すれ違い空―夕
道場の隅っこで、大名は壁に向かって両足を抱えたまま向き合っていた。その表情はどんよりと雲がかかっているかのように暗く、「こんなことなら大サンショウオにでも生まれればよかった」などとわけの分からないことを呟いている。
「まったく、そうやっていつまでウジウジとしているつもりだ。大体、両性綱有尾目オオサンショウウオ科オオサンショウウオなんぞになってどうするのだ。意外と可愛いが、そんなにおいしくないぞ。アレは。匂いはきついし、かなり煮込まないと肉が柔らかくならないのだ」
「……楽しそうだな。お前は」
天然記念物に指定されているオオサンショウオを食べていることには突っ込まず、大名は恨めしそうな目で小町を見つめた。人の恋路を邪魔したくせに……暗に非難を含んでいたのだが、小町は、そうか? とおどけて見せるのみで堪えた様子もなく、ジャージに着替えたその表情は楽しくてたまらないと緩みきっていた。
「本心をいうとだな、こんなに嬉しいことはないぞ。大名と一緒に修行できるのだからな」
「ちょっと待て。誰が修行をすることを承諾した」
幸せそうに両手を胸の前で握った小町に大名がすぐさま取って返す。小町は一瞬目を丸くすると、すぐに困ったように眉間へ皺を寄せた。
「ここまできて何を言っているのだ。我儘を言うものじゃないぞ」
「我がまま言ってんのはどっちだ!悪いが俺はもう修行を止めたんだ。今後一切、修行をするつもりはない!!」
立ち上がった大名は小町を見下ろしながらきっぱりと言い切った。いつものだらしなく垂れ下がった状態と違い、きりりと持ち上がった目尻からは確固とした意思が感じられる。単純に修行が面倒だとか、嫌いだという理由で拒んでいるわけではなさそうである。
「……そうか」
大名を困ったように見上げていた小町から眉間のしわが引いて行く。その様子を見て気持ちが伝わったのかと大名も胸を撫で下ろした。
これまでのやり取りからこちらの言い分など聞いてくれないかと思っていたが、そうでもないらしい。これなら今後も上手くやっていけるかもしれない。大名がそう思い安堵していると、小町がそっと大名の手を取った。ひんやりとした感触に包まれる。
「安心しろ大名。久しぶりの修行で不安になる気持ちは分かるが、僕はお姉ちゃんのように、肉を巻き付けてライオンの檻に投げ込むとか、重りをつけて鮫のいる海に投げ込むとか、いきなり無茶苦茶な修行をさせたりはしない。きちんと段階を踏んでからにするぞ」
その一言に大名は激しく脱力する。一緒に生活を始めてから、そろそろ関節が外れてしまうのではないかと思われるぐらい、何度も肩を落として来た大名であったが、今回ほど失望を露わにしたのは初めてかもしれない。
どうやら小町は、大名が修行を避けている理由を奏の無茶苦茶な修行によるものだと考えているらしい。おそらく大名の過去を聞いた時に奏が話したのだろう。もちろん、それも理由の一つではあるが根本的なものではない。それに常にそのような危険な修行をしていたわけもない。
小町が言っている修行は大名が記憶を失った時に、命の危機に晒せば記憶が復活するのではないかと思った奏が試しに行ってみた結果だ。その中にはホモの柔術家との三日三晩の組手も含まれているが、あれは別の意味で危機を感じたものだった。
回想するだけで飛んでしまいそうにあった意識を大名が慌てて取り戻す。危うく白目をむいてしまう所だった、今はそんな場合じゃない。この天然の聞かん坊によく言って聞かせねばならない。
きっと、きちんと理由を述べてないのが悪いのだ。小町にも伝わるようにきちんと理由も述べ、この際だから自分は江のことが好きだということも、だから普通に友達として付き合おうということも、すべて伝えてしまおう。
