パールグレー
最終話です
『彩葉ちゃんは、――の味方なの!?』
違うよと、どちらかの味方だとかそういうのでは無くて、わたしはただ仲直りしてほしくてと。反論しようとした言葉は、自分を責める瞳に行き先を失った。
何もかもが始まりは些細なことで、なのに過ぎてしまえばもう取り返しはつかなくて。
パールグレー
きっかけは分からない。いつからなのかも分からない。いつの間にか彩葉の心に体に染み付いた、キレイとはいえない処世術。それが―…自分の“色”を消すことだった。
(――まず、笑顔でいること)
それは一番簡単だった。彩葉はよく笑顔を褒められるが、実は余り目つきがよくない。鏡を見ると、又は幼い頃母に。何度も示されたそれを理解して、彩葉はすぐに笑顔を絶やさなくなった。
(えがお、えがお)
体が覚えてしまえば逆にクセになって、今では意識的に外そうと思わなければ外れないほどだ。自分ではそれ程常に笑っているつもりはなくて、クラスメートに言われたときは驚いたものだった。――だって、鏡で見る“自分”は死んだような目をしているから。周りを見て、自分はあんな風には笑えないと思っていたことも、今では苦笑混じりの思い出だ。
(――それから、誰とでも仲良くすること)
これも、そう難しくはなかった。元来彩葉は積極的に人を嫌わない性分だ。向こうから嫌われない限りなかなか嫌いにはならない。彩葉自体、人への興味好奇心が薄い所為かもしれない。
(みんなとなかよく、しなきゃ)
さっき言ったように“笑顔で”話し掛ければ、大抵の人間は拒絶しない。彩葉はどこに行っても誰とでも仲良くなれて、邪険にされたり独りになったりすることは決してなかった。ほんの少し我慢して、他に譲ってあげるだけでいい。子供の世界など単純だ、それ程理性が発達していない子ばかりだから、それだけで彩葉は“良い子”認定される。…それが上手くできなかったのは過去にたった一人だけ。お互い反目しあって所謂生理的に無理、という相手だったのだから仕方がない。表面上すら取り繕えなかったのは、後にも先にもその人だけだ。
(あとは―…空気を読んで、誰も否定しないこと)
彩葉が基本的には曖昧な態度を崩さないのは、このスタンスから来ている。逃げられない問いだと察すれば相手を不快にさせないようきちんと答えを返すが、自分から相手の個人領域には踏み込まず、プライベートな問題は相手が助けを求めるまで黙って見ている。踏み込んでいい所を弁えている、と言えば聞こえは良いけれど、要は――そう。
「あ、そっか…。誰にも嫌われないように、か」
呟いて伏せていた瞳を上げ、机に突っ伏す。ぼんやりと腕の隙間から覗いた狭い狭い世界は、真っ白に染まっていた。
…眺めているうちに、自嘲じみた皮肉っぽい笑みが浮かぶのが自分でも分かる。
――親として、娘がきちんとした人間関係を築くことを期待する両親。彩葉を頼り、愛し、信じている友人たち。物分かりが良い優等生だと、感心する大人たち。
誰にも嫌われたくなくて。自分は“良い子”だと、ただそれだけを主張するように。楽しくもないのに笑みを浮かべ、多少嫌な相手にも好かれるよう努力をし、場にいる人間全員がわかる話題しか振らないだとか、思ってもいなくてもその場を読んだ発言をするだとか、そういった気を常に遣って。親の期待に応えようとするうち、求めていたのはいつの間にかそんなものになっていたのだろう。
「……ま、そんなの分かった所で、どうする訳でもないんだけどねー…」
もう考えるのはよそうと頭を振って、ぼそりとそう呟く。…どれだけ悩んだ所で、考えた所で、今更生き方考え方を変えられるわけもない。変える気も、ない。そんなことを考えながら、彩葉は眠りに落ちていった。
