食パンをくわえた少女は、俺の横を通り過ぎる
みんな、高校生の恋愛に夢を見過ぎていないだろうか。
朝の通学路でそんなことを考えている時点で、俺もたいがい暇なのだと思う。
高校生の恋愛なんて、だいたい一時的な錯覚だ。
目が合った。消しゴムを拾った。雨の日に傘へ入れた。
その程度の偶然を運命と呼ぶには、さすがに夢を見過ぎている。
俺には、隣に住む幼馴染もいなければ、世話を焼いてくれる妹もいない。両親は健在で、どちらも普通に働いている。毎晩夕食の時間には、だいたい揃って食卓を囲む。つまり、俺の日常にはラブコメが発生する余地など一ミリも存在しないのだ。
恋愛を否定するつもりはない。
ただ、周囲を巻き込んでまで騒ぐほどのものではないと思っているだけだ。
もっとも、朝からそんなことを考えている時点で、俺も相当に面倒な人間なのだろう。
その自覚くらいはある。
反省する気はないが。
と、高校二年の俺――三門航平は、心の中でいつもの結論にたどり着いた。
たどり着いたところで、別に何かが変わるわけではないが。
校門までの道はいつも通りで、俺の右手には古いブロック塀が続き、左手には車一台がぎりぎり通れる程度の道路がある。春の終わりの空気は少し湿っていて、制服のシャツが首元に貼りつく感覚が不快だった。
不意に、背筋に奇妙な悪寒が走った。
ただの春風にしては、少しばかり温度が低すぎる。俺は無意識のうちに歩みを止め、十字路の角に体を寄せた。まるで、何かが飛び出してくることを予期していたかのような、脊髄反射に近い動作だった。
直後。
視界の端を、風を切り裂くような勢いで何かが横切った。
その少女は、あろうことか食パンをくわえていた。
比喩ではない。
本当に、食パンをくわえていた。
しかも、ただのんびり走っているのではなく、全力疾走だった。制服のリボンは曲がり、鞄は肩からずり落ちかけ、髪は朝の風を受けて暴れている。片手で鞄を押さえながら、もう片方の手を必死に振って、少女は交差点を直角に曲がろうとしていた。
『んむっ、んんっ!』
食パン少女は、俺がいた場所をかすめるようにして通り過ぎていった。
視界に飛び込んできたのは、驚くほど顔の整った金髪の少女だった。外国の絵本から抜け出してきたような人形めいた顔立ちをしているが、どこか幼げで日本人の面影も残している。ハーフなのだろうか。表情は妙に必死で、整った印象を自分から台無しにしている。
すれ違いざまに、焼いていない食パンの香ばしい匂いが鼻をつく。マーガリンもジャムも塗っていないのか、朝の通学路という文脈からすればもっと甘い香りが漂ってきても良さそうなものだが、彼女に細かな矛盾を追求する余裕など欠片もなさそうだ。そこまで観察する必要はなかったのだが、一度目にしてしまっては仕方ない。
俺は半目でその背中を見送った。
「はいはい、定番だな」
口に出すつもりはなかったのに、声に出ていた。
その瞬間、隣から小さく笑う気配がした。
「ひどいなあ。もう少し夢を見てもいいんじゃない?」
俺の隣を歩いていた女子――七瀬紬が、肩にかかった髪を指で押さえながら言った。
七瀬は同じクラスの転校生だ。
先週の月曜に来た。
肩より少し長い黒髪に、いつも眠たげな目をしている。顔立ちは整っており、誰に対しても分け隔てなく親しげに話しかけるその態度は、どこか捉えどころがなくて少しだけ苦手だった。
転校初日、彼女は俺に向かって「久しぶり、航平くん」と言った。
もちろん、久しぶりではない。
俺に幼馴染はいない。
少なくとも、突然現れて名前を呼び捨てにしてくる美少女など存在しない。
そう指摘すると、彼女はけろっとした顔で「じゃあ、今日からそういうことで」と言った。
意味がわからない。
以来、七瀬は俺の周囲に当然のように存在している。
朝の通学路で横にいることも、昼休みに机へ来ることも、放課後に廊下で待っていることもある。俺が頼んだ覚えはない。
「夢なら寝て見るだろ。朝から見るものじゃない」
「朝に見る夢って、ちょっと素敵じゃない?」
「遅刻寸前の人間が見るものは、だいたい悪夢だ」
俺がそう言うと、七瀬はくすくす笑った。
その笑い方も腹立たしい。
