第一章 二〇一三年一一月
一、
今年のカレンダーもあと一枚となった十一月中旬の土曜の午後。昭和通り沿いの喫茶店・シャルランへいつものように顔を出すと、レジに近い手前側の席で、藍色のゴシック・ロリータへ身を包んだランコが一人、フランス人形のような雰囲気をまとったまま、紅茶片手にチョコレートケーキをつついていた。
「なんだよランさん、待っててくれてもいいじゃないか」
「うちの雑誌にそういう配慮をする人間がいないの、あなたが一番よく知ってるでしょ?」
ティーカップを上品に構えたまま、ランコが当たり前じゃないの、と言わんばかりの、たっぷりとアイシャドウのついた目でこちらを覗き込んでくる。返す言葉も見当たらなくて、仕方なしに向かいの席へ腰を下ろすと、僕はいつものように熱いコーヒーとチーズケーキのセットを頼んで、赤ペンでチェックを入れた他の同人たちの原稿をテーブルの上へ広げた。
「とうとう、あと二号で『月光』もおしまいなのね」
チョコレートケーキへフォークを差しながら、ランコが大判の封筒から、次の号の表紙の原画を出してみせる。高校入学以来、かれこれ三年近く続けてきた小説同人誌「月光」の表紙と挿絵をずっと担当してきた芸術家・山織嵐香ことランコの手つきは、どことなく寂しげだった。
「ちょっとばかり名が知れてきた矢先に卒業だもんな、なんつーこった」
「そらまあ、つむじ曲がりの工業学校生の作った同人誌ですもん、有名にならないほうがおかしいわ」
ソーサーのへりに、カップへ沈めていた輪切りのレモンをそっと置きながら、ランコがいちいち毒っぽい言い方をする。
「余計なお世話だ。――でもまあ、オレの高校生活のすべてがここにあったようなもんだからなあ。さびしくなるぜ」
「とか言って、向こうでまた新しい雑誌、はじめるんじゃないの?」
ランコの紫色のマニキュアを塗った指先がこちらへ向く。
「さあ、どうだか。正直、怖いところはあるね。入試で痛いほど見せつけられたからなァ、自分よりもっとうまいやつがいるってコト……」
先に運ばれてきたコーヒーを受け取って、軽くふき冷ましながら口へ含む。
「ひょっとすると、イチから出直し、ってことになるかもな。なんせ、物書きの卵になろうってやつらはもとより、絵描きや彫刻、映画に演劇の道を志してるやつらがごまんといるとこなんだからさ」
「大変ね、そんなところに受かっちゃったんだから……」
皮肉っぽい笑みを浮かべると、ランコは原稿の束を受け取って、どの場所を絵にしようか、考えながら、小さなスケッチブックへラフを描き始める。
「そういうランさんこそ、新潟の美術専門、受かったんだろ」
「まあね。でも、言うじゃないの。ああいうとこは基本、金さえ出せばだれでも……って。まあせいぜい、四年間頑張って技術を盗むから、期待しててね」
「へいへい……」
人を食ったようなランコの態度に辟易すると、僕は最終号の原稿のネタを何にするか考えつつ、スピーカーから流れてくる有線放送の「ドナウ川のさざ波」を、つま先でリズムを取りながら楽しんだ。
それから二、三杯、ミルクセーキやサンドイッチをつまみながら打ち合わせを終えると、とうに日が暮れて、うっすらとみぞれの混じったような雨が降り出していた。
「ランさん、荷物とか大丈夫かい」
ジャンパーを着た襟元へマフラーを巻きつけながら、ボアのついたコートのボタンをゆっくり留めてゆくランコへ声をかけると、彼女は大丈夫よ、と言って、
「メールしたから、そのうちお母さんが迎えに来るわ。そういう田沢くんは大丈夫なの?」
「ちょっと寄り道してから帰る。今日はお袋たちが出かけててさ、家に帰ってもだーれもおらんわけ」
「じゃあなに、一人でさびしくカップラーメンでも食べるの?」
心配そうな顔でこちらを見るランコに、まさかあ、と断りを入れると、僕は原稿を入れた肩掛け鞄をしっかりと握ってから、
「スイさんと一緒に、東口のサ店でお夕飯。その分のメシ代、親からもらってるからさ」
ランコも顔なじみの、僕の級友で科学クラブの部員同士であるスイさんの名前を出すと
「ちょっと、また喫茶店? よく飽きないわね」
「行くのは喫茶店でも食べるのは定食さ。ずっと軽食ばっかじゃ腹が減るじゃないの」
