すれ違い空―昼
この小説は縦読みの方が読みやすいかもしれませぬ。
時計が鈍く正午になったことを伝えてからしばらく。千石家のキッチンにはバニラエッセンスの香りが漂っていた。調理台の上には使い終わったボールや泡だて器、口のあいた袋やバターなどの食材が無造作に置いてあり、それらを使用した人物は部屋の脇にあるオーブンを真剣な面持ちで見つめている。
「さっ、もうよろしいのでは?」
トメさんに促され小町はオーブンを開く。中にある耐熱皿の上にはきつね色に焼けたクッキーがところ狭しと陳列されていた。見た目と香りに問題はない。残るは……小町はその一つを手に取ると恐る恐る齧ってみた。
五百円ほどのクッキーが半分に割れる。サクサクとその形を崩し、同時に唾液と混ざり合ったところでしっとりと甘さが口内に広がった。
文句なしの成功だ。
瞳を喜びに打ちに震わせた小町はトメさんへもクッキーを渡す。
「うん、良くできています。これならぼっちゃんも御喜びになると思いますよ」
トメさんも太鼓判を教えてくれた。
「あら、どうやら成功したようね。隠し味は分かったの?」
トメさんと小町が成功に手を取り合っていると香りに誘われたのか奏が入って来た。
「はい! どうぞ食べてみて下さい」
「あら、本当。この前お店で食べたのと一緒ね。むしろ出来たてな分こっちの方がおいしい。ほんとうによく再現できたわね」
奏は手渡されたクッキーを半分ほど齧り驚きの眼差しで見つめる。形こそ違うものの鼻腔を満たすこの独特の風味は、この間二人で行ったケーキバイキングの店で食べたものとそっくりだ。
残りを口へ放り込む。本当に美味しい。もう一つくらいつまみたいなと視線を向けたが、止めておくことにした。
「実はどうしても分からなくてお店の人に直接聞いたのです。企業秘密だからって初めは教えてくれなかったのですが、頼み込んだら最後には教えてくれました」
小町がペロッと舌を出す。
「そう、それは大変だったでしょうね」
奏は苦微笑を浮かべ小町の頭へ軽く手を乗せた。小町がはにかんだので、お店の人が。という言葉は喉もとに止めておく。
「それじゃぁ隠し味の方は?」
「もちろん企業秘密なので教えられません」
小町がむんっと胸を張った。台の上や流しなどを見れば大体想像がついてしまうのだが、それには気がついていないらしい。あまりに彼女らしいその態度に、奏は心が和んでしまう。
本当に微笑ましい。
「あいつ甘いもの好きだから、きっと喜ぶわよ」
「はいっ!!」
「――あっ、ぎゃぁぁぁぁぁ!!」
「かかったか!?」
暖かい雰囲気に包まれていたキッチンに鳥の首を絞めたような断末魔と重たい何かが壁を突き破ったような音が聞こえてくる。どうやら玄関から聞こえてきたようで、それを聞きつけるやいなや小町は素早くキッチンから走り出てしまった。
「ぼっちゃんの声ですかなぁ」
「……みたいね」
やれやれ、またかと呟き取り残された二人が顔を見合わせる。彼女が千石家にやってきて数日、大名が好きだということはひしひしと伝わるのだが、どうもそれが空回りしている様な気がしてならない。
「まっ、とりあえず見に行ってみましょうか」
「そうですな」
ここで話していても仕方がない。頷き合った二人は先に出て行った小町の後を追うように玄関へと向かった。
「……下ろしてください」
玄関では大名が逆さ吊りになっていた。どうやらウサギなどを捕まえるトラップの応用らしく、大名の右足から伸びた丈夫そうな糸が天井の梁に引っ掛っている。恐らく靴を履こうとしたところを引っ張るような仕組みにしていたのだろう。持ち上げるための重しに使ったのか庭石が玄関の板を破って床下までめり込んでいた。
「ほんとに……お前は。人の邪魔ばっかりしやがって。本当は武道家じゃなくてゲリラなんじゃねぇの?」
大名は宙づりになったまま口角を引きつらせた。目の前では小町が見事な仁王立ちをしている。
「むっ、これは森で狩りをするのに覚えただけだ」
「なんでほっぺた染めてんだよ! 褒めてねぇーよっ!!」
大名にしては珍しく皮肉を言ったつもりだったのだが小町には通じない。むしろ口調では大したことでもないように装いつつも、自信ありげに胸を反らしてきた。
「二度とナンパなどという軽薄な行為をしないと約束するのなら下ろしてやる」
