薄情者に処方箋はありません。薬師令嬢は、あなたを救わない
本作は、全11章で構成された異世界恋愛短編小説です。
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
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第一章 断罪
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シャンデリアの光が、大広間を昼のように照らしていた。
数百本の蝋燭が天井の高みで揺れ、磨かれた大理石の床に光を溶かしていた。貴族たちのドレスと宝飾品が光を受けて煌めき、楽団の音楽と笑い声が交わり合って、会場全体がひとつの巨大な生き物のように脈打っていた。
私は、その端に立っていた。
淡い緑のドレス。母から受け継いだ、一番上等な一着。繰り返し手入れして、ようやく今夜に間に合わせた。薬草の香りが染みついた指先は、白い手袋の中に隠してある。婚約者の隣に立つ者として、それなりの格好をしなければならない。三年間、そう言い聞かせて、この場所に立ってきた。
オスカー・ヴェルデン様は、私の隣にいなかった。
広間の中央、高い壇の上に立って、貴族たちへ向けて何かを話し始めていた。その声が、音楽の合間を縫って届いてきた。
「……皆さんにお伝えしたいことがある」
ざわめきが、静まった。数百の視線が壇上へ集中した。
オスカー様は一度、ゆっくりと視線を動かした。その目が、私のいる方向を通り過ぎた。止まらなかった。ただ通り過ぎた、それだけだった。
「この度、新たにカミラ・ベルモント嬢と婚約することとなった」
一拍の沈黙があった。
それから——歓声が沸き上がった。
「カミラ様が!」
「はやり病を止めたあの方が!」
「ヴェルデン伯爵家に、これ以上ない御縁ですわね」
オスカー様の隣に、柔らかな茶色の巻き髪をした女性が歩み出た。白いドレス、満面の笑み。会場の光を全身で浴びて輝いていた。拍手が大広間を満たした。それは広がり続けて、天井まで届くほどだった。
(……カミラ様が、はやり病の薬を)
頭の中に、何かが引っかかった。
私も、先月、匿名でオスカー様の領地の医師団に薬を届けた。でも——カミラ様が別に薬を作っていたのだろうか。それとも——
(違う。今は、それより)
腹の底に、冷たいものが沈んでいった。
婚約が破棄される。
壇上の発表は、言外にそう告げていた。ヴェルデン伯爵家の御曹司が、別の女性との婚約を皆の前で宣言した。その意味は、一つしかない。
私はそっと、壁際へ移動した。誰も私を見ていなかった。全員の視線がカミラ様の方を向いていた。拍手はまだ続いていた。
その中で、私はずっと笑顔を保っていた。こういう時にどんな顔をすればいいか、三年間で学んでいた。
やがて、ヴェルデン家の執事が近づいてきた。「旦那様が、少々お時間をいただきたいと申しております」
案内されたのは、大広間の奥の小部屋だった。
扉を閉めると、喧騒が遠くなった。蝋燭が二本。小さな机。オスカー様が待っていた。
「リーゼ・ハイネル」
「……はい」
「今夜の件は、聞いていただろ」
彼は私の顔を見ながら話した。しかしその目は——最初から、何かを値踏みするような色をしていた。婚約した三年前から、ずっとそういう目だった。
「お前との婚約は解消する」
「その……」
「感情的になるつもりはない。一つ確認しておく」
オスカー様は机の上の書類を手に取った。
「ヴェルデン家がハイネル家のために肩代わりしてきた借金がある。婚約という前提があってのことだった。前提が変わる以上、返済を求める」
胃の底が、きゅっと縮まった。
「……総額は」
「慰謝料分を相殺した残り、半額を三ヶ月以内に」
半額。三ヶ月。
ハイネル領の今の状態で、その金額を用意するのがどれほど困難か——オスカー様はわかっているはずだった。私の家の状況は、婚約した時から全部伝えていた。それでも彼は、書類をこちらへ向けた。
「署名を」
(断れば、権力を用いられさらに負債が膨らむ……)
「……承知いたしました」
ペンを受け取った。指先が、少し冷たかった。
(わかっていた。こうなると、どこかでわかってはいた)
今まで薬師としてオスカー様の領地に貢献してきた。
婚約者として夜会に出るたびに、笑顔を作り続けてきた。それが全部、今夜で終わる。
署名した。インクが乾くのを待っている間、小部屋の扉が開いた。
カミラ様が立っていた。
柔らかな笑顔。蜂蜜色の目。会場の喝采を全身に纏ったような、晴れやかな顔。その目が、私を見た。
「あら、まだいらしたの」
「……」
「リーゼ様でしたかしら」カミラ様は、私の頭の先からつま先まで、ゆっくりと眺めた。その視線が、まるで値のつかない骨董品でも確認するような色をしていた。
「ヴェルデン伯爵家には、あなたは力不足でしたわね」
微笑みのまま、そう言った。
力不足。
「……そうですね」
声は、出た。震えなかった。
書類を机に置いて、小部屋を出た。大広間の喧騒の中を、誰にも声をかけずに、出口まで歩いた。
外の空気は冷たかった。夜の星が出ていた。
私は石畳の上に立ったまま、しばらくそこにいた。
(本当に、必要なくなったんだ)
ただそれだけが、静かに沈んでいった。
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第二章 過去
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馬車の窓の外を、夜の街が流れていった。
燭台の灯る家の窓。石畳の道。夜番の衛兵の影。それらが一つ一つ、後ろへ消えていった。
体が揺れる感覚に任せながら、私は目を閉じた。
思い出すな、と思っても、昔を思い出してしまう。こういう時はいつもそうだ。
◆
ハイネル領は、美しい土地だった。
