二
三年生になってからの受験一辺倒な授業は、私には退屈で仕方がなかった。新しいことを学ぶにしても、復習をするにしても、受験の二文字がやけに主張するせいでうんざりしていた。
しかし、今日の授業はやけに身に入らなかった。ふんわりとやわらかな雲が右から左へと流れるのを、惚けたように見ていた。古めの時計が一分置きに動く音を、先生の言葉と混ぜるように聞いていた。文字通り上の空になりながら、誠二くんと会うそのときを待ち望んでいたのだ。
ようやく昼休みを迎えた頃には、平時の数倍疲れていた。
「や、久しぶり。元気にしてた?」
「莉子ちゃん? こっち来て良いの?」
お弁当のミートボールを突いていると、遠くのクラスからわざわざ来た莉子ちゃんが、一つ前の席に座った。購買人気のアップルコンポートを、プラスチックのフォークで一口大に切っている。
「ほら、あーん」
そうして私の口元に、丁寧にも逆の手を添えながら運んだ。私は遠慮がちに口を開くと、甘酸っぱい果汁が広がって頬が緩む。
「おいひいね、これ」
「はい、飲み込んでから喋る。それで、何か良いことでもあったの?」
周りにあまりひとがいないことを確認してから、新入部員の瑞姫ちゃんと宗谷くんのことを話して、そうして本題の、誠二くんとのことを話した。
「へええ、やるじゃん。くっつくのも時間の問題ね」
「そうなれば……良いんだけど、うん」
言い淀んだのは、唐突に昨夜のことを思い出したからだ。私に会えて嬉しいだなんて、まるで少女漫画の男の子みたいな態度に、思うところがないこともなかった。
「何よ、はっきりしないわね」
「うーん、誠二くんって女の子慣れしてるのかなって」
「何言ってるのよ、新樹って中高一貫の男子校でしょ。むしろ女子と関わる機会なんて、それこそ、まり以外にないんじゃないの?」
私は、はっと目を開かせた。
「え、じゃあなんであんな」
「さあ、私に聞かれてもね。今日直接聞いたら良いんじゃない?」
そっか、とむずがゆい気持ちで答えた。
それからは余計に他愛のない話をしていた。予鈴が鳴って、莉子ちゃんはビニール袋にゴミをまとめる。
「あ、あの、今日はありがとう。勉強も忙しいのに……」
「何言ってんの、まりも受験生だってこと、忘れちゃダメよ。それじゃあね、また今度」
莉子ちゃんが颯爽と出て行くのを、手を振って見送る。放課後までが、痛いほどに永かった。
橋枝高校の校舎は、一年生から三年生までの教室がある教室棟、職員室や事務室、特別教室のある棟(私は呼び方を知らないが)、そして部室や音楽室、そして昇降口のある部室棟の、主に三種類がある。教室棟は理系と文系で棟が分かれており、その二つに挟まれるように部室棟がある。
どれも三階建てとなっているのだが、文芸部室は部室棟一階の、昇降口前廊下の突き当たりにある。つまり、文芸部室に行くには昇降口を横切ることになる。
そして、私はるりちゃんに捕まった。
「まりちゃん先輩、用事ですか?」
「え、あ、ううん。ちょっと道間違えちゃって」
私は部活の事も忘れて、一目散に下校しようとしていた。るりちゃんに遇わなかったら、きっとそのまま帰っていただろう。とはいえ、部長としてそんなことを言えるはずもなく、誤魔化すように笑う。
「学校で迷うなんて、変なひとですね」
「変って……そういえば、終礼早いんだね」
私のクラスは特に終礼が早く、教室を出た時点では廊下にひとはほとんどいなかった。
「ああ、終礼出たくなかったので、お先に失礼したです」
「え?」
「どうかしたです?」
るりちゃんはさも当然と言わんばかりに答え、お茶用のお湯を沸かしている。
