7th BET『精霊を支配する者』 7
音のない爆発が過ぎ去った後には、完全な静寂が訪れた。
つい先ほどまでは、豊かな湖水がその静寂を吸い尽くしているようであったが、今ではそれすらも跡形もなく消え去っていた。
神剣の一振りは、文字通りすべてを消し飛ばした。
一滴のこらず湖水の消え去った湖(今となっては、もはやそれは湖ではなく大きな穴でしかない)の底を、湖岸から覗き込む者がいた。
凛と鈴の二人だった。
「どうしたの、冴木君。こんな湖にもう用事はないでしょ?早く領主様たちにこのことを報告しに行きましょう」
「いいや先生。まだ仕上げが残ってるぜ」
「仕上げ?なんのこと?」
首をかしげる鈴。凛は湖の底を指さした。
「よく見てみなよ。底の方に何か動くものが見えねえか?」
鈴は目を細めて湖底を覗き込む。よくよく見てみると、確かに何か小さな物体が動いているように見える。
「おかしいわね。この湖にはてっきり生物は生息していないものだと思っていたのに」
この湖水の毒性が、人間を含めて周囲の生物にどれだけ悪影響を及ぼしてきたか。
しかし、そんな劣悪な環境でも生き残る生物がいることに、鈴は知的好奇心をくすぐられつつあった。
二人はカラカラに乾いた湖の底を、その生物を目指して歩き始めた。
「ヘスからは何となくイメージが伝わったんだけどよ。この水の秘密を、もう一度説明してくれないか?」
「いいけど…長くなるわよ?こんなに私を苦悩させた水は未だかつてなかったんだから」
「いや、そこをなんとか、簡潔に」
「仕方ないわね。簡単に説明しすぎて物事の本質が伝わらないのも、嫌いなんだけど」
ため息をついて、鈴は簡潔な説明を始めた。
「簡単に言うとね。水の精霊が操っていたのは、水の表面電荷、誤解を恐れずに言えば『静電気』のようなものよ」
「そうそう、確かそんなこと言ってた」
「あなた、よくそんな適当な認識でここの湖を斬れたわね」
《そこが我の力のすさまじいところじゃ。それに、性質を細かく定義しようとしすぎるとその分ズレも大きくなる。ある程度分かっている方が有効な場合もあるのじゃ》
《今回の我が主が、まさにそれでした。大雑把に『水』という認識だけ持たれていればもう少し私の力も作用したのですが》
「確かに、私の頭の中には水素と酸素の結合距離とかまでカッチリイメージされてたから…今回はそのせいで失敗したみたいね」
歩きながら、肩を落とす鈴。
「話がそれたわね。あの精霊は、『電子の偏り』を操作していたの。水分子が水素と酸素で構成されているのは知ってるわよね?水分子自体は電気的に中性でも、実は水素は少しだけプラスに、酸素も同じだけマイナスに帯電しているの。つまり、一つの水分子の中にプラスマイナスの偏りが生じてるってこと」
説明しながら、両手を握りこんで前に突き出す。
ぴたりとくっつけていた握り拳を、少しだけ左右に離しながら言葉を続ける。
「この偏りを大きくすると、水素結合も強くなってさっきみたいに自在に水を操ることもできるでしょうね。逆に、偏りを無くしてやれば密度が下がって着水衝撃も穏やかになるし、蒸発もしやすくなるの」
「よくわかんねえが、それだけで猛毒の水になったりするのか?」
「通常よりも電子の偏りが強い水分子は、生物の細胞により強く作用するでしょうね。水はそのまま生物の全身にめぐるわけだから、飲み続けていたらやがて全ての細胞も損傷するわ」
「水同士の静電気を利用して、水を動かしていたってわけか」
「その通りよ。水の精霊とは言ったものの、実際に操作していたのは電気だったわけだから、紛らわしいにもほどがあるわね」
「しっかし、よくそんなことに気づけたもんだな。やっぱ先生は大したもんだぜ」
「きっかけはこれだったわ」
鈴は、精製したニコチンを運んできた大瓶を見せる。中には鮮やかな赤い液体が入っていた。
