第二章 二〇一三年一二月
一、
「――今年もあっという間だったわね」
石油ストーブの上でうなるやかんの湯けむり越しに、ランコが寂しそうに壁のカレンダーを見つめる。言葉通り、二〇一三年もうすっぺらい一枚が残ったきりである。
「そうかい。いつもこんなもんだったような気がするけど……」
鈴カステラと一緒に出してくれたココアを吹き冷ましながら返事をすると、つまんないわね、と、ランコはむくれた顔でこちらへ悪態をついた。
十二月最初の日曜日、午後になってから印刷の済んだ原画と、編集部に届いた彼女宛のファンレターを持って家を訪ねると、日ごろはあまり部屋へ入れたがらないランコが、どうしたわけか今日は上機嫌に、あがってらっしゃいよ、と声をかけてきたので、僕は久々に、彼女の部屋へと上がり込むチャンスを得た。
ランコの部屋は、一言で言ってしまえば素っ気ない部屋、だった。ハンガーラックにかけてある綺麗なロリータ服や少女漫画の他は、墨汁やつけペン、カラス口やケント紙の入った棚や机が置いてある、ぱっと見たらアニメーションの作画スタジオの一角のような彼女の部屋で、そこだけ切り取ると女の子の部屋にはとても見えない。
「――しかしランさん、どういう風の吹きまわしなんだい。いっつも玄関先で素っ気なく原稿を受け取るきりだろ。なんかあったの?」
「いいじゃない、別に。たまにはこういうこともあったっていいでしょう?」
ランコがサロメばりの不気味な笑顔でこちらを覗き込んでくる。これ以上聞くと、ヨカナーンと同じ目に合いそうなので、詮索は止しておくことにした。
そこからしばらく、他愛もない雑談や、彼女の本棚からルドンの画集を借りて時間を潰していると、いつの間にか六時過ぎになっていた。窓の外は一面の銀世界、しんしんと雪の降る幻想的な光景になっていた。
「そろそろ、お袋さん達帰ってくるんじゃないか。お暇するよ」
「そうね、そろそろね。――じゃ、また近いうちに」
画集を返してコートを羽織ると、僕はこうもり傘を差して、足早にランコの家を後にした。
水分を多く含んでいるせいか、雪はビニールにへばりついたきり、降らない限りなかなか落ちてくれない。その上、柄を握る手がかじかんでくるせいで、両の腕は重さと寒さのダブル・パンチでノックアウト寸前だった。
「――だめだこりゃ」
このまま家までまっすぐ帰りつく自信がなくなった僕は、ランコの家のそばにあるショッピングモールへ駆け込んだ。暖房が程よく効いているおかげで、感覚がなくなる寸前だった腕が、ゆっくりと回復してくるのがわかった。
このまま、雪をやり過ごしてから家に戻ろう。そう考えた僕は、フードコートにある「餃子のフレンド」で、フランクフルトを二本頼んだ。そして、番号札を片手に、出来上がるのを待っていると、見覚えのある顔が視界へ飛び込んできた。ついこの間、雪道で僕の隣を通り過ぎて行った津田だった。
向こうでもこちらのことに気付いたのか、財布の中身を確認していた手を止めると、バツの悪そうな顔で、僕の顔をじっと睨むように見てくる。
「――なんだい、なんか用かい」
「――なんでもねえよ。サッサと食って帰りな」
「……言われなくてもそのつもりだよ」
これだけのやりとりが済むと、津田は目線もくれずに、わざと離れたテーブルへ移動をした。そして、僕が先に食べ終えた串をくずかごへ放り込んで外へ出たとき、ちらりと横目に写ったのは、黙々とフォークを使ってイタリアンをすすっている津田の真剣な顔だった。
いやにまじめな表情に、思わず吹き出しそうになったのはまた別の話である。
二、
