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千石大名のアンビバレント!!な生活  作者: いばらぎとちぎ
第一章 物語は始まった
1/7

物語は唐突に

この小説は縦読みの方が読みやすいかもしれませぬ。

****


 物語が始まるのは突然だ。普段は自分が人生の主役だということを意識もさせないくせに、準備が整った途端、唐突に舞台の幕は上がる。

 春一番が吹いてすでに数日経ったある日、夕食を囲もうとしていた千石家に一枚の手紙が投げ込まれた。

 差出人は遠い日に交わした約束。一日も忘れることなく思い続けた少女の想いを結ぶため、手紙は闇夜を駈け青年を新しい舞台ステージへと呼び寄せた。

 かくして、役者はそろい、赤く色づいた舞台幕は華々しく開かれた。



 運命ものがたりは“今”回り始める。



****




 ここは街の玄関口、東西地下鉄入り口に挟まれるようにして造られた広場。タクシー乗り場や、バス乗り場も併設してあるそれなりに大きなところだ。

 シルクハットのような形をした広場の後方には、サトミタウンという巨大な十字架の形を模した複合施設が建てられ、地下の駅と一体化した構造になっている。

 地下の上に巨大な十字架を立てるなんて縁起でもない。造られた当初はそんなことをネタにされていたが、入店したスーパーや飲食店、衣料品店、稽古塾、映画館などにより今や人々の生活に必要不可欠なモノとなっていた。

 そんなわけでサトミタウン前の広場は老若男女を問わず、今日も多くの人々で賑わっているのであった。

「お姉さん。今から僕とランチでもご一緒しませんか? 美味しい店を知っているんです」

「ごめんなさい。今、ダイエット中なの」

 人を飲み込んでは吐き出す地下鉄の東入り口前、捻じれた時計台の下で茶髪の男が大学生ぐらいの女性に声をかけていた。

 女性はそのケバケバしい格好とは裏腹に控えめな性格なのか、それとも相手が高校生だと気がついたのか、割とやんわりとした応対をしていた。しかし、それが却って男を調子に乗らせてしまう。

「何を言っているのです。あなたの美はすでに十全。そう、今宵は新月らしいですが、きっと月が顔を隠してしまうのはあなたと比べられるのを恐れているからに違いない。そして、今宵の新月は僕たちを祝福しています。恋が盲目ならば月明かりもない真の夜こそ、この小さな恋を育むに相応しい」

「はぁ」女性の眉が僅かに痙攣した。どう見てもいい反応ではないのだが、男は気がつかない。聞いている女性の歯以上に男の脳みそは浮いてしまっているのだろう。軽そうな口を動かし、軽薄な声で下心見え見えの口説き文句を立て並べた。

「ダイエットなんて止めてしまいましょう。そんなことしたって、知識ばかりを溜めこんでしまい逆に重くなるばかりです。それよりも、今以上にあなたを輝かせるのは、闇の中、二人で奏でる艶やかな旋律……」

 女性がいい加減うんざりと息を吐いた。さすがに良い反応ではないと気がついた男は、焦ったように咳払いをして、ズイッと顔を近づけた。

 女性がのけ反る。初めてきちんと覗きこんだその瞳は、思ったよりも誠実そうな光を放っていた。

「つまり僕が言いたいのはですね」

 そっと手を握る。女性は不覚にも顔を赤くしてしまい、

「あなたと、セック――すがぁはぁ!」

 皆を言わせる前に男の視界を赤と青の点滅に染め上げた。地面に倒れ込む音が聞こえる。

 ムエタイ選手ばりのエルボーをくらい、ちょっとやばい倒れ方をしたこの男。名を千石大名せんごくだいめいという。こうして暇さえあれば女性に声をかけている自称ナンパ師だ。

「さいってい!」

「まって、汗かけばダイエットにも――ふga!」

 女性は右ひじをさすりながら、それでも追いすがろうとする大名の後頭部目がけて足を踏み下ろす。ヒールの部分で踏みつけなかったのは、せめてもの優しさなのだろう。顔面をコンクリートにめり込ませ、ヒクヒクと痙攣している大名を残しその場を去ってしまった。

「いい……あ、し……」

 大名の囁きは遠のく意識と共に暗い地面へと吸い込まれていった。

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

「ち、ちっくしょうー! アドバイス通りにしたのに意図すら伝わらなかったじゃねぇか!!」

 しかし、コンマ数秒で意識を取り戻す。

 大名は地面から顔を引き剥がすと鼻血を垂らしたまま半泣き状態で叫んだ。「ママー」「しっ、見ちゃダメよ」などという、定番のやり取りが聞こえるが気にしない。精神力と身体のタフさにだけには自身があった。

「やっぱテンチョーなんて信用するんじゃなかった。あのオカマめ……ん?」

「……」

 文句を垂れつつ身体から埃を落とす。大名の横にスッと大きな影が差した。見上げると今日の用事についてきてもらった友人の國造武蔵くにつくりむさしだった。

「あぁ、ありがとよ」

 差し出されたハンカチを受け取り、顔を拭く。可愛らしくデフォルメした猫がとてもチャーミングだ。

 武蔵は身長二〇〇センチに届こうかという巨体に浅黒い肌、後ろで束ねたドレットヘアー、そしてサングラスがとてもよく似合うというまるで外国でク○リを売っているような風体をしている。シャイ過ぎて無口なのが偶に傷だが動物好きなとてもいい奴だ。

 今は大名のナンパが終わるまでじっと待っていてくれたのだ。

「というか、そろそろ時間だな」

 ハンカチを返し、時計台を見つめる。暖かい太陽も昇り切り、短い針がそろそろ昼の一時を指す頃だ。

 大名が終わりかけの春休みを潰してまで駅前に来たのは決してナンパのためではない。実際の目的は手紙に書かれていたある人物を出迎えることであった。といっても、それがどんな人物なのかはほとんど知らないのだが。

