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6th BET『精霊の支配する町』 1

 この世界に季節は存在するのだろうか?


 そんなことを考えながら、鈴は新緑の中を黙々と歩いていた。


 地球における季節は、地軸のズレによる太陽の南中高度と日照時間の違いによって生じたものだ。


 この世界にはおそらく太陽はない。見上げてみると、はるか上空には穏やかな雲が広がっていた。

 しかし、そのさらに上には青空は広がっていなかった。ぼんやりと霞んでいるが、木々の緑と大地の茶色だけがうっすらと浮かんで見えていた。


(本当に、空一面に鏡が敷き詰められてるみたいね……)


 太陽がないのに、光はどこから来るのか?

 この世界が地球のように球体でないとしたら、世界の果ては存在するのか?

 果てが存在したとして、その先には何があるのか?


 この世界に来てからというもの、見るもの触れるものすべてが理解できなかった。まるで、自分が科学を習いたての小学生に戻ったかのような錯覚を覚えるほどに。

 研究者として、これほどに魅力的な世界はないのかもしれないが、研究の対象が多すぎた。


 高級ホテルのビュッフェで、どれから手を付けていいのかわからない感覚に似ていた。目移りは収まらず、涎も止まらない。


 ふと気づくと、少し小ぶりで肉厚の唇から本当に涎が垂れかかっていた。隣を歩く凛に悟られぬよう、慌てて白衣の袖で口元を拭った。


(それにしても、もどかしい。実験が……したいなあ……)


「はあ……」


 満たされぬ欲求を外に吐き出すように、思わずため息がこぼれ出た。


「逢沢先生よ、溜息なんかこぼしてどうした?」


 隣を歩く男を見上げて、鈴はさらにため息をついた。

 小柄な自分よりも頭二つ分は身長差のあるこの男は、出会ってから1日程度しかたっていないが、自分のことを『先生』と呼ぶようになっていた。

 地球では塾の講師をしていたこともあるため、そう呼ばれることには違和感はなかったが、彼にそう呼ばれるとどうにもむず痒い気分になるのだった。


「ため息をつくには、いくつか理由はあるわ。その理由の一つは、あなたにもあるのよ?冴木君」


「そうかあ。いやまあ、思い当たる節はあるから、すいませんとしか言えねえけど」


 あはは、と空笑いを浮かべて、ごまかそうとしている。


 どうにも不思議な男だった。

 普段は、コミュ障の鈴ですらたやすく思考が読み取れるほどに感情が明け透けなくせに、先ほどのように、いざ真剣勝負となると完全に何を考えているか読めなくなる。

 それは、おそらく勝負を仕掛けた相手側も同じことだっただろう。


 便宜上、というか『先生』と呼ばれた手前、鈴は凛のことを『君付け』で呼ぶようになっていた。

 確かに、こういう他愛無いやり取りをしている間は教師と教え子のような関係と呼んでも差し支えなかったが、勝負の世界に没入した凛に対してはどう声をかけていいかわからなくなってしまった。