それから数日経った放課後のことだった。部活の最中、スイさんと一緒に物理学の本を借りに図書館へ行くと、文芸部があるわけでもないのに、後輩のフカダが部員のたまり場になっている雑誌置き場のソファで悠々と週刊朝日を読みながら、大箱入りの饅頭をかじっているのが目についた。
「――や、パイセン方。ご機嫌ウルワシウ」
アンコだらけの口元を手の甲で拭うフカダが気になり、僕とスイさんは吸い寄せられるように雑誌置き場へ向かった。
「何してるんだい、深田ちゃん」
「いやね、学校宛で原稿料が来たもんで、受け取りに来てたんですよ」
「――ってえと、『越後獅子』のかい」
僕の口から出た名前に、スイさんがなんだいそりゃ、と首をひねったので、この子が参加してる短歌結社のことだよ、と説明すると、
「思い出した。いつだったか全校集会で表彰されてたのは……」
「ボクでござんす、山倉先輩。あなたこそ、リフターの研究じゃかなりの有名人ですよ」
県の学生科学コンクールで奨励賞を取ったことをほめられた上に、さあ、お饅頭をどうぞ、とすすめられると、スイさんこと山倉慧は、照れくさそうな笑顔を浮かべながら、向かいへ腰を下ろして饅頭へ手を付けた。
「お前も好きだねえ、川西屋の饅頭」
長岡随一の老舗・川西屋の饅頭は僕の好物でもあるのだが、会うと必ずと言っていいほどそれをぱくついているフカダには、いささか狂気じみたものを感じられずにはいられない。
「まあ、すでに体の一部みたいなもんですからね。食べないと落ち着かなくって」
「糖尿病には気をつけてよ、深田くん」
スイさんが気を使って忠告をしたが、フカダはハイともイイエともいわず、ただ笑って誤魔化しただけだった。
「そういやパイセン、今度京都へ行くの、確か二月でしたっけ?」
週刊朝日をマガジンラックへ戻しながら、フカダが問う。そうだよ、と返すと、
「ひとつ頼めませんかねえ、永田親子のサイン。おたくの大学へカオ出してるんでしょ、簡単な話じゃないですか」
「バカ、本拠地は京大だよ。だいたい、ファンならサインもらうのぐらい、自分でやんなさい」
「ちぇっ、ケチくさいんだから……」
フカダはふてくされた顔でこちらを見ていたが、なんとなく気まずくなったのか、立ち上がって、ダルマストーブの火力を少し弱めてから戻ってきた。
「さっきつけたばっかりなんスけど、ちょっと強くしすぎたみたいで……」
「かもしれないね。にしても、この雪だけはなんとかならないものかなあ……」
スイさんの指さす先、窓の外はすさまじい吹雪のせいで、数メートル離れたところにある武道場の姿すら見えない状況下にあった。
雪国なのだから、この時期そんな天候になるのは毎年わかっていても、さすがにこんな空の下を駅まで歩いて帰るのだけはごめんこうむりたい気分だった。
「生き返る……」
北長岡駅にほど近いスイさんの家で、彼の淹れたコーヒーを飲みながら、僕は安堵と疲労感の混じったため息をついた。長岡駅まで寿司詰めのバスに揺られて、暖房の具合が悪い鈍行電車へ乗ったところへ、彼からコーヒーでも飲んでく? と誘われた僕は、彼の部屋で座布団の上へくつろぎながら、挽きたての豆で淹れたコーヒーをかみしめるように楽しんだ。あれほど冷えた体が、コーヒーのおかげで内側からぽかぽかと温まってくるのがわかる。
「しかしまあ、よくやるよねえスイさんも」
ガラポンによく似た、手動式の焙煎機を眺めながらつぶやくと、いやあ、まだまださ、と、スイさんは謙遜して言ってみせる。柿渋色のカフェエプロンが似合うのがまた、喫茶店の主人らしくて様になっている。
「まだまだ、お金を取れるような味わいは出せないよ。――そうそう、今度、お金が出来たらサイフォンを買おうと思ってね。ハンドドリップとはまたひと味違うから、楽しみに待っててちょうだい」