 武蔵は待つ間暇だったので誘ったらついて来てくれた。いい奴である。

 大名は側にあった自動販売機からジュースを二本買うと武蔵に向かって投げた。今日のお礼だ。

 武蔵が頭を下げたので気にするなと手で合図を送りプルタブを開ける。

「……」

「んっ? なんだ?」

 のんびりと甘い炭酸で喉を潤していたら大名の肩を武蔵が叩いた。クイッと五メートルほど先にある地下鉄への入り口を顎で指す。


「ビューティホォー」


 思わず声が漏れた。

 視線の先には美少女がいた。雑踏の中、周囲をキョロキョロと探っている。

 大名は口を開けたまま飲みかけの缶をその場に置いてふらりと立ち上がった。目の前の少女に心を奪われてしまったのだ。

 何かを探しているだけの仕草がすでに美しく、幼さを残した面差しは何とも言えない可愛らしさを感じさる。美しさと可愛らしさ。その矛盾するような要素が矛盾なく混ざり合い彼女の周りだけ空気が違って見えた。その輝きといったら、可愛い女の子を見ればもう反射といっても過言ではないくらいにナンパへと移る大名が、思わず躊躇してしまうほどだったのだ。

「かーのじょぉー! 何してんのぉ?」

 しかし、それも一瞬であったが……。驚異の身体能力を発揮し一足飛びで数メートルの距離を縮める。

 少女が振り返る。顎ぐらいまでに伸ばされた黒髪が踊り、その青い瞳が大名を射ぬいた。

「おっ?」

 手前一メートル半くらいで大名の足が自然と止まった。いつもならパーソナルスペースなどお構いなしに近づくのだが、この時ばかりは感が働いた。これ以上は危険だ、と。

 相対した少女の見た目は十五、六歳。身長は百六十センチくらいで大名よりも頭一つ分は低い。距離が縮まった分、大名の目にはその姿がより鮮やかに映った。

 ホープダイヤモンドのような深い青を宿した瞳が、大名の一挙手一投足も見逃すまいと考えているかのように静かに見据える。

 一見して華奢な体つきの中に凛とした強さがあり、抜き身の日本刀のような鋭い殺気に大名は知らず、息をのんだ。

 睨みあう時間。大名は飛び付こうとした姿勢のまま両手と片膝を上げ、じっと相手に飲まれぬよう歯を食いしばった。まるで蛇に睨まれたグリコの看板。「ママー」と言う声が聞こえるが気にはしない。

 見つめ合うこと数秒、少女がふっと相貌を崩す。同時に殺気も和らいだ。

「すみません。どこか昔の知人に似ていたもので。それに、ここに来る間もジロジロと見られてばかりで気が立っていて……人には慣れていないものですから」

 ぺこりと頭を下げる。その声は中性的で、近くからその立ち振る舞いを見ると美少年にも思えてくるから不思議だ。

 といっても――

「そんなに変わった格好ではないと思うのですが」

 恥ずかしそうに笑ったその顔は、大名の心を射ぬいた矢を更に沈めるに十分過ぎた。

 素人と思えぬ殺気といい、まるで長年山籠りでもしていたかのようなことを言うが、大名はそんなこと構いもしない。

 むしろ気にいったという態で手を差し出した。

「オーケーです。不思議ちゃんでもオーケーです! とりあえずお茶しませんか?」

「お茶? はぁ、すいません。人を待っているので」

 スレてなさそうなその仕草がかわいぃー! キョトンと首をかしげた少女を見て、大名の心は燃料を積み過ぎて爆発しそうな蒸気機関車並みに躍動した。そして、心浮き立つまま少女の周りをウロチョロと動き回った。

「人を待っている! 奇遇ですねぇ。僕もなんですよ。では、その待ち人とやらを話しの肴に、二人の出会いを乾杯しましょう」

「いや、でも」

 大名がその細い肩にそっと手を回し少女が困ったような顔になる。人に慣れていないというのは本当らしい。どう対応していいのか分からないようだ。まぁ、こんな絡み方をされては普通の人でも困るだろうが。

 春風にフワッとたなびく黒髪に、大名の鼻がヒクヒクと反応する。

 あぁ、美少女の匂いがする。一瞬、どこかへ飛びそうになっていた大名であったが、浮つく心をすぐに引き締めた。

 上手くお茶に誘えれば、そこから先は未知の領域なのだ。粗相があってはならない。

「そうだ、名乗るのが遅れました。僕の名前は千石大名といいます」

 とりあえず、爽やかに微笑み名をなのった。すると少女がおもむろに肩に乗せられた大名の手を握った。

「……今、何と言ったのだ?」

 口調が変わり声も低くなった。しかし、手を握り返され鼻の穴を膨らませた大名は気がつかない。

「千、石、大、名。きっと、一生忘れられない名前にな――」

 感度の悪いラジオのように言葉がブレた。デレデレとした笑みを隣にいる少女に向け、一文字、一文字、強調して発音していた大名を突如、違和感が襲う。


 ――えっ、飛んでる?


