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ヤマダヒフミ自選評論集

エミール・ルートヴィヒ 「ナポレオン」  

 エミール・ルートヴィヒの「ナポレオン」を読んだ。色々な事を思い、色々勉強になったが、ある一点に絞って話す事にする。

 

 ナポレオンはおそらく、歴史上最も有能な人物だったろう。彼は常に活動している。常に計算し、命令を出している。彼の現実感覚は恐るべきもので、彼は数字を重視していた。彼は数学に強く、一流の数学者をエジプトに連れて行きもした。数字は客観的な物であり、これが彼の作戦立案に大きく関与していた。彼は現実を見つめ、その上で計算し、計画を立てる。計画が挫折したと分かった瞬間、次の作戦を立てる。新たに変容した現実を土台にして。

 

 しかし、その現実感覚と相反する理想は彼にとってあまりに巨大だった。「人が理想を掴むのではない。理想が人を掴むのだ」という言葉があるが、その言葉を最も強烈に体現した人物がナポレオンだったろう。最も、天才というのはみな、そのような印象を我々に抱かせるものだが。

 

 ナポレオンの理想はプルターク英雄伝を読むなどして鍛えられた。彼はアレクサンダー大王や、カエサルになりたかった。彼は若い頃、孤独に本を読む青年だったらしい。それが彼の夢を、理想を育んだ。人がどのように言おうと、世界を変革する力は夢から現れる。理想から現れる。この理想を凡人は笑う。「それは頭の中にある出来事でしかないではないか」と。だが、凡人はやがて、この夢の道具になる。夢を持たない者は、夢を持つ者に敗北する。

 

 …ここで言う夢とは「構想力」とでも言い直した方がいいのかもしれない。ナポレオンはアジアを目指していた。ヨーロッパ支配は、その前提だった。だが、彼の夢はヨーロッパに始まり、ヨーロッパに終わった。彼は挫折し、夢を叶え損ねたが、それは人間にはあまりにも過大な夢を抱いたからである。挫折可能なのは天才に限られる。凡人に挫折はない。

 

 過大な夢を抱いたナポレオンは、徹底した近代人だった。ここに彼の悲劇がある。中世人ジャンヌ・ダルクとは違った悲劇があった。ナポレオンは「信教の自由」を推奨したが、信教の自由を平気で勧められる人間は、何者も信じていない人間に限られる。敬虔なキリスト教徒や敬虔なイスラム教徒が「信教の自由」を推奨する事など、ありえない。信じていない人間だけが、そのような政策を可能とする。

 

 それでは彼は何を信じたか。ここに近代の特徴が現れてくる。彼は自分を信じていた。彼の自我そのものが、絶対神だった。だがこの自我は、英雄幻想に彩られていた。ここに近代の複雑な音色が現れてくる。

 

 マルティン・ブーバーは「我と汝」でナポレオンについて次のように語っている。

 

 「おそらく、ナポレオンは、自己を取り巻く人々を、彼の目的に利用し、適用させる種々の作業能力をもつ機械として眺めていたにちがいない。それどころか、自分自身も機械として見ていた」

 

 ナポレオンの伝記を読んだ後、この言葉に接すると、実に正確な知見だというのがよく分かる。同時代の才人、スタール夫人もこれに近い言葉を残している。

 

 ナポレオンにとって、世界は夢を実現させる為の機械だった。彼にとっては彼自身も機械だった。ナポレオンの霊を呼び出し、尋ねてみれば、彼は「余は全く無私の人間だった。余に人の言うエゴイズムは微塵もない」と言っただろう。だがその彼は、人々を指揮し、何百万という人間を死に追いやった。彼は彼の夢の為に、他人を犠牲にしたのではないか。他人から見ればナポレオンはエゴイズムの塊ではないのか。

 