大名はそう決意すると、しっかりと握られた自分の右手から、小町の両手を外しつつ、もう一度説得を試みた。
「あのな、そうじゃなくてだな……」
「大丈夫だ分かっている! 千極流の後継者としての不安もあるのだろう? 確かに大名には才能はないかもしれないが、そんなことは大した問題もない!!」
まず小町の右小指からゆっくり外し始める。
「いや、だからな、才能とか関係なくて、それに俺はこの道場継ぐつもりはないし」
「なに!? それは桃山家に婿に来てくれるということか? 嬉しい申し出だが、それはダメだぞ! 大名ほど千極流の後継者に相応しい男はいないのだから!!」
次に薬指を外し中指に取り掛かる。
「どんだけポジティブだよお前。それに婿って、言葉としちゃ間違ってないけど無理だろ。お前男じゃん、無駄にオス増やしてどうすんだ。っていうか、そういうことじゃなくて」
突っ込みながら人差し指と親指を順番に外しそっと右手を退ける。そして、その下にある左手の小指に取り掛かろうとしたら、小町は大名の手の上から外されたばかりの右腕を乗せてくる。結果として両手をロックされてしまった。
「……!?」
大名の口元が歪み微妙に痙攣した。まだ笑顔と表現できる範囲内だ。
振り払おうと両手を四方八方に動かす。しかし、小町はニコニコ笑ったまま寸分たがわず同じタイミング、同じ軌道で動くことによって力をいれることなく大名の拳に張り付いている。
「っだぁ~、もうめんどくせぇぇぇぇぇぇぇ!!」
そして、ついに大名の忍耐が限界に達した。それはおちょくるようにして離れない小町に対して苛立ちが募ったのか、それとも説明がまったく通用しないことに対して腹立ちを覚えたのか、あるいは使いなれない頭を使ったことにより脳の限界を超えたのか、恐らくその全てだろう。
とにかくこの数日に溜まりにたまったフラストレーションもこれを機に爆発。沸き上がる激情のまま乱暴に小町の白い手を振りほどき、立ち上がると、その鼻先に指を突きつけた。
「いい加減にしろって言ってんだよ! 何が嫁だ! 何が十年前の約束だ!! 俺が迷惑してんのが分からねぇってのか!?」
「……迷惑、しているのか?」
「してるに決まってんじゃねぇか! お前本当は俺に嫌がらせして楽しんでるんじゃねぇの? 」
「なっ、それは違う、断じて違うぞ! 僕は妻の役目を果たそうと思ってだな」
憤然とした表情で言い放った言葉に小町も立ちあがった。自分の気持ちをどう表現していいのか分からないのだろう、困惑した顔をしているが、それでも必死に大名の勘違いを正そうと言葉を続ける。
「僕はお前との約束のおかげで厳しい修行にも耐えることができた。あの時お前が言ってくれた言葉が、約束が、心の支えだったんだ。また会える日をずっと、ずっと楽しみにしていたんだ。 感謝しているんだ。大名は僕のヒーローだったんだ」
不器用ながらも自分の気持ちをぶつけてくる小町を見て、大名の顔から波ように血の気が引いていく。瞳には赤い憤怒の炎がちらつき始めた。
本来ならここで小町は口を噤むべきだろう。それほどまでに大名の変化は著しかった。
しかし小町にはその選択は不可能だ。重ね行く言葉が、更に大名の怒りを誘うだけだと心のどこかで感じてはいても、その気持ちに蓋をすることは出来ない……その気持ちこそが彼女の十年間だといっても過言ではなかったのだから。
故にこうなるのは当然の帰結だったのだろう。
「だから、そんな、嫌がらせなんて絶対ない。確かにやり過ぎたところもあったかもしれない。でも信じてくれ、僕はお前のことが……」
「うるせー!」
大名の激高が道場に木霊した。小町の身が竦み、言葉が強制的に断絶される。それでも短く何かしらの音が漏れたようだが、硬く縮んだ身体から力が抜け、大きく見開かれた瞼が半分沈むのと同時に完全に沈黙してしまった。