抽出の終わった粉とフィルターをポリ袋へまとめると、スイさんはドリッパーと細口やかん、電気コンロを机の隅へやって、マグカップ片手に僕の向かいへ腰を下ろした。
「――でも、寂しくなるねぇ。田沢ちゃんとこうやって駄弁るのも、あとわずか、か」
「そう言ってくれるなよ、スイさん。電話だって出来るし、行こうと思えば、金沢なんてすぐそこじゃんか。金が出来たら、遊びに行くよ」
それを聞くと、さきほどまで寂しそうな顔でこちらを見ていたスイさんは途端に笑顔になって、
「よっしゃ、そいじゃあこっちこそ、遊びに行かないとね。聞くところじゃ、京都は喫茶店の宝庫だって言うじゃないの。趣味と実益を兼ねて、勉強しに行くかな……」
スイさんは冗談交じりに、そばにあった鉄道時刻表をぱらぱらとめくりだした。この調子だと、冬休みを使っていこうじゃないか、と言いだしそうでちょっと怖い気もする。
「――リフターの研究、卒業までにヒト蹴りつけられるかなあ」
時刻表を音を立てて閉じると、スイさんは部屋の隅においてある、リフターの雛形へ手をかけた。
リフターというのは別名をイオンクラフトとも言って、早い話が高電圧で動くホバークラフトの一種なのだが、彼はこの実験の必需品であるスライダック――一〇〇ボルトの家庭用電源から超高圧電源を取り出すことの出来る機械のことをいう――や、リフターそのものを作るのに使うアルミホイルなどをロハ、すなわち只で学校中の廃材置き場や家庭科室などから調達してきて、予算にほとんど手を付けないままに作り上げてしまったのだ。
本人曰く、これは穴を二つ三つ開けただけのアルミ板を「使えないから」と言ってゴミ箱へ投げ捨てるような神経をしているロボット部へのあてつけらしいのだが、元々凝り性な彼のことだ、きっと途中からはどこまでタダで作れるのか……? という、好奇心の赴くままに腕が動いていたのかもしれない。
「こんど、写真部のやつに頼んで記録映画でも撮ってもらおうよ。スイさんの高校生活を彩るものなんだし、それくらいしてもいいんじゃないかな」
「記録映画かあ。なんか仰々しくって恥ずかしいなあ」
カフェエプロンのすそを握ったり放したりしながら、スイさんが照れくさそうに目を動かす。どうやら、ちょっとだけその気になっているらしい。
「それよりいいのかい、こんなに遅くまで油売ってて。そろそろ、七時になるよ」
彼の言葉に腕時計を見ると、ちょうど秒針が真上を通り過ぎたところだった。慌てて荷物をまとめてスイさんに別れを告げると、幾分か嵐の緩んだ冬の寒空を、水たまりにはまらないように駆け足で急いだ。
三、
「――にしてもまあ、どうしてウチの面々はこうも人付き合いが悪いんだろう」
「いまさら何言ってるの、そういう人間だから、小説とか絵の道へ行くんでしょ。あんただって例外じゃないんだし……」
ランコに愚痴を丸め込まれてしまい、途方に暮れていると、向かいで一人、黙々と川西屋の饅頭をかじっていたフカダが、食べますか? と尋ねてきた。クリスマスパーティーの会場だというのに、まるで季節感のないチョイスをしているのがフカダらしいといえばフカダらしい。
例年通り、「月光」主催の忘年会兼用のクリスマスパーティーは、案内状に「欠席いたします」というコメントのついたハガキの束が山積みの机を横目に見たまま、僕の部屋でランコやフカダ、スイさんと共に細々と、可愛いケーキと安上がりなオードブルを囲んで行われていた。
「まあ、クサらずにワイワイやりましょうや、先輩方。――ほらほら、差し入れがたっぷりあるんですから、どうぞどうぞ」
「あなたねえ、せめて他にも持ってくるっている発想はなかったわけ?」