 全身で感じる浮遊感。逆巻く血液。逆転した天地。

 そう、いつの間にか大名は空中へと投げ出されていた。

 わたわたと慌てふためきつつも自分の状況を整理しようとする。どうやら肩に伸ばしていた手を掴まれ、背負い投げの要領で投げ出されたらしいのだが、高度が半端ではない。どうやったらここまで高く上がるのか理解できないほど高く投げだされ、大きく円を書くようにして背中から落下していた。

 その先には大理石の大座で造られた捻じれた時計台が……

 まさしく万事休すのこの局面、大名はなんとか助かろうと頭をフル回転させた。

 どうにかして無事に着地する方法を見つけるのだ。ここで命を終えるにはまだやり残したことが多過ぎる。第一、まだ女の子の一人もお茶に誘えてないのにこのままで死ぬわけにはいかない。この世にはきっと自分に誘われるのを心待ちにしている女の子が大勢いるはずなのだ。

「うっ、おぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 その執念が大名の魂に火をつけた。今こそ奇跡を起こす時。大名の双眸が強い光を宿した。

「……って、なんも思いつかねぇぇぇよぉぉぉ! でぇぇぇぇ! ぶつかるぅ!!」

 しかし、残念なことにその光は追いつめられたことによる涙だったらしい。大名は叫び声を上げるがもう防御も間に合わない。

 ――ダメだ。さよなら、きっと出会うはずだった黒髪ロングで清楚な俺の恋人。あの世で一緒になろう。

 瞳を閉じて心を安らぎ(妄想)に預ける。きっと、一瞬でお陀仏さ。そう思って覚悟を決めていたら鈍い音とともに硬いものにぶつかった。

 背中から圧迫され息が詰まる。頭が激しく揺さぶられた。しかし、どうも鉱物にぶつかったような感覚ではない。もっとこう、どでかいハムにぶつかったような……

 大名は頭痛を我慢しつつ瞼を開く。すると頭上には自分をキャッチした武蔵の顔があった。

「こ、心の友よ~、心友よ~。いや、神友よ~」

「……」

 感動に目を潤ませながら尻もちをつく。武蔵は無言のまま正面を見据えていた。

「だい、めい、だと~!」

 武蔵の視線の先から少女の声が聞こえた。

「なぜお前は髪が茶色になっているのだ!?」

 少女が糾弾するような視線と指先を向けてくる。

「なぜって、染めたんだよ。文句あっか!」

「染めた……? そうか、似ているとは思ったんだ……たしか髪の色を染めるのが都会では流行っているとか。しかし、あの大名が……いや、そんなことはどうでもいい。とにかく大名、この時を何年待ったことか!!」

「……? なに言ってんだお前?」

 何事かを呟き一人納得した少女に対し、むしろなぜ俺が投げられたんだ。と問い質したい気持ちを抑え大名が呟いた。下手なこと言って怒らせるとまずいと第六感が警告していたからだ。とりあえず今は睨むに止める。

 武蔵が知り合いかと確認するように視線を落とす。が大名は即座にこれを否定した。

「いやいや、俺にはこんなデンジャーな知り合いはいねぇ」

「なに、キサマは覚えてないのか? 僕のことを……いや、あの約束を忘れたというのか!」

 少女に明らかな動揺が走った。顔を真っ赤にしつつ訴えてくる。必死に訴えかけているその瞳に嘘があるとは思えない。

 そうなると問題は大名の方なのだが、こちらはこちらで少女の言っていることがまったく理解できないという風で、睨んでいた目が訝しがるようにさらに細められた。

 大名は下唇を突き出したまま考え込むように腕を組む。

 そして、しばらくすると地面すれすれまで頭を横に傾けた。

「知らん」

「きぃさぁまぁ゛ぁ゛ぁ゛ー!!」

「うわー! それ美少女が出していい声じゃねぇだろぉ」

 何かを期待するかのように見つめていた少女が激高する。と同時に凄まじい闘気とプレッシャーが噴き出してきた。どうやら第六感の警告は無駄に終わったらしい。

「なんでだ!? 細心の注意を払ったのに!」

 後悔するがもう遅い。とにもかくにも逃げ出そうとするが、頭を激しく揺らしたせいか立ち上がることは出来たものの思うように動いてくれない。

 追いつめられてしまった大名は悔しそうに顔を歪め、最後の手段だと背後を振り向く。

「こうなったら、武蔵。俺を担いで逃げろ! かっこ悪いが仕方ねぇ……って、あれ? 武蔵……くん?」

 しかし、いつの間にか後ろにいたはずの武蔵が居なくなっていた。

 なんで!? 慌てふためいて辺りを見渡すもののどこにもいない。そして、そうこうしている間に少女は鬼の形相で駆け出していた。

 彼女が走り去ったあとのコンクリートが砕けてひっくり返っている。

 どこの人型機動兵器だ!? 大名の背筋が凍った。

「大名、お前を葬り去って、この悩みを消し去ってやる!」

「うわー、わけわかんねぇ!」

 こうなったらやけくそだ。進退窮まった大名が半べそをかきながらも拳を振り上げたその瞬間、時の流れが停滞した。

 あぁ、見える。俺にも見えるぞ。頭の中で呟く。

 決死の覚悟が魅せた束の間の奇跡。舞う土煙り、二人をチラチラと窺っていた野次馬の口の形、自分の何倍ものスピードで動いているはずの相手の動きまでが、止まっているかのようだ。

 そして一瞬を永遠に引き延ばした刹那の中で、大名はあるものに気がついた。それがいつからその場に在ったのかは分からない。ただ、そこにあるのが当たり前のように、有史、いや天地開闢から決まっていたかのように、コンマ零秒以下後に少女が踏み抜くであろう場所に鎮座しているもの。目を背けてしまいたくなるような、明るく、禍々しい黄色。あらゆる次元、世界中のいたるところで多くの人々をその魔の手にかけてきた最悪の地雷……そう、バナナの皮だ。