「うるせーってんだよ。黙れよ。何だよ、何かあれば約束、約束って。お前が見てんのは今の俺じゃなくて、記憶を失くす前の俺だろうが。それを今の俺に押し付けんじゃねぇよ」
「だっ、大名……?」
大名の土気色の顔色に、赤い唇が震えていた。きつく眉間に寄った眉は、深い悔恨と怒りを感じさせる。
その普段とあまりに違う様子を見て、己を弁護するより心配する気持ちの方が大きくなった小町は、そろそろと大名の頬へ手を伸ばした。
「さわるなっ!」
しかし、大名はその手を力任せに振り払ってしまう。じいんと痛みが手の甲に広がった。
「約束なんてしなけりゃよかったんだ。重いんだよ……お前」
道場が静まりかえり、厚い空気に包まれる。小町は愕然とその言葉を受け取った。約束の否定は十年間の否定。小町にとっては人生を否定されたことと同義なのだから。
小町は口を結ぶと降り払われた手を抑える。俯いた大名に背を向け、道場を出て行ってしまった。
小町は商店街を一人、とぼとぼと力なく歩いていた。ここに来たのは特に目的があったわけではない、半ば放心状態のまま歩いていたら辿りついてしまったのだ。あるいは、初めて大名と二人で歩いたのが、この道だったからかもしれない。
――小町、あなたは大名君と再会することで辛い思いをするかもしれないわよ。それでもいいの?
――はい、母上。例えそうであっても僕の決心は変わりません。心配なさらずとも大丈夫です。約束を果たしてくるだけですから。
自嘲し顔を歪める。母にあれだけ啖呵を切っておいてこのザマだ。いや、それはいい。自分のことはいいのだ。今一番辛いのは大名を傷つけてしまったことだ。いくら鈍い小町といえども、あの態度をただ怒っただけとは思っていない。何か触れてはいけないものに触れてしまったのだろう。
「何をやっているんだ……僕は」
視界が滲む。こんなはずじゃなかったのに……やはりあの時負けてしまったのが全ての間違いだったんだ。負ける気なんてなかった。約束を果たし勝利してこの十年の想いも、悩みもすべて清算するはずだった。なのに、あと一歩というところで意識が鈍ってしまった。欲に使命感が負けた。そうでなければ負けるはずなどなかった。
そこまで考えて小町の頭にカッと血が昇った。終わった勝負に異論を挟むなどあってはならないことだ。桃山流門徒としての矜持にまで泥を塗ろうとするなんて、なんと恥ずべきことか。
自分への不甲斐なさに思わず漏れ出しそうになる。嗚咽を必死に抑えていると前から短い悲鳴が聞こえた。周囲に見られないように俯いていたら誰かにぶつかったのだ。
「ごめんなさい。ぼーとしてて。大丈夫ですか?」
小町の耳に人を落ちつかせるような穏やかな声が触れる。どうやら背中にぶつかったらしく、振り向いたその人物は慌てて顔を覗いてきた。
「あら、あなたは……さっきの」
驚いたような声に小町が涙を拭って顔を上げた。視線の先には、ほんの一時間前にこの場所で出会った少女白村江が口元を押さえて立っていた。
「しかし意外でしたなぁ」
「そうかしら、私はおかげで色々と合点がいったわ」
買い物を終え帰路についていた奏とトメさんは何やら話をしていた。トメさんの手には食材、奏は薄いベニヤ板を数枚抱えている。
二人が話しをしているのは大名の過去を聞いた際の小町の反応についてだ。大名が記憶を失くす前のことから失くしてからやらかした様々な愉快な、それでいてトメさんや奏にとっては頭の痛い出来事まで包みなく話した。その上で、もはや大名は小町の思っているような男ではないということまで伝えた。