「出なくて大丈夫なの?」
「ええ、ちゃんと先に帰るって言いましたから。それに、特に連絡もないようなので」
「るりちゃんの方が変だよ……」
控えめに言うも、給湯音に遮られる。
「まりちゃん先輩はいつものですか」
「うん、緑茶で。ありがとうね」
私に聞くより先に準備されていた。自覚はないのだが、いつもの、と言われるほど飲んでいるのだろうか。
「お砂糖は要るですか?」
「絶対美味しくないよね、それ……」
呆れ半分に言うと、るりちゃんは自分の分の緑茶に角砂糖を落としていた。外から慌ただしい足音が近づいてきて、扉がやや乱暴に開かれる。
「おはようございまーす!」
「おは、よう? もう夕方だよ瑞姫ちゃん」
「六限が数学だったので、やっと放課後になったかって感じですよ。今日も楽しく部活しましょう! あ、ルリ先輩、アップルティーでお願いします」
この上なく上機嫌な瑞姫ちゃんと、その後ろから呆れ半分に入ってくる宗谷くん。すっかり部に馴染んだようで、嬉しい限りだ。
「授業中に寝るなっての」
「宗くんだって古典のとき寝てたじゃん」
「気のせいだよ。あ、俺もアップルティーお願いします」
いつも仲良しな二人は、見ていて時に羨ましくもあった。誠二くんがここにいたら、一緒に俳句をしたり、お茶を飲みながら話したりできたのだろうか。
そんなことを考えていると、残りの一人、桜ちゃんがやってくる。
「こんにちは。桜餅をいただいたので、お茶と一緒にどうですか」
「それ桜先輩が買って来たんですか?」
瑞姫ちゃんは二人分のアップルティーを運びつつ尋ねる。
「いえ、西村先生からです。会議があるそうで、終わるまで待つようにと」
「そうなんですか。先輩は緑茶ですかね」
「いえ、今日は紅茶でお願いします」
五人分の飲み物が揃い、いつものお茶会が始まった。
「桜餅って、どうしたら良いんでしょうね」
瑞姫ちゃんが桜餅を食みながら言う。私もまず一口噛むと、桜の香りが鼻に広がる。美味しい、とささやかに呟いた。
「どうって、何が?」
「どう詠めば良いのかなって思って。宗くんも未完成なんですけど」
「ルリ的には桜餅が一番詠みやすかったですね。まりちゃん先輩はどうです?」
「え……?」
間の抜けた声で、部屋が一気に静かになる。
「え、じゃなくて、俳句甲子園の句ですよ。先生さんが宿題って言ってたです。もしかしてですけど、忘れてました……?」
飲み物で体温が上がったのか、あるいは冷や汗か、キャミソールが肌に張り付く感覚があった。
「わ、すれてた……どうしよう、急いで作らなきゃ。春雨と蝶と桜餅だよね、えっと……」
「俺もまだ用意できてませんし、今日のところは無理をなさらず」
「ありがとう、ううん、でもダメだよこんなの。私部長なのに、何やってるんだろうね」
宗谷くんの気遣いを払い除けて、鞄から紙とペンを取り出そうとして、くしゃりと紙が曲がってしまう。
「先輩……」
桜ちゃんが何か言おうとした時、机が思い切り叩かれて、全員の視線が一斉に集まる。
「落ち着いてください。あなたが慌てたところで何になるんですか」
るりちゃんが立ち上がり、鋭く言い放つ。桜ちゃんは制止しようとするが、るりちゃんの目に気圧されて口をつぐむ。
「慌てて良い句ができるんですか。あなたが好きな俳句ってものはそんなに簡単なものなんですか」
「そんなの……違うけど、でも私は……」
「私は、今の先輩の句は見たくありません」
そう言って、るりちゃんは腰を下ろし、緑茶を喉に流し込む。
「小原先輩、大丈夫ですから。ほら、お茶冷めますよ」
瑞姫ちゃんに袖を引かれて、力が抜けたように座る。口にした桜餅が、やけに甘かった。