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異世界酒場エスパシオ

作者: 本河ダイキ

 

 俺は何時もの定位置である、酒場エスパシオのカウンター内中央でグラスを磨いている。小洒落たバーのような雰囲気の店内には四人掛けの丸テーブルが二台に、カウンター席が八席あるが、そのどこにもお客様の姿は無い。それもそうだろう。外はしんしんと雪が降っている。こんな日の夜に出歩くものはいない。煩いよりは静かな方がいいが流石に暇だ。


 チリーン


 ドアに取り付けられたベルが鳴り、目線をグラスからドアへ向けると、ドアの前には金色の短い髪によれよれのズボンとシャツを着た青年が立っている。


「いらっしゃいませ。エスパシオへようこそ御出で下さいました。こちらの席へどうぞ」

「あ、ああ、はい……」


 何時ものように軽く腰を折り愛想の無い顔でお客様を迎え、ドアの前で立ったままの青年にあまり遠くの席に着かれると面倒なのでカウンターの席を勧める。

 青年はこういう雰囲気の酒場に入るのが初めてなのか、頻りに店内をきょろきょろと見回している。このパターンのお客様は割と多いので特に気にせず、青年が席に着くのを静かに待つ。

 

「改めまして。バーテンダーのイカイと申します」


 席に着いた青年に改めて腰を折り、軽い自己紹介をする。

 これは俺がこのエスパシオで働き始めてからずっとやっている行為だ。特に仕事に必要なことでは無いが、自分の名前と自分がここにいるということを再認識するためにやっている。儀式って程大したものでは無いが、俺にとっては大切なことだ。


「は、はぁ。僕は…………レドって言います」


 若干、「急に何言ってんだこいつ?」みたいな目で見られたが、今に始まったことでは無いので気にしない。


「では、レド様。本日は何に致しましょう?」

「あぁー、じゃあ麦酒をお願いします」

「畏まりました」


 俺は後ろの棚から今朝仕入れたばかりの麦酒の樽から瓶に移し替えたものを手に取り、どういう原理か未だにわからない、ものを入れておくと勝手に冷える不思議な箱――俺はこれをひや箱と読んでいる――の中からジョッキを取り出して、麦酒をその中に注ぐ。黄金色の液体が冷たいガラス製のジョッキに注がれ、きめの細かい白い泡が立つ。

 麦酒はこの世界――ドラドで最も人々に親しまれているお酒で、どこでも手に入りおまけに安い。一般的に販売は樽単位でのみ行っており、それを酒場や露店などが購入し、ジョッキや別の容器に入れて販売している。

 個人でも麦酒の樽は買うことが出来るが、大きいし重いしで置き場や家まで運ぶ手間を考えると酒場や露店で買った方が面倒が少なくて済む。


「お待たせ致しました。麦酒でございます」


 テーブルが水滴でびしょびしょにならないようにコルクで出来たコースターをレド様の前に敷いて、その上に麦酒が注がれたジョッキを置く。

 これは俺がエスパシオで働き始めたばかりの頃にお客様のアドバイスから始めたサービスだ。お酒をさっさと飲んでしまう人にはあまり関係無いが、少しずつ飲む人にとっては有り難いらしい。アドバイスをくれたお客様も少しずつ飲む派の人で、飲み終わる頃にはテーブルがびしょ濡れで大変だという話をしていた。


「が、ガラスのジョッキ!? こんな珍しいもの初めて見た……」


 ドラドではガラスを使った品が貴族や王族の間で高値で取引されている。なんでもとある宗教で透き通ったガラスは神聖なものとか何とかで敬虔なる信徒の証なのだそうだ。貴族の多くはその宗教に入信しているらしいから、金にものを言わせて集めているのだろう。金で買えるものに神聖もくそもあったもんじゃないと思うが。

 そのせいか、口をつけるのは神聖さを侮辱するとかで食器系のガラス製品は一切無く美術品ばかりだ。だから驚くのも無理はない。

 因みに、濁って向こう側が見えないガラスは例外で高級酒を入れるのによく使われている。それ以外は殆どが樽だ。


「とても珍しいものが手に入りましたので、当店エスパシオが開業して最初のお客様にお出ししようと思っておりました。お気に召しましたでしょうか?」

「はい、とても」


 そう言ってレド様はニコリと優しく微笑む。よく見ればかなり整った顔をしている。服装とは見合って無い上品は顔だちだ。俺が女性だったら顔を赤らめていたに違いない。生憎と俺にそっちのけは無いからそんなことにはならないがな。


