42th BET 『天より降りる無人の遺志』
「……んな!……かないで!」
光と音を失ったはずの鈴の感覚に、ノイズのように外界の情報が飛び込んできた。
凛の経験談からすれば、7日の間そのようなことは一度も起こったことがないらしい。
と言うことは、今自分の身に起こっているこの現象は、もっと別の要因によるものだろう。
「とは言ったものの、おおよそ察しはついてるんだけどね……」
霞む視界の中で、鈴は周囲を見渡す。
地下でのノームとのやり取りは、途中からではあるが鈴の元にも届けられていた。
「人間の脳の一部に強力な磁場を当てることで、一時的に感覚を麻痺させたり、活性化させることができると聞いたことがあるわ。邪神の罰ゲームも、ノームの制約もおそらく同じ理屈なんでしょうね。外部に強い磁場があると、打ち消し合って少しだけど失った五感が戻ってきてるんだわ……」
とは言ったものの、視覚聴覚共に酷いノイズだらけだ。
遥か遠方のラジオ波をアナログ受信している時よりもたちが悪い。
そんな中鈴の視界に入ったのは、ヴィエナとアル、そしてルージュの三人の姿だった。
何故か、嫌がるアルを抱きかかえ、窓枠に向かって連れ出そうとしているようだ。
「父さん!……だ!僕だけ……るなんて!」
どうやら、ヴィエナはこの場からアルとルージュを逃がすことに決めたらしい。
凛のお株を奪うような、迅速で冷徹な決断だ。
(でも、不思議だわ。アルがあれだけ嫌がっているのに、どうして何の抵抗もしないの?)
霞む視界の中ではよく状況を確認できなかった。
しかし、砂色で覆われた世界の中に一条の赤い線が走るのが見えると、不意に恐ろしい仮説が沸きあがってきた。
いや、恐ろしいというよりも、鈴は感嘆していた。
思わず声が漏れ出る。
「自分の血液に精霊術を作用させ、対象者に鎖のように打ち込んでいるんだわ……。水の精霊術は、触れたところから連続しているすべての水を操れるわけだから、自らの血を介してアルの体内の水分まで操作してるのよ……!」
言葉にすればたやすいが、実践することは果てしなく難しい。
自分の体内を流れる水を自在に操ってきたヴィエナだからこそ可能な、荒業中の荒業である。
そして、血液の縄が持つ、もう一つの役割は……。
「多分、この高さなら一リットルもあれば地面に届くでしょ。と言うわけで、アル。母さんによろしくな」
お使いを頼むような気軽さで、ヴィエナは息子に別れを告げた。
対するアルは、必死の形相で食らいつくも、体は指一本動かせずにいた。
「嫌だ!僕も、ここで父さんと戦う!」
「はっはっは。そういう強がりは、せめて自分の身体を動かせるようになってから言ってほしいっすね。この程度の精霊術を跳ね返せないようじゃ、まだまだっすよ」
軽やかに笑うヴィエナの言葉は、術の強制力よりも強烈だった。
事実、同じコンディションにあるはずなのに、アルは自分にかけられた術を解除することすらできていない。
術の精度と、人体の構造に関する理解が圧倒的に違うのだ。
「勘弁してくれ、アル。お前を死なせたんじゃ、母さんに合わせる顔がない。だから、ここは親の顔を立てて、一つ我慢して生き延びてくれ」
飛び込み営業のサラリーマンが気軽に無理を押し通すような口調だった。
言葉を受け取ったアルは、それこそ必死の形相で父を見つめるだけだったが……。
ヴィエナの血の鎖は、アルだけでなくルージュの自由までも奪っていた。
「ヴィエナ殿、どうして私まで……!?」
「まあ、今の状態じゃあ二人が限度だしね。勝手ながら優先順位を付けさせてもらうとすれば……」
言いながら、ヴィエナが鈴に視線を向ける。
若干、というか、今までで一番申し訳なさそうな表情を浮かべた後にこう続けた。
「その……若い方から年齢順ってことで……」