「なんでナンパだと思うんだよっ! 冤罪だったらどうすんだ!?」
「そう言って冤罪だった例しがあったのか! もう騙されないぞ」
打ち上げられた魚のように跳ねながら大名は非難の声を上げるが、小町とて譲るつもりはないらしい。誇らしげな態度から一転、形の良い唇を真一文字に絞ったまま顔を逸らしてしまった。
「ふざけんなぁ! どうしてお前に俺の楽しみを邪魔する権利があるってんだ! 大体お前最初に自己紹介した時、勝負に負けたから仕方なく嫁になってやるよ的なこと言ってたじじゃん! 遺憾ながらとか言ってたじゃんか! 無理しなくていいから俺のことはほっといてくれっ! 」
「ぬっ、それは、あれだ……ツンデレとかいうやつだ」
「なんでそんなこと知ってんだ!? お前本当は山に籠ってなかっただろう! とゆーか、どちらかといえばお前はヤンデレだ!!」
「ん? そうなのか、では、ヤンデレとやらを極められるように努力しよう」
「一番厄介なもんで納得すなぁぁー!!」
一体どこまで天然でやっているのか分からない小町のボケに大声で突っ込みを入れ、激しく息を切らす大名であったが、そのうち跳ね跳ぶ元気もなくなってくる。
「……わかった、わかった小町。約束する。俺はもっと誠実になるから……下ろしてくれ」
「本当に? 己の誇りに誓えるか?」
「誓える。嘘だったら俺の冒険の書を三まで全消してもいい……だから、頼む」
ダランと両腕を下げたまま大名が懇願する。顔が赤紫色に変色し始めている様子を見て、さすがにやり過ぎたと思ったのか、小町は手刀で糸を切ると力なく落ちてきた大名を優しく受け止めた。
「分かってくれたらいいんだ。さぁ、傷の手当てをして昼食にしよう」
大名の手を引く。思ったよりもしっかり立ち上がってくれたので、小町は幾分か安心した表情になった。
「あぁ、よく分かったよ、小町。俺はダメな男だった。お前の言う通り、軽薄な行動は慎むべきだったんだ」
大名は呟き、そっと小町の細い肩を掴んだ。見つめる瞳はとても真剣だ。
一体どうしたのか。今までは何度言っても反省の欠片も見せなかった大名の豹変しように小町は驚きを隠せず、しどろもどろになってしまう。
「そうか。うん。ちょっと、僕もやり過ぎたとは思う。でも、そんなに反省してくれるとは、なんていうか……うれしい……な」
言葉も最後の方はか細くなってしまい、目の前にいる大名でさえ聞き取れているか怪しい。
「そんなことはない! お前の熱い気持ちが俺の心を刺したのだ! そのおかげで俺は悪しき心を燃やしつくし目が覚めた。感謝しきれてもしきれない」
肩から手を外すと舞台役者のように大げさに手を広げ小町を褒め称えた。ここら辺の動きは演劇部で鍛えられたものか中々堂に入っている。
一方小町は褒められることに慣れていないのか、その調子にますます委縮してしまい両の掌を合わせモジモジし始めた。頬にもほんのり赤味がさしている。
「それは内助の功というか、妻として当たり前というか。しかし、そんなに喜んでもらえると僕としても悪い気はしないな。そうだ、今日は大名のために良いものを用意したんだ! 一緒に食べ……」
火照った頬を押さえ顔を上げた小町の言葉が尻切れになる。視線の先では、いつの間にか両足に靴を履いた大名が玄関の扉を開け壁に寄りかかっていた。
大名は悪戯が成功したような笑みを浮かべる。
「そう、やはり俺はもっと誠実に女の子と向き合うべきなんだ……お前のおかげで過ちに気が付いたぜ。サンキュー!」
「………………なぁっ!!」
小町が言葉の意味に気が付いた時にはすでに遅く、大名は気分を悪そうにしていたのが嘘だったように玄関から素早く飛び出してしまった。
「待て、こらっ――――ぐぅぅ、だいめーい!!」
「あ~はっはっは~!! 俺を捕まえたかったら銭形のとっちぁんでも連れてくるんだなぁ! あ~ばよぉ~」
悔しそうに両手を振り回し怒りの声を上げる。しかし大名はその声を追い風に走り去ってしまった。
……小町は一人、誰もいなくなってしまった玄関に立ちつくす。
「あらあら、まただし抜かれちゃったの」
「流石に口八丁では負けますか」
声がかけられた。小町が振り向く。後ろには苦笑いを浮かべた奏とため息をつくトメさんが立っていた。
ぷるぷると震える小町の頭を慰めるように奏が撫でる。