「それにしても、やっぱりこのお店は開業したばかりなんですね。前にここを通った時は酒場なんて見かけなかったですから」

「はい。当店は本日開業でございまして、丁度レド様がご来店下さる少し前に店を開けさせて頂いたばかりでございました」


 これは嘘だ。前が何時なのかわからないが、このエスパシオは昨日から営業している。何故嘘をついたかというと、それはお客様に好印象を持ってもらうためだ。どうせ一般人にはこのエスパシオが何日前から開店しているかなんてわからないだろうから嘘を見破られる心配は無い。

 このエスパシオは原理は不明だが、とある条件に当てはまる者以外には見えないようになっている。いや、厳密にいえば見えてはいるのだが認識することが出来ないのだ。つまり、レド様がこのエスパシオを見つけることが出来たということは、条件に当てはまったということだ。

 そして、俺の本当の仕事はここからだ。もう何十回とこなしてきたことだが、未だに慣れない。緊張するとかそういうことでは無いがこう…………いや、やっぱり慣れないという言葉が一番しっくりくる。


 気が付くと、何の変哲も無い木の握り手のコルク抜きを磨いていた。考え事をしている時には何故か決まってこれを磨いてしまう。俺がここで働き始めた時からの癖だ。

 それを制服のポケットにしまうと、ジョッキを傾け少しずつ麦酒を飲んでいるレド様に一つの質問を投げかける。


「もし、間違っておりましたら申し訳ありません。レド様は何か悩み事が御有りではありませんか?」

「……………………」


 レド様のジョッキを持つ手が止まる。

 そう、このエスパシオに入ることが出来る者は皆、悩みを抱えている。俺の本当の仕事はその悩みを出来る限り解決してあげること……だと思っている。

 俺は黙ってレド様の返事を待つ。


「…………はぁ、どうしてわかったんですか? 僕が悩んでるって」

「レド様のお顔にそう書いてありましたので」

「そ、そんなに顔に出てます?」

「はい、それはもうはっきりと」


 相変わらずの愛想の無い顔で俺がそう答えると、レド様は「まいったな……」と苦笑いを浮かべ手で後頭部を掻く。

 顔に出ているというのも嘘――――では無く、今まで何十人もの悩める人々を見て来たからこそ、悩みを持っている人の雰囲気というものが何となくわかるのだ。レド様はその中でもかなり顔に出ている。俺と同じく多くの人と接しているものでやっとというレベルだが。


「僭越ながら、この若輩のバーテンダーでよろしければお話しをお聞かせ下さいませ」

「うーん、まぁ部外者に話したってどうなる訳でも無い、か……」


 レド様はジョッキに半分近く残っている麦酒を一気に煽り、ジョッキを空にすると「もう一杯いいですか?」と空のジョッキを渡してきた。俺はそれを受け取り洗い場に置くと、ひや箱の中から新しいジョッキを取り出し再び麦酒を注いでレド様の前に敷いてあるコースターの上に置く。

 ほんの少ししか接していないがレド様は優しい人だと思える。誰にでも気を使える優しい人、そんな感じだ。半分近く残っていた麦酒を一気に煽って新しい麦酒を注文したのは、悩みを聞いてもらうためのチップのようなものだろう。俺から言い出したことなのに気を使ってくれている。


 レド様は新しい麦酒を一口飲むと、ぽつりぽつりと絞り出すように話し出す。


「僕は割と複雑な事情の家庭で育ってね…………。父と母は長年子供が出来なくて……父の弟夫婦が三男を出産したと聞いて無理を言ってその子を養子にしたんだ。それが僕さ。八歳でその事実を知らされた時はかなり驚いたよ。でも、父と母はまるで実の息子みたいに可愛がって育ててくれたから、逆に愛情を深く感じることが出来た……。とても幸せな日々だったよ。あの日が来るまでは……」


 レド様は一度そこで話を区切ると、再び麦酒を一口飲んで続きを話し出す。

 俺はその話を黙って聞いていた。


「今から十年前、当時の僕が十歳になった頃にそれは起こったんだ。父と母に念願の子供を授かったんだ。父と母は喜んでいたさ。父なんて子供みたいに飛び跳ねてたよ。僕も嬉しかった。だって弟か妹が出来るんだ、嬉しくない訳が無い。