「あっ、危ない!」


 そして、時は動きだす。


「あっ!?」

 驚いた少女の声が大名の耳に届いた。案の定、少女は皮を踏み抜いてバランスを崩し、大名が突き出した拳に引きあうかの如くその顎を差し出したのだ。

 カツン。あれほどのスピードで突進されたにもかかわらず、拳が当たった手ごたえは薄く、ついで、大名の上に倒れ込んできた少女は一枚の羽毛のように軽かった。




 唐突に始まった戦いは不意に終わった。力の抜けた大名は、少女を抱えたままその場に座り込む。空を見上げると輝く太陽。まるで自分の勝利を祝福してくれているかのようだ。

 大名は遅れてやってきた歓喜に身を預け、両手を高く、叫んだ。

「エイドリアーン!」

 響く勝利の宣言に張りつめていた緊張が解ける。今にも気を失ってしまいそうななか、横からスッと何かが差し出された。

「……」

 丁寧に剥かれたバナナだった。大名はそっと受け取り見上げる。優しく微笑んだ武蔵だった。太陽に反射してサングラスのフレームが輝く。

「これ……さっきの皮はお前が?」

 大名が尋ねる。武蔵は黙って首を横に振ると広場の中央を指さした。そこには子どもたちが集まりなにやら賑わっている。

「あっ、あれは、まさか!」

 予想外のことに声がうわずる。感激のあまり沸き上がってきた嗚咽を堪えようと口元を押さえた。

「……ゴリラ」

 そう、武蔵が指さした場所に在ったもの、それは移動動物園だった。一体何時の間に現れたのかは分からないが、確かにその場に存在している。

 そして多くの子どもたちで賑わっているその中心にいたのは、動物園のアイドル、ゴリラの“みっちゃん”だった。檻の隣に置かれた立て札に雄々しく墨で名前が書いてある。

「ねー、みっちゃん僕にもバナナ向いてー」

「ダメー! 次は私なのー」

「こらこら、順番守らないとウンコ投げられるぞ」

「「ごめんなさーい」」

 優しく微笑むみっちゃんの横で子ども窘める飼育員さん。二人は大名の方を振り向くとグッと親指を突き出した。

「あっ、あぁ、あざっしたー!」

 大名は震える足で立ち上がり頭を下げた。へっぴり腰ではあったが心からの感謝を込めたその姿を、気絶した状態で見上げる少女はどこか微笑んでいるように見えた。




「しっかし、このデンジャーな女が待ち人だなんてな」

 大名は深いため息と同時に足を引きずる。少女は武蔵の背に負われて完全に気を失っていた。

 ゴリラのみっちゃんと飼育員さんに助けられてからすでに数十分が経ち、大名と武蔵は少女を背負い広場を後にしたところだった。もちろん、誘拐などでは無い。

 本当に間違いないのかと武蔵が目配せをする。大名は昨夜投げ込まれた手紙と少女とを見比べた。待ち人の特徴が書いてある部分を預かっていたのを後から思い出したのだ。

「うん、間違いねぇ。書いてある格好と全く一緒だ。あははは」

 半分やけになった顔で太鼓判を押す。その格好とは膝上数センチほどのデニムのショートパンツに、ラフなTシャツ、それに白いナップサックだ。

「……」

「皆まで言うな武蔵。俺だってこんなどう処理していいのか分からん危険なものは放っておくか、地下に戻したかった……でもだ、かなで姉に絶対に連れてこいって言われたのを無視なんてできねぇだろ」

 半開きの口から魂が抜け出そうになっている。行くも地獄、引くも地獄。武蔵はこの後待ち受ける困難を思い、胸の前で十字を切ると気になっていたことを尋ねた。

 そもそも何故この少女はこんな地方の町へとやって来たのか。普段なら気にするような事でもないが、先ほどの様子を見るとただ事じゃない。気にするなと言う方が無理である。

「わかんねぇ、俺が奏姉に言われたのは、ここに書いてある人を迎えに行けってだけだ。会うまで女の子だってことも知らんかったし、まさか殺されかけるとはな。きっとあの人災女のことだから分かってて行かせたんだぜ。へっ」

 あの姉ならさもありなん。少しやさぐれた態度の大名に益々憐みを抱いてしまった武蔵は、とりあえず現実逃避を始め死んだ魚のような瞳になった親友から目を逸らし、午前中、自分が話しを聞いた範囲内で色々考えてみることにした。




 ことの発端は昨日の夜、大名の家に投げ込まれた手紙だったらしい。大名の家は大正時代に曾祖父が開いた武道の家系で流派を“千極流”という。広い敷地内には道場を持ち、内装は変えてあるものの母屋が武家屋敷という中々古風な家だ。

 そんな屋敷の居間へ石と一緒に窓を割って投げ込まれた手紙は、危うく激怒した大名の姉、奏に破り捨てられそうになったが、夕食が大好きなしゃぶしゃぶだったことが幸いしなんとか事なきを得た。

「たく、どこのどいつよ。人の家に手紙投げ込むなんて。これで下らない内容なら意地でも見つけ出して、その腕で二度とモノ握れなくしてやるから」

 腹の虫が収まらない奏はくくり付けてあった石を粉々に握り潰す。そして、文句を言いながら差出人を確認するやいなや表情が一変した。

「うそ、父さんと母さんから!?」

「えっ、マジ」

「なんですと!」

 祖父の代からの住込みさんであるトメさんまで驚いて台所から出てきた。

「おいおい、どうしたんだよ。とうとう何かやらかして掴まったのか?」

「あのねー。そんわけないでしょう! あの二人が掴まると思うの? 」

 両親は現在外国で特殊部隊の教官をやっている。父が昔海外を放浪していた時の伝手らしいが、どこの国かは仕事だし極秘事項なので家族にも教えることはできない。とりあえず面白そうだし給料が良いので行ってくる。大名が中学生に上がる辺りで、そう言い残し日本を旅立ってから初めての便りだ。

 以来、道場は当時からすでに師範代となっていた奏が切り盛りし、家事はトメさん、大名は雑用といった形で千石家は生活を営んできた。

 トメさんは厳しく大変な面もあったが、それでも思春期の子ども二人にとって親の目が無いことはとても自由で過ごしやすかった。もし二人が帰って来るとしたら……大名と奏は渋い顔でお互い顔を見合わせた。

