五
夢の中で、私達は確かにお付き合いをしていた。休日にデートの約束だなんて、夢にしても甘い。少し早めに待ち合わせの場所に行くのだが、誠二くんはそれより先に着いていて、頭が上がらなかった。
まず行ったのは帽子屋だった。大型の商業施設の中の、人通りの少ないフロアにある帽子屋だ。服よりはお財布に優しく、二人で試着しては似合う似合わないで揉めたりしつつ、最後にはお揃いの帽子を買った。その後はレストランに寄って、食後は苺のパフェを誠二くんが奢ってくれた。その甘さの余韻と共に、私は目を覚ました。
だらしなく枕に涎を垂らして、髪は跳ねに跳ねて、生々しい夢の記憶だけが残る、そんな朝。果たしてあれは後悔の現れだったのか、それとも未来予知なのか。どちらにせよ、そんな寝覚めの外で雨が降っていたのだから、私は即座にノートに句を書き込むしかなかった。
春雨や夢の感触生々し
「うーん、なんか違うよね」
自分で推敲してみようとするも、どこから手を付けて、どう推敲したら良いのか全く分からなかった。今日の部活で推敲しよう。念のため夢の内容もメモして、学校の準備を始めた。
それから九時間ほど経った頃、部室には先生を含めて全員が、早いうちから集まっていた。
「今日は何するんですか?」
そう尋ねて、宗谷くんはレモンティーを飲み干す。
「句の推敲ですかね。何句できたかにも依りますけど」
「私と宗くんは全然ですね……」
二人はまだ俳句の知識がほとんどない。私もほとんどないのだが、その私以上にないのだろうから難しそうだ。
「うーん……なら、先に用意できている句を推敲して、そのあとで足りない句を一人一人作る。そんな感じで良いですかね」
桜ちゃんの意見に、先生が頷く。
「ではそのように。まず誰の句から始めましょうか」
「さくらんじゃないの?」
「私でも良いのですが……いえ、そうですね。私から初めて、次はルリちゃん。その次が小原先輩、そして一年生の二人という流れにしましょう」
その順番は恐らく句の上手い順で、推敲の手間が少ない順とも言えるだろう。少し悔しいが、胸中で素直に負けを認めた。
「では、一句ずつ」
春雨は湖に宿りて村の朝
村、という単語が見えてくすり、と笑う。桜ちゃんが顔をしかめたが、馬鹿にしている訳ではない。桜ちゃんらしい句だ。
「文字数多すぎるんじゃないですか?」
「宗くん、それ「みずうみ」じゃなくて、「うみ」って読むんだよ」
宗谷くんの問いの意味を理解できたのは、案の定瑞姫ちゃんだけだった。桜ちゃんが読み上げなかったからだろうが、湖を「うみ」と読むことを知らなかったようだ。宗谷くんは場違いな質問をしてしまったと平謝りしていた。
「良い質問だと思うぞ。分からないことは恥を恐れず尋ねる。大切なことだ」
いつものように気取った台詞を吐く先生に、宗谷くんは目をきらきらとさせ、尊敬の意を示していた。どことなく可愛いと思ってしまった。
「春雨が湖に宿るってどういうこと?」
「擬人法ですか?」
瑞姫ちゃんと同時に質問してしまう。
「夜の間の雨が村の貯水湖に貯まっていた様子を詠もうと思ったのですけど、少し難しくて」
桜ちゃんでも形にできないことがあるのかと、やや驚いた。
「それなら「けり」を使ったら良いんじゃないですか? 『村の朝春雨湖に宿りけり』みたいな」
「姫ちゃん助動詞分かるんですか」
「当然ですよ。国語なら私にお任せあれです。源氏物語も原文で読めますよ」
瑞姫ちゃんに感心しつつも、話を戻そうと手を鳴らす。ちゃんと意図を汲み取ってくれたようで、瑞姫ちゃんは申し訳なさそうに、でも楽しそうにはにかむ。
「村って言う必要あるんですか? 拘りがあるのは聞いたんですけど」
「焦点がぼやけますかね。そこ絞って作り直します」
桜ちゃんは書いては斜線を入れて、時折鉛筆を回しながら、ほんの数分で句を再構築する。
春雨や夜明けの湖に手を合はす
そうしてできた新しい句がこれだ。しっかりと景が浮かんで、いつもの桜ちゃんらしさが出ている。