その結果、小町の出した答えがもう一度修行に励むよう説得する、だったのだ。トメさんはこれを指して意外だと言っていた。小町の中にあった理想の大名像が壊されたのだ。奏からその心酔具合を聞く限りもっとショックを受けてもおかしくないと思っていた。
しかも小町は桃山流の後継者であるにもかかわらず約束を果たしにやって来た。自分が負けた場合、必要であれば桃山流を捨てる覚悟までしてきたはずだ。他家の嫁になるとは多くの場合そういう意味も含んでいるのだから。なればこそ女癖が悪いだけならまだしも、どうして武術を極めることを止めた男に対し失望を感じないことがあるだろうか。
長く千石家に仕え桃山家についても浅くない知識を持っているトメさんとしては、それこそ荷物を持ちだして家を出て行くと言い出しても不思議でないとすら思っていたのに、小町は悩むこともせず、むしろ嬉々として「では僕がもう一度修行に励むように説得してみます」と言ってのけたのだ。
若者の感覚と言われればそれまでかもしれない。事実、奏は特に不思議に思っていないようだがトメさんはどうも腑に落ちなかった。
「そんな顔しないでトメさん。難しく考えすぎよ」
「年取ると頭が固くなりましてなぁ。この老婆にも分かるように教えてくれませんか?」
その言葉にトメさんがムッと眉根を寄せる。言外にまだ若い人には負けませぬと言っていた。
「そうね。まずハッキリしておかなきゃいけないことは、もともとこまっちゃんは大名の嫁になる気はないってことでしょうね」
「なっ、騙していたということですか!?」
さらっと切りだされた発言にトメさんが驚きのあまり立ち止まる。まさかあんなに大名のことを追いかけていたのに、全て偽りだったというのだろうか。でもそうだとしたら何のためにそんなことを……
「あぁ、待って、待って。だからってこまっちゃんの気持ちが嘘だっていうわけじゃないわ」
「では、どういうことですか?」
宥める奏にトメさんが鋭い目を向ける。流石半世紀以上も千石家に仕えてきただけはある。すごい迫力だ。
「まずは手紙の内容よ。あそこにはこまっちゃんが負けた場合世話してくれとは書いていたけど嫁がせるとは書いてなかったわ。それに本当に勝負して負けた場合、家ちへ嫁がせるつもりなら手紙じゃなくてマリーさん本人が来ると思わない?」
トメさんが頷く。それについてはトメさんも不思議に思っていた。あの女人がこんな面白そうなことを見逃すはずがないし、何より後継ぎを失う可能性が出てくることを父親が黙っているとは到底思えなかったからだ。それに実際に負けた今でも音沙汰がないというのはどう考えてもおかしい。これは本気ではないという理由の他にも……
「上同士での掛合いですか」
「そうね。多分、親同士で何か話しはしてるでしょう。あのクマ親父のことだから納得してなさそうだけど……まっ、とりあえず、手紙のことだけでもこの話が本当じゃないってことが分かるわ。それとこの間こまっちゃんと話した時、あの子側にいられるだけでいいみたいなこと言ってたのよ。すっごい満足そうに、それでピンッときたの」
「…………なるほど、つまりそういうことですか」
トメさんが苦々しい顔つきになる。おそらく奏が次に言おうとしたことにも察しがついたのだろう。
奏もこれ以上の説明は必要ないと判断し無言で空を仰いだ。
小町が大名を好きだということは本心からだろう。しかし、約束通りにする気がないのもまた本心。では、これらの噛み合わない本心を説明してくれる真実とは何か。
奏もトメさんもその真実に気がついたが故に口を閉ざした。自分たちが軽く口にしていいものではないと思った。
少女の覚悟に心を打たれた。少女の不器用さを愛おしいと思った。
なんとかしてあげたいと思う。しかし、それをするのは自分たちではない。
「あのバカ……ちゃんとクッキー食べたんでしょうね」
