後日譚 聖十字の導き
ディートリッヒは『掃除屋』であった。彼は善意の下に行動し、公共の道路を掃除していた。人通りの多い大通りにいることもあれば、存在すら知られていない裏通りにて清掃していることもあった。彼は報酬を求めなかった。彼はいつも『ボランティア』と書かれたテープが貼られた掃除道具を握り、快適な空間を作ろうと、毎日努力していた。その善意のみしか含まれない行動を見て、周囲は彼を変人扱いし、気味悪がっていたものだ。誰もが心の中では彼を尊敬していたが、誰もがそれを認めようとはしなかった。認めたくは無かった。自分よりも優れた思想を持った者を、否定するしかなかったのだ、自らの名誉のためには。
アスファルトの全面廃止を最初に提示したのも彼である。彼の提案は当然認められなかった。だが、ディートリッヒは諦めなかった。諦めたように見せていた。そう振る舞っていた。しかし結局、その政策は彼の代で実行されることは無かったのだ。彼は口癖のように、「もし私が有権者であったら、もし私に、国を変えるほどの権力があれば、この世は救われただろうに」と言っていたという。
彼の人生の軌道を大きく変えたのは、丁度三十の頃だ。隣国、グレートヴェルディシア帝国との戦争が始まった年。その後半のことである。
グレートヴェルディシアは世界でも指折りの大国で、特に、空上で戦わせたら世界第二位とも言われていた。だがその年の初めは、国民の戦争反対デモによって空軍のヘリなどの兵器が破壊され、大きな打撃を受けていた時期であった。そんな時期に戦争を仕掛けられたグレートヴェルディシアは混乱状態だ。陸軍の戦力があまり芳しくなかったこと、戦艦のメンテナンスが済んでいなかったことも重なって、あっという間に劣勢に押し込まれた。
このまま滅びてはグレートヴェルディシア帝国の名が廃る。耐久性の高い防壁を造り上げ、八ヶ月を持ちこたえた。そして迎えた十一月、グレートヴェルディシアは空軍戦力を回復する。デモの鎮圧と同時に、今までの被害の分を取り返さんとばかりに奮闘した。形勢逆転である。
ディートリッヒは八月のある日、彼が住んでいた安アパートの玄関の角に、異様な大きさの埃の塊が溜まっているのを見つけた。手にとってみると、埃に見合わぬ重さをもっていたという。不思議に思って埃を剥がしていくと、中から透明な球体が現れた。その水晶玉のような輝きをたたえた宝玉は、全ての良心を悪に引き込むようなオーラを放っていた。これに危機を感じたディートリッヒは、この球を自宅に持ち帰り、押入れの奥に押し込み、二度と見ることの無いように、木の板で囲んでその板を固定した。
戦争が激しくなると、国から徴兵令が出される。当然のことながら、彼にも徴兵の知らせが届いた。そして戦争に駆り出される前の最後の夜、不思議な夢を見た。
……邪悪な煌きをその三つの目にたたえ、じっとこちらを見据えている、漆黒の翼の竜。闇蒼緋の声が語りかけてくる。
『…………汝、我が力を欲するか……。……汝が敵を滅す、絶対なる闇黒の力を……。
…………我が力に僅かの差も無し……。……帝王の名を騙る愚かなる者等に、大いなる闇の裁きを与えん……。
……我が力を解放せよ……。我が力に偽り無し……。必ずや、汝が敵に滅びを与えん……』
ディートリッヒは、国を救うためならと、その言葉を受け入れると申し出た。
『…………よかろう。汝が誓約、ここに定めたり。……眠りを破り、我が戒めを解除せよ……。
我は破壊神也。この世界を破滅へと誘う者、ハルグドリオンなるぞ……。
…………汝、我が願いを聞き入れり。又、我、汝が願いを聞き入れり。悪魔の契約の下、汝等が世に、消える事適わぬ恐怖と、覆す事不可なる絶望を与えん…………!』
目が覚めると、彼はすぐに押入れの奥の木の板を取り払い、宝玉を手に取った。夢の中で感じた黒い力が伝わってくる。