「湖水を入れた瓶に、間違って自分の血液を流しちゃったの。すると、静脈を流れていた赤黒い血があっという間に鮮やかな赤色に変化したわ。これは、ヘモグロビンの中の鉄が酸素と結合したことを意味するの。ただの水に浸しただけでは、こんな反応起こらないわ。そこであたしは、この水が電気的に不安定な状態にあるんじゃないかと仮説を立てたの」
鈴の説明に次第に熱がこもり始める。それに反比例するように、鈴以外の3名の頭が混乱を始める。
鈴はそんなことにも気づかず、説明を続けた。
「決め手はこれよ。プレゼントしてくれて、本当に感謝してるわ」
凛は白衣のポケットから、化粧品の入った小箱を取り出した。
「そういえば、俺の最後の勝負やってるときに湖が爆発したように見えたけど、あれはこいつを使ったせいなのか?」
「正確には、化粧品に含まれていたある成分を、私が抽出してバラまいたせいなんだけどね」
「なんだか、またおっかなそうなものが出てくるんじゃねえだろうな?」
「そんなことないわ。化粧品に含まれるくらいなんだから、普通に使っている間は無害よ?粉末の名前は『酸化チタン』、水を分解する光触媒としては、最も有名でしょうね」
(もちろん、そんな名前聞いたことねえけどな)
そんな頭の中のツッコミなどおくびにも出さずに、凛は感心したように相槌を打つ。
「誤解を恐れずに言ってしまえば、この粉末は光合成ができるの。光を浴びて、そのエネルギーで水を水素と酸素に分解する。もちろん普通の状態ではあれほどの反応は起こらないわ。でも、電気的に不安定な状態の水であれば話は別よ。結果は見ての通り。すさまじい速度で水を分解してくれたわね」
「なるほどな…」
「冴木君。あなた全然わかってないでしょ?顔を見たらすぐわかるんだからね?」
ジト目で詰め寄ってくる鈴。人の感情は読めない癖に、こういったところだけは異常に感が鋭いから質が悪い。
「いやあ、そんなことはないさ。よく分かったよ。要は『こいつ』が電気を使って水を操っていたってことだろ?」
話しながら歩くうちに、二人は先ほどの謎の生物の間近にやってきていた。
生物は、水がない環境では生息が困難らしく、苦しげにのたうち回っていた。
「何これ…ウナギ…?」
鈴の頭の中の生物辞典と照らし合わせてみると、どうやらそれはウナギらしかった。サイズは手のひらに収まるほどに小さいが、黒くて細長いその独特の体形は、見れば凛でも判別ができるほどであった。
「電気を操るわけだから、さしずめ電気ウナギってとこかな?」
しゃがみ込み、見下ろすようにウナギを睨みつける。
「水を吹っ飛ばされたら呼吸ができないんだろ?どうだ、ちっとは領主様たちの苦しさが理解できたか?精霊様よ!?」
「これが…ウンディーネの正体なの!?」
驚いたようにウナギを見下ろす鈴。自称=水龍の精霊は、凛たちに散々ヘビ呼ばわりされていたが、その実態は実はウナギだったのだ。
「あたしは、てっきりあの透明な龍が精霊の正体かと…」
「あれもイカサマの一つさ。本体に見せかけた擬態を水上に出して、本体は水の底からカードの裏を覗き見てやがったのさ。せこいイカサマだぜ。だが、生物としての実体があったからこそ、俺の仕掛けたニコチンの罠も有効だったんだ」
『…殺せ…もう、我には何の力も残っておらん』
「いいや、もう少し俺の講義にも付き合ってもらうぜ。最初に俺が『お前の心臓をもらう』と言った時、お前は自分の心臓は賭けには釣り合わないって言ったんだ。透明な水龍のどこにそんなものがあると思うよ?あれで、俺はお前の実態がこの湖のどこかにいるって確信したんだ」
『…』
凛の指摘に沈黙するウナギ。勝負は、カードをめくる前からすでに始まっていたのだ。絶対的な支配者としての驕りが、周到な仕掛け見抜く目を曇らせていた。
『最後に…教えてくれ…最後の二者択一…どうしてジョーカーの位置が分かったのだ?』
息も絶え絶えの精霊の声。死を間近に感じながらも、勝敗を分けた要因は気になるらしい。勝負を絶対とする、精霊の性だろうか。
「モンティホール問題よ」
鈴が説明を引き継いだ。
「モンティホール…問題?」