奏の呟きは春空に吸い込まれていった。見ていて切なさを感じるほど穏やかな春の日だった。
江は困り果てていた。その手には買ってきたばかりの温かい紅茶が二つ握られており、ぶつかった少女は自分の隣に座り膝を抱えたままずっと俯いていた。初めは自分とぶつかったせいで泣いているのかと勘違いし半ば強引に近くの公園まで連れて来たものの、どうもそうではないらしい。
チラリと窺う。とてもじゃないが昼間出会った少女と同一人物とは思えない。あの時は周りの空気まで輝かせるオーラがあって、勝気な性格に見えたのに……今となっては、ただの傷ついた女の子だ。
「あの、これどうぞ。もうすぐ日も落ちてきて寒くなると思うから」
ジャージだし……江はそっと紅茶を小町の手につけた。小町は僅かに身体を震わせるとぐずるようにして顔を上げた。
「ふぇ……」
江の顔が耳まで真っ赤に染まる。濡れそぼった深青の瞳、ほんのりと色づいた頬、白い肌を撫でピンク色の唇を伝う涙……まだ幼さの残る顔立ちなのにひどく官能的だ。
江は生唾を飲み込むと煩悩を払うかのように頭を振った。前言撤回、やはりただの女の子なんかじゃなかった。
「いやいや、何考えてるのよ江。そりゃ、泣き顔まで可愛いなんて漫画かアニメの中だけだと思ってたけど……」
火照った頬を抑えもう一度小町の方に視線を戻した。紅茶を受け取った小町が不思議そうにこっちを見ている。
「イヤー! やっぱり反則!!」
「あのー、すまない」
「はっ、はいっ」
顔を背けうねうねしていた江に小町が話しかけた。我に返って振り返ると小町が申し訳なさそうにしている。少し腫れた瞳からは涙も引いていた。
「紅茶ありがとう。それに恥ずかしいところも見られてしまった」
「あぁ、いいのよ。気にしない。気にしない。それより冷めないうちに飲んで」
江が促す。小町はもう一度軽く頭を下げると蓋を回して口をつけた。江はなんだかその姿をじっと見ているのも気が咎められたので視線を正面に移した。公園の入り口の前を母親と幼稚園くらいの子どもが通り過ぎていく。
「あの……どうかしたの?」
タイミングを見計らって尋ねる。昼間見た時はとてもじゃないがそう簡単に泣くような子には思えなかったのに……よっぽど辛いことがあったのだろうか。
「無理にとは言わないけど、よければ話してみて。それだけでも楽になることもあるから」
江はそう言って小町に笑いかけた。
「ありがとう。あなたはいい人だな」
小町の表情が穏やかになる。それがまた綺麗で江はなぜか照れてしまった。小町は自分を落ちつかせるように一口、紅茶を飲み下すと少し悩みつつも口を開き始めた。
「実は大名から嫌われてしまったんだ。それに傷つけもしたと思う」
「それって、傷つけてしまったから嫌われたってこと?」
小町が頷いた。
「大名に甘え過ぎたんだ。どんなに無茶な事をしたって大名はいつも許してくれたから。何も考えずに思ったことを口にして、気持ちをぶつけて……僕はバカだ」
小町は膝を引き寄せるとその間に再び顔を埋めた。
心地よかったのだ。どうしようもなく。わずか数日しか経っていなかったが、トメさんがいて、奏がいて、大名がいて、師弟関係とは違う、自分が遠い日に置いてきた普通の家族というものがあって。だから気持ちが緩んでしまった。甘えてしまった。
桃山流の後継者たるもの甘え慢心は許さぬと、物心ついた時から父に厳しく仕込まれてきたのに。
「僕は卑怯者だ! 嘘つきだ!」
小町が肩を震わせた。溢れだした感情に押し出されるように涙が流れ、綺麗な顔が歪んでいる。しかし、言葉だけはそれ以上出てこないのかただ口をパクパクと動かすのみであった。
「僕は……卑怯者だ……」
「うん、そうかもしれない」
