第1章 -夜に生まれた子-
ヨハネス・ヴァレリーはヴァレリー子爵家の唯一の息子だった。
5人の姉の下にやっと生まれた待望の男児は広大なエディンバラの土地と子爵の称号を未来に約束され、何不自由無く生活を送っていた。
母親は長く妊娠・出産を繰り返した事で体を壊し寝たきりだったが、幼いヨハネスは時間を見つけては母の元を訪れていた。しかしヨハネスがどんなに神に祈っても母親の体調は回復せず、ヨハネスが5歳の時にこの世を去った。
父親である子爵は息子が生まれたことに安堵し、全てを引き継ぐ準備をさっさと済ませた後は妻を失った寂しさを埋めるように遊びほうけていた。
姉達は全員遠い土地の貴族の家に嫁いでいき、ヨハネスは日々厳しい後継者教育を一人で受けていた。
父親との関わりはほとんどなかったが貴族として両親との関わりが多く無いのは珍しい事ではなく、彼の心の支えとなっていたのは乳母アンと同い年の乳兄弟 ヴィンセントだった。
ヨハネスはアンを本当の母親のように愛し、アンもまたヨハネスに実の息子ヴィンセントと同じ様に接した。
そんなヨハネスの人生が狂ったのは16歳のある日だった。
子爵に汚職の罪がかけられたのだ。罪を告発したのは子爵の腹心で、彼はアンの夫でもあった。
子爵という特権を利用して勝手に民の税を巻上げ、不正に個人的な利益を得ていたとして訴えられた子爵は一気に民の怒りを買った。一方でアンの夫は不正を暴いた英雄として人気と信頼を得た。投獄された子爵は全くの冤罪だと叫び続けたが仕事をほとんど腹心に任せて遊び呆けていた彼にそれを証明する力はなかった。
程なくして子爵は爵位剥奪となり、新しくアンの夫が爵位に就くこととなった。彼は爵位を手に入れるなり、投獄されている元子爵を斬首刑にした。
一瞬にして全てを失い、行き場の無くなったヨハネスは子爵夫人となったアンと爵位継承者になったヴィンセントに助けを求めたが帰ってきたのは冷たい笑いのみだった。
「全部お父様の計画だよ、ヨハネス。君の頭ならそれぐらいわかるだろ?」
親友だと思っていたヴィンセントの口から発せられたのは冷たすぎる言葉だった。
今や子爵となった男は長い間この瞬間を狙っていたのだ。自分に仕事の全てを任せ、遊び呆ける子爵を横目に勝手に税を上げ民の怒りが最高潮に達したところで汚職として子爵を訴える。そして妻のアンをヨハネスの母親の侍女にして、少しずつ体を弱らせる為に毒を盛り続けていたのだ。ヴィンセントと同時期にヨハネスが生まれ、アンが乳母になったのは予想外だったが、その事でより子爵からの信頼を得て行動の幅を広げられたと。それで計画が成功できたと。
なんて残酷な運命なのだろうか。多くの人に望まれて生まれてきたはずのヨハネスの存在が両親が命を落とす理由になってしまったのだ。
ヴィンセントが揚々と説明する目の前でヨハネスは乳母と親友に裏切られた絶望と悲しみ、憎しみ、この世に存在するすべての負の感情に押しつぶされていた。
膝から崩れるヨハネスにアンは乳母として最後のよしみで声をかけた。
「その無駄に綺麗な顔だったらいくらでもお金を稼ぐ方法はあるわ。ここを出て2度と戻らないで。どこか遠くで生きていって。ヨハネス・ヴァレリーは今日、死んだの。」
金貨が入った小袋をヨハネスに握らせると2人はヨハネスを彼の家だった城から追い出した。
これがヨハネス・ヴァレリーが経験した1度目の死である。
ヨハネスは身一つでロンドンにやってきた。
首都ロンドンはエディンバラより人口も多く栄えていると学んだため何かしらの仕事があるだろうと思ったからだ。
ロンドンまでの旅すがら、ヨハネスの薄汚れた服装には似合わない美しい金髪とルビーレッド色の瞳の稀に見ない端正な顔立ち、それに加え上流階級の洗練された言葉遣いや態度に数々の大人が行く宛が無いならうちで過ごさないかと声をかけてきたがヨハネスにのとっては全てが雑音だった。自分以外の人間は何を考えているかわからない、もう誰も信じることは出来なかった。
