終章 煉瓦亭にて
順繰りに思い出す分にはあっという間だったが、よく考えてみると、卒業までの間に、これほど濃密な起伏があったとは、自分でも思わなかった。それに比べれば、春からの大学生活は刺激こそあれど、そこまですさまじい山や谷があったようには思えないから不思議なものだ。その証拠に、こうして集まった四人は、一年前と同じ、朗らかな笑顔を浮かべて、宴会に興じている。だが、そうした見えるところとは別に、確実に僕たちの中では何かが変わっているのだろう。
新潟の美術専門学校へ通っているランコの絵は、昔のビアズリーの模倣から抜けて、嵐山香織の絵、そのものへと変化している。そして、スイさんの長年の研究対象であるリフターには、大学で習っているらしい、最新の研究結果が反映されているらしいことが見せてもらった写真で分かる。そしてフカダの歌も、昔の能天気さがそのまま反映されたようなものから、少しずつ、物事の本質を見つめて、じっとえぐりだすような物に進化している。
一年という月日は確実に、少しずつだが人を変えてゆくのだと、改めて思い知った。
さて、そんな風に他人を見たとき、はたして自分はどうなのだろうか……? と、少し不安になってくる。あまり考え込んで、どつぼにはまってしまっては仕方がないから、ここはひとつ、自戒の念を込めて、日々精進していきたいと思う。
「――どうしたの、田沢くん。トンカツ、冷えちゃうわよ」
隣で洋風カツ丼を楽しんでいたランコが声をかけてきたので、あ、そうだね、とあいまいに返事をすると、ランコは思い出したように、この前の小説だけど、と、正月ごろに年賀状と一緒にみんなへ送った小説のことを小声で話し始めた。
「――あなたの小説、昔より面白くなってるわよ」
「ほんとうかい」
「ほんとよ。――言った通りでしょ? あなた、もっと自信を持っていいんだから……」
艶っぽい言い方に一瞬戸惑ったが、ランコの素直な感想はありがたいものだった。
――こりゃあ、頑張らないとなあ。
一層、筆に力がこもりそうだと思いながら、僕は皿の上に残ったカツを頬張った。
すっかりお腹も膨れて、いい気持ちのまま煉瓦亭を出ると、さすがに三月とはいえ、外はまだ肌寒かった。
「去年はもうちょっと、暖かかったような気がしたけどねえ」
酔ってエビス顔になったスイさんが、楊枝をくわえたまま目を凝らす。雲ひとつない夜空には、青白い色をした満月が煌々と輝いていた。
「ねえ、このまま帰るのもなんだし……どこかでお茶、していかない?」
「賛成ッ! 先輩、どっかいい店、知りませんか?」
腕時計を見ると、さすがに大半の喫茶店はもう店じまいの時間帯になっていたが、たしかニューコロムビアならまだやっているはずだと思い出すと、僕はランコ達を引き連れて、商工会議所の前をかすめて、大手通り沿いにゆっくりと歩き出した。
二階が中華料理店になっている、ニューコロムビアの入ったテナントビルへやってくると、ちょうど階段から降りてくるサラリーマンたちと鉢合わせた。飲み会帰りの腹ごしらえなのか、一団の背広や吐息から、酒や煙草の香りが漂ってくる。その様子を、一日ご苦労さんです、と、心の中で呟きながら、地下への階段を降りようとした時だった。
「――おい、田沢じゃないか」
耳なじみのある声が降ってきたので、階段の中ほどで振り返ると、見覚えのある顔がこちらをじっと見つめている。そこにいたのは、背広の上からコートを羽織った、サラリーマン姿の板についた田沢の姿だった。
「津田じゃないか。――元気か」
「まあな。――お前こそ、元気そうだな」
「ああ。――仕事、楽しいか?」
「おうよ。――それより、学校、楽しいか?」
「もちろんさ」
それを聞くと、津田は安心したような顔で頷いてから、じゃあな、とこちらへ手を振って、同輩らしい面々と一緒に、夜の大手通へと消えていった。
「――津田くん、すっかりサラリーマンが板についたみたいね」
店の中へ入って、熱帯魚の水槽がよく見えるボックス席へ座を占めた僕へ、ランコが声をかける。たしかに、奴の格好にはずいぶんと世間スレした感じがあった。
「みんな、覚えてないか? 見送ってもらった日に、駆け込みでやつが現れたの」
さすがにあれは忘れようがないのか、みんな揃って首を縦に振った。
「覚えてますよ。あの人、走りながらずっと、『元気でな、津田っ! たまには戻って来いよ!』って、半泣きで叫びながら、ホームの端っこまで追いかけてたんですから……」
一年越しに、あの時やつが何を言っていたのか分かったが、ほとんど手紙と内容が変わらないことに、思わず笑ってしまった。
「どうしたんだい、いきなり笑い出して」
心配して、スイさんが声をかけてくる。
「いや、なんでもないさ。ただ、あの時、奴と約束をしたんだよ。――自分で選んだこの道から、絶対に逃げたりはしないってことをさ」
グラスの中の氷が、音を立てて弾ける。春が近づく、三月下旬のある夜のことだった。