1:歴史と物語の悪魔【Ιστορια】
僕はその暗闇の中、ひとりきりでそこにいた。
どこからどこまでが右で左か。どっちに首を捻れば前か後ろか。それもわからない。
ここは本当に、わからないことだらけだ。ここはどこ?僕はどうしてこんなところにいる?僕…?そもそも、僕とは誰のこと?いや違う。僕が誰なのかじゃない。僕は、何なのか。忘れてしまった?違う。わからないんだ。別にそれでいいじゃないか。僕が何者でも何物でもなかろうと。@僕はそのままずっとここにひとりでこうしているつもりなんだから。
そう思う僕を責め立てるのはその暗闇の色。
お前はどうしてここにいるの?お前なんかがどうしてここにいるの?そう言って、彼らは僕を拒絶している。
どうして?どうして僕がここにいてはいけないの?僕は彼らに問いかけた。
彼らは言う。
だって君は僕ではないのだから。だから貴方は私たちにはなれないわ。
視界が暗闇になれてきたのだろうか。僕は彼らの答えを目で知った。うっすらと見えてきた僕の手の形。僕という存在の輪郭。それは僕が彼らに受け入れてもらえない理由そのもの。
追い立てたれるように僕は歩みを進める。何処かへ行かなければ。どこへ行けばいい?何処か僕を受け入れてくれる場所。わからない。それでもそこへたどり着くまで……僕はこの暗闇の中どこまでもひとりぼっちで歩き続ける。耳を塞いで。
ああ、耳を塞いでいるのに。何も聞こえないはずなのに。酷く胸が痛む。頬を流れる冷たさは何だ?叫びたい。そして楽になりたい。
でも、僕は言葉を持たない。どうして叫びたいのか。その理由も持たない。酷く不安定で中途半端な僕は……何も出来ない。
わけもわからない。それでも辛い。わからないから悲しいのか。わからないのが悲しいのか。それすらわからない。
助けて。誰か僕を助けて。誰でもいい。一人でいい。たった一人でいいんだ。ねぇ、僕を見て。僕を見つけて。僕の知らない僕の底まで。覗き込んで。掴みだして。連れ出して。掬い上げて。そして微笑んで。
そうしてくれたら……僕もその人を見つめるから。見つけ出すから。どんな暗闇の中からでも、貴方を。そして貴方を……
(………何か、聞こえる)
その声は僕の世界を照らし出す。黒が、終わる。僕の瞳が開かれる。
そこは暗く深い森の中。眠っていた僕を目覚めさせたその旋律。それは美しい子守歌などではなく、荒々しい魂からの叫び声。
どこか離れた場所に舞台があって歌劇でも行われているのではないか。はじめはそう思ったくらいだ。どんなに美しい歌でもそこに感情がなければただの音。逆を言えばどんなに激しい歌でもそこに感情が宿っていれば、人を魅せることができるのだろう。だからその歌声は、酷く僕を惹き付ける。音をはずしているわけでもない。旋律も声も美しい。それでも素直にそれを美しいと形容できないのは鬼気迫るその声のせい。悲鳴を上げるような女独特の高い声。声変わりもしていない無邪気な子供のような愛らしい声。地の底から聞こえてくるような男の狂ったような哄笑。すべてを包み込み歌い上げるその主旋律。
それはどこから聞こえてくるのだろう。僕はその場所を目指し、歩みを進める。
やがて開けた場所へ出た。そこは緑の庭園。深紅よりも深い紫色の薔薇の咲き誇るその場所で、その人は歌っていた。それを歌っていたのは何人か?
僕は驚く。それを歌っているのはただ一人の人間。
「一なる者よヒリアへ至れ 千年の時を生き存えて真を知れ」
「欠けし我君補いてエナへと帰らん 百年の時を寄り添いて」
その言葉で彼女は舞台を締めくくる。
宴の終わり。それが醸し出すのは寂しさだ。ふぅと溜息を吐く様は絵画のような美しさ。憂鬱色に染まる瞳はこの世の者とは思えない。
いや、そもそもそれを人間と呼んで良いものか。だって……彼女の耳は僕のモノより尖っている。髪の色は薄い紫。そして瞳は……銀色の光を宿した硝子色。それがわかったのは、氷のように冷たい透明色のそれが僕へと向けられていたからだ。
彼女は僕とは違う。肌で感じた空気でそれを知る。感じたのは強すぎる畏怖の念。ここから逃げ出したい。そんな思いでいっぱいになる。
けれど、蛇に睨まれた蛙のように動けない僕は、彼女を見つめ返すことしかできない。その中で幸か不幸か、大きすぎる恐れが僕へとわずかの余裕をもたらした。怖すぎて、怖いと感じる神経まで麻痺してしまった。そういうことだろうか。僕は彼女を見つめながら……頭の片隅で、彼女の美しさを讃えていた。
(……綺麗な、人だな)
あり得ないその色。それは奇跡のような美しさ。
思わずその色に触れてみたい。その髪を撫でている風を妬んでしまうくらい、僕はそれを望んでいた。
それでもそれは幻だろうか。危うい儚さを宿した美。触れたら壊れて消えてしまうのではないか。だから触れられない。だからこそ、触れてみたい。この美しいモノを壊してみたい。自分の内に芽生える理解出来ない矛盾した感情をもてあましながら、僕はじっと彼女を見ていた。
(月……)
ああそうだ、そらに浮かぶ月。彼女は月に似ている。求めても触れられない。それでも手を伸ばさずにはいられない。
やがて彼女の目が大きく見開いて、僕を見つめるのはなぜか。人形のように静を宿していた整ったその顔立ち。その白い頬が朱に染まる。
その理由に気付いたのは僕の視界に僕自身の腕が見えた時。ああ、僕はもう彼女に触れてしまっていたのだ。その頬を撫で、髪を指に絡ませて……
「あなた……誰?」
彼女は視線を僕へと止めたまま、そう小さくつぶやいた。
あなたは、誰?