小町が絞り出すように呟いた時、江がそっと包むようにその肩を抱いた。小町が何のことを言っているのかは分からないが、それでも自分を責めていることぐらいは理解できた。そして何も知らぬ江にはその気持ちを否定することも肯定することも出来ない。出来ることといえば、こうして側にいて冷たくなり始めた風から守ってあげることぐらいだ。
「だから、もっと泣いていいよ」
その言葉に嗚咽が漏れだす。江の胸にしがみつき涙を流すその姿は、母の胸で泣く幼子のようだった。
買い物から帰って来た奏とトメさんは顔を見合わせた。家が暗い。まだあの二人は追いかけっこしているのだろうか。不思議に思いつつも玄関を潜り、居間へと進んだ。襖を開けると中は暖かかった。
「なんだ、いるじゃないの」
奏が電気をつけるとファンヒーターの前で大名が寝転がっていた。眠っているのかと思ったが、目はきちんと開いておりこちらを見つめてきた。
「なんだ。奏姉かよ」
「なんだとは随分ね。それよりこまっちゃんはどこ行ったの?」
尋ねる。机には口の空いたクッキーの袋、どうやら食べたようだがなぜ不機嫌そうな顔をしているのか。嫌な予感がした。
「しらねぇよ」
顔を背け不貞腐れたような返事に奏の眉が吊り上がる。
「部屋にはいらっしゃいませんね。靴もないようですし、外にいるのではないかと」
「……あんたら、もしかして喧嘩したの?」
トメさんの報告に奏が大名を睨みつけた。大名は背を向けたまま微動だにしない。昔からこうなってしまうと頑固な弟だ。奏は眉間を揉みほぐすと腰を下ろした。大名の肩がビクッと震える。
「何があったか話しなさい」
しかめっ面をしていた大名であったが、有無を言わさぬ奏の視線に渋々身体を起こした。トメさんがお茶を入れテーブルより少し離れた場所に座る。彼女なりの気配りだろう。大名は深く息を吸うと、小町と喧嘩した時のことを語り始めた。
「なるほどねぇ。まぁ、あんたが怒りたくなった気持ちも分からないでもないけどね」
話しを聞き終え奏がお茶をすする。横目で時計を見ると時刻は夕方の五時。出て行ってからすでにニ時間ほど過ぎている。
「人事みたいに言うなよな。俺に断りもなく昔のことを教えた奏姉も悪りぃんだからな」
すべて話し終えた大名は顎をテーブルにのっけて唇を突き出した。
「たしかに。それもそうね」
奏があっさりと認める。その素直さに大名は面食らってしまう。いつもなら素早く反撃を打ってくるのにどうしたのだろうか。
「こまっちゃんだけにあんたの過去を話したのは不公平だったわ」
「そうゆうことか?」
「そうゆうことよ。そもそもあんたはこまっちゃんと修行した記憶はないわけだし。それであの子の気持ちを推し量れっていう方が酷でしょう」
奏はそう述べると立ち上がり居間を出て行く。そして自室から一冊のアルバムを持ってきた。アルバムを開き大名の方へ向ける。
「これは、俺と小町?」
そこに映っていたのは幼い自分と小町の姿。隣には小学校中学年くらいの奏もいてふてぶてしいというか冷めた目をしている。皆道着姿で、その後ろに立っている一際大きい熊のような男が小町の父親だろうか。顔は髭に覆われており、非常に厳格そうである。
「そう、これは十年前の写真。修行が終わった時に取った写真よ。どう?」
「どうって……これ本当に小町か? よく似た別人とかじゃねぇだろうな。小せぇし、弱々しいし、なんていうか今にも泣きそうだぞ」
疑惑の眼差しを写真へ向ける。今よりも長く後ろでしばっているようだが艶やかな黒髪といい、特徴的な青い瞳といい間違いなく小町なのだが……写真でも分かるほどに涙を溜め父親の足に縋りつくその様子は、自信たっぷりで勝気なオーラを放っている彼女の幼少時代とはとても思えない。
「間違いないわよ。こまっちゃんは元々超がつくほど泣き虫で大人しい子だったからね」
「嘘だろ?」
