ラベンダー
きっかけはいつだって些細なこと。どんな大事件だって、小さな偶然と、それから稀に…―僅かな故意からしか生まれないのだ。
普通の人間の人生は、テレビや映画みたいに上手く出来てはいない。喧嘩をすればそれまでで、忠告すれば鬱陶しがられるだけ。ぶつかり合って本音を晒して絆を深めて…―、なんて、そうそう起こることではなくて、だから。
それに気付いた日、人の本質に絶望した日。
彩葉は人と深く関わることをやめた。例え笑顔を浮かべていても、優等生なんかじゃない。腹の中で考えてる“ホントウ”のことは、誰にも見せはしない。そんな自分の本質は、自分で一番よく知っている。
それでいい。それがいい。
時々無性に誰かをきずつけたくなるのは。人をめちゃくちゃに害したくなるのは。彩葉が最低な人間である証なのだから。
ラベンダー
「は、あ、あ、あ、あ」
大きく息をついて手に持ったダンボール箱を床に置いた。うーん、と伸びをして、軽く首を回す。コキッと音が鳴るのに一瞬ヤバいなと眉をひそめてから、彩葉は腰を曲げた。
「えーと、…にぃしぃろぉ……………うん、おっけ」
ふぅ、と吐息を漏らして、隣で同じ様に数をあらためていた実行委員の谷中和泉を見ると、谷中も丁度数え終えたようで顔を上げて笑った。
「いやー、去年の委員から聞いとったけど…、やっぱなかなかに重労働やな」
「うん、まぁでも体育祭の実行委員に比べたらやっぱましかな」
あはは、と笑い返しつつ頬を掻く。その言葉は事実で、彩葉が思っていたより委員の仕事は大変ではなかった。当日は周りより少しバタバタするが、体育祭に比べたら各クラス間での打ち合わせが少ないため、委員全体の会議があまりないのだ。
彩葉のクラスでは簡単なカフェを開く予定で、材料の発注と、装飾の準備くらいしか仕事らしい仕事はない。接待用の制服は別にセンスのいい人がチョイスするし、調理指導は料理の得意な人が仕切ってくれている。実行委員はそれらを監督しているだけなので、把握してさえいれば正直暇なのだ。
「――…って、あー、そうだ。シフト表って印刷してないよね?」
「あ、せやった。ちょい大島、行って来たってや。―――ほい」
「さんきゅ。じゃあ行って来るー」
「行ってら」
怠そうにひらひらと手を振る和泉に苦笑しつつ、彩葉は教室を出た。職員室に隣接する印刷室を目指して、とりあえず階段を下る。ダルいなあと思いながら、ぼんやりと手にしたシフト表を眺めた。
「文化祭、かぁ」
言いかけた言葉は口元で押し止めて、小さく小さく笑う。
歪めた唇には、きっと上品とは言い難い笑みが浮かんでいた。
―――九月、快晴。
明日はきっと文化祭日和だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「…………しぬ」
「あはは、大丈夫大丈夫、多少のオーバーワークじゃ人間死なないよ」
「おにめ」
顔を真っ青にして、それでも営業スマイルを保つクラスメートに笑いかけると、怯えるような表情を浮かべられた。彩葉だってみんなにそんな労働法を踏みにじった悪徳なことを言っている訳ではないが、彼は中性的な美しい顔で立っているだけで客寄せになるのだ。校内のミスターコンテストにもノミネートされ、話題性も抜群。そう簡単に手放すわけがない。例え普段無表情で愛想ゼロの彼が愛想笑いのし過ぎで死にかけ舌足らずになっているとしても、だ。
まだまだ働いてもらおうとにっこり笑いかけると、自分を呼ぶ声がして振り向く。
「いっちゃーん」
「?なーに?」
「いっちゃんにお客様だよー」
「私に…?」
彩葉の交友関係は狭くはないが、所詮広く浅く、のスタンスだ。わざわざ会いに来るような人はなかなかいないが、誰だろうと首を傾げながら戸口に近付くと、見慣れない、けれど懐かしい紺の制服が見えた。
「先輩っ!」
「陽奈、ちゃん…?」
「はいっ」
お久しぶりです!と名前にふさわしくきらきらした笑みを浮かべる少女に、彩葉は二、三度瞬きをしてから、ゆっくり目を見開いた。
「う、わ…久しぶり…。いつぶりだっけ?」
「先輩が卒業して以来ですから…半年ぶり、ですかね。あれから結構色々あって、なかなか連絡出来なかったんですけど」
そう言って、少し居心地悪そうに目線を下げた陽奈に察して、教室内に顔を向ける。さっき彩葉を呼んだ女生徒がちらちらとこちらを気にしていたので、呼び掛けて少し出て来ると伝え、申し訳無さそうに見つめてくる後輩に微笑みかける。
「行こっか」
「大丈夫ですか?…ごめんなさい、私のために」
「うぅん全然」
……愕然とした表情でこちらを見つめるメイド服の美少女…もとい美少年が視界に写った気がしたが、気にせずひらひらと手を振って、彩葉は教室を出た。
「あの野郎ぉぉおおお!!!」
「あーほらほら、抑えて抑えて。皿割ったら自腹切ってもらうからねー」
「…あの、先輩」
「?なーに?」
「………………いえ」
何か問題でも?と言わんばかりの爽やかな笑みに、陽奈は追究しないことにしたらしい。呆れたように首を振って、それからクスクスと笑った。
「どうかした?」
「ふふ…あのときも先輩、こんなだったなぁって」