俺の言葉を否定しているのではなく、最初からそう返ってくるとわかっていたみたいな顔をする。
食パン少女は角を曲がった。
その先は、校舎へ続く細い道になっている。塀のせいで向こう側は見えない。
見えないが、予想はできる。
なぜなら、ここまでの流れがあまりにも露骨だからだ。
俺と七瀬は、ほとんど同時に足を止めた。
そして、角の向こうから。
「きゃっ!」
「うわっ!」
どんっ、という鈍い音。
続いて、ばさばさと紙が散る音が聞こえた。
塀の向こうから聞こえてきたのは、無防備に放り出された悲鳴と、アスファルトに身体を叩きつけるような生々しい衝突音だった。
慌てて覗き込むと、そこには不可抗力としか言いようのない光景があった。
「うわっ……!」
男子生徒は、うちのクラスの相馬奏多だった。クラスの中心人物で、常に教師からの信頼も厚い学級委員だ。
彼は足元をもつれさせた少女を抱き止めるような格好で、勢いそのままに二人して地面へ転がっていた。相馬の膝が少女の腰を押し込み、彼女のスカートがアスファルトの上で無防備にめくれあがっている。
「……っ!」
少女の顔が、一瞬で茹でタコのように真っ赤に染まる。彼女は状況を理解した瞬間、男の胸元を突き飛ばし、勢いよく身を起こした。
『何するのよ、変態っ!』
乾いた音を立てて、男の頬にビンタが叩き込まれた。
男は呆然と頬を押さえ、地面に散らばったパンとプリントを前にして、謝ることもできずに立ち尽くしている。少女は乱れたスカートを直しながら、羞恥と怒りで目を潤ませていた。
会話のテンポどころか、もはや古典的な記号そのものだった。
俺は眉間を押さえた。
「あちゃー」
七瀬が、俺の横でまったく同じものを見たような顔で呟いた。
俺は彼女を見る。
彼女も俺を見る。
二人の視線がぶつかった。
七瀬は、なぜか少しだけ気まずそうに笑っていた。
「……始まっちゃったね」
「始まったな」
「いい出会いになるといいね」
「道路に落ちた食パンを挟んで始まる出会いが、いい出会いなのかどうかは検討の余地がある」
「でも、王道だよ?」
「王道なら何でも許されると思うな」
俺がそう言うと、七瀬はまた笑った。
ただ、その笑いはさっきより少しだけ弱かった。
「で?」
俺は七瀬に目を戻した。
「今のも、お前がやったのか」
七瀬は視線を斜め上へ逃がした。
「私が食パンをくわえさせたわけじゃないよ?」
「そういう話はしてない」
「角でぶつかるように指示したわけでもないし」
「だから、そういう話でもない」
「じゃあ、どういう話?」
わかっているくせに、と言いかけてやめた。
「私は何もしてないよ」
七瀬は両手を小さく上げた。
「たまたま。偶然。運命。青春のいたずら」
「信用ならないな」
「でも、本当に私が起こしてるわけじゃないし」
「お前の近くでばかり起きる時点で、偶然と呼ぶには無理がある」
「じゃあ、体質かな」
「恋愛事故誘発体質か。迷惑防止条例に引っかかりそうだな」
「ひどい」
七瀬は唇を尖らせた。
その仕草が妙に自然で、俺は少しだけ言葉に詰まる。
七瀬は、自分の周囲でラブコメみたいな出来事が起こることを知っている。
それを不思議がっているようにも見えるし、諦めているようにも見える。
ただ、少なくとも一つだけ確かなことがある。
彼女自身は、いつもその中心にいない。
食パン少女は、七瀬ではない。
ぶつかった男子の相手も、七瀬ではない。
消しゴムを拾われるのも、傘へ入れてもらうのも、文化祭準備で二人きりになるのも、いつも別の誰かだ。
七瀬は、その横でにこにこしている。
「ねえ、航平くん」
「その馴れ馴れしい呼び方をやめろ」
「じゃあ、三門」
「さん付けしろよ」
「わがままだなあ」
七瀬は笑ってから、角の向こうへ視線を向けた。
食パン少女と相馬はまだその場にいた。男子が散らばったプリントを拾い集め、女子はそれを手伝いながらも、どこか言い訳がましい口調で何かをまくしたてている。
『だいたい、角では止まるのが常識でしょうが!』
『いや、それはこっちの台詞だって。お前の方こそ、曲がり角から全力疾走で来るなよ』
二人の周囲には、朝の清々しさなど微塵も漂っていない。むしろ、殺伐とした空気が渦巻いている。二人は互いの顔を睨みつけ、言い争いながらも、なぜかプリントを拾う手だけは忙しなく動いていた。