「僕は……僕は……誰?」
「貴方…………アムニシアなの?」
僕の言葉に彼女は僅かに驚いた様子。
アムニシア?聞き慣れない言葉。それが僕の名前なのだろうか。
「アムニシア……貴方の世界では"記憶喪失"と呼ばれる言葉のことよ」
「記憶、喪失?」
「だって貴方、自分の名前も思い出せないのでしょう?」
僕は頷く。それに彼女は考え込む仕草。
「貴方、何処から来たの?それもわからない?」
その言葉から僕は考える。僕は何処から来たのだろう。
思い出してみようとするが、よくわからない。気がついたらあの森の中にいた。そう彼女に告げると、彼女は首を傾げる。
「ここは人が来よう思って簡単に来ることが出来る場所でも迷い込んで来られる所でもないのに、不思議な話……」
「それに貴方……身体があるわ。精神体ならともかく実体のままここに存在できる人間なんて初めて見たわ」
しかし彼女の至難顔は、すぐに柔らかな微笑みに隠れてしまう。
「まぁいいわ。貴方が誰でもどこからの迷子でも、貴方は外からのお客様。何年ぶりかしら!はじめまして、私はイストリア」
名乗る彼女はどこか楽し気だ。そうやって微笑む様は年端も行かない童女のように無邪気。
「イストリア?」
「ええ」
僕がその名を唱えると、彼女は嬉しそうに笑った。けれどたかがそれだけでそんな風に笑うなんて、僕には彼女が理解できなかった。それでも彼女の態度は友好的なモノであり、僕に危害を加える風ではなかったから……最初に感じた恐怖も僕は忘れてしまっていた。彼女は真っ直ぐ。裏がない。僕を歓迎する気持ちが声から、顔から読み取れる。不思議な人……声と顔……それが一ミリのずれもなく、ピタリと重なるなんて。
その答えを彼女は教えてくれる。それは自分が人ではないからなのだと僕に。
「ここは第漆領地。私の庭。百万世界の中でもっとも第七魔力に恵まれた、私の支配地。分かり易く言うなら……ここは魔界。その辺境領。そして私はその領主イストリア。悪魔を見るのは初めて?さっきはとても驚いた顔をしていたけれど」
「貴女が……悪魔?」
「ええ。見えない?……そうね、今は力が弱まってるから耳くらいしか違わない……か。角もないし翼もないし、それらしくはないかもね」
ああ、だからか。確かにそう言うモノがあれば、彼女の言うそれに見えるかもしれない。でも……不思議と笑う彼女を見ていると、魔王という感じはしないのだ。こんな風に無邪気に笑う存在が悪魔?友好的な彼女がそういうものだなんて……
頭の中で彼女に角や翼を付けてみても悪魔……というよりはもっと格下、小悪魔とか……そういう可愛い感じの悪魔に見える。少なくとも音楽の教科書に載っているような魔王と同じ印象は受けない。子供を攫ったりするようなのには……って音楽の教科書?何だろう。どうしてそういう変なことは覚えて居るんだ。自分のことは何も思い出せないのに。
「……?どうかした?そんなにまじまじと……」
下らないことを考えている間、僕はずっと彼女を見ていたようだ。心なしか彼女の頬が赤い。そうしていると悪魔というか、普通の女の子に見える。
「悪魔って……もっと怖そうなモノだと思っていたから」
「まぁ!私が恐ろしくないの?」
思わず僕の口から零れた言葉。それに侮辱されたとでも言いた気に彼女は僕を見る。
「……最初は怖かったけど」
「けど?」
「……………」
「何?言ってくれないとわからないわ!」
「それはお嬢様があまりに可愛らしい反応をするからですよ」
「なっ……わ、……私が、か、可愛い?!」
その声に真っ赤になって挙動不審になる彼女。
「わ、私は……第七魔王……そんな…言葉、ただの侮辱っ……って何やってるのよ使い魔」
先ほどの声は僕のモノではない。その、ささやくような甘い男の声は僕の背後から聞こえてきて……いつの間にか僕の前に一つの影が現れて、彼女の足下に跪き、その手を取ってその白い手に口付ける。
男は彼女と同じ、尖った耳を持ち……頭には翼の代わりに二本の角が生えていた。尻尾はないが、彼もまた悪魔と呼ばれるモノなのだと見て取れた。
「あ……貴方に可愛いなど言われても嬉しくないわ!怖気が走るだけよ!」
彼女はそう怒鳴り、勢いよくその腕を振り払う。男はその様子に優しく笑むが、それは反省の色が全く見て取ることが出来ない軽薄なもの。彼は彼女の反応に満足し、からかって遊んでいるようなそんな印象を受けた。
「これはこれは失礼しましたお嬢様。ですがお嬢様」
「なぁに?」
「私とて傷つくことはあるのですよ?」
「あら、奇遇ね。私もとても傷ついたわ」
もの凄い勢いでキスされた手の甲を服の袖で拭いまくっている彼女。嫌悪感までまっすぐに表す人だ。
「おや?侵入者ですか?ここに立ち入ることが許されているのは私を除けば百万世界にあと六人しかいませんよ?」
「駄目!殺さないで!」
「何故ですかお嬢様?私はお嬢様をお守りすることを上司から命令されているのですが?人間が一人でこの第七領地に迷い込めるなど思えません。……彼は不穏です」
「それでも駄目よ!客人への無礼は私が許さないわ!」
「お嬢様の命令は絶対ですが、優先順位によりその命令は承伏しかねます」
「彼は私の………………」
「私の?」
「私の…………と、友達よっ!だから傷一つ付けては駄目よ!」
真っ赤になりながら彼女は僕を庇う。
「お友達……ですか?人間が?よりにもよってお嬢様に?」
「そ、そうよね!」
あり得ないとでも言いた気な男の視線。嫌な風に声と言葉がシンクロしている。
僕が頷くことを期待する目。
