『碧い海の騎士侯旗』「船のはしご」
これは近代の地球によく似た世界のものがたりです。
『碧い海の騎士侯旗』
「船の梯子」
むかしむかし、飛行機が国を超えて飛び始めたころのお話。
家に電球が灯るようになってきた。コンロはまだ石炭式で、ガスコンロはまだ無かった。
けれど、庶民だって自家用車を手にしたり、おしゃれをすることが出来るようになってきた。言いたい事、やりたい事が、自由にできるようになってきたころだ。
世界中で急に会社がたくさん潰れたり、物が売れなくなったりして、高い物があっても、買えなかったり、そのうちみんな貧しくて不満だらけになってきて、とうとう生活の違いや言葉の違い、肌の違いや考えの違いで、いがみ合うようになってきた。ついに国同士で争いがはじまった。
ルートヴィッヒ・マールブルクもそんな争いに巻き込まれたひとりである。
十八歳のとき、彼は北の島国、グリュッセン王国の海軍士官になろうとしていた。
北大陸のノルト王国が大獅子帝国を名乗り侵攻してきたのは彼が尉官心得に任命された日だった。
ノルト軍の侵攻に、グリュッセン王国では帝国派が政府、軍部の実権をにぎり、計略的侵攻に加担した。わずか四日でグリュッセンは無血併合された。
「残念だが、君を雇うことはできない」兵学校の教官が陰鬱に吐露した。
「新しい政府が君を特定民族と認定した。海軍は君を雇うことができない」
書類を差し出されて、ルイはようやく理解できた。ルイは黒髪赤眼だった。黒髪赤眼の通称〈黒赤人〉は黒魔女の子孫といわれ、ルーベンでは忌み嫌われていた。しかもルイは一族代々の独立派で、独立派と王党派の多くが公職を追われ国外追放となった。
ルイは海軍を辞めることにされた。兵学校の教官たちがなんとか尽力して、尉官心得をすっ飛ばして少尉任官で退官にしてくれた。
だが、落ち込む暇は無かった。グリュッセンでの不自由さは日増しに強まり、ついに国家民族保護法が制定され、国外追放を言い渡された。
ルイはルイ・メルブールと名を改め、南のコライユ共和国に亡命した。伝手を頼りにコライユラインの客船〈シザルパン〉号で客室係となった。ところがそれも束の間、強大化したノルト帝国は最北の島国フェルトラント王国に侵攻し、これに対しコライユ共和国と西の島国ウェストリア王国が宣戦を布告し、とうとう戦争が始まった。
戦争が始まったとき、ルイはラドリア王国のリッツォ島に寄っていた。
リッツォ島は北大陸と南大陸に挟まれ夕凪海の多島諸島で、ノルト軍のいる戦場から、はるか南の保養地だった。
戦争とは無縁である。そう誰しも楽観的に思いこんでいた。
船員含めて全員が呑気さを後悔したのは翌朝だった。
突然、二隻の武装船が港に入りこんでくると、コライユ船籍の商船を片っぱしから襲撃して拿捕して回った。
ルイ・メルブールの乗船〈シザルパン〉もその仲間で、警告射撃を受けるや、大勢の武装兵にあっさりと占拠された。
ルイは陸に滞在中で難を逃れたが、陸は陸でどこからともなく紺色の野戦服を着込んだ兵隊が埠頭を占拠するから、皆、町を逃げ回っていた。
古風な鉄兜をかぶり、規律良く動きまわる敵兵に、ルイは見覚えがあった。
ノルト海軍の陸戦隊だ。
「冗談じゃないよ」思わず言葉がもれずにいれない。「こんな南の島に来てノルト人に遭うなんて」想像できるわけない。思うはずもない。背筋が急に寒くなり手が震えた。ルイ・メルブールの癖悪い毛は黒色。瞳は赤。典型的な〈黒赤人〉だ。
黒髪赤眼と分かるやノルト人は射殺を躊躇わないだろう。
「いたぞっ!捕えろ!」ノルト軍の軍曹らしい下士官が怒号をあげ迫ってきた。
見つかった。ルイは咄嗟に裏道に逃げ込む。
だがノルト兵の目標はルイではなかった。彼らは小柄な純白の盛夏衣の腕を引っ掴むと、はがいじめにしようとしていた。
海軍士官だ。どこの国かは分からないが、彼はノルト兵の手を振り払うと、帯剣の柄を相手の顎にブチかまし、身軽にノルト兵に襲いかかった。窮鼠猫を噛むとはこれだ。
二発ぶん殴るが、敵兵も殴り返し、士官がよろめいたところでルイは呆気にとられた。
少し膨らんだ胸に、女性用のスラックス。二十歳にも見えない女の子だ。しかしノルト兵は容赦なく彼女の腹にひざ蹴りを喰らわし、見てられなかった。
気付いたときにはルイはノルト兵に飛びかかっていた。看板屋の角材で相手を張り飛ばすと、取り上げた小銃で軍曹の頭を叩きのめし。転げてえづく士官を引っ張りあげた。
「ゴホ、オエッ、ングッ」咳き込む彼女は落とした流麗な帯剣を掴みとると「そっちじゃない、工廠に行かなきゃ」
流暢なウェス語だ。ウェストリア海軍のようだ。
「艦を引き取らないと。ラドリア製の巡洋艦を引きとりに来たの。わたし回航員」と彼女は腫れた頬に鼻血を垂らしながら、ケホッと唾を吐いて睨んだ。
