第六話
チャチャイは、憤懣やる方無いという表情でタッチパッドから両手を離した。
ふと、昔どこかで見たことのある動画を思い出した。
タイトルはキーボードクラッシャーだったろうか。
大昔にインターネットで何かをやっていた少年が、突然激昂してキーボードを持ち上げるとそのまま叩き付けて、更に拳を降り下ろし破壊してしまうという物であった。
あれをやったらスッキリするかもしれないが、彼の目の前にある両手幅でサブディスプレイ兼用のタッチパッドは、あの頃のガチャガチャと耳障りな音を立てる古風なキーボードとは値段が桁違いである。
今でも癇癪を起こして手近な物に当たる奴が居ないでも無い様だが、彼の様にネットでの採掘を生業としている人間がいちいちそんな事をしていたら、金がいくらあっても足らない。
こんな事で度を失っていたらマイナーは勤まらないのだ。
彼は冷静さを取り戻すべく大きく深呼吸した。
追い抜かされた時点で、足跡を消す音が遠ざかって行くのを涙ながらに見送る破目になるかと思ったが、意外な事に消去音はフェードアウトする事なくそこで不意に途切れた。
慌てて耳を澄ましてみたが、全くツールが動いている気配がない。
どうやら、今踏んでいるこれが最後の石だった様だ。
目の前には、幾つかの扉が並んでいる。
あのうちのどれかが、目指す先の筈だ。
それらの扉は随時開閉を繰り返しており、その都度荷物を載せた大小様々なトラックが出入りしている。
彼女はまず一番近い扉に近付くと、飛び出して来る荷物の匂いを嗅いだ。
これは違う、アイツはこんなだらしない匂いでは無い。
次の扉に向かうと、再びその匂いを嗅いだ。
これも違う、こんな品行方正な感じではない。
更にその次の扉に目をやると、これは一目で違うと判った。
こんな子供の玩具しか出入りしない相手である筈がない。
そうやって順次その匂いを確かめて行くうちに、ようやく目指す匂いを見つけた。
それは、周到さとずる賢さと更には隠しきれない悪意を窺わせる匂いだった。
扉の開閉を見ながら、跳び込むタイミングを慎重に測る。
その時、見上げる程に大きなトレーラーが近付いて来た。
これだ!とばかりに、彼女は扉が開いた瞬間に一気に跳び込んだ。
実は扉が彼女の侵入を察知してピシャリと閉まる恐れが無くもなかった。
この世界にはそういう仕掛があるのだ。
もしそうなれば体が断ち切られ、彼女は死んでしまう。
ただし、彼女はその点についてはあまり心配していなかった。
それは、出入りする『量』の異常な増減か、出入りする物自体の中にある『悪意』を察知する機構の筈である。
前者の場合なら、今の芥子粒程に小さい彼女が通過したところで『異常な』量の増減とはならないであろう。
後者の場合、出入りする貨物の『悪意』を検出するなら、そもそもこの相手自身が自分で送り出し、また受け取る貨物自身が悪意に満ちているのだから、それ自体が引っ掛かってしまうだろう。
彼女は扉に差し掛かろうとした巨大なトレーラーの鼻先ギリギリに割り込んだ。
その瞬間に、身体を突き通す様な視線を感じた。
しまった!悪意をチェックする検出機構が動いていた!