引き継いだつもりだったが、肝心の凛から質問が返ってきてしまった。思わずメガネをずり落としそうになる鈴。
「冴木君。あなた、あのトリックの名前も知らずに使ってたの?」
「いやいや、賭博師の仲間の中で一時期流行ったイカサマでね。そんな名前がついてるとは思わなかったよ」
「…はあ」
説明する気が失せたように、鈴はため息をついた。
モンティホール問題。
アメリカのTV番組に端を発する、有名な確率論の問題である。
3枚の扉があり、あたりは1枚だけ。回答者は、まず好きな扉を一枚選ぶ。すると、番組の司会者が残った方の2枚の扉のうち、ハズレの扉を開けてくれる。
その時点で、回答者は最初に選んだ扉と、残された扉のどちらでも選択できる。どちらを選択した方が得か?という問題であった。
「何度かやってみるとわかるんだが、残った方を選んだ方が勝率が高いんだよな。不思議な話だぜ」
「理屈も知らずに使ってたのね。呆れてものも言えないわ…」
ちなみに正解は凛の言うとおり、『司会者が開けなかった扉を選んだ方が、2倍当たりやすい』というものであった。
直感的にはどちらを選んでも確率は二分の一になるようであるが、実際はそうではない。凛はその直感と実際の確率のギャップを使ったイカサマを仕掛けたのだ。
「ちなみに、俺は二者択一としか言ってないからな?二分の一とは言ってないぜ?」
念を押すようにそれだけは説明を付け加えた。
直感でも理解しやすい説明を加えるならば、宝くじを例に挙げるとわかりやすいだろう。
発行枚数100万枚の宝くじの中から1枚だけを買った後、お店の人が残った宝くじから一等以外の全てのハズレを捨てたとする。
お店に残ったくじと、最初に買ったくじとで、どちらが当たりやすいと思うだろうか?
「それでも、結局は三分の一で敗北するところだったのよ。よくもそんな賭けに出られるわね」
「そこが楽しいんじゃないか!それに、俺はあからさまに残った方の一枚を狙って見せたんだ。カードの裏が見えていたこいつは露骨に動揺してたぜ。それが最後の決め手かな。やっぱり、感情をむき出しにするやつはギャンブルには向いてねえよな」
笑って説明する凛だったが、命がけの度胸と、瞬間的な判断力、相手の感情を見抜く洞察力。すべてが備わった者にしかできない芸当であった。
『もう…いい…我は満足だ…これほどの強者に敗れたのだ…悔いはない…』
ぐったりと、動きを弱めていく精霊。
悠久の時を、その圧倒的な支配力で生き抜いてきた精霊が、その生涯を閉じようとしていた。
ゆっくりと目を閉じ、呼吸が穏やかに停止しようとしていた。
しかし、唐突に凛はその頭を鷲掴みにした。
「ちょっと待った。まだ死ぬには早いぜ。お前にはもうちょっと付き合ってもらうからな」
『ちょっと待って…それって…酷くない…?』
「お前がやってきたことに比べれば、こんなの序の口だろうが」
『しかし…水のないところでは生きることはかなわぬ…残念だが…これで最後だ…』
今度は鈴がウナギの首を締め上げる。
「お生憎様!残念だけど、そうは問屋が卸さないわ。見てなさい」
『ちょっと…二人ともひどくない…?』
鈴の言葉に答えるように、上空で稲光が光った。
凛の斬った水は、気化して一気に上空に殺到し、再び結合して水に戻ろうとしていた。
その結果、空は真っ黒に曇り、まるでバケツをひっくり返したような豪雨が大地に降り注いだ。
鈴は瓶の中の水を捨てると、その雨水を注ぎなおし、その中にウナギをしまい込んだ。
「この程度の水だったら、支配されても大したことはないわ。下手に暴れようとしてみなさい。私の力でたちどころに氷漬けにしてやるわ」
精霊の力も、正体が割れてしまえば大したことはない。電荷を制御するためには、直接水に触れなければならない。つまり、瓶の中にいる間は外の水に一切影響を与えられないのだ。
降り注いだ雨は、分解して再結合しているため、精霊の力は及ばない。完全に無害化された水は、やがて下流域全てに行き渡るだろう。