「本当よ。その写真だって、これ撮ったらあんたとお別れだからって泣きそうなってんのよ」
「マジかよ……信じらんねぇ」
呟くともう一度写真へと目を落とした。十年前と聞いた時、大名は自然と今の小町が小さくなったような姿を想像していたがこれではまるで正反対だ。これがどうすればあんなに滅茶苦茶な性格へと成長するのか甚だ疑問である。
「その理由があんた」
奏が大名の心を読んだように指先を向ける。
「その頃からあんたは元気よくて物怖じしない性格だったからね。人見知りもなかったし、まぁ、少なくとも今よりもずっと利発そうだったしね……弱かったけど」
「うるせー」
大名が突っ込む。
「憧れだったのよ。こまっちゃんはこの後すぐに跡目修行に入ったっていうし、あの頃の性格を考えると相当きつかったんじゃないかしら。それこそ、あんたとの約束を心の支えにしなけりゃやっていけない程度には……ね」
奏の流し目があんたもよく知ってるでしょ? と訴えかけてくる。たしかに山籠りの辛さだけなら大名もよく知っている。小学生の時に父親と奏との三人で一か月、鬼が住んでいたという伝説のある山に籠ったことがあるからだ。
その時は夏で他の季節に比べれば凍死する心配もないし食べ物も豊富だった。それでもブナの原生林に覆われた森は常に薄暗く不気味で、夜は蚊をはじめとした虫や、野犬の群れに気をつけなくてはならないため満足に眠ることすらできなかった。肉体的にも精神的にも摩耗していくなか、最後の二週間を各人自分で入手した食べ物以外口にしてはいけないというルールで過ごした時は本気で餓死しかけた。その時初めて大名は蜘蛛の苦さを知ったくらいである。とにかく文明のある生活を狂いそうなほど渇望したことをよく覚えている。
小町はそんな生活を十年。加えて桃山流の修行までもまだ片手で数えられる歳の内から始めていたのだ。日々の生活だけでも相当に苛酷だっただろう。
――大名は僕のヒーローだったんだ。
そういうことか……自分の経験と小町の境遇を照らし合わせ大名が押し黙った。
「ねっ、それを思えば少しぐらい気持ちが暴走しちゃうことぐらい許してやりたくならない?」
尋ねるが、大名は難しい顔をして何も答えようとしない。
その様子に奏は仕方ないとばかりに頭を掻くと、机の上に置いてあったクッキーの袋を指さした。
「それ、念のために聞くけどどうしたの?」
「あぁ、台どころに置いてあったから勝手に食った。むしゃくしゃして腹減ってたから――」
「この愚弟!!」
鉄拳が飛んできた。大名の唇とテーブルが熱い接吻を交わす。
「んぐぐぐっ、何すんだよっ! ちゃんと半分取ってあるだろうが!?」
「……たのよ」
「はぁ?」
「こまっちゃんが作ったのよ。そのクッキー。あんたに喜んで欲しいって。あんたこまっちゃんのこと避けてたでしょう?」
「べっ、べべべべ、べつに避けてたわけじゃねぇよ」
大名に分かりやすい動揺が走った。奏は目をそらした大名の頭を掴むと無理矢理自分の方へ向ける。
「あのね。こまっちゃんだって馬鹿じゃないのよ。あんたが自分のことを避けてるのを分かって、ずっとどうにかしたい。もっと距離を縮めたいって思ってたんだから。あのトラップの目的だって半分はあんたとじゃれ合うためじゃない。その最たるものがこのクッキーよ! あんたを喜ばせたいからって、少しでも仲良くなれたらって……そう願って、何度も失敗して、最後は頭まで下げて……ずっと隠れて頑張ってたんだから!」
奏は失敗しては悔しそうな顔をしていた小町を思い出し、残り半分となったクッキーの袋を大名に突きつけた。大名はクッキーの袋を見つめながら惚けたような顔になる。
小町が避けられていることに悩んでいたのだとしたら、もしかして修行する時あんなに嬉しそうだったのは……
