時が動き始めた卒業式前日
はじめて「ストーリーもの」ではなく、「シチュエーションもの」に挑戦してみました。
煤のような匂いが立ち込めている。
康太は、教室の生徒机の一つに向かって腰かけたまま、ゆっくりと腕を持ち上げた。手の甲には血管が浮き始め、肌にもかつての張りがなくなっている。自分の顔に触れてみた。ほうれい線をはじめとして、頬や目元など、顔のあちこちに皺ができ始めているのがわかる。
着ている制服もボロボロだ。
あちこちが破れ、ほつれている。そっとブレザーの首元に手をやれば、ネクタイの結び目が粉のように崩れ、ぱさりと机の上に落ちた。
もう何十年も、鏡を見ていない。
そもそも、もはやかつての自分の顔もよく覚えていない。この教室がにぎわっていた頃の光景も、薄ぼんやりとしか思い出せなくなってきた。
だめだ。
忘れちゃだめだ。
康太は自分に言い聞かせながら、しわがれた目を閉じた。まだかすかに脳裏に残っている、教室の雑踏。だが、友人たちやクラスメートの顔も、担任の先生の顔も、ほとんど思い出せない。
自分はただ、待っていることしかできない。
それが、自分の役割だ。
ため息をつきながら、周囲を見回した。
くすんだ黒板。あちこちが腐れ落ちた天井。割れた蛍光灯。
――そしてそれらに絡みついている、真っ黒い茨。
廊下への窓を見れば、同じ黒い茨がびっしりと張り巡らされている。外への窓も同じだ。息を吸い込めば、十年ほど前まではかすかに感じられた木やリノリウム、チョークの匂いなども、まったく残っていなかった。無機質な煤のような匂いがするだけだ。
まったく代わり映えのしない光景に、康太はただただぎゅっと目を瞑った。
その時。
「なん、だ?」
思わず掠れた声が出た。
周囲がざわついている。張り巡らされている黒い茨が、苦しむかのように蠢いていた。ここ何十年で初めてのことだ。
煤のような匂いが強くなる。
校舎全体が、震えているかのような感覚を覚えた。ビシビシと天井が軋み始める。康太は思わず座っている机にしがみつくような形で、おろおろと教室内を見回した。
突如。
黒い茨が全て、崩れ落ちた。
その瞬間、灰色の教室が一瞬にして色づいた。
茶色。深緑。白。黒。青。紅色。自分が座っていた机から、それらの彩があっという間に教室全体に広がっていく。
煤の匂いも消えさった。
木とチョーク、リノリウムの香り。そして何十年かぶりの自分以外の声が教室の中に満ちた。
クラスメート達だ。
教室あちこちでグループを作りながら、他愛のない会話を繰り広げている。窓の外を見れば、青空から陽気な日差しが差し込んできていた。反対側の窓からも、廊下を歩いている生徒たちの姿が見て取れる。
康太は、ぽかんと間抜けに口を開けたまま、固まってしまった。
「おい、どうした古原?」
声をかけられ、康太はハッと顔を上げた。
「佐々木!」
思わず立ち上がり、声をかけてきた彼の両肩を思い切り掴んでしまった。
男子生徒は顔をしかめた。
「な、なんだよ」
幻ではない。ちゃんと手先に確かな感触と、温かみを感じる。
自分の顔がくしゃくしゃになっていくのがわかった。
だが、すぐに気づいて自分の手を見つめた。若々しい、十代の肌に戻っている。歪む自分の顔にも、つい先ほどまでの皺や堅さは残っておらず、頬に張りが戻っているのが実感できた。
ぼろぼろだった自分の制服もネクタイも、いつの間にか元通りだ。
――誰かが、とうとう呪いを解いてくれたんだ!