 その数か月後に弟が生まれた。でも、それから父と母は弟しか見なくなったんだ……。今まで僕に向けられていた愛情は全て弟へ向けられ、今までの日々が嘘だったかのように父は僕に冷たく厳しく接するようになった。母は次第に僕を遠ざけるようになって、今では会ってさえもらえない。

 それでも僕は頑張った。学院を主席で卒業して、父の仕事も手伝って成果を上げた。それでも父は一言も褒めてはくれない。それどころか、余計に冷たく厳しくなるだけだった。最近は……実の息子が出来て僕が邪魔になったのだと周りに噂されている程だ……」


 レド様は眉間に皺を寄せ苦虫を潰したような顔で麦酒を煽る。

 

「仕事の合間に家に帰ると何も知らない弟がお帰りなさいって無邪気な笑顔を向けてくるんだ……。それが眩しくて微笑ましくて……憎らしい……。もう僕はどうしたらいいのかわからない」


 その表情はエスパシオに入って来た時とはまるで違う別人ではと思わせる程に疲れ果てていた。優しすぎるレド様はきっとこの悩みを誰にも打ち明けることが出来ず、長年苦しんできたのだろう。


「………………はぁ、すみません。こんなことまでお話しするつもりは無かったんですが、どうにも酔いが回ったみたいです。今夜はこれで失礼します。最後まで聞いてくれてありがとうございました。お勘定を……」


 そう言って席から立ち上がり懐に手を入れるレド様を手で制し、もう一度席に着くよう促す。この悩みは恐らく父親を勘違いしてしまったが故のものだろう。レド様の話と俺が調べた内容とが大きく食い違っている。そして、それに悩み過ぎて周りが見えなくなっているのも問題だ。父親と母親。この二つの悩みは源が同じように見えて実は全く違うものだろう。


「レド様。一介のバーテンダーである私が厚かましいことを申し上げるのをお許し下さい」


 前の軽いお辞儀とは違い、今度は深々と恭しく腰を折ってから話し始める。


「レド様。お父上とお母上の間にご子息様がお出来になり、レド様が邪魔になったとお話ししておいででしたが、それは所詮はお噂。何故直接お父上にお尋ねにならないのですか?」

「そ、それは………………」

「本当のことをお父上の口から御聞きになるのが怖かったのではありませんか?」

「………………」


 俯いて裂けんばかりに唇を噛み締めるレド様。全てはこれで解決してしまうのだ。無理を言えば父親の態度が変化した時にさっさと聞いてしまえば、これ程までに悩まずに済んだろう。俺の考えが合っていれば――十中八九合っているだろうが――それ程までに簡単な話なのだ。

 だが、簡単な話と言ってもそれは当人達の意志を考えなければというだけで、そこに意志を加えるだけで話は複雑で難しくなる。


「先程のレド様のお話しを聞く限り、私にはお父上が今でもお優しいお方のように感じました」

「え…………?」


 俯いていた顔を上げ、怪訝な表情をするレド様だが、どこか驚いたような雰囲気を感じさせる。


「これは一介のバーテンダーの考えとして御聞き下さい。お父上はレド様にあえて厳しく接しておいでなのです」

「あえて? 僕が邪魔になったとかではなくてですか?」

「はい。恐らくお父上は弟君がお生まれになった時に跡継ぎはレド様にと強く決心なされたのではないかと思われます」

「っ!! そんなはずは……だって跡継ぎは血を引いてる弟の方が…………。も、もし仮に跡継ぎを僕に決めたとしても、何故あんなに冷たく厳しく接する必要があるのですか?」

「それはこの国が三つの強国に接しているからでございます。三つの強国に対して綱渡りにも似た交渉や立ち振る舞いをしていかなければならないこの国の国王は生半可な覚悟では勤まらない。それ故に、お父上はレド様のお覚悟をお試しになっておいでなのでしょう。きっとお父上も心を痛めておいでです」