「お姉ちゃん……あれはどういうことなのですか!? いくら記憶が一度なくなったとはいえ、あの変わりよう。まるで別人のようではありませんか!」
「あらっ、やっと開眼したの?」
悔しさに瞳を潤ませつつ噛みつくように言ってきた小町を見て、奏は信じられないとでもいうように口元を押さえた。
「はっ、まさか、あの大名は偽物だとか! いや、実は双子だったとか!?」
「ないない。どこのミステリーだ」
動揺を隠せない小町に奏が突っ込んだ。
「しかしですね。昔の大名はもっと、こう。男らしくて、誠実で、正しくあろうとしていました。少なくとも将来を誓った相手に対してあんな不誠実な態度を取るような男ではなかった!」
「……男って。まだ六歳だったじゃない」
ドウドウと、奏が困ったような表情で興奮した小町を宥める。この間も感じたことだが、相変わらず小町の中の大名は品行方正な好青年らしい。それもやっと崩れてきたようだが……
奏は顎に手を添えて一人納得したように頷く。大名への認識が変わってきたのは悪いことじゃない。むしろこれから先のことを考えるならばちょうどいい機会といってもいいだろう。
ここはひとつ二人の相互理解を深めるためにも小町には正しい大名像とやらを教えてやらねばなるまい。
「うん、そうね。それがいいわ。こまっちゃん、ちょっとこっち来なさい。お姉さんが思い出話してあげるから」
奏はそう言うと軽やかにその身を翻した。
小町から逃げ出して数十分後、大名は商店街を早足で歩いていた。四車線ある道路を間に挟んでその両端に様々なお店が立ち並ぶこの商店街。近くにサトミタウンが建設されたことで移転したり客足が減ったりしているようだが、それでも飲食店だけは根強く繁盛している。事実、大名が歩いている右側は昔からの飲食店が多く残っており、今も洋風レストラン兼弁当屋からケチャップを熱したような酸味のあるいい香りが漂っていた。
肩越しに後方を窺う。ちょうど横断歩道が青になりワラワラと人が歩いてきた。どうやらその中に小町はいないようだがもう少し念入りに見ておく。
歩行者の多くが大学生で春休みのため学食が休みなのだろう、お昼をどこにするか話しをしている。じっと睨みつけてくる大名を見て、不快そうに目を眇めた輩も何人かいたがそんなこと気にしている場合ではない。こちらと下手すれば命が危ないのだ。
大名は目を眇めたグループが隣を通り過ぎたところで眉間から力を抜いた。同時に歩く速度も緩む。珍しく追ってくる気配はないようだ。
まったく小町にも困ったものだ。大名は襲ってきた疲労感に目頭を揉みほぐした。
二人の関係が先刻のようになってしまったのは、この間、大名のナンパ癖を小町に知られたことが原因だった。それが知られてからというもの小町は大名がナンパに行こうとすれば妨害し、ナンパをしていれば間に割って入って連れ戻し、今となっては家を出ようとすることすら半ば強制的に控えさせようとしていたのだ。
しかし、ただでさえ強制されることを嫌う大名である。残り数日となった春休み。新しいステップを迎え、色々と冒険したくなるこの時期に勝負をかけずして何がナンパ師か! という謎の使命感も相まって、あの手、この手を使って小町の妨害を乗り越えていったのだった。その結果として小町の対抗手段も段々と過激になり最早追う者と追われる者どころか、狩る者と狩られる者といったありさまだ。
「はぁぁぁぁぁ」
地獄から響くような声を上げる。それでもまだ追われるぐらいなら我慢できた。一番きつかったのは、何かとつけ大名に構おうとするその態度だ。この間など「夫の背中を流すのは妻の務め!」などといって突然風呂の中に入ってきた。お湯に浸かっていたからよかったものの、これが無防備に背中を晒した状態だったならば後ろからナニでぶすりとイかれていたのではないかと、思い出すだけでも身の危険に震えてしまう。
それからというものなるべく距離を取るようにはしているが、家に居てもまったく落ち着けない現状は精神的にかなりきつかった。本音を言えば今すぐにでも止めて欲しいのだが、あの様子を鑑みるに中々難しいだろう。
「……やっぱ、好きな人がいるってこと伝えた方がいいか」