山の裾野に広がる緑の野。清流が走る渓谷。霧の中に沈む朝の森。冬でも枯れない泉。父はよく「この土地は生きている」と言っていた。それは本当のことで、ハイネル領の土は豊かだった。作物が実り、川に魚が泳ぎ、季節ごとに違う花が咲いた。
「リーゼ、こっちを見て」
母はいつも、湿地帯の端でしゃがんでいた。泥のついた手袋で、そっと花を指さした。
月下蒼。
夜明け前の冷気の中でだけ開く、青みがかった白い花。
花びらが六枚、星の形に広がって、薄明かりの中で光るように見えた。触れると指先に微かな冷たさが走る。嗅ぐと、夜の空気と同じ清冽な匂いがした。
「この花は、急いだら死んじゃうのよ」
母はそう言いながら、細心の注意を払って花を摘んだ。
「夜明けの前に摘んで、月の光の下で干して、低い火でゆっくりと成分を引き出す。急いだら成分が逃げてしまう。それどころか、まるで別の物質に変わってしまうこともある」
「どうして?」
「熱に弱い子なの、この花は。でも正しく扱えば——とても優しい薬になってくれる。待っていれば、ちゃんと応えてくれる子なのよ」
母の横顔が、朝の光の中で柔らかく見えた。
私は薬師になりたいと思った。それは母の言葉より先に、体がそう決めていたような気がする。薬草の扱い方を教わった。調合の手順を覚えた。何かの病で苦しんでいた村人に薬を渡して、翌日「楽になった」と言われる時の感覚を、私は好きだった。
父も、活躍していた頃は良い領主だった。租税の取り方が公平だと言われていた。豊作の年には収穫祭を大きく開いた。
幸せだった。
その言葉しか浮かばない。あの頃は。
◆
十二歳の春に、母は死んだ。
不治の病だった。名のある医師が来た。薬師仲間も来た。母自身も、自分の薬を試した。誰も、どうにもできなかった。
三ヶ月間、床の上で少しずつ小さくなっていった母は、春の初めの朝に静かに呼吸を止めた。
私は泣けなかった。ただ、母の手を握って、温度がなくなっていくのを感じていた。薬を作ることで誰かを救ってきたのに、一番救いたい人を救えなかった。その事実が、泣く代わりに胸の中に積もっていった。
(なんで治せないの。あんなに薬を知っていたのに)
その問いは、今でも答えが出ない。
父は、母がこの世を去ってから変わった。
最初はゆっくりと。それから、坂を転がるように。
事業を始め、失敗。別の事業に手を出した。また失敗した。知人の保証人になった。その知人が逃げ、借金が重なった。父はそれでも「ハイネルの名に恥じない生き方をする」と言い続けた。だがその言葉の内実は、どんどん空洞になっていった。
領地は縮んでいった。使用人が減った。家具が売られた。それでも父は、ヴェルデン伯爵家の夜会に出席するための礼服だけは手放さなかった。
ヴェルデン家と婚約が決まったのは、私が十六になった年だった。
「ヴェルデンの若様が、お前に目をかけてくださっている」と父は言った。久しぶりに見る、生気のある顔だった。
「ハイネル領の薬草と、お前の薬師としての技量。それを活かせる場所だ」
婚約の条件は、ハイネル領の借金の肩代わりだった。
(……利用されている)
でも父の顔を見れば、言えなかった。それに、ハイネル領を守るためには選択肢がなかった。オスカー様は悪い人ではなかった——少なくとも最初の頃は、そう信じようとしていた。
はやり病が流行したのは、婚約してから半年後だった。
王都から始まり、街道を伝って広がった。最初は遠い話だったのが、数ヶ月で隣領まで来た。死者が出た。怯えた民が増えた。
父が倒れたのは、病が隣領に達してから間もなくのことだった。
「大丈夫だ、リーゼ。少し寝れば治る」
でも治らなかった。熱が下がらず、食事が通らなくなった。体が、見る間に細くなっていった。
私は薬を作り続けた。眠れなかった。月下蒼の性質を一から見直し、他の薬草との組み合わせを変えた。抽出の温度を下げた。乾燥の時間を延ばした。試して、試して、試し続けた。
(間に合わせる。必ず間に合わせる)
父の容態が急変した夜、私は作業場にいた。あと一つ配合の比率を変えれば——という段階まで来ていた。
翌朝、父は逝った。
私はしばらく作業場に座っていた。使用人が呼びに来た声が聞こえた。立ち上がれなかった。
(間に合わなかった)
二ヶ月後、薬は完成した。
試験用の薬瓶を手に持って、私はずっとそこに立っていた。
完成した、という実感より先に、遅かったという感覚だけがあった。父は間に合わなかった。母も。自分でどれだけ薬を学んでも、一番救いたかった人を救えなかった。
この薬を、どうするか。
オスカー様に直接渡すことを考えた。でも——没落寸前のハイネル子爵家の娘が、今更何かをしたところで。オスカー様の顔に泥を塗るかもしれない。名もない薬師が急に大きな顔をすれば、ヴェルデン家の沽券に関わる。
だから匿名にした。
木箱に詰めて、百本。ヴェルデン領の医師団の宛名だけ書いて、届けた。
医師団がその場で鑑定したと、後で聞いた。「真に、はやり病に効く」と証明された。実際に投与して、完治した患者が続出した——とも。
よかった、と思った。本当に、それだけだった。
◆
馬車が揺れた。石畳の継ぎ目を越えた音だった。
(あの薬を、直接オスカー様に渡していれば……)
でも。
(前からオスカー様とカミラ様が親しかったのは、私でもわかっていた)
二人が談話していた夜会の夜。カミラ様の笑顔を見るオスカー様の目。それは、私を見る目とは違っていた。最初からそうだった。
(時間の問題だったのかもしれない……結果は変わらなかったのかも)
窓の外に、見慣れた山の稜線が見えてきた。夜明けが近かった。山の端が、うっすらと金色に染まり始めていた。
あれが、ハイネル領だ。
私の帰る場所。
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第三章 偽りの薬師
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「……上手くいっている」
カミラ・ベルモントは鏡に向かって、小さく呟いた。