 これは解決可能な問題である。他人から見ればナポレオンは、己しか考えていないエゴイストだった。時折、人間らしい愛情を示しはするが、彼の自我は至高の位置にあった。彼は彼と同列の精神を認められなかった。ゲーテとの会談の際、ゲーテにフランスに来るように誘っている。ゲーテに興味があったのはナポレオンという天才だったが、ナポレオンはゲーテの天才を認めつつも、それを尊重する関係を保つという法は知らなかった。彼は、無意識的に、ゲーテを自らの夢の手段にしようとした。その為に、ゲーテをフランスに誘ったのである。ゲーテは柔らかにこれを拒絶した。

 

 他人から見れば、己しか考えていないナポレオンは、同時に無私の人間だった。伝記を読むと、証拠はいくつも見つかる。

 

 ナポレオンは、ハプスブルク家の皇女と無理やり結婚し、世継ぎを産ませている。彼はこの女、マリー・ルイーズを愛していなかった。愛していたのは妻のジョゼフィーヌと、愛人のマリア・ヴァレフスカだったろう。しかし、彼は愛している女と離れてでも、さほど魅力もなく、愛してもいない女と結婚するのを望んだ。というのは、彼は家庭的幸福を捨ててでも、野望を叶えるのを優先したからだ。彼はその気になれば家庭的幸福を十分堪能できる人物だった。そういう平凡な男の姿も持っていた。だが、それは彼の野心からすればちっぽけなものに過ぎなかった。そこで、彼は愛していない女と結婚したり、好きでもない人間と顔を突合したりする事ができたのである。

 

 彼は彼の夢の奴隷だった。これほど徹底的に、自らの理想の奴隷になった人間を私は他に知らない。ここには恐るべきものがある。多くの人が魅了されると共に、多くの人が恐れたのはこの力だった。彼の無私性は、兵士達を奮い立たせた。この人の為なら死んでもいいと思わせた。だが、「その人」は、一兵卒などに見向きもしていなかった。見向きしていれば、ああもたやすく号令を出せない。彼は、自分自身をも尊重していなかった。彼の理想に際して、彼自身は最初の手駒に過ぎなかった。人々がナポレオンを信じたのは、この無私が人々に伝わったが為であろうし、多くの人を死に至らしめた、その力もこの無私から来ていた。

 

 ナポレオンはそのような存在だった。彼は晩年、セントヘレナ島に幽閉されている。そこは高温多湿で死を待つばかりの環境で、監督を命じられたハドソン・ローは小悪党で、ナポレオンをいじめ殺した。ナポレオンはその中でもできる事を見つけようとする。

 

 ナポレオンが最後に起こした奇跡は、美しい豊かな庭園を作った事だとルートヴィヒは書いている。彼は少数の部下に命じて、庭園づくりに精を出した。庭園は島で評判を呼び、「総督の娘が密かに見学に訪れるまでになる」。

 

 ヨーロッパを相手取り、大勢の人間を指揮していた帝王が今や、幽閉された孤島で、庭園づくりを指示している。これは哀れで滑稽な姿かと言えば、そうかもしれない。だが、私は、ここに同一の精神の貫徹を感じる。彼は依然、ナポレオンであり、自分の理想を実現する為の行為を求めている。それが庭園づくりであろうと、世界を相手取った争いであろうと、彼には同一の事柄なのだ。彼は最後までナポレオンだった。

 

 この非凡な自我は、最後の最後まで命令を下し、自分と同列の精神をどこにも見いださなかった。彼は自らの理想に服従したので、理想以上の存在を認める事ができなかった。彼は神を信じる事ができなかった。彼の夢は歴史の中をさまよっており、その歴史は紙の中の、理想としての、頭脳の中にだけあるもので、決して現実のそれではなかった。その夢が彼に多大な力を与えたが、ヨーロッパはこの夢に疲れ、彼を殺す事にした。

 

 ナポレオンの失敗は、彼自身の勘違いに一つの原因がある。彼がエルバ島から脱出し、フランス王に返り咲いた時、以前の自分を改めれば、事はうまくいくと考えていたらしい。その為には、和平をも試みるつもりだったようだ。ところが、世界にとってはナポレオンという存在そのものが厄介になっていた。ナポレオンにとっては、我=ナポレオンがいかなる者であるかが問題であり、それ次第で事はうまくいったりいかなかったりすると考えていた。

