知性の第一条件
最近私が大きなテーマだと思っている事柄ですね、『知性』について書こうと思います。
GoogleAI検索によると
>知性とは、得た知識を活用し、物事を論理的に考え、分析、判断、応用する総合的な能力です。単なる知識の量ではなく、思慮深さや洞察力、問題解決能力を指し、後天的に磨かれる「よりよく生きるための思考のツール」
皆さんこんにちは、ふりがなです。
考える『能力』がないから、結論に辿り着かないのだ。
物事を少しだけでも複合的に考えると、多くの人は共感し合えなくなる。
根拠の重ね合い故に、根拠部分の再定義と共有が必要不可欠なのだ。
かつての私は『知性』に必要な能力についての大きな要素を、『思考能力』にあると考えていました。
所がですね、そもそも、考えるという事自体そのものにニーズを感じていない人々がネットには多くいます。
要するに、自身の意見に思考部分は殆どなくて、自身の意見が完全な追従型の行動様式となっている人々の事です。
偉い人の言うことが正しいんだ。
周りの人に合わせるんだ。
権威ある書籍にはこう書いてあった。
その裏には、こんなバイアスが潜んでいます。
だから、自身の意見は存在してはいけないんだ。
自身で考える必要はないんだ。
私が何故自身で思考しないのかなと、そういう人たちと触れ合うと、どうもその中には、きちんとした思考力能力を持っている人も居る。
そして、結論から言えば、自身の意見を追従型の行動様式に決めてしまっている人々は、自身は思考したくないだけなのだという事に私は気付きます。
何故、能力はあるのに、自身で思考しないのか。
何故、自身の意見を、他人の意見でしかない、追従型の行動様式として決め打ってしまうのか。
私はその類いの疑問から『知性』の定義の必須条件に、『自己確立』が大きく関わっている事に気付きます。
仮に思考能力の弱い人でも、『自己確立』が成されていれば、『自身』が正しいんだと断言出来ます。
もっとも、この場合、正しい自己確立の中で、思考能力が弱点と理解していれば、正確に出るのは、考えた上で出した自身の意見はこうであるといった物になるでしょう。
重要なのは、どんなに思考能力に優れていても、『自己確立』に失敗した人間は、物事に自身で判別をつけるニーズを持ちえないという物です。
知性は『自己確立』を前提に、発生する物なのです。
我思う故に我あり。
我の確立が大前提になりますよという事です。
これらは昔から言われている事なのかもしれません。
『自己確立』を前提にすると、例えば、前述のAI検索の『知性』の結果には、欠けている所があるという事になります。
それは、知性の最も重要な要素部分には『自己確立』がある。
何故なら、多くの人にとっては『自己確立』によって、初めて自身で物事を判別のニーズが発生するからだ、という記述が抜けている事になります。
『知性』を身に着けている人物からすれば自明のハズですが、現代では、AI検索に反論するだなんてと反発する人や、そもそも物事を判別する価値を持たない思考にニーズを持たない人も多いのではないでしょうか。
または、AI検索の記述する総合的な能力の中に『自己確立』は入っている(かもしれないのだ)から、このままで問題ない、とする人もいるかも知れません。
しかし、記述が何処にもなく、かつ、最も大きな要素の場合には、記述内には無いと考える方が思考的には『普通』です。
何故ならAI検索の表記には、断定した時に間違っていたリスクを避けるための、遊びが最初からあるからです。
私は物事の自明部分に反発する意見に対して、今までは『思考能力』的に問題を抱えている人物なのだと判断していた訳です。
しかし、今では、その殆どが『思考能力』ではなく、『自己確立』に問題を抱えているパターンなのだと気付きました。
『知性』の話で言えば、AI検索が正しいのだというバイアスが優先される理由には、自身で考えたくない自己確立の失敗からくる依存性が垣間見えます。
ぶっちゃけた所、書けば『簡単』に済む話である所に、『無駄』な理屈を持ち込む必要がある時点で、自身に変なバイアスがかかっていると理解出来なければ、自身が思考しているとは言えません。
上記を構造に落とし込むと、自己確立の失敗からAI検索に依存したいというニーズによって新たに生まれた理屈に対して、自身で思考したら『普遍』はこうなりますよというニーズの対立になります。
両者の意見の対立は、ニーズが発生した時点のズレであり、両者には正常な思考能力があるという事になりますから、AI検索が正しいバイアスは、まさしく自身を喪失し、自信を失ったことによる依存からしか発生しないニーズという事になります。
この構造における一番の問題は、自己を喪失し、他者への思考依存から追従型の動作をしている人が、仮に、あなたが正しいと言われても、自己確立には繋がらないどころか、更に強い自己否定への確信に陥るといった構造です。
特にSNSでありがちな自身の思考と勘違いした追従型の動作は、自己確立に失敗した人にとっては強烈な成功体験であり、かつ強烈な失敗体験でもあるのです。
それらの繰り返しは、その人の本来持つ思考様式の強烈な破壊に繋がり、自己確立の機会を奪い、やがては権威主義パーソナリティとしての人格に繋がり、その人の人生を破壊します。
自己確立に失敗した人にとって、SNSは人生を破滅させる麻薬に等しいのです。
私はこのような数々の対立を観察して、『自己確立』なくして、人は『知性』を持ち得ないのだと確信しました。
ギリシャ哲学から派生した西欧の思考では、『思考』することは人間の必須条件です。
しかし、西欧哲学のいう考える事は『普通』であるといった意見は、実は異端なのかもしれません。
多くの偉人を生み出して来たであろう、自閉症スペクトラムの強い人間からすると、思考は日常の動作です。
一方で、多くの人にとって、思考はしんどく、日常の動作ではありません。
判別しなくてもいい物事を、わざわざ自身で判別し、判別した事柄を正しいと置く。
その判別には、自身を正しいと思える心の在り方が必要であり、自己確立が上手くいっていれば苦もなく出来る動作なのですが、一方で自身に自信のない人にとっては、判別という者は実際の所、苦痛の動作なのです。
結果、世の中の殆どの思考の表現には、思考能力の差はなく、自己確立の度合いしか現れないという事になります。
また他人の意見に正しく思考して賛同出来るかという、自信も自己確立が直結します。
例えばあなたは、ネットに書いてある、聞いた事もないような自身の判別が大きく必要な主張に、躊躇なくイイねを出来るでしょうか?
または疑念に思った事を聞く事が出来るでしょうか?
過剰な競争社会でもある現代社会では、自身の存在に疑念の確信を抱くに至る、自己確立に失敗する環境が多くあります。
受験、恋愛、交友、社会への適応。
これらの全ての競争が自己確立に繋がっていきます。
もし、あなたが競争に敗れ続けてしまったのなら。
自己確立の失敗の積み重ねは、自身への疑念を大きくしていき、思考においては、特に強く追従型の動作を強要します。
現代社会では、全ての人が凡人以下の、同じ顔に代わっていくのです。
その結果がSNSのフォロワー数で物事の正しさを競う現状なのではないでしょうか。
そういう私が最近考えているのが、イランへの攻撃で、これイスラエルくんが宗教でやってる終末論を達成させるために、アメリカと中国を全面戦争においやってね?
ガラガラガラ!←障子を開ける音
アメリカと中国は共倒れで滅亡する!
だったりする