四つばかり控えている、未開封の饅頭の箱を見て、さすがのランコも呆れた様子だった。
「いやあ、だって一番オイシイものを持ってこようとなると……ねえ?」
「――田沢くん、あなたの後輩、大物になるわね」
どういう意味で言われているのか本当に分からないのか、それとも無視しているのか、ランコの嫌味をものともせず、おいしいんだけどなあ、と言いながら、フカダは包み紙を乱暴にはがし始めた。この上、ケーキやオードブルにも手を付けようというのだから、大した神経の持ち主だ。
「それより山倉くん、あたし、早いところ淹れたてのコーヒーが飲みたいわ。お願いできちゃう?」
僕には決して見せることのないような表情で頼みごとをすると、まんざらでもないのか、ちょっとだけ頬を赤らめながら、スイさんは持って来てくれた電気コンロのスイッチを入れて、お湯の準備を始めた。
「紅茶も好きなんだけれど、やっぱり、淹れたてのコーヒーがイチバン美味しいですもんね」
「――ま、頑張って美味しいのを淹れますよ。それより嵐山さん、この前の表紙も、傑作でしたね」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。どこかの編集さんと違って、見る目がある人はひとことが違うわ、ひとことが」
誰のことを差しているのかがわかるだけに、一層いやらしさが際立つ。せめてクリスマスぐらい、人を食ったような口ぶりも冬休みにしてもらいたいものだ。
と、そこで初めて、自分がこの場で一人きりになっているのに気付いた。フカダは饅頭をもそもそとかじっているし、ランコはスイさんにすり寄りながら、困惑する彼に色目を使っている。コーラを手酌で飲んでいる僕には、話す相手がいないのだ。
今更どうしようもない、けれども非常にしつこい後悔が、背筋を伝ってくるのがわかった。豆電球が交互に点滅する、小さなクリスマスツリーの明かりが、少しだけくすんで見える。
――もう一人ぐらい、呼んでおきゃあ良かったな。
ストーブの熱も相まって、うすぼんやりとカレンダーへ目をやっていると、階下で呼び鈴の鳴る音が響いた。宅急便だろうか、と様子を伺っていると、お袋がドアを開けて、あら、どうしたの、と声を上げる。どうやら、お袋の知っている相手らしい。それからほどなくしいて、ドアの閉まる音と一緒に、階段を上がる音がこちらへ近づいてきた。
「――純、これ、あなた宛てのプレゼント」
「えっ、プレゼント?」
その場を離れて、お袋からペンケース大の小包を受け取って封をはがすと、中からは思いがけない品が姿を現した。出てきたのは細身のボディをした、国産の高級万年筆だった。
「これ、誰から届いたの?」
「違うのよ。これ、津田くんがさっき、直接持ってきたの。上がっていかない、って尋ねたら、用事があるからこれで、って言って……」
送り主の名前に、さすがの僕も狼狽した。あの、顔を合わせれば不穏な空気になる津田から、こんなクリスマスプレゼントを受け取る日が来るとは、夢にも思わなかった。
「すごいなあ、これ、けっこうな値段がするんじゃないのかい」
やかんの様子を見ていたスイさんが、立ち上がって万年筆を手の上に転がした。十万いくらというような高級品ではいかないが、少なくとも、高校生がポンと買うのは難しい品には違いない。
「……弱ったな、年明けにどの面下げて会えばいいんだか」
津田にどう対応すればいいのか困っていると、顎へ手を当てて考え事をしていたランコが、吐息のような声を上げた。
「どしたの?」
「――いいえ、なんでもないわ」
それ以上の詮索はなんとなくはばかられて、僕はスイさんの持ってきた細口やかんから吹き出る湯気をぼうっと眺めていた。