友達。なんだか嫌な言葉。けれど彼女がそれを口にするのは、嫌じゃない気がする。だからかな。気がついたら僕は首を縦へと振っていた。
ぱぁと明るくなる表情。嬉しさ。その表情が声の響きとシンクロしていく、真っ直ぐに。
「そ、それにね!それに彼は記憶喪失なのよ!?そんな状態の子をどうこうしようなんて貴方最低よ!」
「それはどうも。悪魔の私には褒め言葉ですよ」
「ああもう!ああ言えばこう言うっ!あんた首!解雇!リストラよ!」
「上司からの命令によりそれは承伏しかねます」
「ううっ……エペンヴァめぇ!嫌味なところばっかそっくりな部下を送り込むなんて!私に対する嫌がらせ!?そうなの?そうなのね!力戻ったらあいつからぶっ殺しに行ってやる!」
出会ったときの憂鬱顔を忘れさせるような言葉。彼女はなかなか気性が激しい。子供が駄々をこねてるようにも見えるけれど、言うことは不穏だ。やはり悪魔なのか。でも悔しそうに地団駄を踏む様は……ちょっと可愛いかもしれない。
「時にアムニシア……とは?」
「この子は名前も自分もわからない。使い魔……貴方はそんなこの子が私に何か危害を加えるなんて思うの?記憶のないモノをいたぶるなんて私の趣味ではないわ!」
「そうですね。お嬢様は頂上まで上り詰めた極悪人を突き落としてあざ笑うか、聖人君子を悪徳と快楽のどん底まで堕落させるかの方がお好きですからね」
「ちょっと、と……友達の前で私を変態みたいに言わないで!」
可愛らしい顔をして、さすがは悪魔。それなりにやることはやっているようだ。それとなく彼女から数メートル離れた僕に、彼女は縋るような目を向ける。こうしていると愛らしい子犬のようにしか見えないのだが。
「最近はやってないわよ!……私はここから出られないんだもの」
泣きそうな顔で彼女はそう叫ぶ。
「やれやれ。こんな得体の知れない人間風情のどこがお気に召したのだか」
「それは……確かに滑稽よ!情けないわよ!この私が!こんなにはしゃいでるなんてっ!泣けてくるわ!でも、だって……もうずっと。こんなところに一人きり……話し相手が現れて喜ばない者がいないと思って!?」
「私のことはスルーなさるんですねお嬢様。カウント外ですか?」
「だって貴方いつも同じ話題ばかりじゃない!毎日毎日猥談ばかりだなんて……最初は楽しかったけど、100年で飽きるわ!貴方もここにずっといるから外の話なんてわからない、教えてくれないじゃない!」
ああ、楽しかったんだ。最初は。ツッコミ入れるべきか逡巡したが、ここはスルーしてあげてこその……友達だろう。
「……仕方ありませんね。お嬢様がそれをお望みならば。それでもお嬢様に万一のことがあれば、その時は容赦は致しません。お覚悟を」
「何よ。私がそう簡単にくたばるように見えて?」
「ええ。貴方様はある状況下においては百万世界最強であらせられますが、それ以外の状況では使い魔程度の私でさえ好き放題出来てしまうほどか弱い存在ですから」
「そんなことしたらどうなるかわかってるわよね?」
不快と怒り。睨む様は最初の彼女を彷彿させる雰囲気。少し……怖い。それでも使い魔の彼はにやにやとそれを嗤うだけ。彼は嘘。
「おお、怖い怖い。流石は第七魔王様。覇気だけはご立派ですよ?」
言葉と声と顔。それが一致していない。からかうことを愉しんでいる。ちょっと嫌な感じ。でも……そこまででもないような気がするのは…………そこから悪意を感じないから?
彼は彼女を貶めるためじゃない。会話を楽しむために嘘を吐く。彼女を……笑わせようとしている?
(……道化?)
彼は、道化。誰かに似ている。僕はそう言う人を知っている。だから……彼が解るんだろう。
僕が考え込む際も、二人の会話は続いていった。
「でも、彼はそんなことしないわ!」
「どうしてそう言い切れるのです?」
「だって……友達って、言って……くれたもの!」
「ですがお嬢様。お嬢様はそのご友人によりここに閉じこめられたことをお忘れですか?」
「…………あんな奴、最初から友達なんかじゃなかったのよ。唯、それだけ」
傷ついたような彼女の表情、その言葉。それがピタリと重なると、痛々しさが倍増するのか……僕の胸までキリキリ痛む。
「とにかく私が決めたの!だからこれは決定よ!私は彼を屋敷に招待するの!そして、……彼の記憶を取り戻す力になるの!わかったらさっさとお茶の用意をなさいっ!毒なんか入れたらどうなるかわかってるわね?」
「どうなるのでしょうか?」
「わからないの?」
「愚鈍な私は理解しかねます」
「百年間、口聞いてあげないわ!」
「それはお嬢様の方がお辛いのでは?確か以前にも……三日ほどでリタイアを……」
「なっ……ば、馬鹿にするのもいい加減になさいっ!そ、そんなことより、よ!」
「貴方は記憶を取り戻したい?」
彼女の言葉に僕はすぐさま頷いた。このままでは気持ちが悪い。存在証明を出来ないまま存在するのは苦痛だと、僕はあの闇の中で知った。
「それなら私は貴方に力を貸すわ」
僕の言葉に彼女は春風のごとく柔らかに笑い、片手を差し出す。
「お嬢様!」
咎めるような男の声。それに彼女は静かな声色をもって答える。
「コレは契約じゃない。友達から対価を貰うなんて私の趣味じゃないのよ」
「おやおや……無償の愛ですねぇ。羨ましいですよ。しかし公私混同し過ぎでは?」
「困ってる友人を助けるのは当然のことでしょう?」
「お嬢様。そのような常識は百万世界の何処にもありませんが」
「どうして?」
「人も悪魔も悪意を持つ生き物。どんなに親しい友人関係においても少なからずギブアンドテイクは存在するのです。例え血を分けた肉親同士でもそれはまた然り。貴方は悪意も善意も……我らや彼らより純粋すぎます。だから貴方はわからないのですよ。どんなに我らが貴方をわかりたいと思ってもそうすることが出来ないように」