「まったく、あなたの行動には理解に苦しむ点が多すぎるわ」


「まあいいじゃないか。結果的に、こうやって二人とも無事だったんだし」


「結果論だけで物事を判断していると、いつか痛い目に遭うわよ?」


「それもまた一興。負けた時に痛い目を見ないような勝負に、興味はないね」


 悪びれた様子もなく、肩をすくめて苦笑した。おそらく、本心からのセリフなのだろう。

 彼は、根っからのギャンブラーなのだ。勝ちも、負けも、おそらく等価値に楽しんでいる。


 その言葉に、鈴は思わず立ち止まってしまった。


「今、少しだけあなたの言ってることに共感できちゃったわ」


「そうだろ?」


 研究もそうだった。没頭している間は『失敗すらも楽しい』のだ。ただ、没頭している時間そのものを幸福に感じる。


「真に優れた研究は、失敗からも多くのことを学べる。私の恩師の教えだわ」


「お、いいこと言うねえ」


 賛同されたことに素直に喜んだようで、凛が機嫌よく指を鳴らした。


《それで……》


 ふいに、二人の会話の隙間を縫うように、鈴の両腕にある銀の腕輪が声を上げた。

 普段は穏やかな女性のような声だが、今は少しだけとげがあるように感じられた。


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「ああ、もちろんだぜ!」


 堂々と胸を張り、凛はにこやかに銀の腕輪、神器ヘスにそう返答した。


《私もこの世に生を受けてからずいぶんと経ちますが。あなたのような人は初めてです……!》


「お褒めにあずかり、光栄だね。そこらの凡百な男どもと一緒にされちゃあ、困るからな」


「冴木君、たぶん、ヘスは褒めてないわ。呆れてるのよ」


《あなたはあの剣の価値を分かっているのですか?あの剣は、唯一邪神を打ち滅ぼす可能性を秘めた、この世界で最も価値ある剣なのですよ?》


「生憎だが、俺の中には俺以上に価値のあるものは存在しないね。邪神を倒せても、俺が死んだ世界には意味はない、そう思わねえか?」


「……はあ」


 鈴は、再びため息をついた。

 つまり、目の前にいる冴木凛という男は、こういう男だったのだ。


「またため息なんかついて、先生も俺に呆れてるのかよ?」


「……好きに解釈してもらっていいわ……」


「ちょっと待った。先生、あんたは少し誤解しているんじゃないか?俺だって考えなしに勝負を挑んだわけじゃないからな?」


 ヘスにはいくら侮蔑されても平気そうだったのに、鈴のため息には我慢がならないようだった。

 どうにも理解しがたいが、鈴は凛の説く理屈を聞いてみることにした。


「一番大事なのは、俺たちの身の安全だ。そこは理解してくれるよな?」


 鈴は黙ってうなずいた。


「あの状況での最悪手は、意味も分からず相手の提案に乗ることだ。呼び出された対価を払えだなんて、キャッチセールスの常套句じゃねえか。ただ木の実を湖に投げただけで命や寿命を取られたんじゃあ、割に合わない」


「それじゃあ、呼び出された対価を払えって言われたときに素直にあの剣を差し出しておけばよかったんじゃないの?」


 鈴の青い瞳が引き絞られようとしていた。

 相手の発言の意図が組めなかったり、理論が破綻しているのを彼女は何よりも嫌う。

 しかし、凛は今は落ち着いて続きを説明した。


「呼び出された対価にしては、あの剣はもったいない。ライターで済んだのなら、それで引き下がったがな。勝負を挑んで、あるいは勝利すればただで見逃してもらえるどころか力まで貸してくれたんなら、そっちのほうがお得だよな」

 

 いったん呼吸を落ち着けるように、言葉を切る。


「なあヘス?俺も少しはあの剣の価値は理解してるつもりだ。俺たちの寿命や命と比べても、あの精霊とやらには俺の持ってる剣のほうが魅力的に映ったはずだ。どのみちあの木偶の棒はあと半日くらいはナマクラのままだし、ありえないくらいに頑丈だったから壊されることもないだろ」


《……》


 沈黙であっても、ヘスの心境が伝わってきた。彼は確かに勘が鋭く、状況判断も的確だった。物事の大まかな状態を即座に見抜く力は、鈴にはとても真似できない彼ならではの能力だった。


 神剣エクス=ディンガーはあらゆるものを斬り裂き、本体は決して傷つくことはない。代償として、能力を使った後は24時間使用不能になる。

 凛は、神剣の特性をよく理解していた。


「だから勝負を仕掛けた。賭博場にも『ハウスルール』ってのがある。そいつを理解しないで勝負に全財産突っ込むのは馬鹿がやることさ」


「……」


 鈴は、凛の説明を頭の中で吟味した。

 鈴の思考は決して早くない。しかし、何度でも繰り返し考察し、自分で納得できるまで考え抜く力は誰よりも優れていると自負していた。

 しばらくの沈黙の後、鈴は静かに彼の意見の妥当性を評価した。


「異論は、ないわ。でも、ひとつ聞かせて?」


「なんでもどうぞ?」


「ハウスルールを理解したいってことは……あなたはあの精霊ともう一度勝負するつもりなの?」


「当然だろ!?負けたままで引き下がれるかよ?ギャンブルの負けは、ギャンブルで取り戻すんだよ!」


 鈴は再びため息をついた。

 理は通っていたが、確かにこの男はそのあたりの普通の男とは違う。


(要は、なによりも勝負が好きなのね)