映っているのは、美しい顔だった。柔らかな巻き髪、蜂蜜色の目、血色の良い頬。今夜の夜会で称えられた、ヴェルデン家の新しい婚約者。その顔が、鏡の向こうで微笑み返してきた。
「上手くいっている」
もう一度、繰り返した。
寝室のランプが揺れた。窓の外で風が木の葉を鳴らした。
カミラは鏡から目を逸らして、机の上の薬瓶を見た。
小さな瓶。半分ほど残っている液体。薄く青みがかった色。触れた瓶の感触は、自分が作ったどの薬とも違う、なめらかで不思議な冷たさがあった。
数ヶ月前のことを、思い出した。
カミラも薬師である。
王都のギルドで十年学んだ。基礎的な薬ならどれでも作れる。熱冷まし、痛み止め、傷薬。それがカミラの誇りだった。
しかし——はやり病は、違った。
一般的な薬草では歯が立たなかった。症状を緩和するだけで、根本には届かなかった。患者の数が増えていくのを横目に、カミラは実験を重ねた。でも答えが見えなかった。
そんな時、オスカーとの定例の茶会で——
「謎の薬師が現れた」とオスカーが言った。
「匿名で、百本の薬が医師団に届いた。鑑定したら本物で、投与したら患者が次々と回復したとのことだ」
カミラは、茶のカップを持つ手が止まった。
(王都の最高薬師が、気まぐれで寄越したのかしら)
あの人たちなら、そういう気まぐれをしないでもない。
でも次の瞬間——別のことが頭に浮かんだ。
(もしも私が、あれを作ったことにすれば)
オスカーが話し続けていた。
「完治した患者が出た。これは本物だ。カミラ嬢、心当たりはないか?」
カミラは少しだけ考えて——笑顔を作った。
「……もしかしたら、私の使用人が先走ってしまったのかもしれないわ」
「使用人? どういうことだ」
「まだ未完成のつもりだったのに。でも鑑定で効くことが証明されて、よかったわ。あとは量産の方法さえ確立すれば——」
オスカーは目を輝かせた。
「やはりそうか! さすがだ、ベルモット嬢! お前があれを作ったのだな」
(王都の最高薬師から……という線も捨てきれないけれど)
カミラの中で、その推測は静かに押しつぶされた。今は必要ない。今はオスカーの笑顔が必要だった。
「お役に立てて光栄ですわ」
「本物か確認したいので、実物を見せていただけますか?」
「もちろんだ」
オスカーが机の引き出しから、あの薬瓶を取り出した。カミラは受け取った。そのまま、返さなかった。
「なくなって困っておりましたの。最終調整のために、こちらはいただきますわ」
「ああ。元からそれはお前のだ。かまわない」
「……ありがとうございます」
カミラは帰りの馬車の中で、瓶を光に透かした。薄い青。不思議な色だった。
(これを解析すれば、同じものが作れる。そうすれば、嘘ではなくなる)
それが、カミラの計算だった。
◆
——しかし。
解析は、いまだにうまくいかなかった。
主成分らしき物質は特定できた。だが、どうやって抽出しても、質が落ちた。どうやっても、あの薄青い色にならなかった。
手元にある三十パーセントの出来の薬が、今のカミラの限界だった。
「……でも」
カミラは鏡に向かった。その顔は、まだ自信に満ちていた。
「私なら、必ずできる」
薬瓶を棚に戻した。明日も研究を続ける。答えは必ずある。
カミラ・ベルモットは本物の薬師だ。あの不思議な薬の製法など、いずれ必ず見つけ出す。
そう思いながら、ランプを消した。
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第四章 帰還と覚悟
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馬車がハイネル領の境を越えた時、私は目を開けた。
見慣れた山。清流の音。夜明けの光が山の端から差してきて、霧の中の木々を金色に染めていた。
胸の底で、何かが緩んだ。
帰ってきた、と思った。
みじめさとか悔しさとか、そういうものを押しつぶすように——ただ、帰ってきた、という感覚だけがあった。
屋敷の前に、人が集まっていた。
老いた執事のウォルトが先頭に立って、その後ろに使用人たちが並んでいた。それだけではなかった。近くの村の人たちも来ていた。子どもが母親に手を引かれて立っている。老人たちが腰を折って頭を下げている。
「リーゼ様、よくお戻りで」
ウォルトの目が、少し赤かった。
「……ただいま戻りました」
「婚約のこと、噂で聞きました」と村の女性が言った。
「大変な思いをされたでしょう」
「いいえ……」
「ここはリーゼ様のお帰りを、皆が待っておりました。どうか、これからはここにいてください」
言葉が、胸に刺さった。痛くて、でも温かかった。
(ここに、戻ってきたんだ)
私は頭を下げた。
「みんな、ありがとう」
屋敷に入って、ウォルトから現状の報告を受けた。
ハイネル領の状況は、思っていたより悪かった。
母の死後、父が財政を傷つけた。婚約後はヴェルデン家の支援で何とか持ちこたえていたが、その支援は今日で終わった。領内の人口は減り、耕地の三分の一が荒れていた。補修が必要な水路が複数ある。収穫量は五年前の六割以下。
実質的に、男爵家にも劣る状況だった。子爵という名前だけが残って、中身は空洞に近かった。
「……それに」ウォルトが声を落とした。
「はやり病も、少しずつ近づいております。今のところ領内での患者もでており——」
「わかった」
私は、作業着に着替えた。
(私がしっかりしなければ)
誰かを頼れない。オスカー様の支援はもうない。両親はいない。ここにあるのは、ハイネル領の民と土、月下蒼、そして私の手だけだ。
「ウォルト」
「はい」
「明日から、薬の生産を始めます。材料の確保を手伝ってほしい」
「薬、ですか」
「はやり病が広がっています。月下蒼があれば、十分な量が作れます。まず領内の全員に治療薬を。それから予防薬も作ります」
ウォルトが目を丸くした。
「……そのようなことが」
「できます。ただ、急げない薬なので、時間をください」
翌朝、夜明け前に起きた。