「別に私は誰かに解って欲しいなんて思わないわ。私は私、魔王イストリア。私は私の思うよう好き勝手やるわ。それの何がいけないの?」
自分の主人は自分自身。誰からも指図は受けない。
思うのは自由。それでもそれを言うには、体現するには力がいる。勇気と、権力。彼女にはそのどちらも備わっているのだろう。
自分勝手なその言葉。それに僕は心惹かれる。僕には口があるのに、きっと僕には言えない言葉。僕は月には手が届かない。
「ところでお客様、貴方はアムニシアでいらっしゃるのでしたか」
ため息を吐く僕に使い魔が声をかけてくる。アムニシア。耳慣れないと思った言葉。何度目かのそれはやけにすんなり僕の耳に馴染んでいく。
対する彼女はその単語に嫌悪感を表した。どうしてだろう。綺麗な言葉だと僕は思ったのだけれど。
「記憶喪失……嫌な名前ね」
「おやお嬢様、以前の貴方は彼女のことをお気に召していらっしゃったでしょう?」
「昔の話よ」
「彼女のブラコンは本当迷惑だわ。勝手に何処かであいつと幸せになってればいいのに、私を巻き込まないで欲しいわ」
二人の会話に首を傾げる僕。それに気付いた彼女は注釈を入れてくれる。そう言う名前の知り合いがいるのだと。
「アムニシアは私の同僚。つまりは魔王ね。魔王は私のほかに六人いるの。私をここに閉じこめているのはその六人の力。逆を言えばその六人ならここへ来ることも叶うし、ここに誰かを連れてくることも可能」
「つまり貴方をここへ連れてきたのも、貴方から記憶を奪ったのも……彼らの内の誰かである可能性が大きいの。もっとも本当に偶然という奇跡もあるかもしれないけれど」
「六人?」
「ええ。現在は七人の魔王陛下のご統治によりこの世界は成り立っております。魔界は七つの領地……つまりは七つの国が存在しているようなものですね」
「それじゃあイストリアは……ここの王様なんだ?」
僕がそう聞くと、彼女は「ま、まぁ……そんなものだわ」と照れと誇りの半々と言った返事。
ぺらぺらと抑揚の感じられない声で使い魔は僕に説明をしてくれた。いつもは大げさにわざとらしい道化を振る舞う彼。そんな彼のそう言う言葉は不思議と真面目なものに聞こえる。尊敬?敬愛?……そして恐れ?そんなものがそこには含まれているよう。その響きから舞おうという存在の大きさの底辺を僕は教えられたような気がする。
「悪夢と久遠を司る第一魔王エフィアルティス様。破滅と眠りを司る第二魔王カタストロフィ様。嘘と誠を司る第三魔王アムニシア様。罪と縛めを司る第四魔王エングリマ様。罰と戒めを司る第五魔王ティモリア様。境界と領域を司る第六魔王エペンヴァ様。そして、歴史と物語を司る第七魔王イストリア……それがお嬢様」
仰々しい言葉の羅列。その中で最後に付け加えられた彼女の名前。
「歴史と、物語?」
あまり、魔王らしくない。恐ろしさをあまり感じさせない二つ名だ。尋ねる僕に彼女は誇らしげに胸を張って答えてみせる。
「ええ。私は小説家なの」
それを心から誇る声。彼女は自分が嫌いではないのだろう。そんな風に思える彼女が僕は羨ましいような気がする。
「私の文字は真実へと代わり、世界を動かす。そして記すことでその世界を本という媒体として残すことが出来る。例え消滅した世界でも……物語として目にすることが出来るわ」
その凄さがいまいち解らない僕は曖昧な表情。それに彼女はちょっと悲しげだ。
「歴史にも、本にも……興味、ないかしら……?喜劇に悲劇。恋物語に愛憎劇。百合から薔薇から親子物に……ソドムも真っ青のありとあらゆるジャンルを網羅していると思うのだけれど」
「犯罪すれすれというか、犯罪そのものですよねお嬢様の文学は」
「褒めても何も出ないわよ?」
男の言葉に、そう言いながらもしっかり顔を赤らめる彼女。なんだろうこの中身と外見のギャップ。
可愛い思った途端、彼女の悪魔性が僕の目の前に現れる。その逆も。それがくるくる何度も繰り返す。まるでオセロの駒のよう。彼女は白か黒。何処までも矛盾した存在。だから僕は彼女に途惑う。
「それでお嬢様はいろいろ若かりし頃に同胞からも目に余る悪さを繰り広げた結果ここに何万年も封印されているわけですよね」
「今は世界ごと滅ぼせるほどの魔力もないから……一世界一人の人間と契約するのが限界かしら。向こうに出向くことも出来ないし……本当につまらないわ。本を読むようにしか向こうのことを知ることも出来ないのだから」
「……契約?」
悪魔の契約。どこかで聞いた。情報としては知っている。確か魂の売り買い。願いを叶えるために……
「私は魂なんて要らないわ。私は魂の契約なしで契約できるのよ?」
僕はその言葉に顔を上げる。彼女はそこで微笑んで……自分の片目に手をやった。
「私は喜劇か悲劇を見せて貰うことで力を増すの。相手との契約は……契約終了時まで片目を交換すること。そうすることで、契約者は運命を書き換える力を手に入れる」
「運命を、書き換える?」
運命を屈服させる力。その響きはとても僕の興味を引いた。それに気付いた彼女は、悲しそうに微笑むのだ。
「ええ。自分が幸せになれるように世界のシナリオを書き換える力。その劇を盛り上げれば盛り上げるほど、瞳の魔力は増していく。……そのせいで踏み外してしまう者が多いのが悲しい話だけれど」
悪魔のくせに、彼女は何を言っているのだろう。僕の言いたいことを彼女も感じ取ったのだろう。