ロンドンでヨハネスが就いた仕事は町外れの娼館の受付だった。誰も自分の生い立ちに興味が無く、客も男のヨハネスには目も向けない。たまに男色の客にいやらしい視線を向けられたりすることはあったが成長期で背が伸び、ほとんどの客より目線が上になると声をかけられることもなくなった。娼婦達は日々客を取りながら見目麗しい青年になったヨハネスに様々なものを貢いでいた。客から貰ったという高級菓子から布、アクセサリーまで客から娼婦への贈り物はほとんどヨハネスに回ってきた。
ヨハネスも娼婦に読み書きを教えたりと、お互い深くは探らない上っ面だけの関係で済む娼館に数年ですっかり馴染んでいた。
ヨハネスが23歳の時、娼館に新しい娼婦が入ってきた。
頭脳明晰でもあったヨハネスは幼少期から学んだ経営学を活かし、娼館の経営を担うようになっていた。
その新しく入ったイザベラという名の娼婦は、栗毛色のウェーブがかった髪の毛と日光を心地よく通している色素の薄い長いまつ毛、エメラルドのような大きな深緑色の瞳を持っていた。そのどこか儚さも持つ美しい顔はヨハネスに遠い記憶の中の母の面影を感じさせた。
他人に深い感情を持たなかったヨハネスも母に似たイザベラを自然に目で追うようになり次第に2人は恋仲へと発展していった。ヨハネスは恋人となったイザベラには客を取らせず酒を提供する仕事のみやらせていたが、それが他の娼婦の嫉妬を買いイザベラは娼館で孤立して行った。
しかしヨハネスはイザベラが他の娼婦に何か嫌がらせをされても、孤立していてもあまり気には止めていなかった。お互い求める時に隣にいるだけで満足していたし、命に関わることでは無かったからだ。しかし娼婦たちからの嫌がらせは日に日に過激さを増し、イザベラが娼館で表に出てくる回数もヨハネスと過ごす時間も減っていった。
そんな中、珍しくイザベラがヨハネスの元に自分からやってきた。
「やぁイザベラ、久しぶりだね」
久しぶりの彼女にヨハネスは声をかけるがイザベラは俯いたままだった。
「…どうしたんだい?何かあったのか?」
ヨハネスがイザベラの顔を覗き込むと彼女の目には涙が浮かんでいた。
「ごめんなさいヨハネス、わたしっ、私、妊娠しているみたい、」
涙を零しながらそう言った彼女にヨハネスは驚きと大きな呆れを感じた。まただ。もとから期待してはいなかったが、結局人は人を簡単に裏切るのだ。
確かにイザベラとは何度も枕を共にしたが、子を成さないようにしていた。
「誰の子だい?」
ヨハネスの冷静な問にイザベラはハッと顔をあげる。なぜヨハネスはこんなに冷静なのだろうかと戸惑うような表情と、申し訳なさから来ているだろう涙で彼女の顔はボロボロだった。
「っ、前にお店に来ていたお客さんで、、ここでは私の居場所なんてなかったけれど彼だけは私の気持ちを理解してくれたの、彼だけが、救いなのっ」
「私も君を愛していたつもりだけれど。私では足りなかったのかい?」
「だって、あなたは私がほかの女の子に嫌がらせされていても庇ってくれなかったじゃない、」
「命に関わることでは無かっただろう。何より行き場が無くここに来た君を、客も取らせずそばに置いていたじゃないか。」
ヨハネスにとって、自分に何の利益ももたらさない存在をそばに置いておく事が彼の愛だった。
「行き場ならもうあるわ!」
ヨハネスになかなか自分の気持ちを理解してもらえないイザベラは大粒の涙を流しながら声を荒らげた。
「結婚しようって言ってくれたもの!私は彼と、お腹の子と3人で生きていくの!もうここを出ていくわ!」
その時のヨハネスの心の中からは、すでにイザベラへの気持ちは消えていて、残っていたのは呆れだけだった。
「私は止めないよ。好きにしてくれ。君が出て行きたいなら出ていくが良い」
冷たく言い放ったヨハネスにイザベラは大きく目を見開いた。まだ愛している、行かないでくれと引き止めてくれることを期待していたのだろうか。彼女はヨハネスに目一杯の平手打ちを喰らわせると部屋から荷物をまとめた鞄を取り出して店を飛び出していった。
ため息とともに熱くなる片頬とは真逆に、静まり返った店内でヨハネスの心は冷え切っていた。
イザベラが店を出ていった数十秒後、外から女性の恐怖に満ちた悲鳴が聞こえてきた。