「いいよね、ああいうの」
「どこが」
「恋が始まる予感がする」
「始まったところで、大抵は長続きしない。ラノベやラブコメの世界じゃないんだからすぐ終わるだろ」
冷めた声でそう言い捨てると、俺は角の向こうで繰り広げられる惨状から目を逸らした。あんなものは一時の高揚感に過ぎない。
「何でもいつかは終わるよ」
七瀬は、淡々とした口調で空を見上げた。
「朝も終わるし、授業も終わる。春だって、いつかは必ず終わってしまう」
彼女の横顔を眺めながら、俺は言葉を探す。
「でも、終わるから意味がないなんてことにはならないでしょ?」
その言葉はあまりに純粋で、理屈で武装した俺の心に、不意に風穴を開けるような響きを持っていた。正論とも、あるいはただの綺麗事ともとれるその言葉に、俺は苛立ちと少しの困惑を隠せないでいた。
こういう時が一番面倒だ。
相手の言葉に理屈で反論できない時、人間は人格を疑う方向へ逃げたくなる。
「お前、意外と青春信者だな」
「信者じゃないよ。観察者」
「観察者が食パン衝突事故を量産するな」
「だから量産してないって」
七瀬は苦笑した。
俺は一瞬、何か言おうとしたが、その前に予鈴が鳴った。
「あ、やば」
七瀬が腕時計を見る。
「普通に遅刻する」
「食パンをくわえて走れば間に合うんじゃないか」
「私がやったらまた巻き込まれる人が増えちゃうね」
「迷惑だからやめろ」
俺たちは少しだけ早足になった。
例の二人はまだ、角の向こうで何かを言い争っていた。食パン少女はちぎれたパンを手に持ったまま、相馬に向かって必死に何かをまくしたてている。相馬はといえば、困ったように眉を下げて、反論するでもなく笑っている。
その横を通り過ぎる時、七瀬は小さく手を振った。
女子の方が七瀬に気づいて、なぜか反射的に会釈した。
知り合いではないはずだ。
けれど、七瀬に会釈したくなる気持ちは、少しわからなくもなかった。
事件の発生源に対する本能的な挨拶かもしれない。
*
二年三組の教室は、朝のいつものざわめきに満ちていた。
俺は窓際の自分の席に鞄を置き、七瀬は俺の斜め後ろ――本来の自分の席へ向かう、と見せかけて、空いている隣の席にしれっと座った。
「そこ、お前の席じゃないだろ」
「今は空いてるよ」
「そういう問題じゃない」
ちなみに、本来の持ち主はここ数日休んでいる。
七瀬は先週から当然のようにそこを占拠していた。
誰が許可したのか俺は知らないし、聞いてもいない。
聞いた瞬間に俺が許可したことにされそうな予感がある。
七瀬は笑って、頬杖をついた。
そのまま朝のホームルームの時間になり、担任の冴木先生が珍しく機嫌のいい顔で入ってきた。
冴木先生は四十手前の男性で、いつも目の下にうっすら隈がある。その先生が、今日に限ってわずかに口角を上げている。何かいいことがあったのか、よくないことを誤魔化しているのか、判別がつかない。
「えー、皆さん、おはよう。今日はちょっとお知らせがあります」
教室がざわついた。
俺は嫌な予感がした。
「実は、転校生が来ます」
「えっ」
誰かが声を上げた。
それからクラス全体が、二秒くらい停止した。
「先週もいたよね?」
「二週連続?」
冴木先生は苦笑した。
「先生もちょっとびっくりしてる。事務の手違いとかじゃなくてね、ちゃんと予定通りなんだって。じゃあ、入ってきていいぞ」
俺は無意識に隣を見た。
七瀬は、いつもと変わらない顔で前を向いていた。
ただ、その目がほんの少しだけ細められている。
何かを楽しみにしている顔ではない。
来るとわかっていた何かを、ようやく受け取った顔だった。
教室のドアが開く。
「し、失礼しますっ……!」
その声で、俺は理解した。
入ってきたのは、今朝、食パンをくわえて俺の横を駆け抜けた、あの少女だった。
赤いリボンは曲がっていない。前髪は丁寧に整えられていて、頬の赤みもほとんど引いている。だが、間違えるはずがない。あの全力疾走の背中、あの「んむっ、んんっ!」の音色、俺のすぐ横を通り過ぎていったあの存在感。
食パンはもう手にしていなかった。
たぶん、どこかで誰かに突進している間に道路に落として、五秒ルールも適用できないまま地面に置き去りにされたのだろう。