 

 だが、ナポレオンに疲弊した国民や軍人はそう見ていなかった。ヨーロッパは、ナポレオンという存在自体に疲れていた。彼の夢がヨーロッパを蹂躙するのにもはや耐えられなかった。ナポレオンが何者になろうが、彼が剃髪し僧侶になろうが、次の瞬間にはそこを抜け出しまた波乱を起こすかもしれない。また夢の続きを始めるかもしれない。それがヨーロッパにとっては恐るべき事だった。

 

 ここに齟齬があった。しかし、この齟齬をナポレオンが乗り越えるのは不可能に違いなかった。彼は近代人であり、神を信じていない。理想を信じているが、その理想を実現するのナポレオンという絶対自我だけである。ヨーロッパは彼抜きの世界を望んでいたが、ナポレオンには彼を除いた世界を想像する事も、許す事もできなかった。彼が死ぬまで固執したのはそれだった。彼は、セントヘレナにまでついてきた部下らに、歴史の上に自分の価値を伝達するのを願っていた。彼は彼の自我を歴史の上に投げかけたかった。それこそが彼の宿望であり、彼を除いた歴史などは忌まわしいばかりだった。

 

 彼は自らの死に際して、自分の汚名を雪ごうとした。イギリスが彼をセントヘレナに幽閉したのは間違いだった、と。彼の諸価値は歴史によって回復されるだろう、と。彼の理想は現実とのギャップとなって現れ、それは歴史上に求められる他なかった。

 

 ナポレオンはおよそ徹底した近代人だった。ルソーやヴォルテールの思想を土台として現れ、自我を何者の上にも君臨するものとして認めた。彼は大衆を動かしたが、その為には利益という、これもまた近代人にとって信仰の対象とでも言うべきものを利用した。彼は部下をも信じていなかったが、自分をもさほど信じていなかった。ただ、彼の理想が彼の存在と共に没していく時、自分の滅亡を感じざるを得なかった。その時、彼は彼を中心に回る宇宙体系にヒビが入ったのを知った。だが、彼はその外側を思い浮かべる事はできなかった。彼は彼の自我を歴史の中に委託し、死んだ。

 

 したがって、彼の「存在」を描くのは彼とは違う「他者」でなければならない。エミール・ルートヴィヒの伝記が正にそれであろう。この伝記は私にはとても有益だった…。フランスが、ヨーロッパが、真にナポレオンを英雄視できたのは、彼が死没した為だ。ヨーロッパはこの男の自我に、夢に、疲れていた。彼の夢は、ゲーテであれば、日没のようなものだと言えただろう。即ち、太陽は没しても消えたわけではなく、存在し続け、動き続けていると。ゲーテには彼流の信仰があったが、ナポレオンには信仰はなかった。だから、ナポレオンは自らが没する時、世界も没するように感じた。

 

 それでも、彼には残された部下を自らと同じ死地に引きずり込むような真似はできなかった。彼はそれだけ誇り高かったのである。彼が誇り高くあろうとした事が、結果的に他人を魅了した。だが、全く同一の事柄が、彼をして彼以上の存在を世界に存在させるのを許さなかった。…というより、彼は生の最初から現実に足を着けていなかったと言った方がいいかもしれない。彼は理想に生き、群衆も彼自身もその道具に過ぎなかった。

 

 彼は死んで、ようやく現実の軛を脱した。というのは、彼はそれほどに精神的な存在だったので、その精神はどこに行こうとも彼自身を離れず、絶えず何かを命令し、実行するようにできていた。おそらく、彼はいつまでも夢の中で兵隊を繰り続けているだろう。その中心は依然として彼自身であり、彼の脳中ではきっと、我々には預かり知らない夢が勝手に織られ続けていくのだろう。

 

 

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