ロンドンのはずれの路地裏とはいえ、こんな夜更けに人が出歩いているのは珍しい。ましてや悲鳴など、何事かと思いヨハネスは適当に置いてあったナイフを握り店の外に出た。
その日 ヨハネスが目にした光景は信じ難いものだった。
街灯の影に首から大量の血を流し痙攣しながら倒れるイザベラの前には細く骨ばった手、鋭く光る黄色の目をこちらに向け凶器のように尖った口元の牙から血が滴る化け物が立っていた。
「おや、今夜は豊作だねぇ。美味しそうな血がたくさんだ」
恐怖で固まるヨハネスを見てその化け物はそう呟いた。
ヨハネスが後退りするのに合わせ1歩影から出たその怪物は、青白い肌が月の光に反射し、冷たい空気を纏わせながら全貌を表した。
尖った耳に牙、一見30代半ばの男性のようなのに、全く生気を感じない冷たい体。
「ヴァ、ヴァンパイア……!」
幼い頃、本で読んだことがある。大きな町には夜な夜な人間の血を吸い殺し、その血を糧に老いない体で永遠に生き続けている怪物がいると。
―「ヴァンパイア?そんなやつ本当にいるの?」
「えぇ、いるかもしれないわ。見て、ヨハネス。ヴァンパイアは銀が弱点らしいわね。もし襲われたら銀のナイフで刺せば怖くないわ。あなたならきっと大丈夫」―
いつしかの記憶、優しく微笑む母親のその言葉が脳裏をよぎった。
銀。ヨハネスは自身の左手に握られている果物用の小さなナイフに視線を落とした。銀だ。
ゆっくりと獲物を狙うように距離を縮めてくるヴァンパイアの後ろに横たわるイザベラはもう息をしていなかった。
逃げなければ。そう本能に駆り立てられ走り出そうとした瞬間、ヨハネスの視界は一瞬にして真っ黒になった。
恐ろしい速さで目の前にヴァンパイアが迫り、人間離れした力で首を掴んできたのだ。
「よく見たら稀に見ぬ可愛い顔をしているねぇ。このまま殺すのはもったいない気もするけれど。君、人間を辞めたくないかい?」
ヨハネスは自身の首を掴む手を必死に振りほどこうとするがビクともしなかった。
「お前のような醜い怪物になるくらいならっ、死んだ方がましだ!」
「おぉ、なんて気高い。永遠の命に目が眩んで自らヴァンパイアにして欲しいと頼んでくる人間だっているというのに。気に入ったよ、」
その言葉を聞き終わらないうちにヨハネスはありったけの力でナイフをヴァンパイアの胸に突き刺した。
不意をつかれたヴァンパイアは呻き声を上げよろけたが、決してヨハネスの首を掴む力は緩めなかった。
銀のナイフが突き刺さった部分からヴァンパイアの体はキラキラと輝き夜の闇に漂う灰になり始めた。
「銀のナイフを我が心臓に突き刺すとはっ、なんて生意気なっ、、。貴様も永遠という地獄に堕ちるが良い、道連れにしてやる」
その瞬間ヴァンパイアは朽ちゆく体で精一杯ヨハネスの首に噛み付いた。一瞬だった。
自分の首に伝う生暖かい液体の感覚と全身から一気に熱が消えていく感覚。鋭い牙が深く突き刺さっているはずなのに自然と痛みは感じなかった。
視界がぐらつき始めた時、ヨハネスはヴァンパイアの手から解放され地面に倒れ込んだ。
朦朧とした意識の中でヨハネスはもう既に体の半分以上が灰となって消えゆくヴァンパイアが自身の腕を噛み、流れる血を自分の口に近づけてくる瞬間を見た。
唇に落ちてきた氷のように冷たい液体の感覚を最後にヨハネスは意識を手放した。
これが、ヨハネス・ヴァレリーの2度目の死であった。
ヨハネスは夜明け前の薄暗い中再び瞼を開けた。経験したことの無い喉の乾きと共に。
何とか体を起こすと自分を襲ったヴァンパイアだったであろう灰の山ができていた。激しい頭痛と立ちくらみ、ありとあらゆる不調が一気に押し寄せヨハネスは自分の頭を抱えようとした。
その瞬間視線に入った自分の手に驚愕した。以前よりも骨ばった手は人間とは思えないほど青白かった。
まさか、まさか。ヨハネスは恐る恐る自分の耳を触り、口元をなぞって確認する。耳の先は尖り、口元には長くふたつの牙が伸びていた。
「うっ、」
ヨハネスは自分が怪物になってしまった憎悪感で強い吐き気を催したが視線の先にイザベラの遺体が写ったことで彼の感情は一変する。
