第三話
「そうしてPRIME構想が形になってくると、本来であれば信頼性の確保できないインターネットは順次廃止されて行く筈だった。しかし、各国の固有の事情がそれを阻んだ。言論の自由が保証されている先進国には官製ネットワークであるPRIMEは自由な情報の流通に適していないと考える勢力があり、彼等は安全な情報ネットワークとしてのPRIMEの存在意義は認めつつも、そのカウンターパートとしてのインターネットを維持する事に執着した。これに対して、言論の自由をいつでも制限可能な政府からの恩典と認識する様な国家では、概ね途上国であった事もあり、国内の情報流通経路を全てPRIMEネイティブのインフラで置換する程の余裕はなく、PRIME2へのアクセス経路として従来のインターネットを利用せざるを得なかった。だから、主要な通信機構としての役割はPRIMEに移行したが、インターネット自体は先進国ではPRIMEと併存するネットワークとして、途上国ではPRIMEを取り巻く周辺環境として残ったわけだ。こうして言わばアンダーグラウンド化したインターネットは、公的機関の制約を離れ一種の無法地帯として今も拡大を続けている。」
チャチャイは、ドローンが消滅した先を自分で見に行く事にした。
それは、5年程前に忽然と姿を現した。
その少し前から、あちこちの解放ストレージが断りもなく占有され始めているという噂はあった。
インターネットでは、随所で接続されたまま忘れられた記憶媒体がそのまま動作している。
それらは、多くの場合設置された時点でそれなりのセキュリティが施されたままになっているが、チャチャイの様なマイナーは、そう言った物を探し出してはセキュリティを破ってその中を探って見る。
そうして、価値がありそうな情報が全て持ち去られた後は、誰も気に留めないままに放置される。
だが、その中で特に容量が大きかったりアクセス速度が速かったりして使い勝手が良い物は、いつの間にか誰でもアクセス出来る言わば共有財産と見なされる様になる。
そうして、多くのハッカー達が自由に使う様になると、それは『解放』ストレージと呼ばれる様になる。
しかし、何らかの理由でそれを特定のハッカー個人や小集団が抑え込んで他者のアクセスを拒絶する様になると、それは『占有』ストレージと呼ばれる。
元々それらに対して所有権を主張できる筈の人間や団体は、とうの昔にその存在自体を忘れてしまっているのだから、それを占有する権利は誰にもないわけだが、それを言うなら、それを共有する権利も誰にもない。
だから、自然発生的な共有とそれに対する恣意的な占有は常に対立の火種となり、随所で小さな衝突を起こした。
明確な管理主体が無く公的なルールの存在しないインターネットでは、それを仲裁する機関が存在しないので、それは常に軋轢を産んできたが、繰り返される軋轢は、自然に暗黙のルールを形成していった。
例えば、占有に伴い不特定多数からのアクセスに対する拒絶を開始する前にその旨を表明し、調整が必要であればその連絡先(勿論お互いが特定できない様に匿名で使用できる)を提示するメッセージや推奨される代替の共有ストレージへのショートカットを一定期間表示するといった方法で言わば『仁義を切る』事が暗黙の掟として行われる様になったのである。
しかしこの占有では、そう言った仁義は全く考慮されなかった。
それらは全く事前の告示無しにある日突然ロックが掛けられてアクセス不能となり、その占有者は自分に対する連絡先を一切公表しなかった。
最初のうちは、元々施されていたセキュリティを復活させる形で個々のストレージへのアクセスを制限していたのでそれを破るのも大した手間では無かったが、そのセキュリティは破られてもすぐに回復されてしまい、その内にそれらの個別ストレージのセキュリティが連動してアクセス制限を行う様になり、そのセキュリティ破りには恐ろしく手間が掛かる様になった。
どのストレージにアクセスするにも、連動する全ストレージのセキュリティを破らなければならなくなってしまったのだ。
そのセキュリティ集合体は、みるみる内に巨大な複合体となり、今や20ペタ(20×2の50乗)バイトという偉容で聳え立つ存在となった。
当然それは人目を惹く事となったが、そのセキュリティは、その中で何が起こっているのか、そもそもその中に何が在るのかを全く窺わせなかった。
当然ハッカー達は興味津々でこの複合体に挑み懸かったが、その厳重と言うよりはむしろ煩雑なセキュリティに実際に手を掛けて見ると、攻撃のモチベーションを持続する事は難しかった。
そのセキュリティは、元々のストレージに施されていた物なので、技術的には古臭くまた大した物では無かったが、なにぶんにもそもそもプラットフォームやリリース時期の異なる全てのストレージのセキュリティが重複して掛けられているので、恐ろしく数が(種類も絶対数も)多かった。
破っても破っても玉葱の皮の様に際限なく現れる(しかもアプローチの仕方が異なる)セキュリティに、彼等の大半はうんざりして別のもっと侵入し易い目標に移って行った。
噂では、この際限の無いセキュリティの皮を全て剥いた猛者も少しはいる様だが、それを全て剥がして見るとその下にはPRIME並のセキュリティが掛けられており、そこで気力が尽きたという話である。
いつかは攻略してやろうというハッカー達の想いは実現されないままに、この要塞自体がPRIME委員会が仕掛けた罠ではないのか、という噂が広まった事で、一時は行列が出来た程の攻略熱は急速に下火になっていった。