ようやく頭が動き出す。
康太はすぐさま身をひるがえした。
教室を飛び出す。遠い記憶を辿らずとも、体が場所を覚えていた。廊下を駆け抜けていると、リノリウムの香りが胸いっぱいに吸い込まれていく。かつて、茨の煤のような匂いが満ちていた頃が、嘘のようだ。廊下をすれ違う生徒たちが、ぎょっとした目でこちらを見つめてきていた。
やがて、二つ隣の教室にたどり着いた。
一瞬、足がすくむ。
思わず息を止めていた。熱気が籠っていた自分の手先が、急に冷たくなっていくのを感じた。その指先で、おそるおそる教室の扉に手を伸ばす。
意を決し、がらりと扉を開いた。
「舞原!」
あまりの大声に、ぎょっと教室中に視線が集中してきた。
沈黙が広がる。驚いたような顔。怪訝そうな顔。迷惑そうに顔をしかめる顔。さまざまな顔と視線がこちらへ飛び込んできた。
だが、そんなことはどうでもいい。康太は、はやる思いを落ちつけようとしながら、目的の机の場所へと目をやった。
その机には、誰も座っていなかった。
『――きみは、この教室に残って待っているんだ』
特殊部隊のような人の一人に、言われた言葉を思い出した。
世界が呪いに包み込まれた、あの日。急に自分以外のクラスメート達が消え、空がくすみ、黒い茨が張り巡らされてオロオロしていた時のことだ。
『我々が〝呪い〟を解くことに成功した時、きみの記憶から学校の人々が再生される。きみが忘れてしまった人は、再生しない。我々が呪いを解くまで、きみはここから動かず、この学校の一人一人のことを忘れないようにするんだ。いいな』
まさか。
康太は、がくりと膝をついてしまった。教室内に、困惑のざわめきが立ち始めた。
たしかに、クラスメート達の顔を思い出しにくくなってしまっていた。舞原の顔も表情も、ほとんど忘れかけてしまっていたのだ。
よりにもよって、どうして舞原だけ。
一番忘れなくなかったのに。
先ほどまでの希望が、抜け落ちた。恐ろしくも懐かしい寒気が蘇ってきてしまう。拳に触れている廊下が、冷たい。
どうして、もっと早く呪いを解いてくれなかったんだ。
せめて、あと一日だけでも早ければ。
いや。
それよりも、自分が呪いを解くために動いていれば。あるいは、記憶を繋ぎとめるためにもっともっと努力をしてさえいれば。
「――うんうん、それでさあ」
だがその時、耳に声が届いた。
思わず顔を跳ね上げた。
自分が入ってきた扉とは別の入り口が、がらりと開く。三人組の女生徒が、談笑しながらこの教室に足を踏み入れてきた。皆、菓子パンの袋を手に持っていた。
その、中央の一人。
「舞原!」
康太は体を跳ね起こし、駆け出した。
生徒と机をかき分け、女生徒へと向かう。急に名前を呼ばれた女生徒は、度肝を抜かれた様子で狼狽しながらこちらを見つめてきていた。
栗色の髪。澄んだ黒い瞳。ほどほどに白い肌に、あごのすぐ近くに小さな黒子があることに、たった今気づいた。
そうだ。
思い出した。こいつは、こんな顔をしていたんだ。
人目もはばからず、彼女に抱き着いた。
戸惑うような悲鳴が漏れてきた。ぐしゃりと、彼女の体と自分の体の間で、袋に入った何かがつぶれるような音がする。両隣の友人の女生徒が何か声を上げているようだったが、いずれも康太の耳には入ってこなかった。
髪から、かすかに良い匂いがする。
とくんとくんと、彼女のやや早鐘のようになった鼓動が、服越しに伝わってきた。その温かみに、康太はより一層強く彼女の体を抱き寄せる。
が。
「なにすんのよ、変態!」
突然、突き飛ばされた。
勢い余って尻もちをつく康太。呆然と見上げると、舞原はまっすぐに康太を睨み下ろしていた。
「なんなのアンタ! 酷い顔で、いきなり抱き着いてくるとか!」
彼女の顔は赤かった。
羞恥や照れから来るものではない。そこに見えるのは、純粋な怒りだけだ。
康太は、気を取り直して立ち上がった。
「悪い」
再度、舞原の目の前に立つ。
彼女は身を引いた。だが構わず、康太は真っ直ぐ彼女を見つめながら、何十年も夢見ていた言葉を紡いだ。
「好きだ。舞原」
息をのむ音が、教室中に響く。
反応は半々だ。純粋な驚きに目を見開く者と、露骨に顔をしかめる者。
「……マジでなんなの、一体」
舞原は、後者だった。
歯ぎしりしながら、より強く康太を睨みつけてくる。潰れたメロンパンの袋を握る手が、わなわなと震えていた。
「なんでそんな無神経な告白してくるわけ? ただのお昼休みに、みんないるただの教室の中で? ロマンチックさの欠片もないじゃない! 今まで受けてきた中で、さいっってーの告白なんですけど!」
うんうんと、教室の半分が同意するように頷いていた。
