新アイリーンの歩き方1 シーク編
中央ブロックから西ブロックへと抜ける王都アイリーンの大動脈。
水晶通り(クリスタルストリート)。
最も西門に近い水晶街一番地に暁の女神亭は存在する。
王立競技場が二つほどは入りそうな広大な敷地と、地上四階建ての白亜の建物。所有者の富裕ぶりを物語っているようだ。
もともとは国内最大の貴族である花男爵家の上屋敷を兼ねて建てられたのだという話を、シークは聞いたことがあった。
後かたづけをしている店長のキース・クロスハート・ファに軽く挨拶し、彼は店を出る。
朝がまだゆりかごから這い出しもしない時刻。
警邏中の赤の軍の兵士たちに軽く頭を下げたりしつつ家路を急ぐ。
数年前ならそんな時間に街を歩くなど、自殺に等しかった。
盗賊ギルドが壊滅し、街の治安は飛躍的に良くなった。
民家は夜に戸締まりする必要もなく、旅人は平気で野宿ができた。とは、大陸暦二〇〇六年の世界年鑑に記された言葉である。
護り手の聖戦と呼ばれた戦いの後、人的資源に壊滅的な損害を受けた各国の治安は急速に悪化した。
そこにいち早く改革の手を入れたのがルアフィル・デ・アイリン王国であり、常勝将軍花木蘭だった。
裏社会から触手を伸ばそうとしていた盗賊ギルドを大剣のごとき一撃で葬り去った。
既得権や裏の社会を支配するためのノウハウを独占している盗賊ギルドを潰すことに反対するものも多かったが、国王マーツも花木蘭もそんなものを歯牙にもかけなかった。
ノウハウがないなら新たに作れば良い。
それで上手くいっているから、という理由だけで犯罪者どもをのさばらせるのでは、国の基が立たない。
容赦のない弾圧が加えられたが、じつのところ死んだ盗賊ギルド員は多くはなかった。
多くが軍籍を与えられたり、足を洗って光の世界へと戻ったりできたからである。
このあたりは一九九八年のメビウス・アレンの乱のときと同じだ。あの反乱の敗残兵たちも新たな生活を得る事ができた。
必要悪などというものはないということが証明された。
盗賊ギルドはアイリーンの裏町を独自のルールで支配してきた。そしてそれが一定の秩序と平和をもたらしてきた。
事実なのかもしれない。
だが、それがなんだというのだ。
べつに盗賊ギルドがなくなったからといって一般人は困らない。治安維持ならば赤の軍がいるし、弱者救済なら王国政府が行えば良いだけの話である。
アイリンの法を破り、あるいはかいくぐって生息している害虫どもが、自分たちは必要な存在であると主張する。片腹痛いとはこのことだ。
法を守り、毎日を慎ましく生きる人々に迷惑をかけて、何が必要か。
そうシークは思う。
実際、商売をしているものにとっては「みかじめ料」などと称して奪われてゆく金銭は死活問題だったのだ。
それがなくなり、良質な商品を安価で提供できるようになった。
時代は、より良い方向へ向かっている。
「おっちゃん。一冊ちょうだい」
「あいよ」
街角に立つスタンドで新聞を買う。
これもまた、良き時代の産物だろう。文字さえ読めれば情報を得やすくなった。
アイリン王国の識字率は未だに五〇パーセントを越えないが、それでも若い世代を中心に確実に学問は広がっている。
文字と知識が一部の人の独占物ではなくなりつつある。
「おおう、来年度には東ブロックにも下水道ができるんスね」
見出しを拾いながら歩く。
明るい街。
街路灯がともり、路地裏も清潔で、彼が育った田舎とは大違いだ。
世界の中心とはよくいったものである。
下水道の完備も着々と進んでいるらしい。
これが出来て以降、疫病の発生率が大幅に減ったという。
犯罪も少なく生活もしやすい街。
人々は例外なく功績をたたえる。
「すべてはマーツ王のご威光と常勝将軍の英断、てね」
だがシークは、ごく微量の皮肉を称賛に込めた。
繁栄は、名君と名臣によってもたらされた。民はなんの努力もせずに果実を味わっている。
