第三章 二〇一四年一月
一、
写真部の面々に頼んで、部活のたびにちまちまと撮ってもらっていたスイさんの記録映画がクランクアップとなったのは、正月明けの二度目の金曜日のことだった。編集が済んだら試写をするからそれまでのお楽しみ、と告げると、部員たちは機材を片付けて、そそくさと撤収していった。あとには、撮影のために運び出したリフターとスライダックと、効きの悪いストーブから漂う石油の香りだけが残された。
「あと、二か月ちょっとかあ――。早いもんだね」
ストーブに手をかざしていた白衣姿のスイさんが、物憂げな口ぶりで言う。
「あっという間に松の内も過ぎたからねえ……。この調子じゃ、あっという間に来年になっちゃいそうだ」
「いやなウラシマ効果だ。――それより、書き心地はどうなんだい」
申し訳程度のことしか書かれていない、部活動日誌用の大学ノートへ筆を走らせていた僕へ、スイさんが質問を投げかけた。尋ねてきたのはもちろん、手に握られている、あの万年筆だった。
「憎たらしいぐらい書き心地がいいや。粉雪の上でスキーをしてるみたいだよ」
それを聞くと、スイさんは腕を組んだまま、どういうつもりだったんだろうねえ、と、眉間にしわを寄せた。
「仲がさしてよくもない相手にこんないいものを送るっていうのが、どうにも解せないんだよねえ。――田沢ちゃん、君ならどうする」
「そりゃあもちろん、送るわけはないさ」
キャップを回しながら閉めると、僕は万年筆を学生服の胸ポケットへ差し込んだ。
「……人の心はよくわかんないや。あ、コーヒー、飲む?」
乾燥対策用としてストーブへかけてあるヤカンの具合を見ると、スイさんは戸棚からマグカップを二つ、それからインスタントコーヒーの瓶を実験用の机の上へ置いた。いちいち自動販売機へ買いに行くのが面倒なのもあって、放課後ティータイムとしゃれ込んでは、よく部活の最中に飲んでいるのだ。
「こんなことが出来るのも、残りわずかなんだねえ」
このままだとマズいから、という理由で、クリープを山のように注ぎ入れてキャラメル色になったコーヒーを吹き冷ましながら、スイさんは窓の外に広がる雪景色を眺めながら言う。
「大学の方が自由奔放にやれるのかもしれないけど……三年通った学校と別れるってのが、こんなに寂しいもんだとは思わなかったなあ」
「――こうして、一緒に話してる一瞬、一秒が、春になったらもう遠い過去になっちゃうんだから、時間の流れってのはザンコクだねえ」
カップを持ったまま隣へ寄って、僕はスイさんと一緒に、雪で真っ白になった校庭へ目を落とした。体育の持久走で走ったトラックも、モデルロケットの実験で煙まみれになったテニスコートも、みんな雪の下へうずもれている。そのせいか、いやに感傷的な気持ちが胸の内からこみ上げてくる。
「そういえば、今度のが最後だったっけ?」
スイさんの質問に一瞬戸惑ったが、それが月末に出る「月光」の終刊号のこととわかると、とうとう来ちゃったよ、と少しおどけて答えてみせた。
「最終号記念の座談会、ちょうどこないだ文字起こしが終わってさ。今、ランさんに頼んで校正をしてもらってるんだ」
「へえ、豪勢だねえ。――投稿する、投稿すると言ったまま、一文字も書けなくてごめんよ」
寄稿の話が何度か上がりながら、結局実現はしなかったことをスイさんが詫びる。
「まあ、しょうがないさ。もしも、また同じようなのをやることがあったら、その時にでもお願いするよ」
「じゃ、その時はよろしく頼むよ。――では、前途洋洋たる文士殿の門出を祝って」
マグカップを高々と上げると、僕とスイさんはかろやかな音を立てて乾杯をした。
二、
スイさんと別れて、いつも通り北長岡の駅からとぼとぼと歩いていると、遮断機がけたたましい音と光を放ちながらゆっくりと下がってきた。慌てて線路を越えて、弾む息を整えていると、深緑色をした電気機関車が、同じ色合いの食堂車や高級寝台車、喫茶室のついたサロン車を引いて、新潟方面へと通り過ぎて行く。列車の名前は北海道行きの高級寝台特急・トワイライトエクスプレスである。