「それで、ハウスルールってのはわかったの?」


「ああ、大体だけどな。大まかに4つだ」


 凛は人差し指を立てた。


「一つ目は、先生も見た通り。勝負の内容だ。勝敗の基準や、その他のルールもシンプルで分かりやすかった。次は対策を立てるさ」


 続いて、中指を立てた。


「二つ目は、対価の支払いには強制力が伴うってことだ。負けを認めた後、俺はあの木偶の棒を渡そうとは思わなかった。おそらく、あの木偶の棒本人もそのつもりだったろう。でも、剣は俺たちの意思とは無関係に奴の手元に渡った。これは、対価の支払いには法律よりも強い強制力が働いてるってことだ。きっと、奴が負けた時にも同じように力は働くだろう。負けを認めさせれば、あいつは本当に剣も返すし、力も貸してくれるだろうさ」


 鈴は、その意見に半分だけ賛同し、ひとつの異論を提示した。


「確かに、その可能性は高いわね。なにより、あの精霊たちを生み出したという邪神自らが『勝負と契約は絶対』と言い切ったくらいですものね。ただし、あの透明な蛇自身の能力で無理やり剣を奪った可能性も否定はできないわ。負けを認めさせても、その力で盤上をひっくり返されることは考慮すべきよ」


「いい指摘だね。たしかに、賭博場でも勝ちが積もりすぎると、別の力が働いて痛い目に遭わされたことは何度もあるしな」


(本当に、痛い目を見てきたみたいね……)


 心の中だけで、素直に感心した。どうやら凛の言葉に偽りはないようだった。痛い目に遭わされた過去も笑って話している。

 彼は、負けも勝ちと同じように楽しんでいた。


「確かに、奴の言う『契約』の正体がはっきりしないと、そこはわからないままだな」


「それで、三つめは?」


 凛は薬指を立てた。


「ああ、3つ目はさらに推測の域を出ないが、俺の直感は間違いないと言っている。あの精霊は、()()使()()()()()()()()()()()


「その推論の根拠は?」


「あいつにさっき会った時、変に思わなかったか?あいつは、木の実を投げ入れただけで怒って出てきたんだぜ?」


 二人は森の中を、小川に沿って歩いていた。

 凛は説明しながら、足元に遭った小石を川に投げ入れた。先ほどの湖と同様に、水面に触れた小石は音もたてずに水中に沈んでいった。


「まあ、気が短い蛇だとは思ったけど?」


「先生よ。俺たちは昨日、二人であの湖の中に落っこちたんだぜ?木の実は我慢ならねえが、男と女が仲良く抱き合って落ちてくるのは許せるってのは、少し無理があると思うね。俺たちが落っこちた時、あいつにとっては都合の悪い状態だったのさ」


「……いつも、あの湖にあの蛇がいるとは限らないでしょ?たまたま留守にしていただけかも」


「もちろんその可能性もある。だからこの推論はこのあたりが限界さ」


「最後のルールは?」


 凛は促されるままに小指を立てた。そして、今までで一番愉快そうに、そして不敵に笑みを浮かべた。


「精霊とか契約とか偉そうなことを言っておきながら……あの野郎、イカサマしてやがった……!」


 凛の迫力に、鈴もヘスも言葉をしばし失った。

 凛の発する笑みは、イカサマによって勝負を汚されたことに対する怒りでも、それを見抜けなかった自分に対する怒りでもなかった。


 どうやって、次は勝ってやろうか?という、勝負に対する執念からくるものだった。


「イカサマの正体まではわからなかったみたいね?」


「ああ、残念ながらな」


《それで、これからどうするおつもりですか?》


 元の通りに落ち着いた優しい声で、ヘスがそう問いかける。どうやら先ほどの凛の説明は、ヘスの彼に対する不信を拭い去るには十分だったようだ。

 もっとも、別の畏怖の念を抱いたのはヘスも鈴も同様だったが。


「そうそう、もう一つだけわかったことがあったな」


 五本目の親指を立てながら、凛は笑った。


「あいつはこう言った。『契約者は他にもいる』ってな……。ちょっと心配だったんだよ。この世界に俺たち以外に人はいないんじゃないかって思ってたんだ」


 小川に沿って歩いていた二人は、やがて森を抜けた。

 森の木々の向こうには、城壁に囲まれた、大きな町が広がっていた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「川に沿って歩いていけば、人の住む集落に行きつくと思ってたが。思ったよりも大きかったな」