「あれ、貯まる要素なくしたんです?」
「ええ。こっちの方が良いかと思って」
ふうん、とるりちゃんは素っ気なく返す。
「遠山、語順はそれで良いか」
「語順ですか……」
春雨や湖に手を合わせる夜明け
「こういうことですか」
先生はこくり、と頷く。
「どう変わるんですか?」
「最後に持ってきた語が余韻として残るからな、より印象が強くなるんだ」
「体言止め、ですか?」
そう尋ねる彼女、瑞姫ちゃんは国語に関しての見聞が広そうだ。
「いや、これは体言……名詞に限ったことではない。原句だと手を合わせる行為が強められる。最終的にどれを最後に置くかは好みにも依るがな」
宗谷くんは隣で相槌を打っている。
「うん……よし。私、この句にします」
桜ちゃんはぐるぐると、三重くらいの丸で句を囲うと、ノートを閉じる。
「次は誰にしますか」
桜ちゃんは句が完成した喜びか、にこやかに問い掛ける。先程決めた順番さえ忘れているようだ。
「次はルリですけど、さくらんは一句だけで良いのです?」
「ええ。他はいつも通りなので」
先生は桜ちゃんのノートを見ると、満足げに頷いていた。るりちゃんは音を立てないよう、そっとノートを広げる。
「いきますですよ」
あいうえおかきくけこさし春の雨
これはまた思い切ったことをするものだと、桜ちゃん共々感心する。
「あの、ルリ先輩」
「宗谷くんですか、どうかしましたです?」
彼の目には強い光が宿っていた。
「そんなこともして良いんですか」
るりちゃんは返答に迷う素振りを見せてから、ショートの黒髪を耳に掛ける。
「やってダメなことはないと思いますです」
「そう、ですか……」
宗谷くんは頭を抱えて俯く。その口は微かに動いていて、何かを呟いているようだ。頭痛でもあるのかと心配で声を掛けようとするが、瑞姫ちゃんに止められる。
「宗くん、考え事するとこうなるんですよ」
「そうなんだ、ならそっとしておこうかな……」
るりちゃんの句に注意を戻す。
「ルリちゃん、一応どういうつもりで作ったか言えますか」
「ううん、無理。なんかできたってだけで、ルリも知らないです」
桜ちゃんは深く嘆息をして、るりちゃんの頭をノートで叩く。
「いったーい、何するですか」
「何してるんですかって言いたいのは私です。せめて意味は通るようにしてください」
「むう……」
るりちゃんが唇を尖らせる。先生は二人の様子を微笑ましく見ている。
「先生も何か言ってくださいよ、ルリちゃんのためでもあるんですから」
「そう言われてもなあ……本人さえ意味が分かってないなら、意味を与えたらどうだ」
「意味を与える……ですか?」
「例えば、小原。お前はこの句をどう読む」
そう振られて困惑する。あいうえおかきくけこさし、という十二音から何を読み取れと言うのだろうか。そこに主語も述語も、名詞さえないのだから、景が存在するはずがない。そう考えあぐねていると、瑞姫ちゃんが恐る恐る手を挙げる。
「私、小さい子がひらがなの練習をしているのかなって思いました」
「ほう」
「それで、作者はその子の隣で一字一字を見守っているんですけど、その外では優しい春の雨が降っているのかな、なんて思いました」
目を見開いたのは、私だけではないだろう。その読み方を聞いた上で再度句を読むと、ただのひらがなの羅列が、どうしてだろう、どこまでも幼い声を伴うのだ。そして、それを見ている者の母性がひしひしと伝わってきて、私は身震いした。
「姫ちゃん凄いですね、確かにしっくり来るです」
反して、桜ちゃんは言い躊躇う仕草を見せる。
「今のは後付けにすぎないとも言えると思うんです。言われてみれば間違っていないどころか、句の魅力が引き出されたようにも思えますが、逆を言えば、言われないと分からないとも言えるのではないですか。俳句甲子園でそれをするのはリスクが大きいと思います」
「俳句甲子園では……?」
「句が自由すぎて、質問も予測できなくなると思うんです。なので、対策が取れないと言いますか、準備が難しくなるかと」