彼は兵舎の中で、ずっとそれを見つめていたという。水晶のようなその宝石の中に、黒い炎が立っているのを見た者もいる。いつかこの国が滅ぶ、そう思っていなかった人間は、ディートリッヒただ一人であった。
戦争はグレートヴェルディシアの圧勝に終わると思われていた。戦力も尽きてきたため、国王は降参を考えていた。グレートヴェルディシアの猛攻を防ぐ手段もない。相手国のように防壁を作るか。だが時間が無い。防壁を作ったところで、敵国には優秀な空軍が存在する。こちらの貧弱な軍では対応できない。
十一月の終わりごろ、その戦況が大きく覆った。ディートリッヒの兵舎から巨大な竜が昇っていくのをみた人は何十人もいる。
黒竜ハルグドリオンは地上を蹂躙し、天に向かって黒い炎を吐き出した。グレートヴェルディシア軍は壊滅する。わずか一日で、邪竜は敵軍を滅ぼした。その次の日、グレートヴェルディシアは降参を発表。勝利を得たディートリッヒたちは、一週間ほどパーティーをしていたという。そして、彼は英雄となったのだ。
……だが邪竜はこれだけではおさまらなかった。戦勝国側にも攻撃を仕掛けたのである。ディートリッヒは、この責任は全て自分にある、他人に事を任せるわけにはいかないと言い、真正面から向かい合う。だが、満足のいかないハルグドリオンは、英雄ディートリッヒを食い殺してしまう。彼は死に際、こう呟いた。
「……もし私が有権者であったら、このような災厄は訪れなかった」
その後、彼の息子の内の一人が、宝玉の様子を見に行ったという。宝玉は砕けてしまっていた。ディートリッヒの子供は、その砕けた宝玉の欠片の中から比較的大きな欠片を七つ選んだ。
彼は欠片のひとつを火であぶり、ひとつを水に沈め、ひとつを強風に晒し、ひとつを土に埋め、ひとつを水に入れて凍らせ、ひとつを真っ暗な空間に閉じ込め、残ったひとつを、空に向かって投げた。すると、七つの欠片はそれぞれの形を回復し、七つの小さな宝玉ができた。
そうしてすぐに、ハルグドリオンがにおいをかぎつけて飛んでくる。ディートリッヒの息子、決して生かさぬ、我が行いを妨げんとする者を滅ぼさん。しかし彼は怯えることなく、邪竜と向き合った。そして七つの宝玉を地に並べると、天に祈りを捧げた。……神よ、この邪悪なる魔物を海の底へ沈めたまえ。この輝きをもって、邪竜を封じたまえ。……天から白い光が降りてきて、双方を包み込み、海の底へ転送した。不思議なことに、呼吸ができる。
宝玉はハルグドリオンを封印しようと光を発する。邪竜、ここで止められるものかとばかりに抵抗する。だがそれも虚しく、七色の光に照らされる。ハルグドリオンは最後の力を振り絞り、自らの姿を巨大な木のそれに変えた。七色の光は邪竜を包み込み、石の柱に閉じ込めた。根の部分はそこに封じられたが、本体は天へと昇らせる。そして海底に青い塔を建て、二度と人が訪れることの無いようにその地を深く沈め、上に新たなる海底を創造した。邪竜の魂は宝玉に封じ込められる。ディートリッヒの息子が、力を封じた宝玉を各地に散らすように願うと、七つの宝玉は天へと昇っていき、それからどこへ行ったのか解らない。彼は、ハルグドリオンの封印と引き換えに、自らの命を神に捧げた。彼の生命を受け取った神は、南十字の神として、人類の未来を見守ることを誓った。
そして二千年余の時が過ぎる。平穏な世に、再び災禍が現れた。悪しき者の手により、かの邪竜が蘇ったのだ。しかし、それに立ち向かった勇敢な四人の娘どもがいた。彼女らの働きにより、ハルグドリオンは死の寸前にまで追い込まれた。だがそれで終わりではない。邪神は、今度こそ世界を破壊せんとばかりに、周囲のものを引き寄せ始めた。すると、彼女ら四人のうちのひとりが邪神の闇に飛び込む。徐々に引き寄せる力が弱まっていき、ついにはなくなった。そうして破壊神ハルグドリオンは自らの力によって崩壊し、消滅する。この地に再び平和が訪れた。かの魔神を討ち滅ぼして手に入れた、恒久の平和である。
