一
文芸部とかいう部に入ったのは、姫こと、幼馴染である文月瑞姫が一緒に入りたいと言ったからだ。何をする部なのかも知らないが、どうにかなるだろうと楽観していた。
「宗くん、また難しいこと考えてる」
夕暮れ。教室。二人きり。思春期の男女なら一度は夢見る状況なのだろうが、入学式から日の浅い、まだクラスのグループが形成されようとしている最中だというのに恋人関係を疑われるだろうことを考慮すると、あまり心地良くはない。一々幼馴染だと説明するのも面倒だった。
「姫がもう少し利口だったら良かったのにな」
「あー、またそんなこと言ってる。お母さんに言いつけてやるんだから」
「そうか、なら姫が春休みの課題終わらせてないことも言ってやる」
「それ言わないって約束」
そんな他愛もない話をしながら、二人ともどこか落ち着かずにいた。入部届けを出してから、すぐに顧問の先生から連絡があった。今日の放課後部室に来るように、とのことだった。指定された時間が微妙に遅く、こうして姫と二人、時計が進むのを待っている。
「なあ、姫」
「ん? なあに?」
「文芸部って、何する部活なんだ?」
「それ知らないのに入部するなんて変だよ……」
シャーペンの頭で自分の頬をつつきながら、姫はぶっきらぼうに答えた。誘ったのは姫だと言ってしまいたかったが、冷静に受け流す。
「で、何なんだ?」
「小説。書くの」
「小説?」
思わず聞き返した。小学校の頃から活字が苦手で、せいぜい国語の授業や、読書週間のルールとして読む程度だった。姫が日頃書いているのは見ていたが、それを自分が書くだなんて考えたこともなかった。
冷や汗を掻いていた。すると不意に、額に冷たく、硬いものが触れた。
「大丈夫だよ」
姫がシャーペンの頭で俺の顔を押し上げようとしていたのだ。やけに力を込めようとするものだから、嫌々顔を上げた。
「宗くんなら大丈夫だよ、何でもすぐできるようになるんだから」
何でも、と小さく復唱して、目を逸らした。あまり快い言葉ではなかった。
「ほら、姫。そろそろ時間だ」
立ち上がると、姫がノートやら筆箱を片付けるのを待って、左手を差し出した。姫の右手が重なると、それは柔らかに温かく、俺の臆病な部分を溶かすようで。あたかも、姫と二人ならそれこそ何でもできるような安心感を覚えながら廊下を歩いた。
「どういうことですか!!」
その声は廊下を吹き抜けて、グラウンドまで届いたことだろう。目の前で幼い少女(年上の、しかも文芸部部長だという)がわたわたと対応に迫られていた。
「大きな声を出してすみません。でも、おかしいじゃないですか! なんで文芸部なのに小説を書かないんですか!」
厄介なことになった、と思った。部長曰く、この部では小説を扱っていないとのことで、姫はそれに憤慨し、あわや退部しそうになっていた。しかし、それでは困る。
「姫、落ち着けって」
「宗くんは黙ってて!」
生憎、一度こうと決めたら折れない姫が俺の言葉に耳を貸すこともなく、力なく壁に背を預けた。しかし、一方的に非難を浴びせられて涙目になりつつも、スカートの端を力一杯握って涙を堪えている様子は見ていられなかった。
「小説が書けないっていうなら、私達退部しますから!」
姫がそう言った時、部長がはっと目を開かせた。
「待って、私、あなたと俳句がしたいの! そんなに小説を書きたいって言うあなたが、どんな句を詠むのか見たいんです! それに、俳句なら小説と兼ねることも難しくないから、だから待ってください」
部長が直角に腰を折った。しかしそれはあまりに勢いを付けたお辞儀で、髪をまとめていたリボンがはらりと落ちた。髪の束が崩れて横に開いていく様子はそこはかとなく華やかで、美しかった。
姫はその必死さにたじろぎ、二の句を告げられずにいる。
「姫、もう良いんじゃないか。ここを辞めたところで他に行く宛てがある訳でもないし」
「宗くん……でも……」
姫が口ごもっていると、部室の扉がここぞとばかりに開いた。
「ただいまー。まりちゃん先輩ダメです、みーんな興味なさそうに素通りしちゃって、もうルリ疲れましたよ」