忽ち巨大な扉が動き始めた。
最早彼女は何もできず、そのままこの部厚い扉を一刻も早く抜けるべく走るしかなかった。
その間にも左右の扉というよりもむしろ壁は、アルゴノート達を押し潰そうとするシュンプレガデス宜しく無慈悲に迫り来る。
このピンチの中にあって、彼女の中の一部は前方に見える部屋の様子を眺めて、その整頓ぶりを主の慎重な性格の反映であろうと余所事の様に冷静に見ている事に気付き、可笑しくなった。
その風景は迫り来る壁に遮られ、視野は急速に狭まって行った。
そして、大きな音を立ててこのシュンプレガデスは打ち合わされた。
チャチャイは、警告メッセージが点滅するのに気付いた。
IDS(侵入検出システム)が、問題を検出した様だ。
IDSには、異常な通信量の増減を検出するアノマリ型と各種のハッキングテクニックに基づくデータパターンを検出するシグネチャ型の二種類があり、彼はシグネチャ型のIDSを使っていた。このIDSは登録されているハッキング用のデータパターンを検出するとファイヤーウオールに警告を送り、ファイヤーウオールは警告を受けると即座にそのデータパケットを切断する。
シグネチャ型の場合、あらかじめ予想して登録してあるデータパターンとの照合なので既知の脅威以外は検出出来ない。
これにたいして、アノマリ型なら異常な動作その物を検出するのだから、未知の脅威を検出する事が可能となる。
ただし通信量の異常な増減が起こるという事は、内部で脅威が行動を起こしているという事であり、その時点で既に侵入を許してしまっているわけだ。
そうなれば、検出後に駆除作業を行わねばならず色々と煩わしいので、侵入時に検出可能なシグネチャ型のIDSを使用している。
しかし彼の仕事を考えれば、日常的にシグネチャ検出に引っ掛かる様なパケットが出入りしているわけで、これを一々検出/遮断していては仕事にならない。
だから彼のIDSは、彼のIDを持たないシグネチャだけをチェック対象とする特別誂えの物である。
とはいえ、パケットの構成が巨大かつ複雑な物になるとIDの検出に失敗する事もあり、どうしても誤検出が起こる。
IDSの検出詳細履歴をチェックした。
たまたま見付けてダウンロードしていた昔の動画が引っ掛かっていた。
色々とチューニングはしているのだが、やはり大きなデータの誤動作は無くならない。
遮断は出来ている様だが、念のためにチェックツールを走らせる事にした。
こういう事をお座なりで済ませる奴は、いつか本当の被害を受けるのである。
彼女が恐る恐る振り向くと、巨大なトレーラーは壁に挟まれて紙の様に薄く潰れており、全く原形を留めていなかった。
まさに危機一髪であった。
ほっと胸を撫で下ろすと、すぐに辺りの埃を掬い上げて身体に擦り着けて行く。
これで安心する様な人物だとは思えないので、次の手を打たれる前に対処しておかねばならない。
懸命に埃を擦り付けていると、遠くから粗い息遣いが聞こえてきた。
慌てて手を止め、壁に貼り付く。
物陰に隠れる方が精神衛生上は好ましいのだが、埃を掬い上げるのに必死で隠れる場所を探す隙がなかった。
恐らくやってくる相手は姿よりは匂いをチェックするだろうから、優先順位としてはこれで正しいのである。
このプレッシャーに私の心臓が持てば、だけどね、そう思いつつ苦笑いの表情でそのまま凍り付いた様にじっとしている。
それの目は(鼻に比べれば)大した事は無い筈だが、それでも動く物には注意を向けるだろう。
ドーベルマンを想わせる獰猛さと敏捷さを兼ね備えたそれは、時おり低く唸り声を上げつつしきりに匂いを嗅ぎながら近付いて来る。
彼女の頭の中で激しく警報が鳴る。
ママがそんな間の抜けた作りをする筈は無いのは判っているのだが、それでもその警報があれに聞こえてしまうのでは無いかと、気が気では無かった。
やがてそれは、彼女の足許までやって来た。
そして、何か違和感を察知した様に立ち止まり、軽く唸り声を上げてから彼女の匂いを嗅ぎ始めた。
匂いを嗅いでは違和感を覚えて低く唸り、その正体を見極められぬ事に苛立って再び唸る。
まるで地響きの様に感じられる太い唸り声に、彼女は生きた心地がしなかった。
今の彼女は本当の意味で自分自身のみになっており、その芥子粒の様な小さな身体には、目の前の脅威に対抗する術は無いのだ。
これが本気で彼女に跳び掛かれば、今の彼女は一瞬で八つ裂きにされてしまうであろう。
チェックツールの進捗を示すバーは、先程から同じ所を行き来している。
何か疑わしい物がある様だ。
といっても、そもそも彼のPCのストレージは疑わしい物だらけなのだから、ある意味で当然の動きであると言えない事も無い。
時間がかかるのも仕方が無いのではある。
チャチャイはコーヒーサーバーに手を伸ばすと、もう一杯コーヒーを注いだ。
永遠に続くかと思われた恐怖は、突然終わった。
それは、軽く頸を振るとそのまま次の目標に向かって歩き出した。
その後ろ姿を見送りつつ、彼女は身動ぎもしなかった。
今ここで動いて気配を察知されたら全てが水の泡だし、そもそも足が縮んで動けなかった。
やがて、それはやって来た時と同じ様に低い唸り声を上げながら遠ざかって行き、彼女の鋭い耳でもその声が聞こえなくなった。
彼女はおずおずと辺りを見回していたが、一先ず脅威は去ったと思われた。
彼女は、慎重に歩き出した。
先ずは身に付ける物と最低限の武器を手に入れなければならない。
ママが与えてくれた物は、この小さな身体以外は全て棄ててしまったので、ここからは自分で必要な物を確保し、大きくならなければならない。
今、フェイズ0は終わった。