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春一番

作者: こす森キッド


1.



 どうすればツヨシ君とお近づきになれるだろう……。

 授業中、右斜め前の席に座る当の男子生徒の横顔を見やりつつ、頬杖を突いてボタンはそんなことを考える。

 教室前方の石油ストーブの熱気と、ヤカンから昇る蒸気が混ざり合い、視界の隅で揺れている。

 学年の中でも特に小柄な彼の学ラン姿は、もうじき冬も終わろうというのにいまだに制服に着られているという趣が拭いきれない。柔らかそうな頬が暖房の熱気でほんのり赤らんでいて、牛乳瓶の底をくり抜いたような丸眼鏡の黒縁にかかる坊ちゃん刈りの前髪を除けながら、板書をノートに書き写している。


 クラスの男子の中でも一見地味で目立たないタイプの彼だが、大して親交もないボタンの目から見ても、日々の仕草の中に内に秘めた芯の太さのようなものが垣間見える、そういう男の子だった。

 基本大人しいのだが、自分の好きなものに対してはまっしぐらになる、そういうところ。

 興味を持ったことへの集中力は凄いものがある。

 五教科の中では理科が得意なようで、実際興味があるのだろう、昼休みに図書室のテーブルで分厚い植物図鑑などを熱心に読んでいるところや、校内の隅に生えている草花などをじっと観察している姿を、ボタンも何度となく見かけていた。


 一方、そんな風にツヨシの人となりを遠巻きに見つめているボタンも、自身がクラスの女子の中でも相当目立たない地味な部類であることは自覚していた。自分に自信が持てないのだ。これと言った長所もなく、見た目に華がある訳でもない。モデルさんや女優さんみたいな体型とは程遠く、そんなに色白でもない。しかもどうやら女子の平均よりは毛深くて、ついでに体臭も強めな方らしい。かと言って、全力でお洒落するなどしてイメチェンしようという度胸もない。校則違反で教師に怒られるのも面倒で、人並みよりやや濃い目の眉毛を細く剃ったことはなく、染めたことのない黒髪を校内ではいつも肩にかからぬよう一つ結びにして後ろに流している。身だしなみについて数少ないこだわりと言えば、人より毛が濃い目のうなじが目立たないように、やや下の方で結んでいることくらい。

 そんな自分にどこか似ている気がして、しかし自分にはない芯を感じさせる彼のことを、ボタンは気になっているのだった。


 「でもなぁ……」と、小さく溜息を吐く。

 地味系女子であるという自覚が邪魔しているのだろう、彼に対して積極的にアクションを起こす勇気も出せぬまま、いつの間にかこの学年もあと僅か。

 何気ない挨拶や、学校生活の中で必然的に生じる程度の会話なんかは彼とも何度となく交わしたことがあるのだが、特に用事もないのにこちらから世間話を次々投げかけるのも彼本人あるいは周囲から変な風に思われそうな気がして、なかなか行動が起こせずにいた。


 でも、もし今度のクラス替えで彼と違うクラスになってしまったら……。想像するだけで憂鬱な気分になってしまう。

 このまま何もせずに時間切れになるよりは、何でも良いので自分から手を打つべきだ。

 頭では分かってはいるがしかし、では実際にどうすれば良いのかという具体的プランだけが依然白紙のままだった。


 何かヒントが得られないだろうかという気持ち半分、単に視界に収めたいという気持ち半分でツヨシの姿をチラチラ窺っていると、彼は机の引き出しから何やら厚みのある本をゴソゴソと取り出し、垂直に立てた教科書を教師からの庇にしながら読み始めていた。

 漫画本か何かかと思いきや、よくよく見るとそれは図書室から借りてきたと思しき例の植物図鑑のようだった。色とりどりの季節の花の写真が載っているページが開かれているのが分かる。そこから、何やらノートにメモを描き写している様子である。


 本当にそういうのが好きなんだな……と感心するボタンだったが、その時ふと、あるアイデアが彼女の頭に浮かんできた。

 自分の着ている制服、落ち着いた色合いの紺色のブレザーの生地を指で摘み、その触感を確かめる。冬服なのである程度の厚みがあり、肌触りの良い布地の中に混紡されたウールのフワフワとした柔らかさが感じ取れる。

 ……でも、流石にエキセントリック過ぎるかな? もしバレてしまったら大変なことになるし、そうでなくても正直ちょっとどころじゃないくらい恥ずかしいし……。

 少しばかりの逡巡はしかし、彼が校庭の草花に触れて何かを確かめている情景の回想を上回ることはなかった。


 やがて授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、休み時間になる。

 ツヨシは教科書の蔭に隠していた植物図鑑をスクールバッグにいそいそと仕舞い込んで帰り支度をしている。

 …………よし。まあ、とりあえず、一回だけ試してみようかな? 何もしないよりは全然いいし、もしかしたら彼についての新しい情報がゲットできるかもしれないし。上手くいかなかったらどうするかは、またその時考えよう。最悪バレさえしなければなんとでもなるから……。

 ずっと頬杖を突いていて固くなった背筋をグッと伸ばしつつ、ボタンはある決意を固めていた。



2.