「あれ、めっちゃ可愛くない?」
「金髪……? 人形みたいだな」
先ほど廊下を全力疾走していた暴風雨のような勢いはどこへやら、今の彼女は、まるで作り物のような静寂を纏っていた。教室のざわめきが、彼女の金糸を思わせる髪に吸い込まれていく。
ざわつくのは勝手だが、その騒音の中で、俺は別のことを考えていた。
二週連続の転校生。
先週は、七瀬紬。
今週、彼女。
冷静に確率を考えるなら、二年生の二学期の中盤に二週連続で転校生が来る確率は限りなく低い。
異常だ。
だが、異常さの理由には心当たりがある。
隣の七瀬を、ちらと見る。
七瀬は涼しい顔で前を向いている。
転校生の少女が、黒板の前に立った。
冴木先生がチョークを渡す。
「じゃあ、自己紹介してくれるか」
少女は深く頭を下げてから、丁寧に名前を書いた。
椎名凛。
「椎名凛です。前の学校は……まあ、ちょっといろいろあって……えっと、よろしくお願いします」
澄ました、ちゃんとした少女の声だった。
クラスから拍手が起こる。
「席はね、ここ、空いてるから」
冴木先生が指さしたのは、俺の二列前、廊下側だった。
「相馬くんの後ろ」
その瞬間。
椎名凛の視線が、止まった。
相馬奏多は、俺の二つ前の席に座っている男子だ。背が高くて、髪の収まりが他の男子より一段良くて、顔立ちは要するにクラスのイケメン枠の一人といったところか。
その相馬が、教壇の少女を見た瞬間、目を見開いた。
そして、椎名凛が叫んだ。
「あんた、あの時のっ……!」
「……っ! お前、さっきのっ!」
クラスが一瞬で静まり、次の瞬間、爆発した。
「えっ、何それ何それ!」
「もう知り合い?」
「相馬、何やったのお前!」
教室の空気が、一瞬で色めき立つ。
そのざわめきの中、俺は静かに机に肘をつき、額に手を当てた。
隣で、七瀬が小さく、声を出さずに笑った。
俺は彼女に視線を向ける。
彼女は、口元に指を当てて、いたずらを成功させた子供みたいな顔で目を細めていた。
俺はため息をついた。
「お前か」
「私は何もしてないよ」
「今朝のあれの続きだろ」
「だから、私は何もしてないってば」
七瀬は声を立てずに笑った。
笑いながら、ちらと相馬の方を見た。
そして、満足そうに頷いた。
その横顔が、職人が出来上がった料理を一目で確認するみたいな顔に見えて、俺はもう一度ため息をついた。
*
午前中の授業は、だいたい相馬と椎名の観察で終わった。
椎名が教科書を忘れれば、なぜか相馬が予備を持っていた。
相馬がプリントを配れば、なぜか椎名の分だけ一枚足りなかった。
そのたびに二人は小声で言い合い、周囲は勝手に盛り上がる。
俺は黒板を見ながら、心の中で三度ため息をついた。
七瀬紬の周囲では、やはりこういうことが起こる。
「航平くん、お昼食べよ」
七瀬が弁当箱を持って俺の机に来た。
「ねえ、航平くん」
「また何だ」
「今朝の子、うまくいくと思う?」
「知らん」
「冷たいなあ」
「でも航平くん、そういうの見るの得意じゃない?」
「得意じゃない。お前のせいで慣れたんだろ」
七瀬は楽しそうに笑った。
卵焼きを箸でつまみ、口元へ運ぶ。
その目が楽しそうで、俺は嫌な予感がした。
「じゃあさ」
「断る」
「まだ何も言ってない」
「お前がその顔をすると、だいたい面倒なことを言う」
「航平くんにも、そういうイベント起こしてみようよ」
予想通りだった。
俺はおにぎりを置く。
「却下」
「なんで?」
「必要ない」
「青春だよ?」
「不要不急の青春は控えろ」
「災害扱い?」
「お前の周囲に関しては、ほぼ災害だ」
七瀬は頬を膨らませた。
「でも、航平くんだけ何も起きないんだよ」
「いいことだ」
「だって、つまらないじゃん」
「俺はつまらなくていい」
そう言うと、七瀬は少しだけ黙った。
箸の先で弁当の中のきんぴらを動かしながら、視線を落とす。
「私は、ちょっと寂しいけどな」
その言葉は、小さかった。
俺は聞かなかったことにした。
七瀬は顔を上げる。
その目は笑っていた。
けれど、笑い方はいつものものと違った。
「航平くんにも、ちゃんと青春してもらう計画立てるからね」
「俺の同意を取れ」