それを聞くと納得が行ったのか、ランコはじゃあ安心ね、と言って、母親との待ち合わせ場所に指定したヨーカドーの駐車場へ、アーケード下を小走りに急いだ。そのたびに、頭へ結わえた紺のリボンが揺れるのを、僕はしごくのどかな目で眺めていた。
二、
地下道をくぐって、東口の市営駐輪場のそばにある「弥右ヱ門」のドアをくぐると、熊鈴のようなドアベルの音と一緒に、石油ストーブのむせるような灯油の香りが鼻をついた。
「ごめんよ、待ったかい」
指定席と化している、突き当りの右側の席で、スイさんは物理学の雑誌を読みながら、先に頼んだホットココアに舌鼓を打っていた。
「いや、ちょうどさっき来たとこでさ。――なに頼む?」
表紙を閉じると、スイさんは僕の方へお冷のグラスとおしぼりを寄せる。
「もちろん、こんな寒い晩にはうどんセットでしょ。あ、すいません」
海坊主のような風袋の店主へ注文をすると、僕は客足の少ないのをいいことに、夕刊の束を席へ運んで、さっと目を通した。
「なんか載ってる?」
「なーんにも。朝刊とおんなじ」
なめるように表紙と三面記事を読んでから新聞をたたむと、スイさんはそれをちょっと手に取って眺めていたが、同じ結末に至ったのか、すぐに紙面を閉じてしまった。
「こういうのこそ、平和の証拠かもね。僕らまでわあわあ言い出すようなことがあったら、この世の一大事だよ」
スイさんが眼鏡越しに落ち着いた眼差しを向けながら、黒いくせっ毛をなでる。
「あ、そうそう。『シュタインズ・ゲート』の劇場版、ブルーレイのボックスで買ったんだけど、今度見に来る? それとも、貸そうか?」
彼から勧められてドはまりしたSFアニメの名前に思わず目を見張ると、スイさんは笑って、
「その様子だと、じっくり見たいカンジだね。今、ドラマCDを聞き返してるとこだから、それが済んだら貸すよ」
ひととおり貸し借りの約束をまとめ、話が彼お得意の「スティックシュガーの問題」へ移った頃、かつおだしをよく効かせたうどんがふたつ、食欲をそそる香りと一緒に運ばれてきた。ネギやかまぼこの浮かぶつゆに、半熟の温泉卵を落としてあるのを見ると、僕とスイさんは互いの顔を見合わせてから、そっと割りばしへ手をかけた。
それから一言も交わさず、黙々とうどんをすすりながら付け合わせの握り飯を平らげると、スイさんがお冷へ口をつけてから、
「――やっぱり、この時期はうどんが一番だね」
くもったレンズをこちらに向ける彼に、だねえ、と返事をすると、僕はちょっとだけ格好をつけて、
「うまいものはうまい、ってのが一番の誉め言葉だろうね。多言は野暮ってもんさ」
「ハハハ、さすが田沢ちゃんだ。――さて、シメに甘いものが欲しくなるね。なんかとるかい」
赤革張りのメニューを扇子のように振って見せながら、スイさんが悪魔のささやきをこちらへ耳打つ。結局、誘惑に負けて大きなプリン・アラモードを頼んでしまった。
スイさんと一緒に北長岡駅まで乗って、家までの道をのんびりと歩いているときだった。怪我をしているわけでもないのに、左足を引きずるような独特の足音に振り返ると、暗い顔つきをした津田が、こうもり傘の下からこちらをじっと見ているのが分かった。
「なんだい、用かい」
別段仲が良いわけでもないので、素っ気なく尋ねると、あちらもあちらで、かなり手短に、
「――別に」
と、愛想もへったくれもない返事をして、そのまま僕の横を通り過ぎて行ってしまった。
「なんだい、ありゃあ……」
誰にともなく言ってはみたが、あの男の愛想の悪いのは今に始まった事ではないのだ、と思うと、なんとなく諦めに近いような感情が襟足を撫でて行ったような気がした。
幼稚園の頃、同じさくら組になってから、小学校、中学校、はては高校まで一緒になった津田のことは、その辺の連中よりもよく知っているつもりだが、ただの一度だって、愛想のよくなったためしがない。三つ子の魂百まで、とは言った物だが、おそらく、未来永劫、あの男の態度はあのままなのだろう。
「やんなるねえ、ああいう陰気なのは。こっちまで暗くなっちまう……」
この手の話を誰かに愚痴るのは好きではないから、ただただ独り言になってしまう。みぞれの積もった足元をブーツで踏みながら、僕はこたつへ潜りたい一心で家路を急いだ。
四、