まだ星が残る空の下、湿地帯へ向かった。足元が濡れた。冷気が頬を刺した。月下蒼が、薄明かりの中で静かに開いていた。
(待っていれば、応えてくれる)
母の言葉を思いながら、丁寧に摘んだ。急がなかった。花に触れる指先に、冷たい感触が走った。
その日から、私は毎日夜明け前に起きた。月下蒼を摘んで、月光の下で干した。三日待って、低温でゆっくりと成分を引き出した。
薬が完成するたびに、村を回った。
「倒れたら飲んで。予防のためには、こちらを毎朝水に溶かして一杯」
村の女性が、薬瓶を両手で受け取った。
「リーゼ様が作ってくれた薬なら、安心できます」
子どもが薬瓶を覗き込んだ。
「きれいな色。お星様みたい」
老人が頭を下げた。
「お母様の頃から、ハイネルの薬には助けていただいて」
一人一人に手渡した。名前を呼んで、顔を見て。
三週間後、ハイネル領の患者数はゼロになった。
予防薬を配布してからは、誰も新たに倒れなくなった。
外では流行り病が猛威を振るっているというのに、ハイネル領の民は誰一人、病床に臥せなかった。
「安心して仕事ができます」と農夫が言った。
「調子が、少しずつ戻ってきている気がする」と若い男が言った。
小さかった。でも確かな変化だった。
私は作業場で、次の薬瓶を並べながら、窓の外の景色を見た。夕暮れの光が山を赤く染めていた。子どもたちが走り回っていた。笑い声が聞こえた。
(……私でもやれる)
初めて、そう思えた気がした。
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第五章 レナードの決断
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スタンレイ子爵邸の執務室に、報告書が積み上がっていた。
レナード・スタンレイは、それを一枚ずつめくりながら、眉間に力を込めていた。
「今週の患者数は」
「百三十七名です。先週より二十名増加しております」
「死者は」
部下が一瞬、口籠もった。「……十二名です」
レナードは書類を置いた。
スタンレイ子爵家は、子爵の中でも上位に位置する家だった。領地は広く、港を持ち交易も盛んで、騎士団の練度も高い。伯爵への昇格も時間の問題だと周囲から言われ続けてきた。
しかし、はやり病には勝てなかった。
「ヴェルデン家の薬師の薬は届いているか」
「はい。しかし……効きが悪うございます。回復するものもおりますが、完治には程遠く。最初は完治できたと聞いたのですが、今出回っているものは別物のようで」
「王都から薬師は呼べないのか」
「交渉を続けておりますが、費用が非常に高額とのことで……」
「そうか」
レナードは立ち上がって、窓の外を見た。
街が見えた。石畳の道。市場の屋根。人が行き交う姿。しかしよく見れば、歩く人の数が少ない。表情が沈んでいる。子どもの声がほとんど聞こえない。
(まずい。このままでは)
「最近、変わったことはないか」
「……実は」部下が少し考えた。
「商人から話を聞いたのですが」
「何だ」
「近隣のハイネル領では、はやり病の患者数がゼロとのことです。死者も一人も出ていないと」
レナードが振り返った。
「ゼロ?」
「はい。商人が荷を運んだついでに確認してきたもので、確かな情報かどうかはわかりかねますが——」
「行く」
「……え?」
「ハイネル領に、行くぞ」
部下が慌てた。
「お待ちください。確認もできておりませんし、ハイネル子爵家は今、色々と——」
「だからこそ、直接行く」レナードは上着を手に取った。
「聞いた話が本当かどうかは、自分の目で確かめなければわからない。それだけだ」
馬を走らせると、数時間でハイネル領の境に着いた。
入った瞬間、何かが違うと感じた。
人が、いた。
小さな村ではあったが、市場に人が出ていた。屋台が開いていた。子どもが走り回っていた。老人が日向の椅子で居眠りをしていた。
スタンレイ領では、考えられない光景だった。病が広まってから、人は外にあまり出なくなった。子どもは家に閉じ込められた。笑い声が消えた。
ここには、それがなかった。
「すみません」
レナードは馬から下りて、水を汲んでいた老婦人に声をかけた。
「この辺りでは、はやり病にかかった方は、いますか」
老婦人は少し驚いた顔をした後、首を横に振った。
「いないわよ。リーゼ様が薬を作ってくれてから、一人も出ていない」
「リーゼ様?」
「領主のお嬢様よ。薬師でね、朝早くから花を摘んで、毎日薬を作ってくださっているの。おかげで誰も怖くないわ。本当に助かっている」
「……その方に、お会いすることはできますか」
「屋敷に行けばいつでもいるわよ」
レナードは礼を言って、屋敷へ向かった。
歩きながら、ここで感じる空気を整理しようとした。建物の古さも、領地の狭さも、衰退の痕跡は随所にある。でも——活気がある。人の顔が明るい。苦しい中でも、前を向いている空気があった。
(なぜ、ここだけが)
答えを、屋敷で聞くことにした。
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第六章 出会い
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屋敷の扉を叩くと、年老いた執事が出てきた。
「スタンレイ子爵家の、レナード・スタンレイと申します。領主の方にお話があってまいりました」
執事が目を瞬いて、「少々お待ちを」と言って引き込んだ。
待つ間、私は廊下の奥から足音がするのを聞いた。
作業着を着た女性が、小走りで来た。エプロンで手を拭きながら、白衣の袖を少し下ろした。薬草の香りがした。薄い灰色の目が、まっすぐにこちらを見た。
「ハイネル子爵家の、リーゼと申します。突然のお越し、恐縮です」
「いいえ。私の方こそ、前触れもなく申し訳ない」
その目を見た。値踏みする目ではなかった。何かを読もうとする、真剣な目だった。