「好ーきです好きです心からー♪

 愛していーますよとー♪ …………んっ?」

 放課後、荷物の詰まったスクールバッグを背負い、古い歌を口ずさみながらツヨシが一人家路を歩いていた時のこと。

 日中でもさほど人通りがない閑静な生活道路、通りがかったこぢんまりとした空き地の片隅に、何やら見慣れぬ植物らしきものがひとつ、ポツンと地面から生えているのが見えた。

「……んー?? 何だあれ?」

 気になったツヨシが近づいてみると、それはどうやら一輪の花のようだった。大体、両手で包み込める程度の大きさである。

 しかし、その外観は植物図鑑でも読んだことのないような奇妙なものだ。冬に咲く花というだけでも珍しいというのに、それ以前、その花にはいくつものおかしな点が見受けられた。

 ツヨシはしゃがみ込み、眉間に皺さえ寄せながら、生ひ様をじっと観察し始めた。


 まず、その花は非常に珍しいことに、紺色の花弁を持っていた。まだ完全には開花し切ってはないようで、小さな花弁同士が重なり合い、雄蕊や雌蕊があるであろう中心部分を包みこんでいる。そのため、外側にしなだれ広がりかけている数枚を除いては、全体的に丸みのあるシルエットを形作っていた。

 一枚一枚の花弁はやや肉厚で、柔らかそうな見た目をしている。……実際、ツヨシが指で挟んで確かめてみると、花弁の表面はスベスベとしていて柔らかく、フニフニとした弾力感があることが分かった。なんと喩えれば良いのだろうか。本物の洋服の布地を触っているような、しかもその下に人肌を彷彿させる体温さえ湛えているような……。植物というよりはむしろ、布越しに人肌を触っているんじゃないかと錯覚しそうになるくらいだ。


 ツヨシは、以前百科事典か何かで人間の品種改良によって開発された青い薔薇の写真を見た時のことを思い出す。目の前のその花の見かけ自体は、強いて言えばあの青い薔薇に似ている部分もなくはない、気がする。ただ、目の前のその花は観賞用品種としては随分朴訥とした色合いをしていて、花弁自体の密度もまるで中心にある雄蕊や雌蕊を隠そうとするように内側寄りにギュッと偏り詰まっている感じがする。また薔薇の持つ威風堂々とした感じとは対照的に、周囲の様子を窺いつつ外側から少しずつ花弁を広げようとしているかのような、そんな慎ましさを感じさせる佇まいである。

 ……ここに至って、その花弁の滋味深い色合いが自分の通う学校の女子用制服のブレザーとそっくりであることにツヨシは思い当たる。実際その肌触りも、ポリエステルにウールを混紡して作られた生地のそれと瓜二つであるように思えてきた。

 しかし、そんな植物が本当に存在するものだろうか?


 ツヨシから見てもうひとつ奇妙だったのは、その花が枝や幹、周囲に茂る葉っぱなどもなしに、地表からいきなりニュッと顔を出していることだった。花托の部分が地面に直接鎮座していて、そこから土の中に根っこか何かがしっかりと根を下ろし、その場に定着しているのが分かる。何者かがブレザーの布地でできた造花を本物の花に見立てて出鱈目に埋め込んだものではないか、そう一瞬疑いそうになるが、それにしては手が込みすぎているように思う。むしろこういう種類の植物だと考える方が自然に感じられた。

 その生ひ様は、ある意味では葉牡丹や野菜のキャベツに似ている気もするのだが、あれらはあくまで葉っぱが同心円状に集まっているものなので花とは違う。

 あるいは地下茎植物の一種だろうか。その手の植物でこういう花を、それも冬に咲かせるものなど聞いたこともないが……。



 いつの間にか、ツヨシの好奇心は目の前のこの花一つに支配されていた。興味深すぎるあまり我も忘れ、殆ど四つん這いの体勢になってまで、顔を近づけより詳細な観察を試みている。