津田と出くわしてから数日ほど経った昼下がり、ランコから次号の分の「月光」の表紙と挿絵の原画が速達で送られてきた。彼女お得意のビアズリー風の表紙絵は、クリスマスツリーを前にぼんやりとパイプを吹かす女のシルエットだった。
「相変わらず、煙草が好きなんだなあ……」
まさか本人が吸うわけではないのだろうが、ランコはよく、煙草をモチーフにした絵を描いてくることが多い。うまいだけにケチをつける理由も見当たらないから、毎度採用していたのだが、次が最終号なのだから、せめて理由だけでも聞いておきたいものだ。
いつものように、ブロワーで原画と、スキャナーのガラスを吹くと、僕は手袋をはめたまま、絵のスキャニングを始めた。高彩度モードだからおそろしく時間がかかるので、梅昆布茶を飲みながらの作業となってしまう。その間、会員たちや置かせてもらっている茶房・喫茶店から戻ってきた「月光」のバックナンバーをざっくりと読み返していた僕は、改めて、三年という歳月の長さを思い知った。巻末につけてある感想欄が、最初の頃はほとんど白紙だったのに、号を重ねるたびにどんどんコメントで埋まってゆく。地道な努力だったけれど、確実に読者が増えていった証拠だ。たまにだけれど、編集部あてにファンレターが届くこともあるのを思うと、こんないい読者たちを失うのは惜しい気もする。
――また、イチからの出だしになるのかあ。
感傷的な気分に浸っていると、いつの間にかスキャナーが静かになっているのに気付いた。そうだ、まだまだ最終号まで間がある。残り二回分しかないけれど、待っている読者たちのために頑張らないと……。
まだまだ、終焉を迎える気分になるのは早いな、と、自分に言い聞かせながら、スキャニングの作業を再開した。
編集が済んでから、印刷の済んだ「月光」の十二月号を県外の会員宛に三部、郵便局の窓口で書留にして送ると、僕は残りの四部を協力してもらっている市内の喫茶店へ届けて回った。ランコお手製の広告が載っていることもあって、どこのお店もかなり好意的に置かせてくれていたのだが、それも残すところ一回なのだから、さびしいものだ。
東口の弥右ヱ門とオーブ、大手口のパールへ本を届けると、僕は最後の一部をしっかりと手にして、地下に店舗を構える喫茶店・ニューコロムビアのドアベルを鳴らした。
「――やあ、いらっしゃい。最新号、出来たのかい?」
白髪頭のご主人が僕の顔を見るなり、月光のことを尋ねてきた。
「ええ、出来てますよ」
「おお、それを待ってたんだよ。――じゃ、さっそく拝見といこうかな」
レジスターにほど近い席へ案内すると、ご主人は僕の注文を奥さんへまわして、レコードへ針を落としてから、ゆっくりと月光のページを開いた。しばらく、心地よいコンチネンタル・タンゴの調べを楽しみながらフレンチプレスの紅茶をすすっていると、両面が終わったところで、ご主人が僕の向かいへとやってきた。
「――読ませていただきました。今月号も面白かったよ」
「ありがとうございます。個々の感想、末尾にでも書いておいてもらえると、作者が喜びますので……」
「おお、そうだったね。すまないすまない、年を取るとどうにも忘れっぽくなっていけない……ハハハ」
踵を返して、レジカウンターに戻ると、ご主人はボールペンでゆっくりと、丹念に感想を書き始めた。そこへ、奥さんがサンドイッチの盛られた皿を持ってきたので、頼んでないですよ、と驚くと、
「これ、良人からのサービスです。あの人、田沢くんの雑誌のファンだから……」
稀に、同人たちとの打ち合わせをここでやっているとこういう差し入れがあったが、一人きりの時にこうやってうれしいサプライズが来るとは思っていなかったので、少し面食らってしまった。ありがたく、サンドイッチをかじってから店を出ると、夕暮れの風と一緒に、なんとも言えない寂寥感が襲ってきた。
――こういう人たちとも、お別れ、か。
元来シャイにできているせいで、あまり人付き合いが得意ではないほうなので、こうやって優しくしてくれる人の存在は、僕にとってかなり貴重な意味を孕んでいる。それだけに、立ち寄った店の人たちと前のように会えなくなるのは、正直切なくて仕方がない。
「――最終号、手が抜けないなあ」
頬を両の手でピシャンと叩くと、僕は長岡駅前のバス停へかけ足で走り出した。
そろそろ、本格的な雪の便りがありそうな空模様だった。