空気に漂う血の匂い。ヨハネスはどうしようもなく血が飲みたかった。この飢えを満たせるなら何でも良かった。
我を忘れイザベラの元に近づく。
彼女の体は既に冷たく、顔には恐怖が張り付いたままだった。ゆっくりとしゃがみ彼女の首元に牙を突き立てようとしたが、もう暖かい血は流れていなかった。
求めているのはこれじゃない。動いている心臓から送り出される暖かい血しかヨハネスの乾きは潤せない、本能がそう語っていた。
ふらつきながら立つヨハネスの耳に、ふとたくさんの鼓動が聞こえてきた。鼓動は徐々に大きくなり、どこから聞こえているのか場所もわかるほどだった。
ヨハネスはごくりと喉を鳴らし、ゆっくりと見慣れた建物を見上げた。
血への欲求に支配されたヨハネスにその後の記憶はなかった。
その日、朝日が昇り人々が目覚める頃には既にロンドンのはずれの娼館は真っ赤に染まり、娼婦はみな息絶えていた。
人々は何事かと集まり、街の警備隊も駆けつけた。
娼婦達に共通するのは首に鋭い牙で噛まれた跡が残っているのみ。全員が鋭い速さで寝込みを襲われたのか、暴れ回った形跡はなかった。
警備隊は何か凶暴な野生動物に襲われた悲劇的な事件としたが、街の人々は信じなかった。
店中の金品と共に姿を消したヨハネスの存在を知っていたからだ。
ヨハネスにはロンドンで7年間で貯めた金に加え、娼婦達から貢がれた様々な金品が有り余っていたので小さな土地の地主ほどには贅沢ができるほど資産があった。
ロンドンから逃げるようにバーミンガムに移り、屋敷を買って身をひそめた。
日光に耐えられない体になり、生き血でしか飢えを満たせない、醜い怪物になってしまった事実を受け入れられず自暴自棄になっていたが、自分から死を選ぶことも出来なかった。なんて傲慢なのだろうか。そんな自分に飽きれもした。
人間以外の血で飢えを満たそうとしたが、おぞましい味でとても飲めたものではなかった。
ヨハネスは口の硬い使用人を数人雇い、昼間は日光が一切入らない様にすべての窓に重厚なカーテンをひいた屋敷に潜み夜は血を求めて外に出る生活になった。資産を利用し、商人として生計を立てた。むやみやたらに血を貪ることはせず、血に飢えると夜な夜なバーミンガムで開かれる舞踏会や夜会に伸ばした髪の毛で耳を隠して出席しては獲物を見つける。
吸血は最低限にとどめた。
美しい見た目と豊かな財力でヨハネスは貴族出身の謎多き美しい商人として社交界で名を馳せていった。
決して血を吸い殺した人間の遺体は残さず、自分が忌まわしき怪物"ヴァンパイア"であることを人々に悟られなかった。
時は流れ、ヨハネスは298歳になっていた。見た目は23歳の頃から一切変わっていなかった。しかし彼の人間時代を知るものはもう全員命を終えていたため誰も彼がエディンバラ出身で没落貴族のヨハネス・ヴァレリーだとは知らなかった。
老いないことを怪しまれないように社交界には世代が入れ替わる数十年間は姿を見せず、また新しい世代になったら煌びやかな生活を求めて数年間顔をだす、そんな生活をしていた。
終わりのない退屈な日々に嫌気がさしていた。
血を吸い殺してはまた眠る。老いることも出来ず人間から隠れる日々。ヨハネスは文字通り、地獄を生きていた。
ある人々が寝静まった深夜、血を探し夜道を歩いていたヨハネスは珍しく大きな屋敷の窓が開き、明かりが漏れていることに気付いた。
ヨハネスがこの街に来たここ200年で夜な夜な謎の失踪事件が起きることから人々の間では色々な噂が飛び交い、今や夜中に一人でいると恐ろしい魔物に連れ攫われるとして夜が更けてから一人で出歩くことはおろか、窓も閉められ戸締りもしっかりされていたからだ。
人間離れした身体能力を持つヴァンパイアは3階の窓など少し跳んだだけですぐ届いてしまう。
ヨハネスは物音ひとつ立てずに窓から部屋に入ると1人の妊婦が本を片手にうたたねしていた。
臨月かと思われる大きなお腹からは妊婦以外の鼓動も聞こえる。窓を閉めないとはなんと無防備な。