「てっきり昔の俺に戻らせるために必死になってんのかと……」
今さらながら小町の真意に気がついた大名の脳裏に、身を固くし竦みあがった小町の顔が浮かぶ。罪悪感が胸の奥でジリジリと焦げ始めた。
しかし大名にだって意地がある。ここで発揮するのは間違いだと理性では分かっているものの、感情がどうしてもいうことを聞いてくれない。
唾液を呑み込み出てきたのは――
「最たるものって、たかがクッキーじゃねぇか。そんなんで機嫌とろうなんて少し甘いんじゃねぇの?」
そんな言葉だった。
口角が引きつり歪んだ大名をみて、奏は静かに首を横に振った。ぬるくなってしまったお茶を手に取る。話し始めて既に一時間近く。日も落ちてきて暗くなり始める時間だ。
「そういえば最近ここら辺で恐喝事件が流行ってんの知ってる?」
意固地になって背を向けてしまった大名へ、まるで今までの話などなかったかのような気軽さで奏は話しかけた。
「急になんだよ? もしかして小町が危ないから向かいに行けとか言うんじゃねぇだろうな?」
「話しは最後まで聞きなさい」
「しらねぇよ。大体、あいつのどこに危ない要素があるってんだ。そこら辺の不良なんて武器持ってたって相手にならねぇだろうが。心配するだけ無駄だよ」
大名が話しは終わりだと立ち上がった。自室に戻る気なのだろう、そのまま居間を出て行こうとする。
「本当にそうかしら」
そして襖に手をかけたところで奏の言葉に呼び止められた。無言のまま肩越しに振り向く。
「ちょっとは考えてもみなさいよ。不良に毛が生えた程度の実力しかないあんたが、どうしていつもこまっちゃんから逃げることができたのかしら?」
「そりゃ、あいつが馬鹿正直に俺の言うこと信用するから……」
いきなり何を言っているのかと眉を顰めた大名であったが、そこまで発して何かに気がついた様にポカンと口を開けた。
「暗くなってきたわね~……この間も変な奴らに絡まれたっていうし。そんなやつらが正々堂々、正直に真正面から襲ってくれるといいわねぇ。大名」
奏は襖によって見えないにもかかわらず態とらしく外を眺める仕草をしてにやりと笑う。
大名は唇を噛みしめ奏を見つめたが、その手には乗らぬとばかりにふっと相貌を崩した。
「そうだな。俺もそう願うよ」
そう言い残し澄まし顔で居間を後にする。襖が締まる音がして、大名の足音も離れの自室の方へ消えて行った。
取り残された奏とトメさんはそのまま動かずにお茶を啜る。静まりかえった居間で時計だけがその存在感を増していった。
・
・
・
・
・
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そして、しばらくして廊下からドタバタと走る音が聞こえてきた。
「十分か、思ったより早かったわね」
「そうですなぁ」
足音が居間の前で停止し、ついで襖が乱暴に開かれた。
春といえども日が落ちればまだ寒い。そこに現れたのは上からコートを羽織った大名だった。大名はそのままテーブルまで近づくと無言でクッキーの袋の口を縛りポケットに入れる。
「買い物に行ってくる」
「クッキー持って?」
拗ねたようにも開き直ったようにもとれる大名の物言いに奏が尋ねた。
「うるせー。買い物するのにいるんだよ」
大名はぶっきらぼうにそう答えると足音を響かせながら再び居間を後にする。襖を閉めると「そりゃ高い買い物だ!」と爆笑する声が聞こえたが大名は構わず玄関へと進む。
「あぁもぉ。なんでこんなに気になるんだよっ。相手は男だぞっ、男! ほっときゃいいじゃねぇか、ちくしょー!!」
自分自身に悪態を突くと、靴を履き紐をきつく締め立ち上がった。
――頼むから知らないやつについてったりすんなよ……
大名は祈るような気持ちで玄関を飛び出した。