「率直にお聞きしてもよいですか」私が先に言った。
「ヴェルデン領では、はやり病の特効薬が出回っていると聞いています。スタンレイ領は、いかがでしょうか」
「薬は出回っておりますが、効き目が弱く……今は、ヴェルデン領も、深刻な状況と聞いております」
レナードが続けて言った。
「最初に出回った薬は確かに効いたらしいのですが、次に出た薬は役に立っておらず、今は患者数が増え続けています」
(最初は効いた……次は効かなかった)
頭の中で、何かが引っかかった。
「……カミラ様の薬で、ということですか」
「そうです、薬師カミラ様。今は王都の薬師も匙を投げかけていると聞きます。非常に高額な上、効果も確かでないと」
「最初の薬だけ、効いた」
「ええ」
(最初の薬……完治した患者……私が届けた百本……)
ゆっくりと、点と点が繋がっていくような感覚があった。私が匿名で届けた薬を使って患者が完治した。その後にカミラ様が「同じ薬」として提供したものは、効かなかった。
(もしかして……)
声に出さなかった。ただ、胸の中で静かに答えが落ちた。
「スタンレイ子爵様」
「はい」
「私は、はやり病に効く薬を作ることができます。月下蒼という、この領地にしか自生しない花を使います」
レナード様が、目を見開いた。
「……誠ですか」
「はい。製法は複雑で時間もかかりますが、材料さえあれば量産も可能です。今まで自領内だけに優先しておりましたが——領地を越えて助けが必要な方がいるなら、動かなければと思っています」
「分けていただけますか」
「対価として、うちの領地の水路整備を手伝っていただけますか。老朽化が進んでいて、人手が足りないのです」
「もちろんです。人も資金も出します。ほかに必要なものがあれば、何でも言ってください」
「では、一緒にスタンレイ領へ向かわせてください。現地の状況を自分の目で見たい」
レナード様が、少し驚いた顔をした。それから、口の端が上がった。
「……私と同じ考え方ですね」
レナードが小さく呟いた。
「では、早速出発しましょう」
握手を求めると、レナード様が迷わず手を伸ばしてきた。しっかりとした握り方だった。
(オスカー様は、握手を求めてきたことがなかった)
なぜかその時、そんなことを思った。
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第七章 回復
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スタンレイ領は、思っていたより大きかった。
馬車の窓から見える街は、石造りの建物が連なり、港も近く貿易船の帆が遠くに見えた。石畳は整備されていて、噴水のある広場もあり、人も大勢見える。
「賑やかな街ですね」と私は言った。
「はやり病さえなければ、もっと」レナード様が言った。その声が、少し悔しそうだった。
「もっと活気がある街なんです。本当は。皆、働き者で、笑顔の多い人たちで。それが今は——」
「取り戻しましょう」
レナード様が、こちらを向いた。
「……取り戻せますか」
「できます」と私は言った。
屋敷に着いて、持参した治療薬を納品した。
「完治薬は、材料の都合上、一度に大量に生産するのが難しいです」と説明した。
「ただ——予防薬でしたら、治療薬の何百倍という数を、同じ時間で作ることができます」
「予防薬?」
「はやり病に感染しにくくなる薬です。すでに罹患している方には効きませんが、今後新たに感染する方を出さないようにすることはできます。治療薬で今いる患者を助けながら、予防薬で新しい患者を出さない。両方を同時に進めれば——」
レナード様がすぐに言った。
「ぜひ、そちらもお願いしたい!」
「一週間いただけますか。その間、街の人を勇気づけてあげてください」
「勇気?」
「はい。薬が来ると伝えてください。来週には全員に配れます、と」
レナード様がうなずいた。
「わかりました」
スタンレイ領の屋敷を借りて、作業を始めた。
ハイネル領から持参した月下蒼の在庫を使った。夜明け前から起きた。乾燥は時間をかけた。抽出は低温で三日間。急がなかった。月下蒼は、急いだら死ぬ。
一週間後の朝、薬が完成した。
レナード様と一緒に、街を回った。
市場の広場に住民を集めて、一人一人に手渡した。
「毎朝一杯、水に溶かして飲んでください。これで、はやり病にはかかりにくくなります」
最初は半信半疑な顔をしていた人たちも、レナード様が「この薬師を信じてください。この方のいる領地では、誰も病で倒れていない」と言うと、素直に受け取り始めた。
一週間後。
新たな感染者がゼロになった。
既存の患者は治療薬で快方に向かっていた。街に人が出始めた。市場が開いた。子どもの声が戻ってきた。
レナード様が、私に言った。
「……本当に、ありがとうございます」
「お役に立ててよかった」
「あなたは、自身のハイネル領でも同じことを、一人でやったんですね」
「……村の人たちも手伝ってくれました」
「一人で始めたのは、あなただ」
レナード様の目が、真剣だった。値踏みでも気遣いでもなく、ただ——見ている、という目だった。
私は目を逸らした。
こういう目で見られることに、慣れていなかった。
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第八章 崩壊
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ヴェルデン伯爵家の執務室に、怒声が響いた。
「話にならん!」
オスカー・ヴェルデンは机を叩いた。
「三ヶ月だぞ! 三ヶ月、研究費を注ぎ込んで、お前が出してきたのはこれか!」
机の上の薬瓶を指さした。カミラはそれを見なかった。うつむいて、膝の上で手を握りしめていた。
「最初の薬は完璧だった。患者を完治させた。ヴェルデン家の名が上がった。なのにそれ以来、お前の薬は役に立たない。虚偽だと周囲から言われ、貿易先が減り、信用が失墜した。どれだけの損害だと思っているんだ!」
