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このまま何も告げずにいたら、この人を騙しているみたいな気がする。
この人にとって、とても大切な「煌月」という人物。
それは俺じゃないって事を伝えないと、この人のこの想いが遂げられなくなってしまう。
相手の胸元に手を置いて、少しだけ体を離す。
そして、しっかりと顔を上げ、視線を合わせてから口を開いた。
「…ごめん。俺は、アンタの探している煌月って人じゃない。…だって、俺はアンタの事、本当に知らないんだ」
「………いや…、お前は煌月だよ。…ただ…、記憶を失っているだけだと思う」
「…記憶を、失っている?」
「あぁ。その証拠に、俺達の最後の行動を…、リチャードとの会話を知っていただろ?」
「あれは…!…あれは…、夢で見ただけで…」
俺が鈴原先生の探している煌月だという事を、微塵も疑う様子を見せない事に戸惑った。
本当に知らないのに…、わからないのに…。
でも、自分でも絶対に違うと断言できないのは何故か。それすらもわからない。
視線を合わせる為に上げていた顔を俯かせた。
これ以上鈴原先生の瞳を見ていたら、その力強く透明な眼差しに心を貫かれてしまいそうで、怖くなった。
「…アンタは…、なんでそんな目で俺の事を見るんだよ。…煌月って、アンタにとってなんなの?」
俯いたままそう聞くと、暫しの沈黙の後、心の底からの溢れるような声で、
「煌月は、俺の命を預けた人間だ」
とても大切そうに呟かれた。
「…命を預けた人間?」
思わぬ言葉にフッと顔を上げた先、そこには、言葉の重さとは裏腹に温かくなるような眼差しをした鈴原先生の表情があった。
「あぁ、俺の命をやると約束したんだ。…そして、煌月の命は俺に…」
「…そっか…」
簡単に言っているけど、それがどれ程の想いなのか、俺にだってわかる。
互いの命を明け渡すくらいの強い想い。
「…だから、俺は待つよ」
「…え?」
「煌月がまた、俺の事を大切だと思ってくれるようになるまで待つ」
「……」
そう言った鈴原先生の瞳は、間違いなく俺を、俺自身を見ている。
「…もし本当に俺が先生の探している煌月だったとしても、記憶は戻らないかもしれない」
「いいよ。その記憶は、煌月にとって忘れた方がいい事だから忘れているんだ、それを無理に思い出す必要は無い。…大切なのは、これからの煌月が俺を想ってくれるかどうかだ」
鈴原先生の瞳が俺を見つめたまま、「愛しくて愛しくてしょうがないんだ」と、そう伝えてくる。
…どうしよう…、もの凄く胸が痛い。
心臓が破裂しそうにドキドキしている。
着ているブレザーの胸元を、片手でギュッと握り締めた。
そうでもしないと、体が震えてしまいそうだったから。
その時、静かだった校内に授業終了のチャイムが鳴り響いた。
思いのほか大きな音だったせいか、俺達の間にあった濃密な空気はサラリと宙に散る。
「…5時間目が終了したか」
溜息混じりの鈴原先生の声が、暗にこの場を去る事を告げていた。
もちろん俺も、6時間目の授業は受けたいからこの場を去らなければいけない。
双方の意見の一致を感じたのか、もう一度柔らかな笑みを見せた鈴原先生は、何も言わずに歩き出した。
その後ろ姿を暫し見送った後、俺も足早に教室へと向かい歩を進めた。