 花の表面からほんのりとミルクを思わせるような甘い香りが立っているのに気づく。穏やかで、嗅いでいるうちにだんだん気持ちが落ち着いてくるような匂いなのだが、同時にツヨシはその香りに蠱惑的なものを感じ取っていた。その香りに完全に魅入られて、ツヨシはグイと首を伸ばし、花弁が重なり合ってガードを固めている花の中心部分に自分の鼻が触れる寸前まで近づけて嗅ぐ。

 荒くなった鼻息がかかり、一瞬、紺色の花弁がサワサワと揺れていた。

 ……やはり、その香りは花の真ん中辺りから放たれているようだった。

 より発生源に近いところで嗅いでみると、それは実際には様々な匂いが少しずつ複雑に混ざり合い、外気で薄まることで、一塊の甘い香りへと落ち着いた結果なのだと分かった。

 まず顔を出したのはシャンプーや柔軟剤、ボディクリームのような人工的な香料、日焼け止めのようなツンとした匂い。その下に、体温によって立ち昇る皮脂や汗、さらにその下、血や滲出液の残り香のようなもの。もっと奥には、遠い何処かから運ばれてきた夏草の青臭さ、あるいは森林の湿り気や畑で醸される土、磯から海風に乗ってきた潮の薫り。

 それらのいずれもが単体では良い匂いだとは必ずしも言い切れないはずなのに、ほんの僅かずつこれらが混ざり合い、空気によって希釈されていった末、このような薫香に仕上がるというのはなんとも不思議だった。ましてや、植物がこんなに生物的で立体的な匂いを発しているとは。


 ツヨシの意識は完全に香りの根本へと取り憑かれたように釘付けになっていた。未知の植物には毒があるかもしれないという危険性も鑑みず、その花の中心部分に口を押し付ける。

 幼い頃に、道端の花の蜜を吸って味を確かめたがった時を思い出す。

 未だ蕾の状態で花弁がまだ固く閉まっているのが分かる。花弁そのものが外圧に反発するようにしなり、少し抵抗感のようなものがある。

 唇に付着した分泌液を舌で舐めとると、味蕾越しに脳へと甘やかな信号が運ばれていく。


 突き動かされるようにツヨシは急いで家へと戻り、見知らぬ人の土地に生えたその謎の植物をこっそり無断で持ち帰るべく、スコップや鉢などの道具類を手にその空き地へととんぼ返りしてきた。


 しかしツヨシが再度空き地に戻ってみると、あの紺色の花は、まるで初めからそこに何もなかったかのように跡一つ残さずその場から消えていた。

 ツヨシはようやくそこで我に返り、長い夢から醒めたような感覚に襲われた。

 なぜ自分はあんな獣のような振る舞いを……。

 理性を取り戻した頭で記憶を辿るが、その原因も、そもそもあの花の正体は何だったのかも、結局分からなかった。



3.



 その日以降、その謎の花は、ツヨシが登下校時に通りかかる例の空き地にしばしば姿を現した。

 朝は何も生えていなかったはずの場所に、夕方になると突然その花が生えていたり。忘れ物に気づいて道を引き返した際に目をやると、つい先ほどまでそこに生えていたはずの花の姿が跡形もなく消えてしまっていたり。ある日には隅っこの方に生えていたはずが、その次の日には空き地のど真ん中に近いところに移動していて、そのまた次の日には元あった場所とは真反対側の片隅に移動していたり。

 まるで、意思を持たない植物であるはずのその花が、どうすればツヨシの関心を引き付けることができるのか、あれこれ試行錯誤しているかのようだった。


 しかし、それに対してツヨシはと言うと、あの日以来、その紺色の花に触れることはおろか、空き地に足を踏み入れてその花に近づくことも意図的に控えていた。通りがかりにその花を見かけても、歩きながら遠巻きに眺めるだけに留めていた。

 見知らぬ人の土地に無断で立ち入ってそこに生えている植物を勝手に持ち帰ろうとしたのは良くなかった、という反省も勿論理由の一つなのだが……。


 彼が一番気にしていたのは、『またあの日のように我を失ってみっともない振る舞いをしてしまうのではないか』という点だった。

 あの花に近づいてその甘い匂いを嗅いでしまったが最後、また同じような行動を繰り返してしまう気がする。そんな恐怖心が彼にブレーキをかけていた。

 ただ一方で彼自身も、そうした警戒心だとかその花の生態に対する好奇心だとかとはまた別のところ、どこか本能的な部分で、あの日の再現とその続きを欲していることに気付きつつある。