旅行好きの両親のおかげであちこちへ連れて行ってはもらったが、未だに寝台列車だけは乗ったことがない。理由はわからないが、おそらく、ガタガタとうるさい昔ながらの夜汽車のイメージが頭にあるのと、新幹線の方が何かと便利だから、ということで、ハナからチョイスの対象になっていないのかもしれない。
「……冷えてきやがった」
長岡駅を出た鈍行に乗った時点で傾きかけていた夕日は、とっくの昔に山の向こうへ沈んでいる。そこへ足元からも雪の冷気が伝ってくるのだからたまらない。早く家へ帰って、こたつに潜り込まねばならない、などと考えていた時だった。背後から聞き覚えのある音が近づいてきた。
――あいつか。
怪我をしているわけでもないのに、引きずるように歩く足音は間違いなく、津田のものだった。
「――よう、あけましておめでとう」
振り向きざまに、僕はすかさず声をかけた。新学期が始まってから、どうしたことか一度も顔を合わせていなかったので、今頃になってやっと挨拶が出来たわけなのだが、相変わらず、津田はブスっとした顔で、ああ、おめでとう、と返したきりだった。
「万年筆、ありがとうな。書き心地がよくって、筆が進むよ」
「――そうか、そりゃよかった」
珍しく津田が笑顔になったので、ああ、こいつにも人並みの表情が備わっているのか、と思った矢先、
「――いなくなっちまう奴にゃ、ちょうどいい冥途の土産と思ってな」
津田の下卑た口元に、悪寒が走るのが分かった。
「……そりゃ、どういう意味だ」
薄暗い北国の夕暮れ時、街灯の明かりの下で、僕は津田と向かい合ったまま、手にしていた傘の柄をさらに強い力で握りしめた。
「言葉の通りだよ。この長岡じゃやってけねえってえからよそへ行くんだ、あの世へ行くのと似たようなもんじゃねえか。冥途の土産って言い方の他に、何があるってんだ」
「おい、そんな言い方ってないだろ……」
たじろぎながら反論してはみたものの、津田の見立てが間違っているとは決して言えなかった。というのも、元々高卒で就職を考えていた僕は、去年の春先に知っている先輩が工場事故で大怪我を負ったのをきっかけに、危険な場所へ勤めるのは嫌だ、と、ある意味では逃げるようにして進学へシフトチェンジを図ったのだ。
悔しいが、飲まざるを得ない事実がそこにはあった。
「……まあ、せいぜい、残り少ない長岡暮らしを楽しむんだな。あばよ、田沢」
引き留める僕を無視して、津田は足早に雪を蹴り、視界から消えてしまった。少しずつ風が強くなりだして、たなびく電線から口笛のような唸り声が上がる。このまま立っているのもつらくなって、一歩前へ出たとたんに、目の前がにじんでしまった。
言い返せなかった悔しさが心の中に広がっていく。寒さも相まって歯の根が合わないまま、うつむきながら目元を腫らしつつ歩いていると、暖かそうなラクダ色のムートンブーツがいつの間にかそこにあった。
「――どうしたの、田沢くん」
顔を上げると、そこには不思議そうな眼差しでこちらを覗き込んでくる、学校指定のダブルのコートに身を包んだランコの顔があった。途端に、今まで全身を覆っていた悔しさが晴れた代わりに、どっと両の目から涙があふれ出てしまった。
ランコの家に上げてもらい、こたつにあたりながらホットミルクをごちそうになっていると、部屋着に着替えて、綿の詰まったはんてんを着たランコが姿を現した。
「ヒックヒック言いながら歩いてるのがいたから、何かと思ったわよ」
嗚咽交じりに泣いていたのがはた目からわかったらしいと知って、さすがに顔が熱くなった。
「失礼いたしました……」
カップを両の手で持ったまま謝る僕に、まあ、いいわよ、と言いながらトイメンに入ると、ランコは頬杖をついたまま、で? と尋ねてきた。
「あたしが来る前に、いったい何があったわけ?」
「……例の万年筆の送り主から、いろいろ言われちまってね」
ひとまず、自分の身に降りかかったことをありのままに語って見せると、聞き終わるや否や、ランコは白い肌下に血をたぎらせて、
