6
たぶん俺を保健室まで運んでくれたのは鈴原先生だろうと確信が持てていただけに、そのお礼を言いたかったけれど、先生の微笑を見た瞬間に口から出たのはお礼とは違う、…全く違う言葉だった。
「…夏樹…?」
なぜそんな、夢の人物の名前を呼んでしまったのか自分でもわからない。
ただ、名前が同じだったから気になっていたのか、なんなのか…。
夢で見た夏樹という人物と鈴原先生が、どことなく似ていたからかもしれない。
でも、俺がそう呟いた瞬間、鈴原先生の表情が一変した。微笑が無くなり、驚愕ともとれる凍りついたような表情になる。
そこでハッと気が付いた。
出会ったばかりの生徒に下の名前を呼び捨てにされれば、誰だって気分を害するだろう。
何やってるんだ俺は。
自分に舌打ちしたい気持ちで、なんとか誤魔化そうと口を開いた。
「す、鈴原先生、あの…」
「煌月…、思い出した…のか…?」
「…え…?」
鈴原先生の顔には、こちらの胸が締め付けられるような儚い微笑が浮かんでいる。
その表情を見たら、思い出したってなんの事?なんて聞けなくて…。
立ち尽くしたまま口を噤んでしまった。
そして、鈴原先生が一歩一歩確かな足取りで近づいて、目の前に立った。
「煌月、無事だったんだな。リチャードに聞いても何も教えてくれないから、最悪の事態を覚悟していたんだ…、良かった…、またお前に会えた…」
そう言って俺を見下ろす鈴原先生の眼差しは本当に真摯で、心から俺の身を案じてくれていた事が伝わってきた。
でも、今、リチャードって…、それは今朝俺が見た夢の中で、俺を夏樹から引き離した人物の名前で…、これはいったいどういう…。
「…リチャード…?…思い出す?…無事?」
鈴原先生を見つめたまま、訳がわからず呆然と呟くと、目の前の顔がハッとした表情になった。
「…煌月、…悪い…。違ったみたいだな…」
諦めにも似た悲しげな笑み。
…違う…、違う…!アンタにそんな悲しい表情をさせたい訳じゃないのにっ…。
もどかしさで地団太を踏みたくなる。
夢の中で、夏樹は俺を助けようと嘘をついてまでリチャードに全てを託していた。
そんな、そんな相手をどうして悲しませているんだ!
「…だって、アンタ、すぐに後を追うって言ったのに…っ…来なかった…じゃないか!」
俯くと、言葉と共に涙がボロボロと出てきた。
もう何がなんだかわからない、あれは夢じゃないのか?!
でも、現実の俺はあんな出来事、知らない。
混乱の中、いつの間にか縋るように鈴原先生の腕を掴んでいた。
そして、何も言わない鈴原先生の反応が怖くなって顔を上げた瞬間、全身をとても暖かなものに包まれた。
「…っ煌月!」
耳元で聞こえたのは今にも泣きそうな鈴原先生の声で、…目に映るのはスーツの襟元で…。
…そう、俺は苦しいくらいに強い力で抱きしめられていた。
普段は男に抱きしめられようものなら、鬱陶しい!と振り払うのに、この腕の中はとても居心地が良くて、すぐに体の力を抜いて相手に寄り添うように身を委ねた。
…なんだろう、…まるで、体が鈴原先生を覚えているかのように懐かしい。
「…煌月…、煌月…。…覚えていてくれたのか」
「…違…う…。俺は、アンタの探している煌月じゃない」
「……え?」
フッと俺を包む腕の力が弱くなった。
俺じゃない…、この腕に包まれていいのは、俺じゃないんだ…。