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第二話

チャチャイは、今日もインターネットの荒野の探索に出ていた。

ハッカーはアイデンティティーとはなっても、それ自体は商売にはならない。

侵入や破壊に金を払おうという人間は滅多に居ないので、そういう非合法な需要は、ほんの一握りの名の売れた(勿論本名とは関係の無いハンドルネームである)腕利きのハッカー達が全て占有してしまう。

後は脅迫行為くらいしかハッキング技術を金に変える手段は無いが、全ての行動がログに残る世界で金の受け渡しをするのは、大変な困難を伴う。

それ以外でハッカーがネットワークで生きていくには、表の商売としてネットワーク技術者となる事が考えられるが、この仕事の口もそう沢山あるわけではない。

そこで、その口にあぶれた者達がネットワークで生きていく手段として、ネットワーク世界の周辺を漁って忘れられた情報を掘り返して廻る『採掘』が行われる事となった。

勿論そうして集められる情報の大半は何の値打ちも無い物だが、忘れられた情報の中にはそれなりの値がつく物があるのだ。

その所有権も定かではなくなった古い情報の中で、値打ちのある物を見つけ出すには、独特の嗅覚が必要となる。

とは言え、道端に転がっているだけの情報に値段が着く事は、まず無い。

忘れられた存在とは言え、それなりの値が着く様な情報には大概それなりのセキュリティが施されている。

宝箱には鍵が掛かっている物である。

しかも、この宝箱はそれ自体がデジタル情報だから、経年劣化で朽ちる様な事はない。

だから、これで収入を得るマイナー(採掘屋)は、セキュリティ破りに関する基本的なスキルを一通り身に付けている。

これは、合法と非合法の境界上で見ればどちらかと言えば非合法側に踏み出した行為だが、ハッカーを自認する者達にとっては、それは何の障害にもならない。

そもそも彼等が目指しているのは、ハッキングその物で(非合法な)金を稼ぐ大物ハッカーなのである。

これも出来ないハッカー予備軍は、他の(彼等から見れば)つまらない仕事で生活するか、あるいは誰かに養ってもらうしかない。

つまり、週末ハッカーかガキかであり、それはハッキング界における最底辺の存在と見なされる事である。

チャチャイも、情報の採掘で糊口を凌いでいる一人だった。

彼は子供の頃からPCに触れ、自転車に乗るより先にPCが使える様になったのが自慢である。

小学生の時にハッキングに興味を覚え、中学に入る頃には一般的なハッキングツールはほぼ使いこなしていた。

高校をドロップアウトして親と対立した頃には、既にマイナーとして生活する事が可能な程のスキルを持っていたので、そのまま家を飛び出し自活する様になった。

いずれ自分の名前があの伝説のハッカーM・Nと並ぶ日が来る、と彼は確信していた。


「WGICCは、安保理に対してこの事件に基づく勧告を行った。その趣旨は、世界の情報セキュリティは累卵の危機に瀕しており、その本質的な危険性はインターネットの基礎構造その物に内在されている事と、従ってそれを除去するには、セキュリティの保障を前提とする基本概念をビルトインされた新しいネットワークを構築する以外に無い事を宣言した上で、これを国連主導で行う機会は今である、という物だった。各国政府は、明日にでも自国の情報基幹システムがSCNDLと同じ運命を辿るのではないかという危機感に戦いていた。そして、その社会的インフラは全て情報基幹システムとの密接な連動無しでは機能しない状態になってしまっている事に気付いたんだ。つまり、通信のみでなく現在の水道・電気・ガス・交通という社会を支える全てのインフラは、ハッカー達の自制心によって辛うじてその機能を維持しているのみである、という事を理解したわけだ。今やテロリスト達は、手製の爆弾や途上国から流出する自動小銃ではなく、PCとその上で動作する各種のハッキングツールで武装しているという事だな。」

そこで、一人の学生が手を挙げた。

「目的のためには手段を選ばないテロリストはそうかもしれませんが、そんなのはごく少数派だから警察もマークするわけだし、それ以外のハッカー達は彼等自身がそのインフラの上で生活しているわけですから、無闇に破壊すれば自分の頸を絞める事になるわけで、そんなに無茶はしないんじゃないですか?」