「まぁ、いいわ。とりあえず読んでみましょう」

 奏は深呼吸すると文面に目を落とした。すると、今まで渋面だったのが段々困惑した表情へと変わり、最後には真剣なものになった。

「どうしたんだ?」

「大名、明日の昼にここに書かれている子を地下鉄まで迎えに行きなさい」

「えっ、いきなり何だよ!? めんどくせぇ。てか、俺にも手紙見せろよ」

 奏は手紙の中から一枚を抜き取るとそれのみを大名に渡す。が、当たり前のように大名は不満そうだ。

「いいから行けっつってんの。師範代の言うことが聞けないっての? ○ロニーとご飯しか食わせないわよ」

「なっ、そんな横暴が許されると……」

「あ゛ぁ!?」

「僕は思っています。すいません。わかったのでお肉食べさせて下さい」

 育ち盛りの高校生がしゃぶしゃぶで○ロニーしか食べられないなんて耐えられるはずもなく。大名は心で涙を流しながら両親の手紙を諦めたのだった。




 大名から聞いた話を全て思い出した武蔵は、この断片的な情報と少女の言葉をつなぎ合わせ答えを得るために頭を動かし始めた。大名の家までは後数分でついてしまう。それまでに真実を見つけ、現実逃避のしすぎでイカみたいに白くなってしまった友人を助けなくてはならない。

 武蔵は友人としての責任感から心底そう思った。そうして、考えているうちに大名の家に着いてしまった。

 武蔵は門から中を窺う。相変わらずこの家はでかい、縦ではなく横に。坪などてんで分からない武蔵であるが、テニスコートが四、五面は余裕で入るくらいの広さはあるのではないかと見当をつける。

 敷地の東側に道場が建ており、残りが母屋にあたる武家屋敷と離れ、そして庭といった感じだろう。周りはぐるっと塀に囲まれ、所々背の高い植木が顔を出している。獅子おどしの付いた池と小さな土蔵もあって中々風流だ。

 数年前、昔からの名家なのかと尋ねたことがあるが、

「ちげーよ。じいちゃんがここらのヤクザと喧嘩して、勝った時にもらったんだと」

 とのことで、この街に引っ越して来たのは祖父の代かららしい。

 ピンポーン。門をくぐり玄関についた武蔵は呼び鈴を鳴らす。 するとしばらくして勝手にドアが開いた。自動ドア? 違う、開けた人が小さ過ぎて見えなかったのだ。

 武蔵が視線を落とす。へそ辺りに長い白髪を束ねてお団子にしたお婆さんがいた。どこかサルを彷彿とさせるこのお婆さんは、長年住み込みで働いているトメさんだ。

 何度か家にお邪魔したことのある武蔵は、黙って頭を下げた。そこでようやく、トメさんもどこかで見たことある顔(顎?)だと思い出したのか、うんうんと唸り始めた。

「おやっ、こりゃ、ぼっちゃんの御友人の、えーと…………でかいのじゃないか」

 さんざん悩んだ挙句それかと、武蔵は突っ込みたくなったが止めにする。代わりに隣で負抜けていた大名と後ろに担いでいる少女を見せた。

 トメさんは「おやおや」と目を丸くした。

「これは……仕方ないですな。ささっ、入りなさんせ。奥の座敷に布団を敷きましょう」

 武蔵は頷くと靴を脱いで玄関へと上がる。巨体に乗られた床板が軋み廊下に響いた。




 武蔵と大名は布団に横たわった少女の隣で静かに座っていた。先ほどまで惚けていた大名も今は現実世界に戻っている。

 足音が二つ、廊下から聞こえてくる。トメさんが大名の姉、奏を呼んできたのだろう。

「こぉらー! 大名!!」

 襖を開けると同時に叫んだ女性は、その横柄な態度とは裏腹に小柄で、顔も平均的ではるが武道をするためか髪が短い。そして、それがまた彼女の気の強さをよく演出していた。

「あんたは客人一人まともに連れてこれないの!?」

「どこの世界に迎えに来たやつを殺そうとする客がいんだよ! それともこの女は違う星から来たのか! ウルトラ何とかか!?」

「うるさい、黙れ、口答えするな」

「横暴だー!」

 大名が頭を踏まれたまま叫ぶ。まさに鬼に踏まれる餓鬼の図。

 しばらくの間大名をぐりぐりしていた奏であったが、肩を落とすとその場に座った。

「仕方ないわね。元を言えば何も教えなかった私も悪いんだし……」

 いや、ほぼそのせいだろ。大名は言葉を飲み込んだ。

 奏では少女の寝顔を見つつ考え込むようにしていたが、しばらくしてそっと少女のおでこに手を伸ばした。その顔は大名も初めて見るような困り切ったモノであった。

「奏姉、俺だってもうガキじゃねぇんだ。こいつが何なのか大体の予測はついてる」

 そんな奏を見て大名も珍しく真面目な顔になった。立ち上がると自分も少女の側に座り、そっとその小さな手を握る。白く、綺麗な肌には似つかわしくない傷が無数に刻み込まれている。よほどの修行に耐えてきたのだろう。きっと辛かったに違いない……

 大名は零れそうになる涙を堪えて奏を見つめた。

「……親父の隠し子なんだろ?」

「ちがうわ!」

「へぐぅ」

 正面からではなく真下からのアッパーであった。

「あら、こまっちゃん。目が覚めたの?」

 奏が目をパチパチさせる。

「御無沙汰しております。桃山小町です。大変遺憾ではありますが、勝負に負けたため今日より弟様の嫁として御厄介になります。どうぞ義姉上あねうえ、今後ともよろしくお願いします」

 布団から這い出した少女は佇まいを直すとそう言って綺麗にお辞儀をした。




 場所はお客用の座敷から居間へと変わる。

 五人は足の低い木製のテーブルを囲むように座っており、居間と廊下、そして廊下と庭を隔てる障子と窓はすべて開け放たれ、池の猪おどしが上下に動くたび軽快な音が居間まで響いてきた。麗らかな春の日だ。