とは言え、ハッキング不能の要塞がインターネット上に存在するという事実それ自体が自分達のアイデンティティに対する重大な挑戦であるという認識を共有する高い技術を持ったハッカー達は、互いに横目で睨みあいながら攻略する機会を窺っていた。
そして、チャチャイもそういう一人であった。
「こうして、鉄壁と呼べる程のセキュリティを供えた基幹情報システムとしてPRIMEが稼働を始めたわけだが、それでもその防備は完璧とは言えなかった。君達の中には覚えている者もいるだろう。5年前の『ビットバレー大停電』だ。」
学生達の間に軽いざわめきが拡がった。
ビットバレーとは、日本での中小IT企業が集中する街である渋谷をシリコンバレーになぞらえて『ビター(渋い)バレー(谷)』と読んだのが始まりで、やがてビターはコンピュータの基本単位と引っ掛けて略称のビットとなった。
「現象自体は渋谷区の中でも中心部のみの停電だったんで、死者は出なかったし、さほど大きな混乱も無かった事もあり社会的にはそれほどのセンセーションとはならなかったが、ITの世界では大変な大事件と受け止められた。それは街としての渋谷ではなく、明らかにIT技術の象徴であるビットバレーを狙ったテロだったし、何よりもその目的が、PRIMEのハッキング成功を宣言するためだったからだ。」
彼の中では2名の死者が出ていたが、それは学生達には関係の無い話である。
彼は説明を続けながら込み上げる苦い感情を飲み下すのに懸命で、一人の学生が俯き唇を噛んでいる事には気付かなかった。
彼女は、新たな無法者が接近して来ている事に気付いた。
普段ならその程度の事で目覚める様な事は無いのだが、今回は少々事情が異なっていた。
その無法者が振り撒く臭いは、あの虫と同じだったのだ。
これは面白い事になってきた、と彼女は期待に胸を踊らせていた。
ドローンがやられたからには当然警戒している筈だから、チャチャイは特にアプローチを隠そうとはしなかった。
何しろあれを検知し、更には緊急通信を即座に遮断する能力がある相手だ。
隠れてアプローチしようとしても、どうせすぐに見破られてしまうだろうから、手間を掛けるだけ無駄であろう。
そして、隠しても見られるのであれば、及び腰で抜き足差し足する様を見られるのは、彼のプライドが許さなかった。
まずは、バナーチェックから始めた。
これは、セキュリティシステムに対してごくありきたりの、すなわち必ず応答が返ってくる筈の問い合わせを送って、その応答を受けるという作業になる。
その目的は、応答電文を解析して稼働するシステムの商品名とバージョンを知る事ある。
インターネット上には商品/バージョン毎のセキュリティ上の欠陥情報を集積した膨大なアングラのハッキング情報ライブラリがある。
これと照合する事で、効果的な攻撃方を簡単に見付けられるのだ。
最初のシステムの攻撃方は、ごく簡単な物であった。
このシステムはごく初期のまださほどセキュリティが重要視されていなかった時期に開発された物であり、開発者達は自由にメンテナンス出来る様に自分達専用の裏口を設けていた。
遠隔操作で非公開のある特定のユーザIDとパスワードを入力すると、システムに対して全ての権限を持つ管理者としてログイン出来るのだ。
勿論この欠陥が公になると、その機能を無効にするパッチ(プログラム修正)が提供されたのだが、こいつにはそのパッチは適用されていない。
まだ、社会全体のセキュリティ意識が低かった時代には、障害発生時に迅速な保守を可能にするための手段という触れ込みで良く使われていた手だが、チャチャイはそんな言いぐさは信じていない。
開発者達はこれを、いずれ何かに『利用』するつもりだったから、このやり方に固執したのだと思っている。
その証拠にこのパッチの存在は、欠陥の重大性の割にはごく控え目な発表で済まされてしまったので見落としたユーザも多く、今でもこうして裏口が開いたままのシステムが随所に転がっている。
いずれにせよ、そのIDとパスワードも簡単に手に入る。
最初のドアは、何の苦もなく通り抜けた。
次のロックをバナーチェックしてみたら、最初のロックとは違う会社だがほぼ同時期の製品で、その弱点もほぼ同じだった。
これも難なく片付けて次に取り掛かる。
こうして、判で押した様に同じ欠陥のあるロックが並んでおり、しばらくは全く何も考えずに機械的に同じ動作を繰り返していたが、煩しくなってきたので、バナーチェックで判明した欠陥が固定IDと固定パスワードのバックドアならその製品のID・パスワードを検索して流し込むマクロ(簡易プログラム)を作って実行させた。
後は目の前で次々と扉がこじ開けられるのを、コーヒーを片手に見ているだけとなった。
17本目の蔦が切られた所で、一旦攻撃の手が止まった。
もう諦めたのかと彼女は軽い失望を覚えたが、すぐに攻撃が再開した。
今度は蔓に手を当ててその張り方を確かめてから、刃を当てる箇所を見極めて実際に刃を入れるという一連の動作が恐ろしく速く、流れる様に滑らかになった。
どうやら専用の道具を即席で造り上げた様だ。
同じ作業の繰返しにうんざりしながらそれでも諦めない攻撃者は、概ねこういう遣り方に移る。
手作業で17本目まで来たのはかなり珍しい。
これは、この攻撃者が慎重かつ辛抱強い性格である事を示している。
彼女の目的からすれば、その性格は好ましいと言える。