「別に私は契約者を不幸にしたいわけではないわ……今はね。昔は本を増やすためにいろいろやったけど……今力を貸すのはほっとけない人間ね。彼らは……みんなどこか私に似ているから、力を貸すのはそういう理由よ」
救われない自分の代わりに、自分に似た存在を救うことで自分も救われるのではないか。その託した願いも叶わないまま、多くの人間が狂っていく様を彼女は目にしたのだという。
胸元に抱いた本も、その一冊なのだろう。彼女は慈しむように、それを撫でて笑うのだ。己をあざ笑いながら。
「私が不幸にしたいのは、彼らを不幸にした世界の方。もっと力があった頃はそれごと壊してあげられたのに……不甲斐ないわ」
力を失った後に知ること。無力さが彼女にこれまで気付かなかった優しさの概念を与えた。誰かだけの真っ直ぐな優しさ。それはそれ以外への純粋すぎる悪意の刃。大多数から見た彼女は、確かに悪魔なのだ。それでも僕は……それはとても優しいことのように感じた。
誰か一人のためだけに、その他全てを壊すこと。きっと誰にも選べない。選んではいけないと人間の心が歯止めをかける禁忌。それを打ち破る意志の力。それを悪魔と呼ぶ世界。優しい彼女を悪と讃える。
「イストリア……」
何を言えばいい。何か言いたいことがある。でも言葉が見つからない。名前しか呼べない僕に彼女が笑みかける。優しく、悲しく……儚い美しさをもって。そんな顔をしないで欲しい。わからなくなるから。彼女が何なのか。悪行三昧を繰り広げたと言ったその口で、憐れみの言葉を口にする。そのどちらからも嘘偽りの片鱗も感じ取れない。
「だから私は貴方とは契約をしないわ。貴方に踏み外して欲しくはない者……そうなるくらいなら私直々に力になった方が話が早いわ。貴方は今ここにいるのだもの」
初めて感じる、嘘。力強い言葉と儚い笑顔。それはちっとも重ならず、僕が感じる悲しみがある。それは優しく、悲しい嘘だった。
「お嬢様、私が六人様方に探りを入れている内に……本の世界をご案内してみてはいかがかと。何かを見ている内に思い出すこともあるかもしれませんよ?少々刺激の強いショック療法かもしれませんが」
「珍しく良いこと言うのね貴方も」
「本に興味はなくとも劇には興味ない?そういう気持ちも忘れてしまっているのかしら……」
「……劇?」
それを聞くと歌っていたイストリアを思い出す。確かエナとかヒリアとか……よくわからない言葉を言っていた。
僕の反応が僅かに興味を示したように捉えた彼女は、自分の力を僕へと打ち明ける。
「本は綴じられた世界。私の本はそれの記録。それは時には台本にも変わる」
記録は記憶。そこに感情はあっても魂はない。だからそれを演じることも可能なのだと。
「人は一度しか舞台に上がれない。一冊の本の中しか生きられない。けれど私の本を潜れば貴方は役者。他人の人生を幾らでもなぞれるわ」
他人の人生。そこに僕の欠片が眠っていると彼女は言う。
「環境が変われば心も変わる。何か感じることで記憶を取り戻す手がかりになるかも知れない」
「僕……やってみたい。見てみたい……君の本」
僕が自分の意志で何かを言ったのは初めてかも知れない。それに彼女は僅かに驚き……そして嬉しげに微笑んだ。
「私だって友達の名前を呼べないのは悲しいことだもの。思い出したら私に教えてね、絶対よ?」
差し出された手の白さ。誰かと重なるその仕草。僕はその既視感に抗えず、そのまま月へと手を伸ばす。
触れた手は温かい。何故だろう。そんな当たり前のことに僕は泣きそうになる。それは……嬉しかったからなのかな。嬉しいってどういうことかいまいち思い出せないけれど、嫌な感じは全然しない。
イストリア。彼女がどんな存在なのか僕にはまだわからなかった。本当に残酷をもたらすようなものなのか、実際それを僕は知らない。それでも彼女まっすぐな好意は確かに感じられる。彼女は僕を友人だと言ってくれる。殺されそうになった僕を助けてくれた。記憶の手がかりを探すことも手伝ってくれるという。
それでも僕は彼女のことを何も知らない。その好意にあぐらをかいたままというのはどうだろう。そんなの、本当の友達とは呼べない。彼女が本当に悪なのか、そうではないのか。仮にそのどちらかだとしても……それを見極めた上でそれでも彼女を大切だと思えるのなら、僕らは本当に友達になれるはず。
もし仮に彼女が間違っていて、それを認められなかったとしても……その時は僕が彼女を正そう。それが僕を友と呼び、助けてくれた彼女のためだろう。
僕は今、彼女を知りたい。自分の記憶のことも気になるけれど。それと同じくらい、彼女を知りたい。
「よろしく、イストリア」
ぎこちなく。それでも僕は笑った。声は彼女への好意が乗せられたのに、顔がそれについていかない。
何時か彼女のようにピタリとそれが重ねればいい。記憶を取り戻せば僕は……ちゃんと笑えて彼女にお礼を入れるだろうか。ありがとうと、彼女に。
*
辿り着いた大きな屋敷。ここにこの二人だけしかいないというのは勿体ない広さと豪華さ。魔王の城というおどろおどろしい感じはしない。貴族の邸宅という感じだろうか。屋敷の中庭にも多くの花が咲いている。彼女は花が好きなのかも知れない。
視線をあちこちに彷徨わせる僕に彼女はおかしそうに笑った。純粋に僕を不思議がっているだけの笑い。そんなに悪い気はしないかった。
珍しいものを見るように屋敷を見る僕を珍しげに見つめる彼女。なるほど、僕らは似ているのかも知れない。
僕らは使い魔の案内で、そのまま彼女の書庫へと向かった。