「でっ、きちんと説明してくれんだろうな。嫁って何んだ? 俺はてっきり親父の隠し子で今まで辛い思いをしてきたからその復讐にいきなり襲ってきたのかと思ったのに」

 大名は隣にいる奏に語りかけ、チラリと窺うように正面で静かに正座している小町へと視線を送った。

「今日から一緒に暮らすことになった桃山小町くん。父さんの友人の子どもで桃山流の継承者。そしてあんたの嫁。決定よ」

 奏は呑気にお茶をすするとテキパキと淀みなく説明した。しかし、さすがに納得がいかない大名は茶色の髪を振り乱し反論する。

「簡潔すぎるだろ! 最低限もはなはだしくて必要すら満たしてねぇよ! とにかく、俺が聞きたいのは百歩譲って一緒に住むことは理解しても、嫁になるってのはどうしてかってことだ!」

 よほど興奮して一気に空気を使ってしまったのか胸が激しく上下する。奏は齧っていた煎餅を咀嚼し終えると大名を見上げた。

「……私は、こまっちゃんと呼んでるわ」

「だからそれはどうでもいいってぇ!」

 まともに答えてくれない姉に大名(高校二年生男子、茶髪、一七八センチ)が地団太を踏んでいると、正面からため息が聞こえた。

 小町だ。その青い瞳を曇らせ辛そうに俯いていた。

「本当に、あの約束を覚えていないのだな……」

「あの約束……?」

 そのあまりに落胆した様子に大名も落ち着きを取り戻す。そういえば先ほどもそんなことを言っていた。自分は一体この少女と何の約束をしたのだろうか……大名は質問してみたい気持ちに襲われたが、同時に何とも言い表せない恐怖も感じて閉口してしまう。

 居間の空気が俄かに重くなる。誰も口を開こうとしないなか、奏が端緒を開くために口を開いた。

「ごめんね、こまっちゃん。こいつはその時の記憶がないのよ」

「記憶が、ない?」

 驚きに目を見開いた小町が大名を見つめた。大名は気まずそうに頬をかく。

「あぁ、中学二年の時に橋から落ちてな。その時のショックで一時的に記憶を失っちまってさ。ほとんど戻ったんだが今でも思い出せないことがいくつかあって……昔の記憶ばかりだから、無理に思い出さなくてもいいかってことで気にしてなかったんだ」

「じゃぁ、やはりあの約束どころか僕のことも全く思い出せないと!?」

「悪い……」

 小町の全身が脱力した。

「そんな……それでは、僕の十年は一体何だったんだ。お前との約束を果たすためだけに厳しい修行にも耐えてきたのに。再開したとき、恥じない強さを手に入れようと……」

 まるでゼンマイが切れかけたおもちゃのように話すその姿が、せめて涙は流さぬようにと耐えるその姿が、痛々し過ぎて大名は無性に自分に対して腹立ちを覚えた。

「なぁ、奏姉。俺は何の約束をしたんだ?」

「……長くなるわよ」

「いや、いらん時ばっかり丁寧にしないでいいから、短めで」

 奏は頷くと小町の側まで行って膝をついた。

「あんたと私はね、十年前この子の親父さんのところへ修行に行ったの。山の中だったわ」

「……っ」

 途端、大名の頭に電流が走る。一瞬現れたのは深い森の中、何かが自分の中でうねりを上げているのを感じた。奏が続ける。

「そこで、約半年一緒に生活した。その時からこまっちゃんは天才の片鱗を見せていて……それに比べてあんたはてんでダメで年下のこまっちゃんにいつも負けてた。そして修行の最終日、最後の組手の前にあんたは言ったの」

「あっ、ぐっ」

 大名は頭を押さえた。まだ靄がかかっているがいくつかの情景が頭をよぎった。森の中の丸い広場、大きな岩、熊のような男を挟んで正面には――そう、今目の前にいるのと同じ青い瞳の女の子。

 おぼろげな記憶の中の少女と目の前にいる小町の輪郭が被って見えた。

「もし僕が勝ったらお嫁さんになってくれってね。そして」

「……俺は負けた」

 奏の言葉に大名が続く。小町が顔を上げた。

「まさか、思い出したのか!? あの時のことをすべて!」

「いや、悪いがそうじゃねぇ。思い出せたのはその時の映像だけだ……それでも靄がかかっちまってる」

「あっ」

 小町が絶望したようにまた肩を落とした。奏がいたわるように背中をさする。

「そして、負けたあんたは続いてこう言ったの。十年後、必ずこまっちゃんよりも強くなってみせる。また勝負して、その時僕が勝ったら今度こそお嫁さんに来てほしい……ってね」

 奏の話しが終わり、再び沈黙が居間を支配した。

 大名は困惑に顔を歪めた。

 まさか、そんな子どもの口約束をずっと信じて修行に耐えてきたというのだろうか。女の子なのに身体に傷を残し、長い間父親と二人山にこもり、きっと強くなっているだろう十年後の自分に恥じぬようにと日夜研鑽を積んできたというのか。

 正直言ってそんなことは信じられない。奏もグルになって自分のことを騙しているのではないか? この姉ならやりかねない。大名が信じ込んだところでドッキリでしたなどと、平気でやる女だ。いや、下手すれば一ヶ月くらい騙し続ける算段かもしれない。

 額に汗が流れる。常識的に考えてこんなことはありえない。しかし、ならばこの胸を締め付ける思いはなんなのだ。これが嘘ではないと、真実だと告げる、この気持ちはなんだ……