「ルリはこれが良いです」
「そうですか。ではそのように」
そう決まったが、当然のように推敲要らずなのは、るりちゃんらしい。るりちゃんはその一句しか持っていなかったようで、次は私の番だった。今さらなのだが、部長である私がもっとしっかりすべきだとは思いつつ、ノートを開いた。
春雨や夢の感触生々し
そう、今朝の句だ。情けない話だが、授業の時間を目いっぱい内職に充てても、何も変わらなかった。途中いくつか、代替案のようなものは浮かんだが、原句よりも微妙になったので消した。
「いつも通り恋の句ですよね。生々しい夢ってどんな夢だったんですか?」
「恋で、しかも生々しい夢ってそれ……」
「姫ちゃん、それ以上はダメです」
瑞姫ちゃんは顔を赤らめていている。初々しいが、そういう夢ではないと言いたい。
「えっとね、誰かと、誰か知らない男の人とデートに行く夢で、繋いだ手の感触とか、そこで食べたパフェの味とか、起きてからもやけにはっきり覚えてたの。それを詠もうと思ったんだけど、難しくて」
露骨につまらなそうな顔をして、るりちゃんは大きく伸びをする。
「まずは伝えたいことをはっきりさせましょうか。中心になるのは、夢から覚めても感触が残っていたことですよね」
こくり、と頷く。
「うーん、私はこのままでも良いと思うのですが、どうしたいですか?」
「このままじゃ恋の句にならないと思って」
「あー……」
桜ちゃんは苦笑いする。
「だったら、夢の内容を入れた方が良いですかね」
春雨や手を繋ぐ夢生々し
桜ちゃんがすらすらと推敲する。詠みたい内容さえあれば一瞬で句にできるのだから、感心する。
「もうちょっと面白くして良いんじゃないです?」
と、るりちゃん。悪戯な笑みを浮かべてノートを借り、腕で隠すように新たな句を書く。
誰と手を繋いだ夢か春の雨
「ルリちゃんは妙なことに関しては上手いですよね」
「そう褒めないでよ、さくらん」
私にも「上手さ」というものが理解できる。確かに誰かと手を繋いでいたのに、それが誰か思い出せない、そんな寝起きの感覚がひしひしと伝わる。
「でも、まりちゃん先輩、嘘はよくないですよ」
「え……?」
「本当は誰か覚えてる、というか、誰か好きな人がいるんですよね」
るりちゃんに勝ち気な表情をされてたじろぐ。先生は、分かってるぞとばかりに腕を組んでいる。宗谷くんは壊れたように思考の海に溺れて、瑞姫ちゃんはそれを、母性を垣間見せつつ見守っている。頼みの綱の桜ちゃんは、興味津々に待機している。私に逃げ場はなかった。
「なんでそんな鋭いの……」
「まりちゃん先輩が分かりやすいんです」
「う……」
そう言われては弱い。
「それで、誰なんですか?」
「うう……」
「小原先輩、ルリちゃんこうなったら言うまで止まりませんよ」
桜ちゃんの追撃も加わって、私はついに白状したのだった。私の徒労に対して二人の反応は小さなもので、私は机に突っ伏した。
「もうやだぁ……」
「そう言わずに、ほら、推敲しますよ」
旧友と恋する夢や春の雨
桜ちゃんが新たな推敲案を出す。
「あれ、感触とかの部分は削ったんだね」
「入れようと思ったら難しいんですよね……」
別に無理に入れる必要はないようだ。ふと思い立って、なんとなくペンを借りた。
春雨や夢にあなたと手を繋ぐ
「あ、良いじゃないですか」
「そうですね、私も良いと思います」
自分でも驚いて、声を返せない。なんとなくだった。なんとなく思ったままに書いたら、こんな句になっていた。まるで自分の中の誰かが書いたような、そんな感覚だった。
「そういうの、「句が降りて来た」って言うんですよ」
「降りて来た……?」
「そうです。空から急に降って来たみたいに、すっと詠めた感覚を、私達はそう呼んでました」
へえ、と感心して、改めて句を見直す。三回読み返して、頷いて、自信を持って顔を上げる。
「この句で!」
意気揚々と宣言して、達成感に包まれる。先生は無言ながらに、二度頷いていた。