そこはたくさんの本棚に囲まれていて、ちょっと見ただけではどれだけの本がそこにあるのか見当もつかない。百単位じゃ足らない。……何千、何万?彼女たちが百万世界と比喩したように世界が無限にあるのなら……この本も百万冊はあるのかもしれない。
「それでは戻っていらしたら声をかけてくださいねお嬢様」
「え?……出かけるんじゃ」
彼は確かそう言っていた。他の魔王の領地に出向くのだと。不思議がる僕に彼はにやりとほくそ笑む。
「私は私の使いを飛ばすだけですよ?後は今日のお茶菓子の支度ですか」
使い魔のくせに使い魔を持っているという男。なんだかよくわからないが釈然としない気分だ。
「これでも魔王様のお側付きですから、さぁ、行ってらっしゃい」
何処から呼び集めたのか解らない蝙蝠達を一斉に飛ばす彼。バサバサという羽音はやがてどこからも聞こえなくなる。
「これは一応は上級悪魔なのよ?料理は美味しいから、期待していて。あれだけは感謝してるわ。この籠の中で料理まで拷問だったら流石に舌噛んでいたわ」
「あはは、お嬢様。それくらいで我々は死ねませんよ」
「……この性格だけなんとかならないものかしら。本当に貴方は……あいつの嫌なところばかりそっくり」
「仕方ありませんよ。私は彼の眷属なんですから」
「こんなことなら本当に第陸領地から血祭りに上げれば良かったわ」
「そんなことをなさっていたら今頃貴方様の食事係は第伍領地辺りからやってきていたかもしれませんよ?」
「……貴方で良かったわ。彼女の眷属は……見た目も味も凄い物しか作らないから……あれは軽くトラウマになるわ」
「それは何より」
遠い目で語る彼女に男は静かに微笑みかけている。彼はよほど彼女が大切なのだろう。それが彼女には全く伝わっていないのが少々可哀想。
真っ直ぐすぎる彼女は嘘を彼の見抜けないのだろう。言葉の裏、表情の裏が見えない。声に乗る感情はこんなにも鮮やかなのに、彼女はそれに気づけない。
もしかしたら自分が嫌われていると思っているのかも知れない。そうじゃないと教えてあげたいのに、僕はその言葉も知らない。
僕がおろおろを視線を彷徨わせ、彼を見やると彼は赤い瞳を瞬き、そして小さく微笑んだ。初めて彼から歓迎されたような気がする。彼は面白い見るよう僕を見た。たぶんそれは良い意味で。
「お嬢様……お気をつけて。お客様をきちんとエスコートなさってくださいね?大丈夫ですかブランクが長いのでは?」
ちらりと僕の方を見ながら彼女へ別れを告げる彼。また嘘ばかりの彼の言葉。彼の声の感情からは、僕と彼女の主語が入れ替わって聞こえた。彼女に危険を近づけないでと、ちゃんと守れとそういう風に。
「何よ、本の世界での私は最強よ?それに終わってしまった世界が私に危害を加えることは出来ないわ」
彼の心配に気付かない彼女は誇らしげに胸を張る。彼女はその領域での自分の強さを信じているようだった。
「どんな優れた本にも誤字はあるもの。人間は大なり小なり第七魔力を持っているのです。例えそれが終わった存在であろうとも。ですからくれぐれもお気を付けて。ミイラ取りがミイラになるのは勘弁ですよお嬢様」
それでは上司に合わせる顔がありませんとわざとらしい演技でさめざめと泣き真似。彼女に馬鹿にされるとぱっとその振りを止める。切り替えが早い。道化の鏡だ。
……そんなことより今彼は、人間に魔力があるとおかしなことを口にしてはいなかったか。
「……第七魔力?」
首を傾げる僕にイストリアが教えてくれる。それは僕にもある力なのだと。
「第七魔力は私の司る力。物語を紡ぐ力。詩でも歌でも、絵でも小説でも。貴方達人間が作り出す芸術、文学はすべて第七魔力を秘めているの。つまり、それを生み出す人間の中にもその魔力は存在しているのよ」
「でもイストリアは歴史も司る悪魔だよね?」
僕の問いに彼女が頷く。
「それじゃあ第七魔力は歴史とも関係があるってこと?」
「……そういうことね」
彼女はこれも認めて頷く。
「貴方は歴史を何で知る?歴史書?その真偽は誰もわからない。国が世界がそれを歪ませたかもしれない。そこに記されない封印された歴史も、何処の世界にも存在しているわ。ならばその歴史書は真実ではないフィクション。つまりそれはただの小説。物語」
「逆にただの物語でも、そこに真の歴史を映した鏡が存在することもある。例え世界がそれを歴史と認めなくとも、私の中ではそれは確かに歴史なのだわ」
要するに、歴史と物語の境界線は酷く曖昧な物だと彼女は僕に教えてくれた。
「お嬢様……お気をつけて。私の知らないうちにお亡くなりになったら給料代わりに貴方の死体に好き放題してしまいますよ?私も悪魔の端くれですから死体愛好も結構いけますから覚悟しておいてくださいね?」
「確かに私もそれ結構いけるけどっ!セクハラよそれ!もう!死ぬときは本体なんか残さない死に方してやるんだから!」
男は質の悪い冗談を残し、扉を閉める。彼が居なくなってこの部屋の静けさを初めて知った。
「いろんな本があるんだね。これ、全部君が?」
自分の声が自分のものとは思えない程大きい。響き、反響する……声。そこから自分が驚いていることを知る。乗る感情には羨望めいたものも表れていた。
それは彼女を笑わせるものだった。彼女が嬉しそうに僕に微笑む。本に興味のないようだった僕が興味を持ったか思い出したことを喜んでいるのだろう。
「ええ。私自身が書き留めた物……他の悪魔から聞いて記した物。契約者の世界の物。いろいろあるわ」
「これだけあると……なんだか悩むよ」
「別にコレ全部読破するまでここにいてくれても構わないけれど」
そこまで言いかけ、彼女は気まずそうにうつむいた。