 俺の顔を見つめたまま固まっているレド様の顔は驚きに満ちていた。


「…………初めから知っていたんですか? 僕が国王の息子だって」

「いえ、気が付いたのはレド様のお話しをお聞かせ頂いた時でございます。レーニド・エスパ・ラフィード殿下」


 これは本当だ。俺に相手の素性を瞬時に見抜く特殊能力は無い。俺はここに着いた時からエスパシオを開店させるまで情報収集をしていた。その中には勿論国王のこともあった。過去に何回か国王が来たこともあるし、国の状況的に悩みが多そうだったからな。しかし、まさか国王では無くてそのご子息が来るとは思わなかった。

 レド様――レニード・エスパ・ラフィード様はこの国の国王の息子。つまり第一王子ということだ。恰好から察するにお忍びで町を見て回っている…………訳では無さそうだ。いくらお忍びとはいえ護衛の一人もつけないで第一王子が外を出歩ける訳が無い。こっそり抜け出して来たのだろう。


「まさかバレるなんて思わなかったですよ」


 肩を竦めてそう言うレド様は憑き物が落ちたような優しい顔に戻っていた。


「父のことは…………たぶんイカイさんが言った通りだと思います。今思えば父が私に冷たく厳しく接するようになった前の年、絶妙なバランスを保っていた三つの国の関係が崩れ始めましたから。最近ではその内の一つの国がちょっかいを出してきてますし、それに関する仕事も僕に多く回って来てます。

 跡継ぎの話は分かりませんが、私を鍛えていることは確かみたいです。……こんなことにも長年気が付かなかったなんて自分が情け無いですよ、ははは」


 笑う仕草もどことなく上品さを感じる。父親と母親の態度が変わった時、レド様はまだ小さかっただろうし、長年の悩みから来る不安せいで父親と母親のことに関して正常な分析など出来るはずもない。気づけなくて当然とまでは言わないが、気づける人は少ないだろう。

 俺もその笑顔につられて口の端が持ち上がるのを感じるが、すぐに何時もの愛想の無い顔に戻す。話はまだ終わってはいない。


「粗末な考えを御聞き下さり恐縮でございます。ですがまだ終わってはおりません」

「……母……のことですか?」

「はい、その通りでございます」


 何時の間にか空になっていたジョッキとコースターを片付け、代わりにワイングラスに葡萄酒を注ぎレド様の前に置く。


「あの、頼んでませんけど」

「私からのサービスでございます」

「は、はぁ、では有り難く頂きます」


 ワイングラスも透明なガラスを使ったものだが、レド様に気づくようすは無い。意識は母親の話の方へ向いているのだろう。

 葡萄酒も麦酒と一緒に今朝仕入れたもので試飲させてもらったがなかなかの味だった。葡萄酒は樽売りでは無く瓶売りで、一般人には馴染みが薄く主に貴族が好んで飲むらしい。なので見栄えの悪い樽では無く瓶で売っているようだ。


「では、続きをお話しさせて頂きます。お母上の方は理由が多々思い浮かびますので、一番最悪な状態という体でお話しさせていただきますが、よろしいですか?」

「だ、大丈夫です」

「ありがとうございます。お母上は昔、お父上とご一緒に公務をなさっておりませんでしたか?」


 このことは情報収集をしている際に小耳に挟んだ情報で裏付けは取れていないが、この国の割と偉い貴族が言っていたことなのであっているだろう。


「そういえば、妊娠を知らされる一年程前までは二人で交渉や社交界に行っていたと思います。でも、それも必ずと言う訳では無くて頻度はそんなに多くなかったと思います」


 顎に手を当て思案顔で答えるレド様。


「最近は一緒に行ってはいないみたいですが、弟の面倒も見なければいけませんし……」

「では、何故レド様の時はご一緒に行っておられたのに、弟君の時は行っておられないのか」

「それは僕が養子で、弟は実の息子だから……いや、父の件もあるし何より母は聡明な方だ。国のためより息子を優先するとは考えにくいか。…………!! もしかして、最悪な状態というのは……!?」

「恐らくレド様のお考え通りかと。今朝小耳に挟んだ情報ですと、この国では使われない珍し薬が何種類か入ったとか……」

「一体そんな情報をどこで…………いや、詮索はやめましょう。もしこの話が全て本当なら僕はイカイさんに感謝してもしきれない。父と母の件――特に母の方は早急に確認が必要ですので、そろそろお暇させてもらいます」