両手を力なく垂らして、ゾンビのように歩いては机に突っ伏す女子生徒。恐らく部員の一人だろうか、部長が困ったようにはにかんでいる。
「小原先輩、ただいま戻りました。えっと、そちらの方は?」
落ち着いた様相で微笑む――胸リボンが緑だから――二年の先輩が、物珍しそうに俺たちを見ていた。
「えっと……俺たちは」
「『新入部員』の、文月瑞姫と、こっちは吉松宗谷です。以後よろしくお願いします」
姫は唇を尖らせつつ、新入部員と強調して言い放った。こうして、俺たちは文芸部の一員となったのであった。
「はああ……おこたが欲しいですー」
入部から一週間経って、ようやく先輩方の名前を覚え始めた頃、外は四月らしからぬ冷え込みに包まれていた。ルリ先輩は初見の再現のように机に突っ伏しながら、何か分厚い辞書のようなものに、読んでいるのか読んでいないのか分からない目を向けていた。
「おこたー……ふわぁ……」
うなだれるルリ先輩は、退屈そうに大きめの欠伸をする。猫の真似でもさせたら似合いそうだなんて考えつつ、姫に怒られそうなので自粛する。その姫はというと、俺の隣の席で、パイプ椅子の上で体育座りをするように膝を抱え、いつもの執筆作業を続けていた。原稿用紙を五十枚ほど左手に積んで、黙々と万年筆を滑らせている。あまりに集中しているものだから、スカートの裾が太股の方に下りて、白く滑らかな肌が思い切り露出していることに気付いておらず、目のやり場に困る。
「幼馴染の宗谷が卑猥な目を向けていることに気付きつつも、瑞姫は黙々と執筆を続ける。瑞姫にとってこの姿勢は最も集中を研ぎ澄ませるものであるのだが、熱烈な視線を注がれると恥じらいを覚えないこともなかった」
「地の文みたいに言うな、職業病か」
「視線については否定しないんだ」
姫はくすっと笑いながら、スカートを正すことなく作業を続ける。
「冗談言ってないで、少しは直そうとしろ」
「宗くんが直してよ、私忙しいの」
溜め息を吐きながら姫のスカートに手を掛けようとしたとき、ルリ先輩が立ち上がった。
「ルリはお邪魔ですかね、ではではごゆっくり」
「変に気を利かせないでください、褒めませんよ」
「ええー……そういうものじゃないんですか、そうですか」
しぶしぶと、席に戻るルリ先輩。今日は小原先輩も遠山先輩も用事で来られないらしく、どことなく手持無沙汰だった。というのも恐らく、ここ一週間の文芸部は姫に俳句をさせるべく動いていた節があったのだが、今日はそれがないからだろう。しかしまあ、姫は関心を寄せない態度で、黙々と小説を書いている日々だった。
ちなみに俺は俺とて、俳句をするにもしないにも、姫に合わせるつもりだった。元々姫の付き添いという名目なのだから、仕方がないだろう。
「そういえば、ルリ先輩は姫に何も言わないんですね」
ルリ先輩に話を振ると、先輩は不機嫌そうに溜め息を吐いた。
「何ですか、ルリに何を言わせたいんですか、お幸せにーとか言えば良いんですかね、そうなんですかね」
「言わなくて良いです。俺と姫はそういうのじゃないですって。そうじゃなくてその、俳句の件ですよ。ルリ先輩だけ何も言わないのが気になったんです」
ルリ先輩が本を閉じた。そうしておもむろに立ち上がると、すたすたと俺たちの背後に回り込んだ。
「別にしたくないならしなければ良いんですよ、ルリは構いませんから。あ、これ読んで良いです?」
「えっ……? まだ途中ですが、どうぞ……」
ルリ先輩は、返事より先に姫の原稿を取り上げていた。することがなくなった姫は鞄の中の本に手を掛けて、止める。
「宗くん、暇」
本を読むという選択肢はあっただろうが、姫のことだから、自分の小説が読まれていることへの羞恥心を隠したいのだろう。俺も暇を持て余していたので、悪くない誘いだった。
「今日は何したいんだ?」
「えっとねえ……お医者さんごっこ」
「癌だな、余命三日」
「短いよ!?」
「まだ若いのになあ……」
予想通りろくでもない提案が来たので、なるべく意識しないように対応する。ルリ先輩はそんな俺たちを一瞬だけ横目に、とろんとした目で姫の小説を読み込んでいた。