それなりに筋の通った指摘ではある。

「君達の感覚からすればそうだろうな。しかし、現実にはそれで安心するわけにはいかない。遵法感覚という物は共感シンパシー能力と共通の基盤を持っている。つまり、他人の境遇を我が身の事に置き換えてシンパシーを感じる事ができる人間は、自分が法律を破る事で得られる利益よりも他者が同様に振る舞う事による損害の方が大きい事を直感的に理解できるから、違法行為に積極的に踏み出す事はないんだ。しかし、遵法感覚を持たない人間は他人の苦痛に対してシンパシーを感じる共感能力も概して低いから、彼等にとって他所の国の大停電は、それに付随する様々な悲劇も含めて『面白いイベント』に過ぎないんだよ。だから、退屈凌ぎにそれをやってやろうという人間が出る可能性は十分にある。そして、インターネットは彼等にその手段を提供してしまった。」

そう言って一旦言葉を切ると、学生達は皆黙ってしまった。

各自が、それが意味する危険を自分なりの想像力で思い描いているのだろう。

その真剣な表情を見れば、彼等はそれを『悲劇』として捉える健全なシンパシー能力を備えていると見て良いであろう。

荒川は、IT技術者が『あっち側』に行ってしまうか『こっち側』に留まるかは、この能力の有無(若しくは大小)に依る所が大きいと考えている。

「WGICCは、その提言と併せてセキュリティが基本的構造にビルトインされた新しいネットワーク基盤を構築するというPRIME構想を提案した。それはあらゆる接続者に固有のIDを割り当てて、アノニマス(無名)の存在を許さないシステムであり、サイバー世界の中でのマスカレードは禁止される。PRIMEにアクセスする段階でIDを取得するための個人情報の登録が義務づけられてその存在は固定され、かつPRIME全体にそのIDがリアルタイムで周知される。そのためには、各国から提供される個人情報を照合するシステムが必要となるが、それを個々の国家が管理する事は好ましくないと思われた。世界には『自由な情報にアクセスする事』自体が刑罰の対象となる国家も存在するからだ。だから、そのIDと個人情報の対応関係の管理は、超国家的な団体に委せられなければならない。そのためにWGICCは、PRIME委員会を立ち上げてこれによる一元管理を提案した。当然各国はその提案に大反対した。外部からの攻撃に対して安全な情報ネットワークは必要だが、自国民に自由な情報アクセスを許せば体制が崩壊してしまうという国は珍しくないからな。勿論、WGICCはその反発を予想していたから、この提案がそのまま通るとは考えていなかった。そして、各国の反発に譲歩する体を装って、本当の提案を出したんだ。それは、新ネットワークの構成をPRIME委員会が管理するPRIME1とそれに対する国家単位のローカル領域からのアクセス経路としてのPRIME2の二段構造として、個人情報と結合されたIDの発番とその管理は、各国政府の所管となるPRIME2が行うという物だった。とは言え、IDと現在アクセス中の個人との結合を全く無しにする事も出来ないから、必要最小限の個人情報はPRIME1に送信されるがな。またこのIDを新規に登録する際に自動的に256バイトの素数が割り当てられるが、この素数はPRIME1側でその時点で発番済の全ての素数と重複しない物がその都度新たに発番されるので、これによって全員を一意に識別する事が可能となる。もし仮に誰かのIDとパスワードを手に入れても、この素数を入手できなければ成り済ましは不可能だ。もしこの素数を算出しようとすると、その時点で発番されている最大の素数とターゲット以外の全ての素数を知らなきゃならないので、事実上算出は不可能だ。これが本当のIDなわけだが、この素数は各個人がPRIMEアクセス用として登録した端末に暗号化した状態で格納され、ログイン時に暗号化したままの状態で送信される。各国のPRIME2に対してログイン要求が投げられるとそのIDと素数がPRIME1の認証サーバに渡され、それを認証サーバで解号した結果と登録済の情報が一致して、初めてログインが許可されるわけだ。」

学生が挙手したので、荒井は促した。

「じゃあそのIDとパスワードにあわせて、その素数も盗み出す事ができれば成り済ましは可能だ、という事ですね。」

「それは、今の所は不可能と考えられている。」

荒井があっさりと否定したので、更に尋ねてきた。

「何でです?」

「その素数は量子暗号化技術で暗号化されている。」

量子暗号とは、量子力学に基づく暗号技術である。

量子力学の世界では、何かを観察するという行為は(例えその観察対象に指一本触れなくても)観察対象に影響を与えるとされている。

従って量子暗号化された情報は、本来の送り手と受け手以外の第三者が接触した時点で内容が変わってしまうので、解号不能となるのだ。

「みんなも知っている様に量子暗号はほぼ完璧な暗号だが、その運用コストは恐ろしく高い。だから、今の所これを大規模に使用している例は他にない。」

学生達はその説明に納得した様に無言で頷いた。

「で、PRIMEへのアクセスに関しては、各国政府がその身元引受人となるわけだ。そしてPRIME2は、各国がその責任において構築する物とした。その構築に際しては、PRIME1に準ずるセキュリティ規準を満たす事を前提とし、PRIME委員会が提示するアクセス原則と最低限のセキュリティ規準を超える機能についての組み込みは、各国の自主的判断に任せる事とした。そして、各個人がPRIME2へアクセスする手段は、さしあたっては既存のインターネットを利用するが、順次PRIME2に直接接続されるPRIMEネイティブの回線他のリソースに移行する事とされた。」


