過去を現在に生かせ
批評家のミハイル・バフチンは「より大胆に可能性を理由せよ」という短い論文で、僕達にとって非常に有益な事を話してくれている。(これを巻末につけた平凡社の編集には感謝しなければならないだろう)
バフチンが言っているのは、僕の言い方で言えば「過去を現在に生かせ」という事だ。バフチンは文学研究について語っているのだが、普遍的な事を言っている。
例えば、シェイクスピアは元々、当時のイギリス社会で活躍した存在だった。シェイクスピアはあくまでも一人の人気劇作家として、エリザベス朝で活躍したのだった。しかし、今の僕達は、普遍的な人間性を文学的に表現したシェイクスピアという存在を知っている。この時、シェイクスピアの凄さを褒め称え、その大きな人間性を評価した後の批評家達は間違った事をしていたのだろうか? シェイクスピアは当時の社会の中でのみ活躍した存在だったのに、それをより大きな時間軸の中に解放したという事はやりすぎなのではないか?
これに大して、バフチンは肯定的な意見を示している。バフチンはある文学作品はその社会、環境にのみ閉じ込めていてはならない、と語っている。それはより「大きな時間」に開放されるべきものである、と。そしてシェイクスピアにはそれだけのものがあるのだ、と。
つまり、シェイクスピアのような巨大な存在は、その当時の社会環境、世界の中だけに留まっているのではなく、現在の視点からその普遍性を取り出し、より大きな歴史的時間に解放してやるべきなのである。私達が今知っているシェイクスピアは、そのように大きな歴史的時間に解放されたシェイクスピアなのだ。それは批評家の誇張ではない。大きく言えば、批評家はそのようにして、人類に大して貢献しているという事になる。
バフチンはこの事を一つの文化、時代に対しても当てはめている。例えば、「古代ギリシャ人が唯一知らなかった事は自分達が古代ギリシャ人だったという事だ」、というジョークがある。バフチンはこれを取り上げ、古代ギリシャという文化は、それとは違う「他者」の文化の視線を受け、光を受け、解釈、理解される事により、開かれた多様な存在へ変わっていくと述べている。文化とはそれ固有に閉じこもっているのではなく、それとは違う他者の視線の元に包摂され、開かれ、より大きな歴史的時間に導かれていく。
僕の観点では、これは「過去を現在に生かす」という事だ。過去を過去として閉じ込めているだけではなく、過去を学ぶという事は、過去そのものをより大きな歴史的時間に解放してやるという事を意味する。過去を現在に生かす事はおそらく、未来そのものを形成する。思えば、天才と呼ばれる人は大抵、死後の方が評価が高い。何故そうなるかと言うと、彼は「その時」だけでなく、より大きな歴史的時間に生きているからだ。現在に生きている人間のみが、過去を時間の中に開き、利用する事ができる。そうする事は、今この瞬間を生きている人間の特権でもあり、義務でもあるのだろう。時間はただ一つ流れているのではなく、私達が作るより大きな時間というものも存在するのだ。