その時ヨハネスは最近夜会で聞いた噂を思い出した。街で有名な医者に田舎から嫁いできた美しい娘の話を。バーミンガムに来た時は既に妊娠中だったため人々は結婚と順番が逆だったのではと白い目を向けていたが、美しい彼女をさらに輝かせるアクセサリーや身に纏うドレスがいかに夫に愛されているかを物語っていた。
ヨハネスはなんの躊躇いもなく眠る彼女に近づいた。彼女の顔にヨハネスの影がかかった瞬間ゆっくひと目を開けた彼女は一瞬驚きで目を見開いたが、次の瞬間全てを悟った顔をした。
「恐れないのか。」
ヨハネスは尋ねた。
「これが私の運命なら受け入れます。ただ、ただひとつ願いを聞いていただけるのなら、お腹の子だけは助けてください」
全てを受け入れたような微笑みを見せる彼女の首にヨハネスは無言で牙を突き立てた。
徐々に彼女の体から力が抜けていき、ついにヨハネスの腕の中にばたりと倒れ込んだ。
彼女の全てを受け入れた顔が妙に頭に残る。きっと田舎に診察に来た医者に一目惚れされ自分の意思など関係なく無理やり娶られたのだろう。
美しい顔を持つ宿命はわかっているつもりだった。
普段から遺体は処理するのだが少しばかり芽生えた同情心に似た何かがヨハネスに違う行動を取らせた。ゆっくりと彼女を抱き上げ部屋の奥のベッドに横たわらせる。ヨハネスはふと彼女の大きく膨れた腹に目がいった。
いつの日か自分を裏切って出ていった女も妊娠したと言っていたな。ヨハネスは気まぐれに彼女の腹に耳を近づけると微かな鼓動が聞こえた。
「まさか」
ヨハネスは冷たくなった彼女の腹を切り裂き赤ん坊を取り出すと赤ん坊は微かに小さな産声を上げた。
微かに聞こえてくる鼓動、生きているはずなのに氷のように冷たい赤子の体、ヨハネスほどでは無いが少し先が尖った耳。
何よりゆっくりと瞼が開き、ヨハネスを見つめた紅の瞳が全てだった。
ヨハネスは赤子を腕に、乾いた笑いを漏らす。
「まさかヴァンパイアになっていようとは、、」
その瞬間ヨハネスの退屈な終わりなき地獄に一筋の光が差し込んだ。
「きっとお前も永遠の命を持つであろう。私の道連れだ。共に地獄を生きようではないか」
ヨハネスはシーツで赤ん坊を包むと階段を登ってくる足音を背中に静かにその屋敷を立ち去った。
翌朝その屋敷は悲劇に包まれた。血だらけで横たわる女性の腹は切り裂かれそこにいたはずの赤子は消えていた。
出張から戻った医者は正気を失ったように嘆き、この事件は人々の間で瞬く間に広まっていった。
バーミンガムのはずれの屋敷でヨハネスは赤子の生態に驚くべき発見をしていた。重厚なベルベットのカーテンから差し込む一筋の日光が体に降り注いでもこの赤子は何も反応しない。まるで人間のように。
ヴァンパイアなら皮膚が焼けるはず。
ヨハネスは赤子の存在をハーフヴァンパイアと定義づけた。
血を吸われ死にゆく人間の母親の胎内で何かしらの理由によってヴァンパイアの生態要素が強くなったのだろう。
泣くことも無く、死んだように眠る赤子を見つめるヨハネスの元に、屋敷の執事が新聞を持って入ってきた。
「旦那様、その赤子は、、、」
「知り合いの子供だ。養子として引き取ることになった。」
新聞を受け取ると何事も無かったかのようにヨハネスはそう言った。
「知り合いの子、ですか。お名前はお決まりでしょうか」
「名前、、、か。」
ヨハネスの屋敷で働く者たちは行くあてもない所をヨハネスに拾われた者たちだ。どんなにヨハネスが人間離れしていて謎めいていても誰も興味を持たず、質問すること、ヨハネスについてを外に口外することもなかった。
今年85歳になる執事はヨハネスの元で20歳の時から働いている。老いない自分の主が孤独と向き合う様を隣で見守っていたが赤子を見つめるヨハネスの瞳に今まではなかった、どこか暖かさが感じられるような気がして人知れず安心していた。
これで旦那様はもう孤独ではないかも、と。
ヨハネスは新聞に目を落とす。
"速報 バーミンガムの町医者アレクサンドロ・マイヤー氏の妻 謎の死を遂げる"
新聞の1面を飾るのは目の前で眠る赤子の両親についてだった。
「アレハンドロ。お前の名前はアレハンドロだ。」
ヨハネスは赤子の冷たくも柔らかの頬をそっとなぞった。
その赤子が後に自分に3度目の死をもたらすとも知らずに。