 レド様は麦酒を出した時に見せた優しい微笑みを浮かべながら立ち上がり、再び懐に手を入れる。今度は邪魔をしない。俺の仕事はここまでだ。レド様の悩みを全て取り除いたと言う訳では無いが、この類の悩みは最終的には本人が解決しなければいけない。俺が出来るのは後押しすることまでだ。


「おいくらですか?」

「七ドルテになります」

「ではこれを。お釣りは取っておいてください」


 渡されたのは三ドルテ多い十ドルテ硬貨。


「有り難く頂戴いたします」

「それと、このままでは僕の気が治まらないのでお礼をさせてもらいたいのですが、何か欲しいものなどありませんか? 僕に用意出来る範囲なら何でも構いませんよ」


 俺は眉間に指を当てて俯き気味に考え込む。追加の麦酒にチップまでと悩みを聞いた分は十二分に貰ったが、無下に断る訳にもいかないしここはレド様のご厚意に甘えさせてもらおう。丁度欲しかったお酒があったんだ。


「では、ご厚意に甘えまして……。クレール・ポルトの六十四年ものがとある場所に献上されたと聞きまして、出来ればそれを頂戴したく……」

「はっはっはっは! それは二日前に城に献上されたものですよ! よくお調べですね、感服しました」


 さっきの優しい微笑みとは違う快活な笑顔を見せるレド様。クレール・ポルトはポルトと呼ばれる赤くて小さな果実を葡萄酒と同じ作り方でお酒にしたもので、このお酒の変わったところは、潰したポルトから出る汁は真っ赤なのだが発酵させると無色透明になるところだ。味はわからないがポルト自体の収穫量が少ないため、幻のお酒と呼ばれているらしい。それの六十四年ものなんて興味をそそるだろう?


「かりました。近いうちに持って来ましょう」

「いえ、私の方から出向かせて頂きます。お忍びで来られるもの大変でしょうし、それにお母上のこともございましょう」

「……そうですね。そうして頂けると助かります。門番には僕が言っておきますので名前を言って頂ければ」

「畏まりました」


 俺が返事をするとレド様は一度頷き俺に背を向け出口へ歩き出す。俺もレド様の後に続きカウンターを出てお見送りをする。


「本日はご来店、誠にありがとうございました」

「お礼を言うのは僕の方ですよ、イカイさん。僕の悩みを聞いてくれて本当にありがとうございました。また、抜け出せたら寄らせてもらいます。では、また会いましょう」


 そう言い残してドアを開けるレド様。


 チリーン


 ドアのベルが鳴り静かな店内に音が響く。俺はレド様の後姿が見えなくなるまで深々と腰を折り見送った。もう二度とこのエスパシオを見つけられないようにと願って……。



◆◆◆



 後日、レーニド王子の部屋に兵士が駆け込み酒の保管庫からクレール・ポルトが無くなり、代わりにおかしな紙が置いてあったと報告をしてきた。

 レーニド王子は初めこそ驚いたものの代わりに置いてあった紙を見て、微笑みながらこう言ったという。

「あれは私の恩人にあげてしまったのだ。お父上には私から言っておくから心配しなくていい。その恩人は酒場を営んでいてね。君も一度行ってみるといい。東の町はずれにあるエスパシオという酒場だ」と。


 瞬く間に兵士達の間でエスパシオという酒場のことが広まり、とある非番の兵士が同僚を連れてそのエスパシオに向かった。しかし、そこに酒場など無くあるのは民家だけだった。周辺の住民に尋ねても誰一人としてエスパシオを知っているものはいなかった。

 「王子は夢を見たのだ」という兵士もいれば、「王子は場所を間違えただけだ」という兵士もいたが、兵士達の中でレーニド王子に直接聞けるものはおらず、次第にエスパシオという名は兵士達の間から消えていった。



◆◆◆



 俺は何時もの定位置である、酒場エスパシオのカウンター内中央でグラスを磨いている。外は煌々と太陽が照り付け立っているだけで汗が噴き出そうだ。相変わらず店内にお客様は一人もいない。こんな暑い日だ。昼間からお酒を飲む人もいるだろうし、そろそろ来てもおかしくないが……。


 チリーン


 ドアに取り付けられたベルが鳴り、目線をグラスからドアへ向けてお客様の姿を確認すると、俺は何時も通り愛想の無い顔でこう言った。


「いらっしゃいませ。エスパシオへようこそ御出で下さいました。こちらの席へどうぞ」


 これからまた俺の仕事が始まる。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

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