「そうね。城壁が大きすぎて、町の規模もわからないなんてね」


 水は貴重な資源である。太古から、人は水の近くで生活をしてきた。

 それはこの異世界でも変わらないようだった。歩いてきた小川は、まっすぐに城壁の中に流れ込んでいた。小川だけではない、大小無数の川が、目の前の城壁に向かっていた。


 むろん、川の流れの先に町ができたのだろうが、こうしてみると町に向かって小川の水が飲みこまれていくような錯覚を覚えた。

 先ほどまで、水を操る精霊と対峙していたためかもしれない。


「とにかく、これで得体のしれない果物ともおさらばできそうだな」


 凛が森から出ようとしたその時、川の向こうから怒声が響いた。鈴が目を凝らすと、川沿いで誰かが言い争っている様子だった。

 二人組の兵士が、小さな子供を取り囲み、剣を突き付けていた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「このガキ。子供とはいえ、この水がどれだけ神聖なものかわかってやっているのだろうな?」


「領主様の許しもなく、この水に触れることが何を意味するか、覚悟もあってのことだな?」


「ご、ごめんなさい……!母さんの具合が悪くて、どうしても水が必要だったんだ……!」


「そのような身勝手な理由で、手を付けてよいものではない!!」


 鎧を着た兵士は、むしろ楽しむようなしぐさで剣を少年の眉間につきつけた。眉間に走る絶望的な悪寒をこらえながら、それでも少年は主張をやめなかった。


「どうしても、今必要だったんだ!兵士さんたちも自分の家族が病気になったことあるだろ!?」


「気持ちはわかるが、坊主。そのためにやさしい城主様は我々に水を分け与えてくださっているのではないか?分を超えた要求は、身を亡ぼすぞ」


「あれっぽっちじゃ全然足りないよ!」という言葉はぐっと胸に押し込んだ。今は、とにかく兵士の気分を害してはならない。


 二人目の兵士が、少年の頭蓋骨を挟み込むように、今度は後頭部に剣先を突き付けた。

 少年は身動き一つできない。動けば、眉間か後頭部のどちらかが貫かれる。


 少年にはわかっているようだった。この兵士たちにはもともと聞く耳など持っていないということを。

 水を盗もうとしているところを見つかった時点ですべては終わりだった。兵士たちの頭にあるのは、いかに楽しんで目の前の少年をいたぶるか。ただそれだけだった。


 しかし、少年は目をそらさずに兵士を見つめ続けた。

 可能性がわずかでもあれば、それに賭けなくてはいけない。今、自分が死んだら母親を一人残していくことになる。


 そんなことは絶対に嫌だった。


 最後の瞬間まで、少年は目の前の兵士の情に訴え続けた。精一杯哀れに、同情を誘うような、みじめな姿を演じた。

 どんなに無様でも構わない。絶対に、母のもとに帰るのだ。


「お願いだよお、命だけは助けてください……」


 涙を流し、懇願する。しかし、それは却って兵士たちを喜ばせるだけのようだった。

 少年は、自分の努力がすべて無駄になってしまうのかもしれないという虚無感に、不意に襲われた。

 全身から力が抜けるのが分かった。避けられない死を、悟ったのだ。


 兵士の剣が滑らかに少年の指を捉える。痛みとともに、流れ出す血液。

 それでも、必死に訴え続けた。


 兵士は笑いながらで剣をふり上げた。

 最後の瞬間、せめて母の顔を思い浮かべたいと、少年は目を閉じた。


 少年の訴えは兵士には届かなった。しかし、その訴えを受け取った者は別にいた。それは、少年の訴えを聞き入れ、少年を救うべく行動を起こしていた。