「なによそいつ、あんたが逃げたっていうの? バカじゃないの! ――いいこと、田沢くん」
歯を唇の端で光らせながら、ランコが力強く言う。
「あんたはねえ、逃げてなんかないの。むしろ、他人がしっぽを巻いて逃げ出すような武者修行へ出ようとしてんのよ。そのことにはちゃんと自信をもってね。わかった?」
こんなに熱っぽく語るランコは初めて見たが、それよりも、僕が決して、逃げてなんかいないということを裏打ちしてくれたことがとてもありがたかった。
「……ハイ、わかりました」
出かかった涙を目元でなんとか止めると、残りのホットミルクを飲み干した。
「――それにしても、厄介なのと関わっちゃったもんね」
戸棚からビスケットの缶を出してすすめながら、ランコが顔を曇らせる。
「しゃあないよ、長い付き合いだから……」
すると、ランコは遮るように違うわよ、と力強く言ってから、向かいへ腰を下ろした。
「あたしが言ってるのは、津田のことよ。――田沢くん、あなた、これから話すことを絶対人に話さないって、誓える?」
今まで一度も見たことのないような、ランコの険しい目に思わずたじろいだが、僕はしばらく考え込んでから、首を縦に振った。
ガラス戸をたたく、激しい雪国の夜風が窓の外をかすめていった。
「じゃ、なにかい。津田の奴は僕のことを――」
「おおかた、あたしの彼氏か何かと思ってるんでしょうね。田沢くん、まるっきり女っ気がないんだもの。そりゃあ疑われたって無理はないわよね」
アールグレイの入ったカップへ角砂糖をたっぷり入れると、ランコは厚い鍍金をかけたティースプーンをまわしながら、驚いたでしょ? といたずらっぽく笑って見せる。
「驚くなんてもんじゃないさ。……まあ、同じ中学だったからねえ、そういうことがあってもおかしくはないけどさ」
ビスケットを二つに割って口へ放り込むと、僕は天井を向いたまま、ランコの話を反芻した。
今から四年前の中学二年の秋、ランコが美術教室で部活の片づけをしていたところへ偶然現れた津田は、彼女に好意を寄せたのか、クリスマス前に一世一代の告白をした。だが、粗野な雰囲気が気に入らなかったランコはそれを冷たくあしらい、以来、彼女の頭から津田という人間の存在はすっかり消え失せていたのだという。
そんな男の名前が何の因果か、同じクリスマスの時期に巡り巡ってきたので、ランコは四年ぶりに津田のことを思い出したのだという。パーティーの晩に何か考え込むような表情をしていたのは、送り主の名前に覚えがあったためだった。
「ってえことはさ、高校に入ってからの三年間……」
「あなた、ずっと恨まれ続けてたんでしょうね。身に覚えのない罪を犯した角で……」
湿っぽい男っていやね、と、ため息交じりに言うと、ランコは空っぽになったカップを片付けてから、僕の方へ向き直って、
「どうする? このまま勘違いさせておく? それとも、ホントのことを言っちゃう?」
ティーポットから二杯目の紅茶を注ぐと、ランコは僕のカップを引き寄せてから、角砂糖と一緒にお代わりを入れてくれた。
「――言うほどのことじゃないさ。僕は単なる被害者だからね」
「あら、つまらない。ウソでもいいから、オレの女に手を出すな、って啖呵切ってほしいんだけど……ダメかしら」
「骨拾ってくれるなら考えるけど、若いうちにランさんを未亡人にさせちゃ悪いからねェ」
「ま、ご挨拶ね」
それをきっかけに、ドッと笑い出すと、僕とランコは別れ際まで、つまらない世間話に花を咲かせ、楽しいひと時を過ごしたのだった。
三、
だが、忘れようとすればするほど、あの晩の津田の言葉は僕を苦しめた。それは、奴の言い分が決して妄言ではないというせいもあったが、その言葉の背景に僕が与えた勘違いが潜んでいるらしいと知ったのが大きかった。さすがの僕もこれは応えてしまって、とうとうランコとの約束を破って、アオーレ長岡前の喫茶店・ミチルへスイさんを呼び出し、事のあらまし一切を打ち明けた。