彼の生まれ育った町では、皆で知恵を出し合って物事を解決してきた。
解決できないことの方が多かったし、生活は今よりずっと苦しかった。
だけど、
「本当はそれが正解なんじゃないかって思うときがあるんスよね……」
空を見上げる。
暁闇。
闇が最も深くなる時間。
黎明を迎えるためには、この刻を通らなくてはならない。
「幸せすぎるのが不幸ってこと、なんスかねぇ……」
問いかけ。
少しずつ明度を増してくる空は、何も答えてはくれなかった。
「ふー」
満足の吐息をつく。
港通りに面した公衆浴場。水資源が豊富なアイリーンならではの施設。
「どんだけ欠点があったとしても、これは最高の文化っす。俺が認めるスよ」
暁の女神亭にも天然温泉があるが、臨時の手伝いとはいえ従業員が客と同じ風呂に入るのは気が引ける。
それに、べつに入浴料の銅貨五枚を惜しむほど貧困にあえいでいるわけでもない。公衆浴場で充分なのだ。
もともと中央大陸には温泉が多く、アイリン王国だけでもタイモールやアザリアなどの温泉都市が有名である。
「よ。あんちゃん。これから休憩かい?」
「うぃす」
顔馴染みの中年客が声をかけてくる。
裸のつきあいというやつだ。
「おっちゃんはこれから仕事スか?」
「おうよ、一日のはじまりはこうじゃなきゃいけねぇや」
たしかどこかの建築現場で働いているはずだ。
成長を続けるアイリーンは、いつでもどこかで何かが建造中で、働く場所に困ることはない。
労働者に活気があるということは、それを目当てにした飲食業界が潤う。飲食業界が潤えば、食料品業界が潤う。食料品業界が潤えば、生産者が活気づく。生産者の活気とは、すなわち国の財産だ。
もちろん各業界から納められる租税も莫大な額になる。
そして金銭を手にしたものたちが飲んだり喰ったり遊んだりと、街に還元する。それは、経済を益々発展させる。
サイクルになっているのだ。
「上がったら女神亭にも顔を出してくださいよ」
「あいよぉ」
顔見知りの気安さで、ちゃっかり誘う。
店の売り上げが良くなれば彼の給料にだって反映されるというものだ。
金銭に振り回される人生を送りたいとは思わないが、ないよりはあった方が良いのは事実である。
いずれは自分の店を出して一国一城の主に。
別にシークだけの野心ではなく、この街で雇われコックなどをやっているもののほとんどが同じように考えているだろう。
野心家たちの楽園とは良く言ったもので、無名の農民の小せがれが壮年期には巨万の富と絶大な権力を握る。そんなサクセスドリームが実現可能なのがアイリーンだ。
もちろん一つの凱歌の影で、それに千倍する敗北の悲歌が流れているのだが。
けれど、
「どうせ夢を持つなら、でっかい方が良いスからね」
勢いよく湯船から出る。
若々しい肌から水滴が飛んだ。
シークが下宿している東ブロックの酒場。
小さな窓からは海が見える。
行き交う無数の交易船と、威風堂々とした軍艦たち。
彼らが他の島や大陸と航路を結び、様々な品物と人をアイリーン運び込み、また運んでゆくのだ。
西ブロックの街門を陸の扉だとすれば、この東ブロックは海の飾り窓だ。
「あれは南方の船スね」
香辛料を満載した船が港に入ってゆく。
世界の珍味や香辛料も、一度アイリーンに届けられ、ここから各地へと散ってゆくのだ。
その中間で利益を得ようと、様々な者たちが知恵と話術を駆使する。
喧噪が部屋まで伝わってきそうだ。
「さてっと、頼まれていた新メニュー、何にするスかねぇ」
木窓を閉めながら一人ごちる。ガラスはまだ高級品で、いくら景気が良くともこんな下宿屋には入っていない。とはいえ遮音と遮光にはこれで充分である。
「ジミーとも相談するスか…」
粗末なベッドに潜り込む。
今頃は忙しく働いているであろう同僚のことを思い出しながら。