「いや、もういいんだ。迷惑をかけてすまなかった。所詮、子どもの戯言だったのだ。本気にした僕がバカだったんだ」

「おっ、おい……」

 小町が立ち上がった。力なく、会った時の迫力などどこにも感じさせない。大名も思わず声をかけるが、迷いがありありと含まれていた。

「こまっちゃん……」

 奏が大名を見つめた。いつもの威圧的な瞳ではなく、これでいいのか? と問いかけている。

 小町はゆらゆらと揺れるように居間を出て行こうとして、はたと立ち止まった。

 柱を掴んだ手の爪は力を込め過ぎて白く変色している。何かを伝えたくて悩んでいるのだろう。その苦悩が空気を通して痛いほど伝わって来た。

 そうして何度目かの猪おどしが鳴ったその時、小町は聞こえるか聞こえないかぐらいの声でこう呟いた。

「でも……それでも、大名が僕に勝った時は心底うれしかったんだぞ」

 僅かに見えた頬に光る涙。それが大名の迷いを断ち切った。

「待てよ! こい、俺んとこに嫁に来い!!」

「えっ?」

 小町が振り向くとそこはもう大名の胸の中だった。

「いいのか? 約束、覚えてないんだろう?」

「いいも悪いもあるか。記憶がなくても、男の約束だ。二言はねぇ」

 大名が小町をしっかりと抱きしめる。抱き合った二人を中心に、重苦しかった空気が暖まって行った。

 トメさんが煎餅を齧りながら「私も若い時は……」と呟き、その隣で武蔵は音が鳴らないように煎餅をお茶で湿らせて食べていた。気のつく男である。

 奏では安心したように息を吐くと、優しく小町の頭を撫でた。

「よかったわね。こまっちゃん。私もあなたが家族になってくれて嬉しい。この根性無しが根性を見せたのがちょっと意外だったけど」

「むっ、そりゃねぇだろ。俺だって千石家の男だ。交わした約束は命に代えても守るさ」

 大名が眉を顰める。顔を上げた小町が笑った。向けられただけで万人が惚れてしまいそうなほどの輝きだ。

 ――あぁ、これが俺の嫁さんになるんだ。マイ・えんじぇぇぇるぅぅぅ! いい匂いがする! いい匂いがするよぉぉぉ!! この絹みたいな黒髪に頬ずりしたい! スリスリしたい! ああぁあぁぁぁあ、俺、この子のためなら金輪際、ナンパ止める。

 大名の頬が床に落ちそうなほどに緩み、

「大名は僕が思っていた通りの男に成長していた。男同士の約束は絶対だものな!」

「へっ?」

 その一言でバンジーよろしく一瞬で元の位置に戻ってきた。顎の下辺りで涙を拭う小町に問いかける。

「あのぉ、 今何ておっしゃいました?」

「男同士の約束だ。と言ったのだが?」

 大名に合わせて首をかしげる。うん、すごく可愛らしい。

「って、違う! 男!?」

 何かの冗談だろう。とてもじゃないが信じられなかった大名は、素早く身体を離すと小町の胸に手をあてた。

 しかし、その感触は――

「ない、ない、固い……ぺったん子ーー!?」

「いっ、いきなり何をするんだ。いっておくが、そういうことはまだ早いからな」

 さっと胸を隠して頬を赤らめる。うん、とても可愛いって、違う!

「kごあうがのrヵjghyfびぇあおいう……」

 驚きを言語化できぬまま隣を振り向く。すると奏は心底楽しそうな顔で微笑んでいた。

「結婚式はどこかしらぁ。やっぱ外国しかないわよねぇ。ヨーロッパかカリフォルニア辺りはどう? どうせだから遠くに行きましょう。男に二言はない。ねぇ、大名?」

 あぁ、この姉は悪魔や……いや鬼や。頭からドリルのような角が見える。大名の表情から一斉に血の気が引いていく。

 覆水盆に返らず。一度出した言葉はなしには出来ない。

 もう一度小町へと視線を戻す。喜びを湛えたその大きな瞳は、間違えなく大名が今まで見てきた中で一番美しかった。

「詐……欺……だ」

 身体が後ろへと引っ張られていく。大名は遠のく意識で、これから始まる非日常の幕が上がったのを確かに感じたのだった。




****


 昼間の一騒動も終え、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まりかえった千石家。居間にはもう誰もおらず、大名はあまりのショックに寝込み、それを嬉々として看病しようとした小町はトメさんに止められ、あてがわれた自室の整理をしていた。

「大名と一緒じゃないのか!?」

 部屋へと案内しようとした時の小町の言葉である。それが大名の症状を悪化させたのは言うまでもない。

 

「ふぅ、柄にもないことをするもんじゃないわね」

 自室に戻った奏は疲れを振りほどくように首を鳴らした。大名を騙すのに慣れない演技などしたものだから肩が凝って仕方がない。

「奏お嬢さま。小町さまを自室へ案内してまいりました。あと、坊っちゃんの御友人も帰宅なされました」

「あぁ、ありがとうトメさん。入って」

 襖が開いてトメさんが入ってきた。座布団を出し座るように促す。子どもの時からお世話をしてもらっているトメさんだ。使用人と主人の子ども、お互いに一線は守っているとはいえほとんど家族同然だった。

「それで、武蔵くんはどうだった? やっぱ気がついてた?」

「えぇ、まぁ、あんな嘘に騙されるのは坊っちゃんくらいかと」

 背を丸めたトメさんが愉快そうに喉を鳴らした。

「先ほど着替えをお渡しする時に見たのですが、サラシを巻いているのですねぇ。あれではせっかくの成長期なのに育たないでしょう。素養はありそうなのに。もったいない」

「あぁ、それも何とかしないとね。無理に抑えつけておくと辛いでしょうし、外からは平らに見えるプロテクターを用意した方がいいかしら」

 奏は側にあったメモ帳に走り書きをし、後で連絡しておくようにトメさんに渡した。

「武蔵くんは秘密にしてくれそう? まぁ、あの子のことだからあまり心配はしていないけどね」

「えぇ、えぇ、あの御友人は大丈夫です。大きな身体に見合う広い心を持っていなさる」

「そう、なら安心ね。大名にバレさえしなきゃ、あとはどうでもいいわ」

「しかし、小町さまの母上も面倒なことをなさりますな」

「本当よ。マリーさんの頼みじゃなかったら絶対断ってるわ」

 奏は視線を奥にある箪笥へと向けた。そこには昨日投げ込まれた手紙が閉まってある。手紙は大名に渡したものを含め全部で四枚。一枚が両親からで、三枚が小町の母マリーから宛てられたものだった。