「……申し訳ありません」
「謝罪では金は払えん。いつになれば最初の薬と同じものが作れる」
「それは……」カミラは唇を噛んだ。
「……難解で、なかなか同じ質を——」
「何度も聞いた」オスカーは遮った。
「理由ではなく、いつできるかを聞いている」
沈黙があった。
燭台の炎が揺れた。カミラは顔を上げた。その目が赤かった。
「……実は」
「何だ」
「最初の薬は」
「何だと言っている」
「……私が作ったものでは、ないんです」
オスカーの動きが止まった。
「……医師団の倉庫に、匿名で届いた薬があって。私は……それを、自分が作ったと——」
声が途切れた。カミラは、もう一度息を吸って、続けた。
「どうしても研究がうまくいかなくて。オスカー様が私を信じてくださって、その期待に——」
「カミラ」
オスカーの声が、低くなった。怒鳴らなかった。それがかえって、重かった。
「どれだけ時間と研究費に投じたと思っている」
「……はい」
「婚約まで結んだ。それが全部、嘘の上に積み上げたものだったということか」
「オスカー様——」
「では」オスカーは立ち上がった。
「あの最初の薬は、誰が作った」
カミラは視線を落とした。
「……王都の、最高薬師様が気まぐれで届けてくれたのでは、と思っておりまして」
「馬鹿を言うな」
オスカーは即座に否定した。
「王都の薬師が我が領地に来れば、必ず私の耳に入る。そんなことがあるはずがない」
「では……私にも、わからなくて——」
「我が領地に」オスカーは独り言のように言いながら、窓の外を見た。
「カミラ以上の薬師が……匿名で……はやり病に特効の……」
何かが、頭の中で繋がった。
「……リーゼ」
カミラが、顔を上げた。
「え?」
「リーゼ・ハイネル」オスカーはゆっくりと言った。
「あの女も優秀な薬師だった。匿名にしたのは——」
言葉が、止まった。
(没落したハイネルの娘が、私の顔に泥を塗らないように考えたのかもしれない)
自分でも、その先を言いたくなかった。
「……我が元婚約者だったリーゼが、我が領地を救っていたということか」
カミラが立ち上がった。
「……あのリーゼが?」
声の中に、純粋な驚愕があった。
「あの、地味な——あのリーゼが、あんな薬を作ったというの? あの没落した子爵家の娘が?」
「カミラ」オスカーの声に、静かな怒りが滲んだ。
その時、扉を叩く音がした。
「入れ」
部下が入ってきた。
「報告があります。スタンレイ領で、はやり病の患者数が急減しているとのことで。先週より六割以上の減少です」
「……スタンレイ領?」
「はい。近隣の商人から聞いた話では、ハイネル領の薬師がスタンレイ領に赴き、予防薬を配布したと——」
部下の言葉が終わる前に、オスカーは静かに言った。
「リーゼだ」
確信だった。スタンレイ領はハイネル領の近隣にある。ハイネル領の薬師はリーゼ以外にいない。
カミラは、立ったまま固まっていた。
(あのリーゼが……あのリーゼが……)
ずっと婚約者として隣にいた、地味で目立たない薬師。自分が見下していたあの女が——自分では何時間かけても再現できなかった薬を、作っていた。匿名でヴェルデン領を救い、今度はスタンレイ領まで救いに行っている。
「……リーゼに、会いに行く」
オスカーが上着を手に取った。
カミラは、その背中を見ていた。
何かが、崩れていく音がした気がした。
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第九章 芽生え
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スタンレイ領の復興は、思ったよりも早く進んだ。
予防薬の効果が出てから二週間で、市場に人が戻った。一ヶ月で子どもたちが広場で走り回るようになった。港の交易船も、少しずつ動き始めた。
私はその間、ハイネル領とスタンレイ領を行き来していた。薬を作り、届ける。その繰り返しだった。
その度に、レナード様と話す機会があった。
最初は薬の話だけだった。製法の説明、配布の方法、患者の経過。でも——会う度に、少しずつ、違う話になっていった。
「リーゼ様は、どうして薬師になろうと思ったんですか」
ある日の夕方、屋敷の庭で月下蒼の乾燥具合を確認していると、レナード様がそう聞いた。
「……母が薬師でしたから」
「お母様の影響で」
「月下蒼を教えてくれたのも、母です。この花の扱い方を、ずっと隣で見ていて——気がついたら、自分でも作っていました」
「お母様は、今は」
「……十二歳の時に、亡くなりました」
レナード様は黙った。急かさなかった。
「不治の病で。母自身も、名医も、誰も治せなかった。父もその後、はやり病で。薬を完成させた時には、もう間に合いませんでした」
「……それは」
「婚約は——ヴェルデン家への借金の肩代わりと引き換えの政略でした。最初から、そういうものでした」
言葉が、思ったより淡々と出てきた。何度も振り返ったことだったから、泣くより先に言葉が出るようになっていた。
「リーゼ様」
「はい」
「ずっと一人で、背負ってきたんですね」
「……いいえ。村の人たちが——」
「そういう意味ではなく」レナード様は静かに言った。
「誰かに頼ることなく、一人で判断して、一人で動いてきた。そういう意味です」
私は返事ができなかった。
「……実は」とレナード様が続けた。
「うちの領地に、昔の記録があって」
「記録?」
「二十年ほど前、ハイネル領の薬師がスタンレイ領を訪れたという記録です。病が流行った年に、匿名で薬を置いていったと。そのおかげで多くの人が救われたと残っています」
私は顔を上げた。
「……二十年前」
「ちょうど、お母様の時代かと思いまして。もしかしたら——」
胸の奥で、何かが静かに震えた。
母は、どこへでも薬を届けに行くと言っていた。必要な人がいる場所なら。名前も残さず、礼も受け取らず。
(お母さん……ここにも来ていたんだ)