「………ごめんなさい。貴方は忘れてしまっただけで、帰る場所があるのだものね。そんなことを言ってはいけないわね」
「貴方は私とは違うんだもの」
自分とは違う。その響きに感じる壁と溝。
彼女は帰る場所がないと暗に語るが、沈む彼女の表情……そこから感じる感情は、鏡に映る僕の姿だ。なぜそう思ったのかはわからないが、僕は……心が彼女を否定した。僕らは同じだと、心が僕へ囁いた。
帰る場所。それを羨む彼女の言葉。彼女はここから出ることが出来ない。そう言っていた。
「覚えているのに、帰ることが出来ないの?」
だから彼女はこんなに悲しそうな瞳をしているのだろうか。
「覚えていても帰れる場所なんて、もう私には残っていないわ。忘れてしまった中にもきっと、そんなものははじめから存在しないのよ」
彼女の声に生まれる翳りは声にも及ぶ憂鬱だ。
「私は飼い殺されていくだけの鳥だから。たぶん、もうそんなに長くはないんじゃないかしら……心が負けたらもう終わり。いろいろあがいてきたけれど、そろそろ底なしの精神力も尽きそうよ」
「呪いって……?」
「六人の魔王からかけられた魔法のこと」
同僚と言っていた。友達に裏切られたと。彼女は同じ魔王達全員に、嵌められたのだ。その大きすぎる力のせいで。
もし彼女が彼らのことを物語にしてしまえば、どんなに大きな魔力を持っている彼らも物語にされてしまう。操られてしまう。
そうなる前に私を何とかしたかったんでしょうと彼女は息を吐く。
「でも……イストリアなら!」
物語を、世界を変えられる。それなら自分をそこから救い出すことだって……
「出来ないのよ」
ばっさりと切り捨てられる甘い考え。彼女は静かに首を振る。例外があるのだと。
「私は他存在の運命をことを操ることは出来ても、自分の運命を変えることは決して出来ないの」
世界に彼女は含まれない。脚本家は外側。内には入れない。他人の不幸も幸せも、眺めるだけの傍観者。
「報いと言えば報いなのかしら。多くの運命をすり替えてきた私は決して運命から逃げられない。受け入れることしかできない…………いいえ、逆ね。私はいつかそうなることがわかっていたから、多くの命を弄んだんだわ、きっと」
「わかって、いた?」
聞き返す僕に彼女は静かに頷いた。
「たぶん無意識で。腹いせだったのね。運命をねじ伏せる力を持っているくせに、何一つ変えられない運命を背負わせられる苦痛それに抗いたくて……」
伏せた目が開かれた時、彼女の笑みが歪に歪む。
「だからそれがとても楽しかったわ。今だってあの喜劇や悲劇の数々が私の心を慰めてくれる。どんなどん底に落とされても……ああ、まだマシだって思わせてくれるのよ。本を開ける度聞こえてくる悲鳴、慟哭。それが私の心を癒してくれる」
笑いが嗤いに変わってしまう。誰かの不幸、それを愉しげにそれを語る様は、悪魔以外の何者でもない。
目の前で自分以外が幸せになっていく。爪弾きにされた世界に一人で。止まったままの不幸の中に在り続ける
ああ、彼女は可哀想。それでもああ……
ああ、彼女はおかしい。狂っている。
だってこんな酷いことを、こんな笑顔で口に出来る人間はいない。やはり彼女は、僕とは違う存在。悪魔なんだ。人間なんかじゃない。一瞬でも彼女と分かり合えると思った僕が間違いだったのだ。
垣間見た彼女の狂気。これからその神髄に触れるのかと思うとゾッとした。彼女を始めた目にしたときに感じたあの恐ろしさ。あれはやはり間違ってはいなかったのだと僕は知る。
感じる恐怖。けれどそれだけではない。怖い。でも怖くない。苛立ちが恐怖を上回っているのだ。僕は……今、彼女がとても気に入らない。どうしてだろう。
脳裏に甦るのは声。彼の声。あの使い魔だ。彼にあんなに大切にされているくせに、それに気づきもせずに、孤独に浸っているその態度。それが無性に気に入らなかった。
彼女は自分一人きり、外側に居ると思っているけれど……本当はもう一人、いてくれる。それを見ない振り。
(……僕には、誰もいなかったのかな)
彼女の境遇は確かに同情に値する。けれど、彼女は絶望しか見ていない。
身近にある救いに気付かない。救われることが怖いんだ。こんなに救われたがっているくせに。
彼女に対しての苛立ちを強めれば強めるほど……なぜか僕の胸が軋む。それが余計に気に入らなくて、僕の不快は増していくのだ。
だから僕はそんなことを言ってしまった。僕は何より残酷な言葉を彼女に贈る。少なくとも……これは友達に送る言葉ではない。いや、別に良いか。そう思っているのは彼女の方だけなのだから。
「僕は君とは違う。僕は、君じゃない」
「……それは、当たり前だわ」
「君はわかっていない!そうだよ。僕には帰る場所がある。いつまでもこんな所に閉じこめられている君の相手なんかしていられないんだ。僕には僕の帰りを待ってくれている優しい家族がいるんだ。友達だって、僕を待っているんだ。きっとそうだ」
あふれ出す言葉。ああ、だから僕は何も言いたくなかった。口を綴じていたかった。言葉の刃は彼女だけじゃない。どうしてか、僕の胸にも突き刺さる。
傷付け、傷付くだけ。それなら何も言わなければいい。音のない世界が欲しかった。何も言わないから。もう何も言わないで。ごめんいう謝罪の言葉を思い出しても、僕はそれを言葉に出来ない。
「泣かないで……何か気に障ることを言ったのなら謝るわ」
音が生まれる。僕の望みに反して、声が。
その音が真っ直ぐすぎるから。悪いことを言ったのは僕なのに、彼女の方が申し訳なさそう。泣かないでという彼女の方が、泣いているじゃないか。
「僕は君とは違う……僕は泣いてなんかいない!」