「姫ちゃん、小説書くの下手ですね」
「え……?」
姫が豆鉄砲を受けたように素っ頓狂な声を上げる。
「描写が適当すぎるです、姫ちゃんの頭の中にしかない世界ですね。それから――」
そう言ってルリ先輩は原稿を次へと捲るが、姫はそれを乱雑に取り上げた。
「そんなに言うなら、苫屋先輩が書いてみてくださいよ!!」
姫の怒号が室内に反響した。ルリ先輩はその声に驚くこともなく、表情を変えないままに机に体を預けた。
「なんでルリが書かないといけないんですか。それに、ルリのことはルリと呼んでほしいと最初に言いましたです」
「なんでって、そんなに悪く言うなら自分が書いてから言ってくださいってことです。人が出した料理にケチ付けるなら自分で作れって言ってるんです!」
姫を宥めようとしたが、差し出した手を無言で払い除けられた。姫としても譲れないのだろう。
「姫ちゃん」
ルリ先輩が背を伸ばして、姫と目を合わせた。屹然としたその態度に姫はたじろぎつつ、なんですか、と返した。
「姫ちゃんが本気で小説を書いているなら、ルリが本気で批評して何が悪いんですかね。ルリは姫ちゃんに足りないものを的確に指摘したつもりなんですけどね」
「それは……」
「それに、ルリが言い切る前に遮るのもよろしくなかったです。姫ちゃんの小説は土台がしっかりしてるです、ファンタジーな設定を丁寧に固めていたのは特に良かったです。色遣いも綺麗です、あれはセンスというものですかね。独創性もややありますし、ストーリーにおいては十分でしょう。だからこそということもありますが、情景描写を練習した方が良いです、そこだけ抜け落ちてる感じが否めないです」
「…………」
しばらく口を結んで、姫はそっと原稿を置いた。
「ルリ先輩」
「何です?」
「私に俳句、教えてください……」
ルリ先輩は窓の外に目を遣ってから眩しそうに、特に何を尋ねることもなく、うーん、と考え込む。
「私は教えられないです。そういうのはさくらんが詳しいから、そっちに聞いてくださいです。まあでも、意気込みは買うです。今から作ってみますか」
これ使ってください、と先刻読んでいた本を手渡される。歳時記と書かれたそれには、春夏秋冬の季語が所狭しと並んでいた。
「入学に卒業に……納税期?」
「へえ……風船とかブランコも季語なんですね」
姫と共に覗き込むが、その顔が妙に近く、髪の毛から花の香りがしていた。
「ルリも俳句は詳しくないので」
そう言う先輩は背筋が伸びていて、少し、微笑んでいる気がした。
「うーん、桜は散っちゃったし……宗くん何にする?」
「俺にって言われてもなあ。時期的には入学とかで良いんじゃないか?」
「はーん、入学ですか。なら入学ですね。ルリは適当に歩いてくるので、十五分くらいで詠んでおいてほしいです」
ふわあ、と大きめの欠伸をしながら立ち上がり、とことこと部屋から出ていく。
「まずはゼロから考えることです。それと、女の子の行動は詮索しない方が身のためだと教えておきます、ではでは」
どこに行くのかと聞こうとするも、先制するように言い残されてしまった。
扉が音もなく閉められ、つんと静まり返った部屋に、鉛筆を握る。
「なあ姫、急にどうしたんだ?」
「別に。大会に人数が必要なんでしょ? あんなこと言ってくれる人、初めてだったから……その、恩返しじゃないけど、私にできることはしたいかなって、思っただけ」
姫は新品のノートに気持ち大きめに「入学」と書くと、シャーペンの頭で頬をつついていた。
「それは良いんだが、小説はどうするんだ?」
「両立できると思う。多分」
「勉強は大丈夫なのか?」
「宗くんが教えてくれるもの、ね?」
言いながら、俺の左手を握る。信頼も一歩違えば便利か、と苦笑しつつ、その手を握り返した。
「外ではしないって約束じゃなかったか」
「二人きりなら良いって言ったもん」
姫は左手で文字を書きながら、右手の人差し指で俺の手の甲をなぞる。俺もその指に指を絡ませながら右手で俳句を考える。
繋いだその手を、ルリ先輩が帰ってくるその時まで、ついに離すことはなかった。