「……そうかもしれません」
声が、少し滲んだ。急いで手元の月下蒼に目を落とした。
「リーゼ様」
「……はい」
「一つ、お伝えしてもいいですか」レナード様の声が、少し変わった。
「今日は薬の話でも復興の話でもありません。個人として、聞いてほしいことがあります」
私は花から目を上げた。
レナード様が、こちらを向いていた。いつもの真剣な目だったが——少し、違った。緊張している、と初めて気づいた。あのレナード様が、緊張している。
「スタンレイ家は、経済力があります。騎士団もいる。でも、ハイネル領を一人で支えていくには、今の状況では限界が来ると思っています」
「……はい」
「そこで——と言えば、打算的に聞こえるかもしれません」レナード様は一度、目を伏せた。
「正直に言います。あなたの薬師としての才が欲しいというのは、事実です。スタンレイ領とハイネル領が一緒になれば、両方の強みが活きる。そういう打算が、あります」
「……」
「でも」
顔を上げた。目が、まっすぐだった。
「それだけじゃない。あなたと話すようになって、村の人たちのために夜明け前から動くあなたを見て、誰かに頼らずに決断するあなたを見て——私はあなたに対して、それ以上の気持ちを持っています」
私は何も言えなかった。
「……リーゼ様が嫌でなければ。私と婚約してほしいと思っています。あなたを必ず守り抜くと、誓います」
夕暮れの光が庭を染めていた。月下蒼が風に揺れた。
(オスカー様と、違う)
ただそれだけが、頭に浮かんだ。
オスカー様は一度も、私の意思を聞かなかった。婚約の時も。破棄の時も。私は条件の一つだった。
レナード様は、聞いた。
「……私も」私は、ゆっくりと言った。
「あなたと話すようになって、気づいたことがあります」
「何でしょうか」
「こんなに、誰かのことを信頼できるんだ、ということを」
レナード様が、少し驚いた顔をした。
「……それは、答えになりますか」
「……はい」
沈黙があった。それから、レナード様が笑った。
こちらがつられそうになるような笑顔だった。
私は目を逸らして、月下蒼の葉を確認するふりをした。頬が、少し熱かった。
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第十章 対峙
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オスカー様がハイネル領を訪れたのは、雪の気配が近づいてきた秋の終わりだった。
私は作業場にいた。
冬に向けた薬の備蓄を確認していた。月下蒼の乾燥が終わった分を瓶に詰めながら、一つ一つ棚に並べていた。
「リーゼ様」ウォルトが戸口に立った。
「お客様です」
「どなた」
「……ヴェルデン伯爵家の若様です」
手が、一瞬止まった。
それから、再び動かした。最後の一本を棚に収めて、エプロンを外して、作業場を出た。
オスカー様は、玄関の前に立っていた。
以前より、やつれていた。頬がこけて、目の下に影があった。それでも背筋は伸びていた。最後まで矜持を手放さない人だと、そう思った。
「……リーゼ」
「ヴェルデン様。遠いところを、ご苦労様です」
「礼を言いに来たわけではない」
「……では、ご用件は」
オスカー様が、一度息を吐いた。
「カミラが白状した。最初の薬は彼女が作ったものではなかったと。匿名で届いたものを、自分のものと偽ったと」
「そうですか」
「あの薬は——お前が作ったものだろう。お前がヴェルデン領の医師団に届けた」
私は答えなかった。
「……スタンレイ領も、お前が救った。そうだろう」
「スタンレイ子爵様とのお約束ですから」
オスカー様が、一歩前に出た。
「リーゼ、もう一度婚約しよう」
「……は?」
「カミラとの婚約は解消する。お前の力が必要だ。ヴェルデン領を救ってくれ。今度こそ、ちゃんとした形で——」
「ヴェルデン様」
私は、遮った。
「お聞きしてもいいですか」
「何だ」
「カミラ様が役に立たなくなったから、また私を呼んでいる、ということで——よろしいですか」
オスカー様が、少し顔を歪めた。
「まあ、そういうことにはなるな」
「あの時は、私がその立場でしたね」
静かに言った。声が、震えないように意識した。震えなかった。
「私が役に立たなくなったとお考えになって、カミラ様に変えた。今度はカミラ様が役に立たなくなったので、また私に戻る。使い物にならなければすぐに捨てるのですか、あなたは」
「……違う。それは——」
「私が薬を作ったと、その場でお伝えしなかったのは、私の失敗です」
私は続けた。
「でも——私の薬で私を切り捨てた方に、同じ薬を差し出す理由が、見当たらない」
「リーゼ——」
「それに、カミラ様も、優秀な薬師です」
オスカー様が、眉を動かした。
「特効薬は難解で、あの方が再現できなかったのは仕方ないことです。ただ、他の薬であればカミラ様は十分な腕をお持ちです。あの方をヴェルデン家から追い出してしまえば、他の病への対処が遅れます。それはヴェルデン領の民が損をすることになる。カミラ様の力を正しく使う方法を、お考えになった方がよい」
「……なぜ、お前がカミラの心配をする」
「心配をしているというより、事実を申し上げています。私情と、現実は別です」
オスカー様の顔に、何かが過ぎった。言葉が出てこないような、違う感情をどこかに押し込もうとしているような、そういう顔だった。
「リーゼ」やがて、オスカー様が言った。
「俺はお前に謝っている。今回の件は、俺にも非がある。それはわかっている。だから——もう一度だけ——」
「ヴェルデン様。もう借金も返済しておりますし、あなたとの関係は終わっています」
「それが何だ。やり直せば——」
「私には今、スタンレイ子爵様との婚約があります」
しばらく、沈黙があった。
「……婚約?」
「はい。正式にお受けしております」
オスカー様の表情が、ゆっくりと変わっていった。何かを塗りつぶすように、固くなっていった。