 他の道を選んで迂回することもなく、毎日その道を選び通過し続けていることが何よりの証拠だった。

 そして通りがかるたびに、今日はどこに咲いているのだろうかと、視線が空き地の中へと吸い寄せられる。

 それでも警戒心と理性とでもって、道路と空き地の境目、その一線のこちら側に踏み留まっていた。





 三月に入り、もう少しで修了式というある日のこと。

 下校中、いつものように例の生活道路へと差し掛かる。


 この頃になると、ツヨシは例の花についてあまり意識し過ぎることなく過ごすことができていた。

 関心が全くなくなった訳ではない。どちらかと言うと、その花の存在が日常風景の一つとして溶け込んでしまうほど見慣れてしまったのだろう。自然のものとしては奇怪なその外観にもだんだん愛着のようなものが湧いてきて、とは言え空き地の外から遠巻きに眺めるだけでも十分満足だった。

 そんな心境だったから、彼としても多少気が緩んでいたわけだ。


 空き地に近づいてくると、やはり頭にその花のことが浮かぶ。

 ここ数日間、花はツヨシが初めてそれを見つけた日と同じ場所に定着していた。色々と咲き場所を試した末、結局そこが一番落ち着くという結論に至ったらしい。

 そして、満開も近いのだろう、その全貌は日に日に大きく膨張していっていた。やはりあの時はまだ開花しきれていない蕾の状態だったのだ。

 昨日見た時は大体スクールバッグと同じくらいのサイズまで大きくなってたな、とまるでそれがごく自然な出来事であるかのように思い返す。もしかしたら今日辺り、開花しているかもしれない。



 ──そう思いながら歩く彼の鼻先を、風に運ばれて来た香りが掠めていった。



 ツヨシは歩調を緩めずに歩いていく。しかし、その足取りの行き先が明らかに切り替わったのが分かる。

 彼は内心、参ったな、と嘆息する。

 彼の中の意志そのものが螺旋状の糸のごときものによって絡め取られてしまったかのようだった。

 あの日から今日まで毎日、この道を通り続けてきた選択さえ、あらかじめ宿命づけられていたことのように思えてくる。


 昨日までなら目をくれるぐらいで通り過ぎていたところ、あっさり躊躇なく道路との境界線を越えて、彼は空き地の中へと足を踏み入れる。

 そうして辿り着いた先には、大の人間一人を余裕で包み込めるくらいの大きさまで丸々と膨れ上がった紺色の蕾が、でんと腰を下ろしている。

 そしてその蕾の前にツヨシが足を停めると、この時を待ち望んでいたと言わんばかりに、蕾はとうとうその長らく固く閉じたままだった花弁を大きく開き始めた。外側の花弁が地面に垂れ下がるぐらいまでブワリと広がっていき、ひしめき合っていた内側の花弁同士も少しずつ綻んでいく。その隙間から、ツヨシの心を絡め取っている咽せ返るような香りの根源、その原成分がムワリと色さえ見えるのではないかと思えるほどの濃度で漂っていた。

 咲き誇るその形は色のことを除けば牡丹の花にも似ていたが、開けっ広げになった一番外側の花弁が地面に垂れ下がり、中心部分から臭いを吐き出して自己主張をする様はどちらかというと熱帯地域に生育する巨大なラフレシアの花に通じるものがあった。

 奇しくもその花言葉の通り、夢か現かも分からない異様な光景がツヨシの目の前に広がっている。




『まさか、いきなりこんなに上手くいくなんて……』

 自らの姿形を花に変身させて初めてツヨシの前に姿を現した日の帰り道、胸の高鳴りを抑えながらボタンはそう内心でほくそ笑んだものだった。

 香りを漂わせて興味を引くことに成功したところまでは良かったのだが、あの普段大人しいツヨシ君があそこまで大胆な行動を取るとは思っておらず、ドギマギしたボタンは彼が家に戻った隙をついて逃げ出してしまったのだ。

 彼に触ってもらうことについては正直やぶさかではなかった。心の準備ができてなくて、今日は思わず逃げてしまったけれども……。

 でも今日の様子を見た限り、この調子でいけば、明日以降はもっと踏み込んできてくれるのではないだろうか。


 ……そんなボタンの思惑とは裏腹に、その日以降ツヨシは触ってくれるどころか近づいてさえ来てくれない。

 なんで?! この前はあんなにすごかったのに!

 君に興味を持ってもらいたいがためだけにこんな格好になってるのに!

 ほら気づいて!気づいて!


 道路の側から見えにくいのだろうかと思って場所を色々変えてみるが、彼は明らかにこちらの存在に気づいているはずなのに、立ち止まってさえくれない。

 あの日とは別人のように澄ました顔で歩き去っていく後ろ姿を見ているうち、ボタンはだんだん悔しくなってくる。

 もうこうなったら何がなんでも、彼をこちら側に誘き寄せてやる!