顎に手をあて考え込む。小町にどうやって諦めてもらうか普段使わない脳みそを使って考えた結果、結局テンチョーのアドバイス通り自分の気持ちを素直に伝えるのが最善、という答えに行きついた。その方が少なくとも性別を理由に断るよりは誠実だし、小町の心の傷も少なくて済むだろう。甘いかもしれないがやはり悲しませたくないと思ってしまう。そんな自分の中途半端な態度が小町を増長させていると考えれば、それはそれで頭の痛いことではあるが。
「千石くんは好きな人がいたの?」
憂鬱に肩を落とした大名の後ろから不意に声がかけられた。ぎゃっ、と小さく叫び背が弓なりになる。驚いて振り向いた先には朗らかに笑う眼鏡っ娘がいた。
「いっ、委員長!」
「もう、委員長は止めてよ。まだ今年もやるって決めてないんだから。」
委員長と呼ばれた少女は頬を膨らませると腰に手をあて大名を見上げる。ゆったりとしたカーディガン越しでもわかる豊かな胸がさらに強調された。
噂をすれば影とはこのことだろうか。突如、大名の前に現れた少女の名は白村江。一年前から続く大名の意中の相手だ。長い髪を二股の三つ網に結っており、大きく発達した胸が人目を引くが、それ以外は平凡というより地味といった方が適切な子だった。
どちらかといえば面喰いな大名が惚れるには意外な相手だが、普段の行動が行動なだけに学校の女子からも毛虫扱いされている大名には、江から発せられる包込むようなオーラに耐性がなかったのかもしれない。江はどんな相手にも平等に優しく、そして大名の周りにいる女性(主に奏)とはまったく正反対の人種だったのだ。
ようするに優しく接してもらっただけでコロッと惚れてしまったという、いなせなナンパ師を自称しているわりには、なんとも締まらない状況になっているのであった。
――まっ、まさか今の聞かれた!?
冷や汗を流し慌ただしく両手を動かす。江に自分の気持ちを気づかれてないか確かめたいが、気ばかりが焦ってしまい上手く言葉が出てこない。
そんな大名を不思議そうに見つめていた江は、何かに気がついた様にポンと両手を叩いた。
「あっ、ごめん立ち聞きしちゃって。千石くんが見えて近づいたらちょうど聞こえちゃったものだから」
「いや、それはいいんだ。俺、声でかいから……それよりも、その」
大名が口ごもると江はまた朗らかに笑った。
「大丈夫! 好きな人がいることは秘密にしてあげるから。クラスのみんなに知られちゃったらずっと弄られちゃうもんね」
大名は胸を撫で下ろした。どうやら自分のことだとは思っていないらしい。よくよく考えれば当たり前だ。超能力者などでもない限り、あれだけの言葉から相手を予想することは不可能だろう。良かったのか悪かったのかは判断がつきにくいところではあるが、とりあえず安心である。
「それで、千石くんは誰のことが好きなの?」
しかし、それも束の間追撃が放たれた。
笑顔で放たれたまさかの追撃に、大名は何と答えていいか分からず再び口ごもってしまう。江でさえなければ、「あなたこそ僕の心臓の真中に一生抜けぬ棘を刺した可憐なバラの花」云々ぐらいのことは言ってのけたのだろうが、なにしろ相手は本命なのだ。口から出てくるセリフを並びたてるわけにはいかない。もちろん普段のナンパも真剣に行っているが、これはまた話しが違う。
「えー、そうだ、ここで何してんだ?」
苦肉の策として無理矢理話しの矛先を変えようとする。
「特に何も。女子寮この近くだし、天気がいいからぶらついてただけ」
「あー、そうか。寮だったな。新しい入寮生はもう来たのか?」
「ままだよ。今、歓迎会の準備中! 実は今日の散歩はプレゼントの下見も兼ねてるの。私、プレゼント係になったから」
「そりゃすげぇじゃねぇか! さすがだっ! よっ、委員長!!」
「そうかなぁ。私センスないから、気にいってもらえる品物選べるかちょっと自信ないんだけどね」
謙遜しつつも江が嬉しそうな顔を見せる。完全に大名の好きな人の話しはどこかへ行ってしまったようだ。
やったか。大名が内心で拳を握った。
「って、千石くん。そんなことで見逃してもらえると思ってるの?」
やはりダメだった。一転して、にっこり笑ったその顔は無言の威圧感を発しており、数秒までの和やかな雰囲気からは程遠い。
いくら江でもやはり年頃の女子高生。目の前にある飴玉を簡単に逃すつもりはないらしい。大名がどうしようかと奥歯を噛んでいると江が急に腕を抱きしめた。
「いっ、委員長!?」
「あっ、また委員長って言った。もう、そのことも含めてゆっくり話すことにしましょう!」