忘れていた。
康太は久々に時計を見上げた。そういえば呪いが広がったのは、学校がまさにお昼休みに入った時だった。教室内も、彼女の髪とはまた違う良い匂いが漂っている。お弁当や菓子パンを広げている机がちらほら見られた。
くぅ、と康太の腹が鳴る。
久しぶりだ。
空腹感を感じるのも、のどが渇くのも。
康太は、視界が滲んでくるのがわかった。
だが、先ほどのような詰まる思いはない。胸の中はむしろ清々しく、澄みきっていた。
「今、初めて知ったよ」
康太は目元を拭いすらせず、そう口を開いた。舞原が無言で怪訝そうな視線を向けてくる。
「お前、怒った顔も可愛いんだな」
おおっ、と感嘆のような声があちこちから聞こえる。
が、舞原は余計に片眉を吊り上げるだけだ。
「ちょっと、人のハナシ聞いてたの! 信じらんない!」
癇癪を起こしたかのように、バンと傍らの壁を平手で殴りつけてくる。
さらに彼女は、逆の手に持ったものを掲げた。ぐしゃぐしゃに潰れた袋だ。
「ほら、どうすんのコレ! メロンパン、潰れちゃったじゃない!」
おそらく、先ほど康太が彼女を抱きしめた時だ。
康太は清々しく笑った。
「そんなの、オレがいつでも奢ってやるよ!」
「要るわけないでしょ、バカ!」
ばしん、とメロンパンの袋が、胸元にぶつかってきた。
「だいたい、なんでこんな中途半端な日なの!」
なおも言い足りない、といった様子で彼女は続けた。
「告白するっていうなら、あと一日くらい待てばいいじゃない! せっかく明日、卒業式なのに!」
――卒業式。
はっと康太は、教室の黒板へと目をやった。皆が思い思いに描いた、担任の先生への感謝を書いた絵と文字が、カラフルに描かれている。
「……はは、そうか。そうだったな」
康太はようやく、自分の目元を拭った。
わるいな、舞原。
明日じゃだめだったんだ。
卒業式なんかより、〝今日〟っていう日こそが、オレにとっては一番大事な日なんだ。
「そうだったなじゃないでしょ!」
舞原が叫んだ。
すでに金切り声に近い。教室のあちこちから、かすかな笑い声が漏れた。キッと舞原はそちらを睨みつけ、黙らせる。
康太は笑顔になり、ぐっと自分の右こぶしを見つめた。
「オレ、腹減ったから購買行ってくるわ!」
それだけ言い残し、身をひるがえした。
思えば呪いがかかっていた間、何も口にしていない。振られたばかりだというのに、懐かしい空腹感で胸がいっぱいになって、康太はなおも騒然としている教室から走り去った。
そうだ。
卒業式が終われば、自分も来月から大学生。大切なものを守るために、自分自身の手でなにかを為すことができるようになる。その、第一歩なんだ。
康太は、かすかな胸の苦みを楽しみながら、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
リノリウムと木の香りがして、また涙が滲んだ。
◆◆◆
「なんなの、あれ」
舞原は、憮然とした顔で自分の席に腰を下ろした。
「テキトーな告白してきた挙句、振られた次の瞬間に〝腹減った〟とか。ふざけんな」
なおも怒り止まぬ、といった様子で、メロンパンの袋を手でもてあそぶ。もはや中身は原型をとどめていない。
「でもさあ」
そこへ、一緒に教室へ帰ってきた友人の一人が、出口の方を見つめながら口を開いた。
「たしかにアイツ、タイミングは最悪だったけど。あんな切実そうな告白、あたしは初めて見たよ?」
「そうそう」
もう一人の女生徒も、頷いている。
彼女は舞原の一つ前の席に、後ろ向きに座った。
「なんというか、いい意味で鬼気迫ってる? なにかこう、ゼッタイ譲れない何かのために、ってカンジ」
舞原は、俯いた。
やがて、教室の普段のざわめきが戻る。しかし、教室中の興味が自分へと向いていることに、彼女も気づいていた。
ひとしきり黙りこくった後。
舞原は、席を立った。やや大股で、教室の出口の方へと歩いていく。
「どこ行くの?」
「……メロンパン。あいつが自分で言ったとおり、あいつに奢らせる」
感情を抑えるような声で呟いた。
友人らに背を向けたままだ。それでもなお、教室じゅうから視線が突き刺さってくるような気がした。
「あんな恥かかせたんだから。メロンパン一個じゃ、済まさない。大学上がっても、しばらくはこのことをネタに、あいつにお昼を奢らせるんだから」
廊下に出て、やや乱暴に扉を閉めた舞原。
教室中の生徒が、示し合わせたように顔を見合わせ、そののちに外を見やった。
澄み切った青空。開いた教室の窓から、爽やかな空気と共に、ひらりと何かが舞い込んできた。
色鮮やかな桜の花びらだった。