 それまで人目を恥じらって行動を起こせずにいたことも忘れて、ボタンはなりふり構わずアピールする。彼の視界に収まるべく、日に日に蕾の大きさが膨らんでいって、いよいよ元の人間の姿の背丈と変わらなくなる。

 同時に、自分でも気づかないうちに体内で臭い成分が濃縮されており、花弁が綻び出したのをきっかけに堰を切って撒き散らされていた。



 ほとんど無意識にばら撒いていた香りのおかげで、果たして望み通りツヨシを自分のもとまで連れてくることに成功した。

 誤算があるとすれば、自らが魅了した結果、目標に対してまっしぐらになった彼の膂力が彼女の想像以上だったことだ。ボタンの花弁にがしっと手をかけてくる。

 ボタンは、ツヨシが我を忘れて口を押し付けてきた時に感じた恐怖をこの瞬間まで忘れてしまっていたことに気づく。


 ちょっ、強すぎる!

 急にそんなことしたらダメだって!

 ……まずい、隠れるのが間に合わない!


 ボタンの体勢が整わないうちにツヨシは香りの根源に辿り着こうと、ものすごい勢いでバサッバサッと紺色の肉厚な花弁を次々捲り上げていってしまう。花弁自体がなんとか抵抗しようとはためいている。外側に垂れた花弁も必死で肩や肘に後ろから巻き付いて押さえ込もうとする。が、平べったい形状に分散された筋力では残念ながら力不足だった。


 何枚も何枚も剥いでいった最奥で、ツヨシは遂にその花の得体を知る。

 産毛のようにフワフワした花弁に包まれたボタンの顔が、瞼を閉じて眠っているようなその表情が露わになった。



 終わった……。

 ボタンは胸中で絶望した。

 彼が驚愕の表情を浮かべているのがよく分かる。正体がバレてしまった以上、魅了も切れて我に返っているはず。私が彼をここまで誘導してきたことにもきっと気づいているだろう。

 冷静になった頭にあらゆる恥ずかしさが押し寄せてくる。なぜ私は、こんな人間としても植物としても中途半端な滑稽な姿に身をやつしてしまっているのだろう。なぜ私は、先に繋がる見込みのない誘惑の手札に頼ってしまったのだろう。

 ……一体、彼からどんなふうに嘲られてしまうのだろうか。

 人をたぶらかす異形の化け物…………人外に姿を変えてまで男を幻惑するはしたない女…………だらしなく花弁を広げて体臭を撒き散らす卑しい駄花…………。

 もう、どうにでもなればいい。自分で自分に除草剤をぶっかけたいくらいだった。



 鏡を見なくても分かるくらい青ざめた顔でボタンがそんなことを考えていた時、突如熱い感触が彼女を襲った。

 驚きのあまり、思わず、ずっと閉じられたままだった両瞼が開く。

 ツヨシが、ボタンの唇に自らの唇を押しつけている。

 突然の出来事にボタンは抗うこともせず、二人とも時間が止まったようにその体勢のまま静止していた。

 体感的には限りなく永遠に近いところまで引き伸ばされたような数秒間ののち、彼はようやく唇を剥がしていく。


 いまだ動揺した状態のボタンの視線を外すように、自分から仕掛けておきながらツヨシは面映ゆそうに瞬きしたり、明後日方向に目をキョロキョロと泳がせたりしている。

 ボタンは今更気づいた。いつの間にか、彼の背丈が前よりも大きくなり、肩周りががっしりとしてきていた。成長期の体は目を離した隙に見違えるような変化を遂げるものだ。頬にあどけなさが残っていた顔つきにも精悍さが備わり始めていた。

 変わっていったのは彼女だけではなかったのだ。



 唇に残る余韻を舌先で確かめながら、彼は素朴な感想を零す。

「なるほど、そっか。やっぱ甘いんだ」

 その時、どこかから凄まじい突風が吹いてきて、バサバサバサと巻き上げられたボタンの花弁が重なり合い、彼女の顔とツヨシの体を覆い隠してしまう。

 二人の姿が外界からは見えなくなる。


 いつも通り、空き地の前を通りがかる人影はない。人ふたりを包み込んだその巨大な花に目を留める者は誰一人いない。

本当は年末年始にもう何本か書きたかったんですが、のんびりしているうちにこんなに時間が経っちゃいました。

自分で色々考えて書くのが楽しいので、できれば今後も時間見つけつつマイペースで書いていけたらなと思ってます。

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