 そしてそれは、森の奥からやってきた。


「助けてくれえええええええ!」


 少年は、その声に思わず目を開けた。ひょっとして、自分を助けてくれる勇者が都合よく表れたのではないかと、声のしたほうを向いた。

 しかし、少年が見たのは、今の自分よりもさらに哀れな男の姿だった。

 あの男に比べば、自分が命がけで必死に演技しようとしていたみじめさが、滑稽な小芝居に見えるほどだった。


 恐怖に歪んだ顔は、涙でびしょびしょに濡れ、いたるところに火傷の跡があった。

 着ていた衣服もびりびりに引き裂かれており、髪の毛も炎に焼かれたように黒焦げになっていた。

 そして、あろうことか股間はじっとりと湿っていた。失禁している様子だ。


 その男からは、真の恐怖を体験した者の、本物の哀れさがにじみ出ていた。


「おまえ……なぜ森から出てきた……!?」


 その男の、ある意味圧倒的な迫力に、兵士たちもたじろいだ様子だった。


「た……たすけてえええええ……」


 突き出された剣に、むしろ縋り付くように男は跪いた。剣を両手で握りしめ、懇願するように兵士達を見上げる。

 剣を握りしめた手からは真っ赤な血が流れていたが、そんなことは些細な事だといわんばかりに、男は続けた。


「赤い……赤いドラゴン……が……あれはきっとファイアドラゴンだ……!」


 森の奥を指さしながら、男は震えた視線で兵士にそう告げた。


「ファイアドラゴン!?まさか、こんな下界に奴らが現れるわけが……」


「それに、前回からまだ4日も経っていないぞ。早すぎる……!」


 相談しあう二人の声にかぶせるように、男の声はさらに絶叫に変わった。


「ああああああ!もうすぐそこに来てるうううううう!炎が……炎があああああああ!!??」


 その言葉の通り、森の奥から火の手が上がっていた。

 普通の森林火災とは異なり、目の前の炎はあっという間に周囲に燃え広がっていく。確かに、尋常な光景ではなかった。


「た、確かにこれはただ事ではないな」


「ああ、急ぎ城に戻り、応援を呼ばねば……!」


 状況に押し流されるように、二人は剣を鞘に納め、後ずさるように城壁に向かって歩き出した。


「待ってくれ!俺も連れて行ってくれええ。もう、歩けねえんだあああ!」


 兵士たちの足元に男が縋り付く。


「ええい、放せ!」


 もう一人の兵士が男を思いっきり蹴り飛ばす。男の鼻がつぶれ、鮮血が飛び散った。

 蹴り飛ばされた男は、想像以上に吹き飛び、少年の上に覆いかぶさるように倒れこんだ。


「頼む、待ってくれ……いかないでくれええええ」


 泣き叫びながら、本当に力尽きたように少年の上から動こうとしない。


「お前たちは、ここに残り、少しでも奴の足止めをするんだ。すぐに応援を呼ぶ。よいな!」


 身勝手極まりない理屈をつけると、その理屈に自分で納得したようで、二人の兵士は一目散に城に走り出していった。

 その間も、哀れな男はあらん限りの絶叫を上げ続けた。後半は、もはや何を言っているのか聞き取れないほどだったが。

 いずれにせよ、少年はこの男が邪魔で身動き一つできなかった。


「おじさん、落ち着いて!這ってでもいいから、二人でここから逃げよう!」


 何とか男の体の下から這い出すと、少年は男をなんとか勇気づけるように肩をたたいた。

 気づけば、兵士たちははるか彼方に見えなくなっていた。

 結果的に、この男と森の奥の怪物に助けられたことになるのだろうか?


 すくなくとも、あのままでは兵士たちに殺されてしまっていただろうから、多少はマシになったのだろう。後は、この情けない男と一緒に、森の奥の怪物から逃げ出さなくてはいけない。


