って一体どういう意味なんですか? 辞書を見てもあまり……」
「……次元を下げることですよ。分かりやすく言えばその構成要素を見ること。例えば曲線を微分すれば直線になるです」
そう言ったのは、るりちゃんだった。唇を噛みながら、目を背けている。るりちゃんがどうして知っているのか、聞いてはいけない気がした。
「曲線は直線でできてるってことですか……?」
「そうです。もうちょっと分かりやすくするなら、点を一直線に細かく並べたら線ができるようなものです」
「なるほど。となると、句意としては蝶々の軌跡は何でできているのか知りたいってことですか」
「はい、そうです」
宗谷くんの返事に、るりちゃんが首を傾げる。
「ルリの句からどうしてそうなったんですか?」
「意味が通らなくても、したいことして良いんだって思ったんです。だったら俺は数学の話をしよう、と」
「はーん、そういうことですか。悪くないとは思うです」
心なしか嬉しそうに、るりちゃんは髪先を弄る。
「この句、改善できる部分ってありますか」
「ないこともないです。ただ、ちょっと」
「…………?」
宗谷くんの疑問符に答えるように、下校時間のチャイムが鳴った。
「続きは明日ってことです」
るりちゃんが人差し指を立ててポーズを取る。やっぱり嬉しかったのだろう。窓から差し込む春の夕日が、その黒髪に美しく映えていた。