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「な、何だこの有様はッ!!」
一年ぶりに祖国に帰って来た陽気な王様は、一年ぶりに地上に降りてきた城の中を見て、悲鳴を上げました。あの騒ぎから一年の時を経た城内には、腐臭が立ち込めていました。兵士の死骸が多数転がっています。その多くが、骨に直接兜をかぶっていたり、鎧を着けていたりしている奇妙な姿でした。昨年の激戦の余波の影響でしょうか。
「余がいない間に、一体何が起こっていたというのだ!」
私は王様に一年前に起こった全てを話しました。王様は驚く気力もなくなってしまったようで、すぐにその場に座り込んでしまいました。
「……この国はもうダメだ、建て直しが利かない。一体いつからそうなってしまった……」
そして、私が不思議な体験をしたのもこの日でした。私たち三人は王様との対話を済ませると、町の広場に出ました。これで解散しようと思ったときでした。遠くから見覚えのある人影が近付いてきます。それは私たちの前に現れました。
「久しぶり、一年ぶりだな。お前ら、元気にしていたか?」
信じられませんでした。今日から丁度一年前、あのときにいなくなってしまったあの人が、突然現れるなんて。
「何ぼーっとしているのだ、もしかして、忘れてしまったか?」
「……今まで、何をなさっていたんですか」
「何をといわれても応えるべき答えが見当たらない。空白の一年間だったからな」
アイゼンディーテさんは、山のほうへ歩いていきました。私たちもついていきます。
「あらためて挨拶をさせてもらおう。一年もたってすっかり忘れているかも知れないが、第四十八代目ホフンティアのアイゼンディーテ・ベルゾルド・ツァプフェンクロイツだ」
「忘れてなんかいるものですか。共に戦った日々……」
「わたしだってお前らのことを少しも忘れてはいない。ラーナ、それに山賊のテールドルト」
「……本当に、何をしでかすか解らないお人ですね」
「まさか再び現れるとはねぇー。化けて出たみたい」
「おい待て! こんなときにも名前を呼ばれない私の存在意義は!?」
英雄(最新版)は旧ツァプフェンクロイツ邸に向かって歩いています。あの屋敷は今はもうありません。元々忘れられていた存在ですし、誰も目に留めませんでした。
「そういえば、わたしの記した冒険記の方は?」
「まだ出していませんよ」
「ああ良かった。これに書き加えるべき文章がまだ残っている」
「あの後も意識はあったんすか?」
「一応な。途中から途切れてしまったが」
「本当に見事なものでしたよ。疲れてませんか?」
「あー、ちょっと体の動かし方を忘れてしまったようでうまく歩けぬ」
「吸い込まれた後も危険な状況だったんだろ?」
「……さて、旧ツァプフェンクロイツ邸の敷地に着いたら、その文章でも書き加えるとするかな!」
「私に対する返答は!?」
「誠に嬉しいことに、応えてやる気すら無いっ!」
「ひどっ!」
風が緑のトンネルを吹き抜けていきます。
「それより、ハルグドリオンはどうなったんですか? あのままアイゼンディーテさんと一緒に消えてしまいましたけど」
「どうなったか、だと? あっはっは、何を言っておる、一年前にわが国を脅かした邪神は、お前らの目の前にいるではないか」
「……え゛!?」
「悪の根源など吸収し返してやったぞ。そのおぞましい姿も力も、全て闇の彼方に消えていったのだよ。
……ほら、広い所に出たぞ。あー、やはりただの荒地となってしまったのだな。家の面影なんて微塵も無いや。まあ仕方が無いかな。これから、住むべき家でも探すか。
……え? 何? 過去の功績? 知らんよそんなもん。過去は色々あったかもしれないけど、結局は、今をどう生きるかが、大事なのだろう?」
アイゼンディーテさんは私から手帳を受け取ると、なにやら書き始めました。