 少年は、涙にぬれた男の顔を改めて覗き込んだ。

 するとどうだろう。少年は、目の前の男が急に別人になったような錯覚を覚えた。


 黒焦げの肌に、ちりちりの髪の毛。涙でぐしょぐしょになった顔面もそのままだったが、そこに浮かんでいた両の眼だけが別人のように鋭くなっていた。

 その視線は、はるか遠くに逃げ出した兵士たちの後を追っているようだった。


 しばらくの間、じっとそうしていると、再びその瞳に変化が訪れた。目じりは下がり、心の底から安堵したようなため息を吐き出した。

 訳が分からなくなり、少年はしばらくの間その場から動けなくなっていた。


 男は少年の全身を見回すと、指についた切り傷を発見した。先ほどの剣で斬られた後だ。思ったよりも傷口は深く、出血を続けていた。


「すまなかった。本当はもう少し前に気づいていたんだが。準備に少し手間取っちまってな」


 そういうと、そっと両手で少年の指を包み込んだ。その両手は、少年の指とは比べ物にならないほどの多量の出血の跡があった。

 真剣を素手で握りしめたのだ。指が落ちなかったのが不思議なほどだ。


「おーい、先生!もう大丈夫だ!」


 森の奥に合図をするように手を振った。

 すると、森全体を覆いつくさんばかりに燃え盛っていた炎が、見る間に鎮火していった。

 そしてしばらくすると、森の奥からもう一人の人影が姿を現した。


「ライターで火をつけて、あとはヘスの力で酸素との結合を促進する。あっという間に大火事の完成ね。火を素手で触って消すのも、さすがにもう慣れたわね」


 耳慣れない単語をつぶやきながら、少し煙たそうに咳込みながら一人の女性が歩いてくる。

 小柄なその姿を一目見て、少年はこの世に天使が降臨したのだと思った。

 黄金色の髪の毛に、透き通るような白い肌。感情すらも凍り付いたかのような透明な表情に浮かぶ、大きく丸い青い瞳に、少年の視線はくぎ付けになっていた。


「……天使様?」


 その女性は、奇妙な丈の長い白い服を脱ぐと、それをそっと男の肩にかけた。


「冴木君。あなた、加減ってものを知らないの?それに、よくもまあ自分で自分の体をそんなにボロボロにできるわね……」


 呆れたような、感心したような表情で、その女性は哀れな男を見つめていた。

 不思議と、その瞬間だけは女性の表情には暖かい慈愛の感情が浮かび上がったようだった。そして、その表情はそれまでの透明な顔よりも、はるかに美しかった。


「失敗したら二人とも殺されてたかもしれないんだぜ。勝率を上げるためならやれることは全部やる!それが俺の信条だ。それに、この程度で人ひとりの命が助かったんだ。随分と安い勝負だったぜ?」


 鼻血を出したままカラカラと笑うその姿に、不思議と少年は心惹かれていた。


「ひょっとして、おじさん。僕を助けるためにわざとこんな姿になったの?」


「手を出して頂戴」


 白銀の鈴のような声で、女性はそっと少年の横に膝をついた。とても美しい銀の腕輪を付けた両手で、少年の傷ついた手を抱える。

 冷たく、しっとりとしたその感触に、少年の鼓動が激しくなった。


「私、人体の構造についてはそれほど詳しくないの。だから、奇麗に結合させられないかもしれない……」


 不思議な言葉を告げると、少年の傷口に手が触れる。そして、少年は目の前で神の御業を目撃する。


「傷が……ふさがっていく……!」


「どうやら、出血は止まったみたいね。冴木君、あなたも手を出して。その両手の切り傷だけなら塞げそうよ」


「ええええ!?火傷や、この髪の毛まで戻せるんじゃないのかよ?」


「あなた、ヘスの説明をちゃんと聞いてた?ヘスの力はあくまで結合よ。燃焼して別の化合物になった皮膚や髪の毛は、元には戻せないわ」


 まじかー!と、男は膝をついてうなだれた。


「あなた、ひょっとしてヘスの力で何でも元に戻せると思ってたの?」


「ああ、この髪型……どうしよう……」


 先ほどの迫真の演技も心底憐れみを誘ったが、地面に突っ伏してさめざめと泣くその姿も、真に迫るものがあった。


「と、とにかく少年が無事でよかったぜ……」


 悲しみに濡れた表情で、静かに笑うと、男はよろよろ力なく立ち上がった。

 しかし、先ほどとは打って変わって、その姿はとても大きく見えた。


「ところで少年。少年はあの町に住んでんのか?」


「え……?そうだけど」


「それはよかった。実は、俺たち旅の途中で道に迷ったみたいでな。少しの間でいいから、街を案内してくれないか?」


 こんな危険な平野を、いったいどうやって移動してきたのか疑問だったが、深くは問い詰めないことにした。なにしろ、二人は命の恩人なのだから。


「もちろん、大丈夫だよ。よかったら僕の家においでよ」


 言ってすぐに後悔した。少年の小さな家に、この天使様をお迎えするなんてあまりにも失礼だと思ったのだ。


「ありがとう。実をいうと、私たちこのあたりの地理感がなくて、とても困っていたの」


「とんでもない!汚いところだけど、いつまでもいてくれていいよ!」


 完全に頭に血が上ったように、両手をぶんぶんと振り回した。

 当の天使様は少年の様子がおかしいことに全く気付いていないようだったが。


「ちょっと息苦しいけど、この町はいいところだよ?なにせ……」


 続く少年の紹介に、鈴の眉根が跳ね上がるのだった。


「なにせ、水の精霊様が守ってくれてるんだから」



もっと面白い話を書くため、ご協力をお願いします

率直な印象を星の数で教えていただければ幸いです


つまらなければ、遠慮なく星1つつけてやってください


感想も、「ここが分かりにくい!」「科学には興味ない!」など厳しい意見をお待ちしています

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