「……それなら私は何も見ていないわ。何も見えないわ」
そう言って彼女はぎゅっと僕を抱きしめる。彼女からは僕の顔が見えない。僕からも彼女の顔は見えない。
僕の身体の震えが止まるまで……彼女はずっとそうやって、見ないふりをしていてくれた。僕の吐いた酷い言葉の数々も、聞こえないふりで優しく僕を抱き留めて。
わからなくなる。彼女はあんなふうに嗤うのに、こんな風にも泣くなんて。誰かを傷付け嘲笑う癖に、僕のために泣いてくれる……不思議な人だ。彼女は矛盾している。それでも彼女が優しいのも残酷なのも……どちらも本当で。僕はどうすればいいのかわからない。
心を、記憶を取り戻したら。こんな風に迷うことなく答えが見つかるのだろうか。
音の消えた書庫。静けさを求めた癖に、僕はその静けさに不安を感じる。空白が怖い。彼女が何を思っているのかわからないのが恐ろしい。
口から転がり出たのは、会話の糸口を探そうとした僕の弱い心。
「…………あの時、歌ってたのって……何?」
生まれた音。それに彼女が顔を上げ……目を瞬かせ僕を見る。それが消えれば彼女が笑う。僕から話しかけられたことを喜ぶ彼女に僕は罪悪感を感じてしまう。どうしてあんな酷いことを言ってしまったんだろう。価値観の違い。それは当たり前のことなのに。
彼女は灰色ではない。白と黒。それが綺麗に別れているから……くるくる変わるそれに僕は惑う。
同じが嫌なのに、違うのも嫌だなんて。僕は何を言って居るんだろう。
僕は……僕の記憶は彼女と重なる部分があるのだろうか。その違いに僕は憧れたり、嫌悪したり、羨んだり……同じに同情したりする。
彼女は僕じゃない。違うし似てるところもある。
そんな彼女が僕に向けるのは好意だけ。こんな失礼な客人を放り出すこともしない。今だってうきうきと聞かれたことに答えてくれる。
「『エネアロイア』という歌よ。あの世界からは多くの本を作ったわ。あの子達は不思議と手を貸したくなるような存在だった。私の同僚達にとってもそれは同じだったのかも知れない。それともあの世界が欲しかったのかしら。彼らは不完全。それ故に私は美しいと思った」
「不完全が、美しい?それって……おかしいよ」
「そう?」
「そうだよ!」
自分でもよくわからないが強くそう思う。こんな風に何かを主張するのも……初めて?僕は彼女との出会いでも自分の欠片を取り戻しているのだろうか。
「どうしてそう思うの?」
「だって月は……満月の方が綺麗だよ」
「私は円卓が揃うまでより、欠けていく方が美しいと思うけれど」
悲劇を好む悪魔。彼女の主張はやはり僕とは異なった。
「欠けない月なんて醜いだけよ。そんな永遠なんかより……欠ける刹那の方が美しい。失われるから愛おしいのよ。無くならない者なんて私は好きにはなれないわ」
「貴方にもきっとあるはずよ。それまでどうでも良かったものを……無くしてから大切だったと思うこと。取り戻せないからこそ強く、長く思えること」
記憶を取り戻せば僕にも解ると彼女は言った。分かり易い例で言うならと、彼女は言葉を探し出す。
「……例えばロミオとジュリエット?あれは悲劇だから美しいのであってハッピーエンドだったらきっとつまらない。普通に結婚して浮気とかしたり離婚とかしたりするんだわ。男と女なんてそんなものよ。一時の感情で燃え上がったり冷めたり、馬鹿みたい」
失われるものが愛おしい。それを説いた唇で、今度は愛を馬鹿だと罵る。彼女の愛し方は人とは随分違っている。違っているのに……僕はそれを否定する言葉を見つけられない。それどころか圧倒されそうになる。
「まぁ……ここで討論するのも良いけれど、百聞は一見にしかず。とりあえず入ってみる?そうね、せっかくだし『エネアロイア』でいいかしら」
「う~ん……どの子がいい?」
「どの子って……言われても」
「いろいろな種族が居るのよ。その長ごとに視点を変えて記したから結構な数の本があるのだけれど……翼を持つ子とか尾びれをもつ子とか……」
翼に尾びれ?変わった話みたいだ。それでも……どんな話か気になってきた、ような気もする。
「ああ!丁度いい役があった!うん、これならいいわ!これなら多くの民を見ることが出来る」
僕が言葉の断片からその世界を空想していると、隣で彼女が声を上げてはしゃぎ出す。
「この世界にはエナたる救世主が一人。そこに現れたもう一人のエナ。彼は貴方に境遇が似ているから、入り込む易いと思うわ」
「え、もう行くの?どんな場所だとか教えてくれても……」
「それは潜ってみてのお楽しみ」
「そ、それじゃあ開くわね」
こほんと一度咳払い。そして彼女は語り出す。
「昔々……あるいはそれと同じくらい離れた遠いある世界。そこを生きる彼らには本能として刻まれている欲がある。それは"人間に帰りたい"という欲」
「その世界はかつて一度滅んだ世界。人は皆死に絶え、文明は滅んだ。生き延びたのは……人の身分を捨て自然へと帰った人ならざるモノ達。神は世界を傷つけた彼らに罰を与えた。彼らが失ったモノはあまりに大きく、彼らが完全な人に戻ることは奇跡以外に不可能となった。これは人と人ならざるモノの境界を問う物語。彼らは一なる存在……完全な人間……"エナ"を望んだ」
彼女の一言一言、それが書庫に風景を作り出す。見える景色が、塗り変わる。部屋の匂いじゃない。土の匂い。それに風まで吹いてくる……
声が聞こえる……誰の声?誰かが僕を呼んでいる。知らない名前、それでもそれは……それが、僕。
次回から『エナ』という物語の中の話になります。
ゲームで分岐増やしすぎて死んだ思い出が……主人公作りすぎて参った参った。