「……スタンレイか。あんな子爵風情に——お前の力は、ヴェルデン家でこそ——」
「ヴェルデン様……」
「お前はわかっていないんだ! スタンレイなんかより、ヴェルデン家の方が——」
「ヴェルデン様!」
少しだけ、強く言った。
「私の話を聞いていましたか。私はスタンレイ子爵様の婚約者です。あなたと婚約するつもりはありません」
「……なぜだ!」
「あなたは三年間、私を婚約者として扱ったことが一度もなかった。私の意見を聞いたことがなかった。私が貢献しても、見ていなかった。カミラ様の嘘を、私に一言の確認もなく信じた。そしてカミラ様が役に立たなくなった途端、また私を呼ぶ」
「……」
「あなたは私を、道具だと思っていた。違いますか」
オスカー様の口が、開いた。しかし言葉は出なかった。
私は一歩も動かなかった。
「薄情者に出す、処方箋はありません」
声は、穏やかだった。叫びでも怒りでもなかった。ただ事実を告げるような、静かな声だった。
「おかえりください」
オスカー様の顔が、歪んだ。
「——下手に出ていれば! いいから私の言う通りにしろ!」
「私の婚約者に」
声が、私の後ろから聞こえた。
振り返ると、レナード様が立っていた。馬から下りたばかりで、手袋を片方だけ外していた。いつ来たのか、わからなかった。でも、そこにいた。
「手を出されては困ります」
レナード様は、穏やかに言った。怒鳴らなかった。でも、揺るがなかった。
「ヴェルデン様。リーゼ様はすでに、お答えを出されています。それ以上は——」
「スタンレイ……!」
「帰っていただけますか」
オスカー様は、しばらくそこに立っていた。
私を見た。レナード様を見た。また私を見た。
何かが、その顔の中で崩れていくのが見えた。プライドとか、計算とか、そういうものが——静かに、音もなく崩れていくのが。
最後に、オスカー様は目を伏せた。
「……わかった」
それだけ言って、馬車に戻った。蹄の音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
私はその音が聞こえなくなるまで、その場に立っていた。
「……リーゼ様」
「はい」
「大丈夫でしたか」
「……はい」
少し間があった。
「……来てくれて、ありがとうございます」
「今日来る予定でしたから」レナード様が言った。
「水路の確認を兼ねて。ちょうど良かった」
「……そうですか」
「本当に大丈夫ですか」
私は少し、考えた。
「……少し、疲れました」
「そうですよね」
「でも」
夕暮れの光が、ハイネル領の山を染めていた。
「後悔は、していません」
それは、本当のことだった。
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第十一章 未来
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その冬が終わる頃、いくつかのことが決まった。
ヴェルデン伯爵家は、経済難と信用失墜の責任を問われ、子爵に降格した。民の一部が領地を離れ、税収が落ち込んだ。はやり病の対応の遅れも重なり、かつての伯爵家の面影は薄れていった。
スタンレイ子爵家は、翌春に伯爵家へ昇格することが決まった。はやり病への対応が模範として評価され、王都からも注目が集まった。「近隣の薬師令嬢との連携が功を奏した」と記録に残された。
ハイネル領は、ゆっくりと変わり始めた。
スタンレイ家から人手が来て、水路が直った。荒れていた耕地に、また人の手が入った。収穫量が少しずつ増えた。新しい家が建ち始めた。村に笑い声が戻ってきた。
「リーゼ様、今年の月下蒼の出来はいかがですか」
作業場を覗いたウォルトが聞いた。
「例年より少し多いかもしれない」と私は答えた。
「水路が直ったおかげで、湿地帯の水量が安定したから。花も喜んでいると思う」
「それはよかった」ウォルトが、目を細めた。
「お母様もお喜びになっていると思いますよ」
私は手を止めなかった。でも、少しだけ笑った。
「……そうだといいけれど」
春の初め、ハイネル領とスタンレイ領を繋ぐ街道で、小さな式が行われた。
領地と領地の婚約を記念する式典は、本来もっと大きなものらしい。でもレナード様が「リーゼ様がここで大切にしてきたものを、まず祝いたい」と言って、村の人たちを招いた。
子どもたちが花を投げた。老人たちが拍手をした。ウォルトが目を赤くしていた。
レナード様が、私の隣に立った。
「リーゼ様」
「はい」
「これからも、よろしくお願いします」
「……こちらこそ」
その夕方、二人で湿地帯の端を歩いた。
月下蒼が、春の光の中で静かに揺れていた。花びらが六枚、星の形に広がって、橙色に染まりかけた空の下で白く見えた。
「急がなければ、ちゃんと応えてくれる——あなたが言っていた言葉、ずっと覚えていました」
「それは……お母様の言葉です」
「良い言葉だと思います。薬だけじゃなくて」
私は、花を見ながら少し考えた。
「……母がこの言葉を教えてくれた時、私は薬のことだと思っていました」
「今は」
「今は——」
月下蒼が、風に揺れた。
「薬だけじゃないかもしれないと、思っています」
レナード様が、こちらを向いた。何か言おうとして、言わなかった。ただ、静かに笑った。
それでよかった。言葉にしなくても、わかる気がした。
急がなくていい。
でも——待っていれば、ちゃんと応えてくれる。
月下蒼も。きっと——人の縁も。
そう教えてくれたのは、この花だったのかもしれない。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「薄情者に処方箋はありません。薬師令嬢は、あなたを救わない」、いかがでしたか?
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また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)