 二人を勝負させ、小町が負けたら世話をしてやって欲しい。時が来るまで大名には小町が女だということは伏せたままで。それがマリーからの依頼だった。ちなみに両親からの手紙には、元気にしている旨とマリーに協力してやるようにとだけ書いてあった。

「しかし、なぜそのようなことを家ちに?」

 トメさんが尋ねる。奏は内容を思い出すと掻い摘んで説明した。

「ようするにこまっちゃんの矯正ね。あの子自分が男だと思ってるらしいのよ。いえ、正確にいうと身体的には女だと分かってるけど、桃山流を極めることで男になることができる。自分は桃山流を極めるのだから将来は男になるんだって。つまり、今は女、でもいずれ男になる、だから男って感じにね」

「なんですかその無茶苦茶な話しは」

 トメさんが呆れ声を出す。たしかに無茶苦茶だ。

「それがね、父親のせいらしいのよ。あのクマ親父」

 奏がため息をつきつつ額に手を置いた。

「桃山流は一子相伝のうえ徹底的な秘密主義。修行が始まれば技の全てを伝授された後でない限り師匠以外の人に会うことはできないわ。例え肉親であってもね。そこはマリーさんも承知していたからその時が来るまで待っていたらしいのよ。そして十年ぶりに我が子に会ってみると自分を男だと思い込んでいた。しかも、ただ男だと思っていたわけじゃない。桃山流を極めていけばいつか女でも男になれるって間違った知識を埋め込まれてたのね。もちろん怒り狂ったマリーさんは、クマをボコボコにしてこまっちゃんから引き離した」

「まぁ、なんという……」

 さすがのトメさんもこれには絶句しているようだった。

「まったく、性質が悪いにもほどがあるわ。根本的に男だと勘違いしていたらまだやりようもあったでしょうに……」

 奏と大名が一緒に修行した時はまだ跡目修行が始まっていない時期で、本格的に始まったのはそれからしばらくしてだというが……奏はその姿を想像してしまいそうになり急いで話しを戻した。父親と二人っきりで山に引きこもるなんて奏だったら絶対にお断りだ。きっと毎日胸やけに襲われて、そのうち火でも吐けるようになってしまうだろう。

「でも本当に大変なのはその後。クマを引き離したところで考えが改まるには時間がかかるし、完全に否定することは難しかったみたい。たかだか十年とはいえ、桃山流を極めることに人生のすべてをかけてきたわけで、男として育てられたわけだからね。そんな子相手に下手は打てないと判断したらしいのよ。それでどうしようか悩んでいた時にこまっちゃんの口から出た一言が、『大名に会いたい。会いに行かないと』だったってわけ……まぁ、私も読んだ時はそんなめちゃくちゃなこと信じる奴いるのかって半信半疑だったわ。でも会ってみればアレでしょう? 色んな要因が重なってのあの結果でしょうけど、子どもの時からの洗脳って怖いわねぇ」

 トメさんが頷く。手にはどこから出したのかいつの間にか煎餅を持っており、完全に近所の噂を聞くモードだ。

「話しが逸れちゃったけど後は単純な話しよ。大名のとこにこまっちゃんを送りこんで、とことん大名を好きにさせればいい。そうすれば勝手に女の子のままでいたいって思うようになるだろうって寸法よ。まぁ、社会に慣れさせるって意味もあるでしょうけどね」

「はぁはぁ、しかし、それならなぜ坊ちゃんに女の子だと隠す必要があるので? あの通り、坊っちゃんは亡き大旦那様に似て非常に女好きです。むしろ教えた方が上手くことが運ぶのではないでしょうか?」

 ぱりんっと、煎餅が砕ける音がする。もっともと言えばもっともな質問に、奏では指の上で数回ペンを回した。

「まぁ、ややっこしい話だけど、最後にはこまっちゃんに判断させようと思ってるのよ、マリーさんは。最終的にこまっちゃんが男を選ぶのなら性転換でもさせるつもりなんでしょう」

「だから余計な感情はなしにありのままの小町さまと付き合って欲しいと。他は無理でも、せめて坊っちゃんだけには。ということですか」

「……建前はね」

 苦笑すると奏では回していたペンを頭上目がけて投げる。矢のように空中を走ったペンは、天井に突き刺さった。

「マリーさんに伝えて、出だしは上手くいったから後は本人たち次第だって。あんまり悪趣味なことしてるとこまっちゃんに嫌われちゃうわよって、ね」

 震えるペンが刺さった天井の板が、ゴトッと音を鳴らして外れる。すると隙間から二つ、何か細長いものが落ちてきた。

「バナナ? 御礼のつもりかしら」

 奏が上を見上げると誰もいないペンが刺さっただけのいつもの天井だった。

「なるほど、建前では気丈に振舞いつつも実は心配して部下を放っていると」

 トメさんが拾い、早速皮をむいて口に含む。そうしていると本当に猿のようだ。奏も一本もらい大雑把に剥いていく。

「心配。ないない。あの人に限ってそれはない。まともそうに見えたってマリーさんもクマ親父やうちの両親並みには変人なんだから」

「ほう、では、どういった理由で監視を?」

「ふぉんはのひまふぇふで(そんなのきまって)……んぐっ、しょう」

 奏は最後のバナナを頬張ると、口を拭って自分もそうだと言わんばかりに不敵に微笑んだ。

「その方が、面白そうだからよ!」


****


大笑いよりにやり。ドタバタコメディを目指しておりまーす!一話が長いですが、切れてしまうと面白さも半減してしまうのでこんな感じでお願いしまっす。では、楽しんで頂けると光栄でがんす。

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