「そ?」
「はい。あの怖い人たち相手にニコニコして、そのくせあっさり黙らせちゃうんだから、何者なんだこの人は、って思ったんですよ?」
向けられる尊敬の眼差しに、彩葉は困った顔をして首を傾げた。
「そんな大したもんじゃないよ」
「大したことありますよ!」
少し先を歩いていた陽奈が振り向き、瞳を大きく見開いた。ふわりと紺のスカートが舞い上がり、淡い紫のリボンが可愛らしく揺れる。
「先輩は私の、ヒーローなんですから!」
「…照れるね」
茶化すような、それでも半分本気の色をのせた声音に、乗ってわざとらしく照れた様子を見せる。目が合い、クスクスと笑って、彩葉は再び歩き出した。聖母のように穏やかに吊り上げた口元は、ぴくりとも動かなかった。
「彩葉先輩っ、今日はありがとうございました!」
「いやいや、こちらこそ。短い時間だけど、楽しかったよ」
「また、連絡しますね!できたら、学校にも遊びに来てください」
「……いけたらね」
「もう、」
その返事は、来る気無いですね!と唇を尖らせる仕草は、どちらかというと子供っぽい彼女の容姿に似合い、素直に可愛らしい。
クラスでの仕事もあるため一緒に回れたのはほんの一時間か二時間程度だったが、その間も彼女の表情はくるくる変わり、見ているだけで楽しかった。この後は昼過ぎに来る友達と合流して、回るのだという。彼氏じゃないのかと茶化したら、しばらくは恋愛は懲り懲りですと苦笑していた。辛い思い出はそう簡単に風化しないだろうが、年月は瘡蓋をつくる程度ではあったらしい。大きな傷ではないようで良かったと、彩葉は胸をなで下ろした。
「………先輩、」
「んー?」
「この前、私、あの人と会ったんです」
あの人、口の中で転がす。名前を呼ばないのは戒めだろうか。
「そっか」
「駅前で…偶然。目があっちゃって、無視するわけにも行かなくて、話したんですけど。ちょっとだけ」
倒置、少しの間。要領を得ない説明が、彼女の心情を物語る。
「なんていうか…、上手く、言えないんですけど。……駄目なんじゃないかなって、思ってたんです。…なんとなく」
だけど、と俯いた、陽奈の爪先が地面を軽く蹴った。
「全然、平気で。世間話して、今どうしてるとか話して、受験の話とか…して。全然、大丈夫だったんですよね。きっと、……彩葉先輩の、お陰です」
ありがとう、と微笑んで、ひらりとまた、スカートが揺れる。リボンが、揺れる。
緩やかに手を振って去っていく影に、力無く手を振りながら、彩葉は口元に静かに手をやった。
一年前、図書室。
その出来事が全ての発端だった。
彩葉の同級である少年が陽奈に告白した。陽奈はそれを受けた。………言ってしまえば、それだけの話だ。
ただ、彼が女生徒にかなり人気があったこと。彼女らの一人にしつこく迫られ、向こうからすれば友達以上恋人未満、ともいえる微妙な関係にあったこと。口の軽い数人に、デート現場を目撃されて、しまったこと。そして陽奈があまり気が強いとも言えない下級生だったことが、歯車を狂わせた。
執拗な、いじめ。罵倒、リンチ、嫌がらせ。
同じクラス、学年ですらないのがまだ救いだったのかもしれないが、それは陽奈が周りから孤立するのに充分な理由になった。
心配を掛けたくないという思いと、健気に耐える自分への陶酔や、言わずとも気付いて欲しいという願望もあったろう。彼――大谷に、陽奈は打ち明けることもできず、一カ月が経ったころ。
動いたのが、彩葉だった。
同じ部活で、それほど仲がよかった訳でもないが放っておくことも出来ず、彼女らに働きかけて。口八丁手八丁でどうにか丸め込み――元々、終わりの見えない行為と、彼女がここまでされているのに気付かない大谷の鈍感さに嫌気がさしていたのだという――、いい機会だと促して美化委員長にいじめの温床となっていた体育館裏の清掃活動を頼み、生活指導の教師には屋上のカギが壊れていることを秘密裏に伝えた。
万事解決とはいかないとすれば、それから一カ月足らずで二人が別れてしまったことか。それでも粗方、
「…めでたしめでたし、なぁんて」
フフ、と唇だけを緩めて笑う。
すれ違った生徒が微かに怪訝そうにこちらを見たのを目に留めて、再び口元に手を当てる。
あれ以来、恩義を感じてか陽奈は彩葉にまるで犬のように懐くようになった。
以前は、『偽善者臭い』と警戒して近寄らなかったことも忘れて。
…でもいいよ、忘れてあげる。
覆い隠した手のひらの向こうで、微かに唇が踊る。
「バカだなぁ、バカだなぁ!
バカで、愚かで……でもとても、可愛い子」
誰も聞いていなかったはずの微かな告白の噂が、広がった理由も。
確かな証拠となった映画館デートに、“たまたま”噂好きの少女たちが遭遇した理由も。
いじめが異様なほど長引き、しかし大谷の耳にはまるで入らなかった、訳も。
「ぜぇんぶ、君は気付かないままでいい。可愛いわんこで…犬でいなよ」
ねぇ、陽奈ちゃん?
ふらりと揺れた黒いスカートが、あざ笑うように風に翻った。
(好かれなくて良いけれど)
(嫌われるのは苦手です)
(だから壊して、なにが悪い?)
(ラベンダー)
(欺く残酷)