一通り気になる所を巡回し終わったチャチャイは、巣箱を開けてみた。

彼は、自動でネットワークを飛び回り何か値打ちのありそうな情報を見つけては報告に帰ってくるという自律プログラムを、常時ネットワーク上に流しているのだ。

それは自律的に動くという点ではワームの一種だが、こういう風に探索してその結果を持って戻って来るタイプの物はドローンと呼ばれる。

それは、実際にはサーバからサーバへと自分自身のコピーを繰り返しながら、都度コピー元のサーバに残る自分とそのログを消去する事で移動して行く。

その行動形態は、蜜を求めて花から花へ移動する蜜蜂を思わせる物である事からドローンと呼ばれる。

そのドローンが帰って来てその情報を吐き出す領域を、巣箱と呼んでいるのだ。

彼は、4つのドローンを毎日ネットワーク上に放っては、その成果を確認していた。

ドローンとは詰まるところはプログラムでありいくらコピーしてもコストは掛からないのだからもっと大量に飛ばせば良さそうな物だが、高度な機能を持ったプログラムが稼働する事は、意外な程の影響を振り撒く。

特殊なアクセスは、様々なレベルのログを残すのでその全てを完全に消去する事は難しいし、高度な機能を実行する事でコンピュータの負荷が上昇する事は避けられない。

それは、そのコンピュータの本来の機能自体に一時的な効率低下を惹き起こすのだ。

勿論、彼が使用しているのは大幅なCPUやメモリの占有による目立った性能低下を起こさず、また通信量を急激に増加させない、密やかに動作する様に細心の注意を払って造り上げたドローンである。

この様に目立たない事を目的とした様々な技術はステルス化と呼ばれる。

しかし、いくら慎重を期して思い付く限りのステルス化技術が投入されているとは言え、一度に多くのドローンを飛ばせば、それだけ探知される危険性が上がる。

そして、ドローンの様な高機能なプログラムには、どうしても作成者固有の記述上の特徴、いわゆる癖というやつが現れる。

これが、指紋さながらに作成者を識別する目印となるのだ。

発見された複数のドローンを解析してその癖を比較すれば、それらが同一人物の手によるものかどうかは簡単に判定できる。

そうして複数箇所で発見されたドローンの動作や目的を分析して行く事で、作成者に関する情報をかなり絞り込む事が可能となる。

だから、目立たない様にあまり欲を掻かない事が失敗しない秘訣なのだ。

覗き込んでみると、4つある巣箱のうち一つだけが空のままになっていた。

そのドローンは、前々から気になっていた場所へ向かわせた物だった。

もう帰っていなければおかしい時間だ。

彼は、巣箱のログを開いた。

予想通り、巣箱は異常検知ログを受信していた。

通常は、ドローンは通信を行わない。

通信を行うという事は、パケットと呼ばれるデータの最小単位を特定のアドレスに向けて送り出すという事であり、そのパケットはネットワークが基本的に備えているインフラ機能を経由して飛んで行く。

だから、その経路の全てにログが残ってしまう。

この時ドローン自身は移動しないので、そのログを消して廻る事が出来ない。

当然パケットには送信先を偽装し、また故意に複数の転送拠点を経由する事で真の送信先を特定出来ない様にする処置が施されているが、それでもある程度のパケットを集めれば、真の送信先をかなりの範囲まで絞り込む事が出来る。

だから、ドローンは可能な限り通信を行わず、自分自身がその情報を持ち帰ろうとする。

つまり通信が届いているという事は、ドローンに何か異常事態が発生して自分自身を跡形も無く消去する自消シーケンスが作動したという事だ。

しかし、本来ならその後に続く筈の詳細情報は、全く届いていなかった。

殆ど検知不能な筈のステルスドローンを検知した何者かは、ドローンがログ情報を緊急発信した瞬間にそれに続く詳細情報パケットの送信を遮断してしまったのであろう。

これは、恐るべき能力ではある。

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