「――なるほどねえ、そんなことがあったのか」
壁へ背を預けながら、腕を組んでずっと話を聞いてくれていたスイさんは、僕の説明が終わると、それだけ呟いてから、すっかりぬるくなったマンデリンを口へ含んだ。
「どう思う、スイさん」
「難しいねえ。一筋縄じゃ解決しそうにないのだけはわかるけど……」
しばらく額へ人差し指をあてたまま、スイさんは眉間へしわを寄せていたが、やがて何を思いついたか、指を鳴らして上機嫌に口笛を吹くと、
「田沢ちゃん、この案件、一度僕に預けさせてもらえないかな。――妙案があるんだ」
「おいおい、大丈夫なのかい」
「任せておきな、これぞまさに、『シュタインズ・ゲートの選択』さ……」
格好よく決めたつもりなのだろうが、僕にはとてもスイさんの頭の中に秘策があるようには思えなかった。
そんなこともすっかり忘れて、卒業試験の週も過ぎた一月最後の金曜日。午前放課の帰り道にスイさんから呼び止められた僕は、ランコと一緒にお茶でも飲んでいこうと誘われて、引っ張られるように大手通のニュー・コロムビアへ向かった。
そして、慣れた調子でドアベルを鳴らして店の中へ入ろうとした、その時だった。乾いた音と、テーブルが揺れる激しい音に驚くと、ならんだ座席の中ほどにある場所で、ランコが津田へ平手打ちを食らわせているところに僕とスイさんは出くわした。
「――田沢!」
「……津田ッ!」
きっと、向こうも呼びかけようとしたのだろうけれど、僕も津田も、口がその形に動いただけで、声を発することはできなかった。
「――あ、嵐山さん。どうしたんですかいったい……」
スイさんが声をかけると、ランコが答えるより先に、顔を真っ赤にした津田が千円札をレジに投げ、逃げるように僕たちの隣をかすめていった。
「――ったく、女々しいやつね。おかげで紅茶がまずくなったわ」
ボックス席へ近寄ると、ランコはおしぼりで手の汗を拭いながら、今まで何があったのかを語ってくれた。ちょうど三十分ほど前、スイさんの呼びかけでコロムビアへ入ったランコは、先に頼んだ紅茶を楽しみながら僕とスイさんの到着を待っていたのだが、そこへふらりと、津田のやつが現れたのだという。
「――知らないふりをしていたら、こっちに気付いて、未練がましく話しかけてきたのよ。嵐山さん、僕はまだ君に未練があるんだ。津田みたいな男とは別れて、一緒に付き合ってくれないか……って。だから、一発カマしてやったのよ」
「なるほど……。あいつ、しばらく僕らと顔を合わせづらいだろうね」
ランコの向かいへ腰を下ろすと、スイさんはやって来た奥さんへケーキセットを頼んで、レモンの香りを漂わせたお冷をちびちびと飲み始めた。そこで、ふいに先日の彼とのやり取りを思い出した僕は、ねえ……と小声で話しかけたが、スイさんは左手で僕を制して、
「さ、試験も済んだし、のんびりティータイムを楽しみましょうや……」
そうね、そうしましょ、というランコの提案にすっかり飲まれて、僕は店を出るまでの間、ただただ相槌を打つだけに徹した。そしてその帰り道、ランコがバスへ乗り込んだのを見届けると、僕はスイさんと並んで道を歩きながら、思い切って疑問をぶつけてみた。すると、彼はあっけらかんとした調子で、
「学校を出る前に、わざと津田くんの目の届くところで嵐山さんへ電話をしたんだ。ちらっと見えた限りだけど、彼、かなり熱心に耳をそばだててたよ」
「でも、これで本当にうまくいったのかな。却って、ネツを上げるかもしれないし……」
不安を打ち明けると、スイさんはいや、それはないだろうね、とあっさりとした返事をしてみせた。
「――好きな女の子に面と向かってキライ、って言われたんだ。ビンタの付録つきなら、よほどのマゾじゃない限りは二度と近づかないだろうよ」
そこまで話し終えると、スイさんはちょっと格好をつけて、これがシュタインズ・ゲートの選択ってやつさ、と、いつかと同じフレーズを言って見せた。
今までで一番、スイさんが二枚目に、そして恐ろしくも見えた瞬間だった。