「これで、領主様も晴れてお役御免だ…。なんとか自分のケツを自分でふけたかな」
「ええ、過程はともかく、結果だけ見れば大勝利よ」
雨に打たれながら、二人は勝利の余韻に浸っていた。
「ところで先生よ」
凛が唐突に話題を変える。
短い付き合いだが、凛はたまに露骨に話題を振ってくる時があることに、鈴は気づいていた。
そして、そんなときに限ってロクでもない話を切り出してくるのだった。
「さっきはありがとうな。おかげで命拾いしたぜ」
予想に反して、凛が口にしたのは素直な感謝の言葉だった。
何を言ってくるのかと身構えていた鈴は、不意に肩の力を抜いて感謝の言葉を返す。
「こちらこそ。キチンと約束を果たしてくれたことを、うれしく思うわ。あなたは、最後まで諦めなかった。それだけで十分よ」
雨に打たれて、視界が歪んで見える。こうなってくるとメガネは邪魔になる。鈴はメガネを取って、凛を見据える。
土砂降りの中でも、いつものように皮肉気な表情が浮かぶ。
そして、その表情により一層意地悪な色が加わった。
「しかし、溺れそうになっている俺をあんな過激な方法で助けてくれるなんて思わなかったぜ。結構大胆なんだな、先生は」
「~!」
どうしてこの男は、相手の感情を揺さぶるのがこうも上手いのだろうか。
いったん相手の心を緩めておきながら、この仕打ちである。雨に打たれても、自分の顔が熱くなっているのが分かった。
「いつも冷静な先生のことだから、てっきり凍らせた酸素を放り投げてくれるもんだと思ってたのに。やっぱり俺に気があるのかな?」
まさに、痛恨の指摘だった。
あまりに焦っていたので、その方法があるのをすっかり忘れていたのだ。
「あたし…こう見えて、結構思い込みが激しいところがあるの。一度こうだと思ったら、なかなか他のアイデアが浮かばなくなる時があって…その…」
鈴がしどろもどろになっているところに、凛がさらに畳みかける。
「あれ、先生?唇に何かついてるぜ?」
「え…?」
慌てて指で唇をこする。
噛み切った指の痛みを思い出したが、指先には何のごみもついていなかった。
「何もついてないみたいだけど…冴木君、ちゃんととれたかしら?…冴木君?」
よほど自分の口は汚れているのだろうか?あるいは虫でも止まっていたのか?
さっきまでいたずらっ子のような表情を浮かべていた凛が、今では魂が抜け落ちたように愕然とした表情でこちらを見ている。
いったい、何がついているというのだろうか?あの凛にここまでの表情させるものが、今自分の顔に張り付いているのだ。
逆に好奇心がわいてきたが、我に返った凛が慌てて言い訳を始める。
「いや…悪かった。実は何もついてなかったんだ…」
「なんなのそれは!?あたしをからかうのも、大概にして頂戴」
「つい…見とれちまってた」
「え…?」
またも予想の斜め上の返答がきた。鈴は、いよいよ凛が何を考えているのか分からなくなってきた。
凛は大きく深呼吸した。むろん、動揺した自分の心を落ち着けるためだ。
精霊との生死を賭けたギャンブルにも動じなかった鋼の心臓は、今や思春期の少年のように早鐘を打っていた。
凛が見とれたのは、ほんの一瞬の奇跡だった。
眼鏡をはずし、より鮮明になった魅惑的な青い瞳。
小ぶりで少し肉厚の唇を彩った赤い血は、雨に流されるその一瞬の間だけ、凛に奇跡を見せた。
一度でもいいから、化粧をした鈴の顔を見てみたい。
そんな軽い茶目っ気から、鈴に即席の口紅を塗らせてみたのはいいが、想像以上の『出来栄え』に思わぬ反撃を食らった形となってしまったのだ。
長い深呼吸を経て、ようやく落ち着きを取り戻した凛は、少し恥ずかしそうに帰路についた。
「とにかく、俺は生き延びるために全力を尽くした。そして先生は、異世界で一番の美女の口づけを俺にプレゼントしてくれた。これで、契約は満了だな!」
土砂降りの中で、満面の笑みを浮かべる凛。
少し遅れてそれについていきながら、鈴は少しだけ恥ずかしそうにこう返事した。
「…バカね!」