「大丈夫。最初は軽いやつからにするから」
「まずは、隣のクラスの佐伯さんとかどう?」
「誰だ」
「図書委員で、本が好きで、たまに笑うとすごくかわいい子」
「お前は何のデータベースだ」
「恋愛候補者リスト?」
「作るな」
七瀬は笑っている。
笑っているが、俺はふと気づいた。
彼女は、俺に誰かを紹介しようとしている。
今朝の食パン少女の時と同じように、俺をどこかのラブコメへ放り込もうとしている。
たぶん七瀬は、本気でそうしたいのだ。
俺にも恋愛を経験してほしい。
俺にも青春をしてほしい。
そう思っている。
余計なお世話だ。
だが、それ以上に引っかかることがあった。
「お前はどうなんだ」
気づいた時には、そう言っていた。
七瀬は箸を止める。
「私?」
「他人にイベントを押しつける前に、自分はどうなんだ」
「私はいいよ」
返事は早かった。
早すぎた。
「なんで」
「私は、そういうのじゃないから」
「そういうのって何だ」
「えっと……きっかけ役?」
七瀬は冗談っぽく笑った。
「ほら、物語にはいるでしょ。主人公たちを出会わせる友達とか、背中を押すクラスメイトとか、偶然その場にいるだけの人とか。私はたぶん、そっち側なんだよ」
その言葉に、なぜか胸の奥がざらついた。
不快だった。
理由はわからない。
ただ、七瀬が自分を軽く扱ったように聞こえた。
「気持ち悪いな、それ」
口が勝手に動いた。
七瀬が目を丸くする。
「ひどくない?」
「ひどいのはお前だろ」
「私?」
「自分だけ物分かりいい顔して、勝手に外側に立ってる感じがする」
言ってから、少し熱くなりすぎたと思った。
俺らしくない。
だから、すぐに付け足す。
「お前が他人の恋愛に干渉するから、周囲で余計な騒動が増える。だったら、お前自身が誰かと恋愛すればいい。自分のことで忙しくなれば、他人に構う暇もなくなる。結果として被害が減る」
我ながら、完璧な理屈だった。
少なくとも、俺の中では。
七瀬は、しばらく俺を見つめていた。
「つまり、私に彼氏を作れってこと?」
「言い方は雑だが、そういうことだ」
「航平くんが、私の恋愛を手伝うの?」
「そうだ」
「……本気?」
「本気だ」
言い終えた瞬間、教室の騒音が一段遠くなった気がした。
七瀬は箸を、一度だけ机に置いた。
弁当箱の縁に当たって、こつ、と小さな音がした。
普段の七瀬なら、二秒で返事が返ってくる。
けれどその時だけ、彼女は卵焼きの角をじっと見ていた。
やがて七瀬は顔を上げた。
いつものように笑っていた。
けれど、その笑顔は綺麗に整いすぎていた。
「じゃあ、お願いしようかな」
意外な返事だった。
俺は少しだけ眉を上げる。
「いいのか」
「うん。航平くんが、私をそうしたいなら」
「言い方に悪意を混ぜるな」
「混ぜてないよ。ちょっと砂糖の量を減らしただけ」
七瀬は笑う。
やっぱり、いつも通りの顔だった。
いつも通りのはずなのに、どこか違って見えた。
「私の恋愛、航平くんがプロデュースしてくれるんでしょ?」
「プロデュースという言い方はやめろ」
「じゃあ、演出?」
「もっとやめろ」
「ふふ。じゃあ、楽しみにしてるね」
七瀬はそう言って、卵焼きを口に入れた。
何事もなかったみたいに。
俺もおにぎりを食べる。
ツナマヨの味が、さっきより少し薄い気がした。
教室の前の方で、笑い声が起きた。
反射的にそちらを見ると、椎名凛が相馬奏多の机の横で何か言い争っているらしかった。
あちらはもう、勝手に始まっている。
俺は視線を七瀬に戻す。
七瀬は、そのやりとりを見ていなかった。
彼女は、自分の弁当を見ていた。
卵焼きの隣で、きんぴらが二切れだけ残っていた。
七瀬は、他人の恋愛にはやたらと口を出す。
なのに自分のことになると、いつも一歩引いた顔をする。
たぶん、だから暇なのだ。
暇だから俺にまで青春を押し売りしてくる。
暇だから、周囲の恋愛事故を見て笑っている。
なら、話は簡単だ。
七瀬自身を、恋愛の当事者にしてしまえばいい。
七瀬紬を誰かとくっつける。
それが、俺の平穏を取り戻す最短ルートのはずだ。
善意でもない。
青春への理解でもない。
俺は高校生の恋愛に夢を見ていないのだから。