またもや江らしくない行動に目をまん丸見開いた大名をよそに、そのまま少し先にある喫茶店に引っ張ろうとする。こんなに積極的な子だっただろうか。大名は面くらいつつも、為されるがままにヨタヨタとついて行いていく。
好きな女の子にお茶に誘われて嬉しくない男などいないし、なによりも腕に伝わる委員長の柔らかな、それでいて張りのある双丘の感触は、ここで振り払ってしまうにはあまりに惜し過ぎた。
一体どうすればいいのか。痛し痒しの現状にすっかり迷ってしまっていた大名だったが、喫茶店が近づくにつれ決意が固まる。
せっかくの申し出だし、またとない機会だ。親睦を深める意味でもここは乗っておくべきだ。腹を決めた大名は背筋を伸ばすと、江の胸元からゆっくり腕を外し自分がエスコートしようと前に出た。
その時――
「だいめーい!!」
呼び止める声が聞こえた。最近嫌になるほど聞いた中性的で凛とした声。まさかこのタイミングで追い付いてくるとは……どうにかしてやり過ごさないと。大名は待ち受けるために身体ごと後ろを向く。きっと、人をかき分けながら走ってくるあいつの姿が……
「って、何でまた足のうらぁぁぁ!?」
大名の顔面が勢いよく後ろにのけ反った。蹴りをくらい奇妙な叫び声と砂埃を上げながら、二、三回転して近くの店の看板に衝突する。
「おう……このくらいの蹴りも避けることができないなんて。一体どれほど修行をさぼってきたのだ」
大名がいた場所には代わりに小町が立っていた。唖然とした表情で目を回した大名を見下ろしている。素足に庭用のサンダルを履いているところを見るに、随分急いで家を飛び出して来たらしい。
「せ、千石くん、大丈夫? ちょっと、あなたいきなり危ないじゃないっ!」
心配そうな表情で大名の隣に腰を下ろした江が、小町の顔を強く睨みつける。小町もそれでやっと江の存在に気がついたのか訝しげな瞳で見つめ返した。
「あなたは誰だ?」
小町が尋ねる。その声にはほんの少しだが敵意のようなものが混ざっていた。
「私は千石くんのクラスメイトよ! あなたこそ誰なの!?」
「僕か? 僕は……」
小町の視線にも怯まず江が言い返す。その様子を見て小町は何かを納得したように頷くと、自信たっぷりに身を聳やかした。
「大名の妻だ!」
「なっ……」
「違うだろっ!!」
大名が起きあがる。
「おぉ、もう目を覚ましたのか。うん、タフさには目が見張るものがある。この調子ならすぐにでも修行を始められるな」
「なんの話をしてんだよ、お前は!? だいたい突然現れて勘違いさせるようなこと言うなよな!」
「何を勘違いするというのだ? 事実を言っただけではないか……」
小町は江を一瞥するとまたすぐに大名を見据えた。
「まぁ、今それはいいとして、話はすべて聞いたぞ大名。かつては真面目に修行に励み、さらには弱きを助け悪を挫くという己が正義を持った誇り高き男だったらしいじゃないか!」
「げっ、お前それをどこでって……」
一人しかいねぇわな。ぎくりと身を反らせた大名の脳裏に、こちらを指さして高笑いする奏の姿が浮かんだ。
小町の表情を窺う。瞳は輝き、やる気は十分だ! といった風に鼻息を荒くしている。何のやる気なのかは皆目見当がつかない、いや、つきたくない。大名は苦虫を潰したような顔になった。
「どうしてそこまで変わってしまったのかは分からないが、安心しろ。僕がすぐにでも鍛え直してやる!」
「あのな、その言い方だと今の俺がダメ人間みたいじゃねぇか」
苦々しげに呟く。
「大丈夫だ! そんな夫を支えるのも妻の役目だからな!!」
「フォローになってねぇよ! それに俺は今からこの子と一緒にお茶をするところだったんだ。邪魔しないでもらえますかねぇ」
「やはりナンパをしていたのではないか! 嘘つき!!」
「残念でしたぁ。今回は俺が誘われたの。だから嘘ついてな~いの」
「……そんな悲しい嘘は僕にだけはつかないでいいんだ」
「急にテンションを落とすなぁぁぁ!!」
小町の気遣うような瞳に大名が怒りを持って突っ込んだ。
――俺だっていつも断られてるわけじゃないんだ。極偶にだけど、頼りになりそうだからって買い物してるお姉さんに荷物預けられて一緒に回ったり、ここで一緒にお茶したいから並んで場所取っといてって頼まれたりするんだ。その後から別の男が合流するんだけど……ちくしょうっ!