「一番若いのは、お前の彼女候補なんだろうけどね。まあ、あの娘だけはどうにかして助け出すから、安心して助かってくれ」と付け加えると、ヴィエナはいともたやすく二人を外に放り投げようとしていた。
感慨も何もない、実にあっさりした別れ際である。
「父さん!」
「アル!こっちを見なさい!」
食い下がろうとするアルに、声をかけたのは鈴だった。
ハッとしたように、涙に濡れるアルの瞳がこちらを向く。
時間がない。伝えるべきことは一瞬で伝えなくてはならない。
それには、言葉では時間が足りなかった。
ゆえに、鈴はハンドサインで自分の意図をアルに送ることにした。
こぶしを握り、親指を一本天に立てる。
いわゆるサムズアップのサインだった。
メッセージはそれだけではない。鈴は続けざまにそのハンドサインの天地をひっくり返した。
つまり、サムズダウンという意味のサインに転化する。
アルの両目が見開くのを見て、鈴は自分の意図が愛弟子に伝わったことを確信した。
同時に、二人が塔の外に落下していく。
「……っ!」
ヴィエナの顔色が変わるのはここからだった。
細長い血液の鎖が千切れないよう、二人分の体重を支えながら術を維持しなくてはいけない。
呼吸のできないヴィエナに代わって、デイビスが鈴に声をかける。
「その、すまなかったな……」
「謝る必要はないわ。むしろ感謝してるし、感心してるの」
霞む目をどうにかしようと黒ブチ眼鏡をずらしてみるが、結局どうにもならず、諦めてデイビスの方に視線を向ける。
今は視覚の欠損がひどいらしく、その表情を読み取ることはできないが、驚いた様子だけがその声色で理解できた。
「感謝?感心?この状況でこんな場所に取り残され、どうしてそんな言葉が出てくるんだ?」
言いながら、デイビスの鉄面皮に亀裂が走った。
なんと、鈴はこんな状況にもかかわらず、楽しげに笑っていたのだ。
凄絶で、そしてあまりにも蠱惑的な笑みに一瞬我を失いかけたが、鈴の返答に我に返る。
「感心したのは精霊術の練度と、その推察眼よ。おそらく、あたしの年齢を正確に見抜けなければ、あの場面でルージュを送り出す選択はできなかったでしょうね」
「いや、女性が自分の年齢を言い当てられてそこまで喜ぶことなのか……?」
若干呆れ気味なデイビス。
彼の知るところではないが、鈴は今まで実年齢より10以上若く見られてきたのだ。言い寄ってくる男たちの見る目の無さ(この場合は、文字通り観察する能力の欠如を意味する)に呆れてばかりだった鈴にとっては、ヴィエナの洞察力は感心に値するものだった。
「感謝したってのは、あの二人を地上に送り返してくれたってことに関してね。年齢順とか、そういう意味じゃないの。ここにいたままだったら不可能だった逆転の目が、辛うじて見えてきたところなんだから」
「……?それは、どういう意味だ?先ほどの不穏な手印も、それにかかわることか?」
デイビスの問いに、頷き返す。
「その通り。大事なのは親指の向きと、四本指に巻き方よ。これを間違えたら大変なことになるんだから。いいえ、この場面においてはさして問題じゃなかったかも。とにかく、アルには伝わったし、あとはあの二人でどうにかしてくれるでしょ。なにせ……」
精霊術の収斂が終わったらしい。教主のもとに巻き込まれていた砂塵が、ゆっくりと動き出していた。
敵の手の内はすでに読めている。ならば切り札は二つ。一つは己が手のうちに。もう一つは地上に降りて大化けするだろう。
尖天の牙、そして地の精霊術。これらを打ち破る壮大な実験計画を頭に描き、武者震いする鈴はこう告げた。
「なにせ、あの二人と二匹こそ、この塔の"天敵"なんですから……!」
鈴ちゃんのハンドサインの意味ですが、結構懐かしいですね。
もう一個のハンドサインは両手でやるとラッパーのようなスタイルになります。ぜひともいつか鈴ちゃんにやってもらいましょう。




