三
『姫ちゃんのこと、守ってあげてね』
そう言われたのはもう十年も前、姫が俺の家で暮らし始めた頃だ。言い代えると、姫の母が重病を患ってからそれだけの月日が経ったということだ。当時の多忙もあって、姫の父は縁の深かった吉松家に姫を預けられないかと懇願し、両親はそれを快諾した。俺は幼馴染でありながら家族でもある、そんな歪な関係の中、ただ姫の母の言葉を頑なに守ろうとしていた。
温かな風呂の中で泡を作りながら、今日のことを考えていた。
『言葉っていうのはな、自分を表すためにあるんだ』
それは帰り際に先生が残した言葉で、俺はその意味を測りかねていた。
「宗くん、タオル出したからね」
脱衣所から姫の声がして、水を飲みそうになる。
「ああ、ありがとう」
「…………」
姫は何故か、ドアにシルエットを映したまま動かない。
「姫?」
「宗くん、入っても良い?」
俺の返事を待つことなく、シュルシュルと衣擦れの音がしてシルエットが細くなる。
「おい、姫」
俺の布団に潜り込むことはしばしばあれども、一緒に風呂に入るのは小学校と共に卒業すると約束したはずだった。しかし、姫が約束を破ることは珍しく、逆に何かあったのかと心配で声が出せず、ついに一糸纏わない姫がドアを開けた。
「恥ずかしいから、あんまり見ないで……」
時折脱衣所で遭遇することはあるが、事故ではなく見るのは久しく、改めて見ると平均のそれよりもスタイルが良いのではないだろうかと思った。撫で肩をなぞる黒髪は姫用シャンプーの甘い香りを漂わせ、普段は制服に隠れているCか、あるいはDの胸の丸みが艶めかしくあった。体を泡に包む姿はさしずめ人魚姫のようで、見惚れていると姫は不服そうに頬を膨らます。
「見ないでって、そっち寄って」
広くはない浴槽に背中合わせで膝を抱える。
「それで、姫。どうしたんだ」
ぶくぶくと口を水に埋めて、ぷはあと息継ぎをして、頭を預けられる。
「ロールキャベツって、宗くんみたいだよね」
「どういう意味だよ」
唐突な話題に戸惑いつつ、本題を話すつもりがないのだと察する。
「見た目草食系って感じなのに、案外そういうところあるじゃん」
「否定はしないが」
「こっち向いて良いのに」
「それは遠慮する」
「さっきあんなに見てたのに」
そう言いつつも、姫自身が背中を向けたままだった。姫と何年も暮らしていてもまだまだ分からないことばかりで、距離のないこの背中を、不意に遠く感じる。
「なあ、姫」
「うん、なあに?」
「俳句って、難しいな」
「そうなの? 私は宗くんのことだから一句も作れないかと思ってたのに」
「あんなの作ったうちに入らないだろ、それより姫はどうなんだ?」
「私はあれでも良いと思うよ。宗くんのも、私のも」
「どうしてだ?」
「小説もそうだけどね、自分が言いたいことを書けば良いんだよ。上手くなるのは大切だけど、それよりも自分を大切にしないと」
「自分を大切に、か……」
『言葉っていうのはな、自分を表すためにあるんだ』
先生の声が蘇るように脳内に繰り返される。言葉が自分を表すためにあるのなら、言葉と向き合おうとするということは、きっと自分と向き合うことなのではないだろうか。姫はきっとそれを理解している。だから自分を表すために小説を書いている。
その点俺はどうなのだろうか。姫を守ると掲げつつ、俺に姫を守れるだけの能力は、才能はあるだろうか。
「ねえ、宗くん。私は大丈夫だよ」
「……姫?」
水が大きく動く音がして、姫の体温を、感触を背中全体に感じた。脇腹から回された細い腕が俺の腹の前で繋がれている。
「宗くんに守られなくても、大丈夫だよ。もう、私も大きくなったんだよ」
「知ってたのか……?」
「知ってた。でも、私も怖かった。言ってしまったら宗くんが届かない場所に行ってしまいそうで、ずっと手を繋いでいてほしいって、思ってた……思ってたけど、それも嫌だった。私は宗くんに守られたいんじゃない、私は、私は宗くんと一緒にいたいの、宗くんの隣にいたい。宗くんと一緒に笑って泣いて、それで、それで……ずっと……」
姫が涙ぐんで言う。俺は姫を守ろうとするあまり、姫を見ていなかった。姫と向き合っていなかった。いや、本当は怖かった。守るという使命を持つことでしか姫の隣に立てないのだと、ずっとそう思っていた。
「姫……」
俺は弱い。俺には姫を守るための力も何もない。そう、今さら気付いてしまって肩の力が抜ける。そうして姫の手を解いて狭い浴槽で向き合うと、その血色の良い肌色が目に眩しかった。
「だから、わた、私……」
「姫、もう良い」
俺は崩れるように姫を抱き締めた。姫の弱々しい鼓動を心に刻みつけるように強く。
「宗くん、宗くん……うう……」
姫は俺の胸でむせび泣く。姫の柔らかな背を撫でると、一層強く抱き締められる。
何を伝えるべきか、迷うことはなかった。自分の気持ちを曝け出すんだ。今まで臆病に隠してきた本心を。きっとそれは小説じゃない。俳句だ。たった十七音しかないように見えつつも、きっとそれ以上に言葉は要らない。
『実数解なくて春まで二人かな』
「実数解……?」
姫は少し泣き止んだのか、ぽかん、と声を上げた。
「流石に分からないか。簡単に言うと存在する解のことだけど、逆に言うとそれがないってことは、明確な答えがないってことだ。まあ、こういう単語使って良いのか分からないけど」
「良いんだよ、それが宗くんの、本当の言葉なんだから」
そうか、と答えて手を解き、姫の目を見る。そして互いに手を取り合った。姫との距離が分からず、ずっと迷っていた。だが、もう迷わなくて良い。
『春からはふたりぼっちの物語』
姫が想いを返す。それは、どこまでもくすぐったくて、同時に、ずっと求めていた温かい言葉だった。
「ありがとう、姫」
「ううん。これからは二人で一人だから……だから、これからも一緒にいてね、宗くん」
俺たちは、初めて唇を重ねた。ずっと二人でいられるように、その手を離さないと心に誓いながら。
きっと二人なら、何でもできるから。