「―…い、おーい、」
「…んー…、」
「おーい、って、ば!」
「!?」
バシッと背中を叩かれ、彩葉は驚いて飛び起きた。どころか勢い余って立ち上がってしまい、頭上で誰かのぐはっという声がした。……どうやら覗き込んでいた相手の顎に思い切り頭突きをかましてしまったらしい。そこまで冷静に認識してから我に返って、はっとする。「ご、ごごごごごごめん!!痛かったよね!?考え事してて、全く、全然、気が付かなくて…!」
「いや、うん…大丈夫だけど、大丈夫だけどさ!大島、お前急に立ち上がるなよ…!」
「うあぁぁ、ごっめーん…」
顎を押さえて俯いたままのクラスメートにはわはわと手を動かしていると、―…横からぶはっと吹き出す声が聞こえ、はたと動きを止めた。
「――…?」
「ははっ…―久し振り、彩葉さん」
いつの間に、いつから、いたのか。口元を押さえてようやっと笑いを収めたのは、見覚えのないメガネの少年だった。誰だろうか。上靴のラインと制服のバッジから同学年とは分かるが。名前を呼ばれるほど仲の良い男子など彩葉にはいない。
「……誰…?」
「ちょっと大島、ひどいな。忘れてんの?」
顎をさすりながら涙目で立ち上がった長野が、微かに不満そうにそう言った。そう言われても覚えはなく、彩葉は混乱状態である。分からない、と素直に返すと、長野はやれやれと肩を竦めて首を振った。
「こいつは大島のこと覚えてるらしいよ。…大島、確か県外出身だったよな?」
「ん?うん、そうだけど。小5まで県外にい、た…、」
首を傾げながらそう言って、ゆっくりと目を見開き振り返る。…頭の中で何かが繋がってまさかと呟くと同時、反射的に全身に鳥肌が立った。目の前に立つ少年が、その表情の変化を認めたのか嘲るように口の端を吊り上げる。
(いい子、だねぇ。いろはさんは)
「お、その感じはもしや思い出した?そいつ、1組の奴なんだけどさ、大島と同小だったっていうからさ。……」
後ろから聞こえてくる嬉しげな声は途中からシャットダウンした。
「俺、去年の冬頃編入してきたんだけど…、気付いてなかった?それにしても、変わんないね、彩葉さん…。――…相変わらず、」
過去の残像。記憶の残滓。
見下すように浮かべた笑みで、かつて彩葉に陥落しなかった人間。
二人だけの秘密というかのような小声に、尚更忌々しさが募る。きっといつものように感情の抑止は出来ていないに違いなかった。
「気っ持ち悪い笑顔」
ゆらゆらと、心の中に。屈辱と共に無理矢理忘れたはずの……消せない何かが再び灯った。
ほんの、一瞬。呆然とした後、しかし、ふっと笑う。急に質の違う笑みを浮かべた彩葉を、少年が訝しげに、けれど愉しそうに見つめていた。
――気に食わない。気に食わないのだ。自惚れだなんて思わない、誰よりも…自分を捨ててまで人に好かれる努力をしてきた彩葉を、嫌うなど、蔑むなど。自分のこれまでの全てを、見下すなど許さない。わ(・)た(・)し(・)を愛し、頼り、信じる以外の選択肢など、与えない。…もうどうせ、戻れぬところまで来てしまったから。だから、自分のプライドを貫き通すのだ。
人に求められることに愉悦を感じる、この汚く薄汚れた自尊心、を。
「――ごめん、誰だったかな。よく覚えてないけど――…」
にっこりと、笑う。笑う。―――…ワラウ。
ああほら、君も惑わされてしまえ。屈してしまえ。その方が楽で、そして幸せになれるから。
「よろしく、ね?」
(パールグレー)
(――誰にも悟らせぬ激情)
―――強い感情は何かの裏返しと得意げに語った先輩の顔が、何故か脳裏に浮かんだ。