「とりあえず、先客があるの! 約束したの! なっ、委員長?」
これで話しはお終いだ。礼儀を重んじる小町のことだから、こう言えば渋々でも引き下がるだろう。そう考えた大名は隣にいる江に話しを振った。
「えっ、あっ、うん・・・・・・」
落雷に打たれたかのように放心していた江は、展開の速さについていけなかったのか間の抜けた返事をして黙りこくってしまう。
「本当なのか?」
小町が大名の後ろで立ち尽くしている江を正視する。そこには最初に見せた敵意は感じられない。ただ江の気持ちの奥深くまで見透かすような、澄んだ色をしていた。その青に江が静かに息をのむ。
「本当だって。ほら、こいつのことはいいから行こうぜ、委員長」
江の方を向いていたため小町の瞳に気がつかなかった大名は、喫茶店に入ろうと促す。店はもうすぐそこだし、あれだけ強引に誘ってきたのだ。大名は同意してくれることを露ほども疑わなかった。
だからこそ――
「ちょっと待って」
その言葉は予想外だった。先に行こうとしていた足を止める。俯いていて何を考えているのかはよく分からない。肩も少し震えている。
「委員長? どうしたんだ?」
もしかして喧嘩のネタにされてしまったことで機嫌を悪くしたのだろうか。狼狽しつつ大名が話しかける。
「あははは、なんだぁ、千石くんきちんと彼女いるんじゃない」
しかし、ゆっくりと顔を上げた江はいつものように朗らかに笑っていた。その表情に大名は安堵するが、その発言に看過できない個所があった。
「違う、違うんだ。だいたいこいつはおと……」
「千石くん!!」
きちんと小町について説明しようとした矢先、江が語気を硬くした。
「私は今まで千石くんには特定の女の子がいなかったから色んな女の子に声かけていてもいいと思ってた。年頃の男の子だし、それくらいヤンチャはいいだろうって。でも、もうダメだよ! 一人の女の子に決めたのなら、その子を大事にしなくっちゃ」
そして言い訳は聞きませんとばかりの強い視線で大名を制すと、これ以上この場に自分は不要だと言わんばかりに歩み始める。
「小町さんだっけ。ごめんね二人の邪魔して。私はただのクラスメイトだから気にしないで」
途中、小町とすれ違う時にそれだけを言い残してその場を去ってしまった。
「そっ、そんなぁ」
せっかく覚悟を決めたのに。大名は茫然自失として去りゆく背中へ手を伸ばそうとするが、その手はむなしく空を撫でる。追いかけたいがまるで鎖に絡め取られているかのように身体思うように動いてくれない。そればかりかあまりのショックに足元までふらつき、江が歩く速さ以上に二人の距離が離れて行っているような錯覚にまで大名は襲われる。
胸が圧迫され感覚までも狂ってしまう。これが失恋の痛みというものなのだろうか、今ならこの痛みをズルズルと引きずってしまう気持ちが深く理解できる。だって、先ほどからズルズルという幻聴が聞こえしまうほどなのだから……
「……ズルズル?」
違和感に眉を顰めた大名が後ろを確認する。すると、いつの間にか自分の胴体に縄を巻き付けた小町が楽しそうに自分を引っ張っていた。
「って、おい、何してんだお前!?」
「ふふふっ、もう逃がさないぞ。修行だ。修行」
大名の問いかけを小町は無視して進む。危ない輝きを瞳に宿し呟くその姿に、大名の背に悪寒が走った。
「いやー! たすけぇてぇぇぇ! 委員長ー!!」
いつの間に、どうやって巻きつけたのか。いくら暴れようともしっかりと身体に結び付けられた縄はビクともしない。商店街の人々の生温かい瞳に見送られながら、大名は道場へと連行されたのだった。