歳若い乙女だ。というよりは、精悍な女騎だ。日に焼けた、しかし柔和な顔に強い緑色の眼が、怒気をはらんでいた。
ほんとうなら、癖のある髪を後ろに束ね、こざっぱりとした海軍士官のようだが、今はくしゃくしゃで見る影もない。
「ここまで殴られたのは初めて」そう呟いて彼女は崩れこんだ。
ルイは彼女の腕を引っかかえ、急いだ。
「大丈夫?じゃないな、これは」
「造船所に、艦を、もらわないと」
痛みに呻く彼女を見て、ルイは半年前の自分と姿が重なって見えた。ここで別れたら、彼女は敵に捕まる。見捨てる訳にはいかなった。
「わかったよ」ルイは声を張りあげ誓った。「造船所だな、連れてくよ」
「申し訳ない」意識朦朧に彼女は頷いた。「わたしはフォリー・バーウィック。あなたは?」
「えっと、ルイ・メルブール」それ以上、今のルイはなぜだか素姓を明かしたくなかった。
リッツォ島のプリエーゼ造船会社の修繕船渠に、ノルト軍の大型輸送車が白旗を掲げて突撃してきたのは八時頃だった。その後ろに十数台のノルト軍の輸送車部隊が迫っていた。
「どけろーっ味方だ!」
ルイは警笛をならしながら門扉を突き破ると「どこへ行けばいいんだっ?」フォリーに訊ねた。
「あそこ、あの屋根を被っている工場」細長く大きい建屋を彼女は指す。「もっと急いで、敵が迫ってる」
「分かってるよ、だから逃げてるんだろっ」
「けれど、まさか」フォリーは怒っていた。「敵の輸送車を強奪することないでしょう。死に物狂いで敵が追ってくるじゃない」
「しかたないだろ。近くに置いてた車が、これしかなかったのは君だって知ってるじゃないか。俺だって、こんな命懸けなこと、ほんとはしたかないよ」
建屋に駆け込むと、造船所の工員や海軍関係者が慌ただしく作業していた。
フォリーは指差した。
「あの艦。あれをウェストリアに回航するの」
巨大な船渠のなかに、容量いっぱいに細長い戦闘艦が休んでいた。
「これはすごい!巡洋艦だ」ルイは一見して
「一万トン?いやそれ以上かな。随分格好良い艦じゃないか」
細長く、鋭利に突き出た艦首がまるで客船のように見える。艦橋はやや高めの円筒式で、備砲は前側に三連装砲塔を背負い式で二基、高角砲も連装式を左右に備えている。軽巡洋艦のようだが、ルイは一目見て戦闘巡洋艦の趣きを感じた。
軽巡洋艦〈アストリアス〉それが彼女の名前だ。
「綺麗だけど、変な艦だ」
ぱっと見で、答えたルイに、フォリーは感づいたようだ。
「メルブールさん、私はこの艦をなんとしてもウェストリアに連れて帰らないといけない。それがわたしの任務だけれど、人手が足りないし、もし良ければ、ウェストリアまで手伝ってもらえない?士官さん?だよね?」
彼女の期待と不安がない交ぜな顔を見て、ルイは苦笑とも冷笑ともつかず破顔した。
士官さんか。こないだまで、そう呼ばれる予定だった。ルイは過去の悔しさが滲んだ。顔を引き締め彼女に相対した。
「この目と髪の色を見てくれ」
「えっ?」
言われてフォリーは気付いた。「あなた黒赤人ね」
「俺は命懸だ。ノルトに捕まったら、今度こそ生かしてくれないだろう。安全な場所まで、連れてってもらえるなら、なんだって手伝うよ」
その時だ。緊急警報が船渠をこだました。
ノルト兵がもう、そばに迫っていた。
「バーウィック先任海尉心得!」同い年くらいの海尉心得がフォリーの名を叫ぶや、舷門から駆けつけて
「ロクスレイ砲術員が勝手に避難民を艦内に入れてしまって大混乱です」
フォリーは砲術員の豪快さに笑んで、自分も同じことをするだろうと感じた。
「アラン、追認するから、大至急、工場にいる避難民を全員残らず乗せてあげて、それと海兵隊のウェイク中尉を呼んで」
アランと呼ばれた海尉心得は慌てて答礼すると舷門に向かった。
入れ替わって三十くらいのひょろ長な海兵隊中尉が駆けつけフォリーは敬礼した。
「待ってたよ、伝令回航員。こちらは?」
「命の恩人なんです。コライユラインの船員さんだけど、本当はどこかの海軍士官みたい。本艦の回航を手伝ってもらいます。ウェイク中尉、いかなる手段を使っても良いから、出港するまでノルト軍の排除をお任せできますでしょうか。手すきの者をかき集め、至急お願いします」
「お任せ?」ウェイクは苦笑した。「艦橋の指示を聞かなくて良いのかね?」
「もちろん。中尉がここの最先任なんです」
「そいつはすごい。お任せとあらば、全力でやっちゃうよ?」
「もちろん。全力でやってください」
「心得た!」
中尉の苦笑は微笑に代わっていた。
戦闘は船渠の外側で始まった。難民が乗艦し終えるまで、ウェイク中尉は五十人の海兵隊を引き連れ、建屋の外側で時間を稼いでいた。
ノルト軍は船渠建屋を包囲しつつあった。兵員輸送車が十二、三台、軽装甲車が五、六台、ざっとみて三百人程度の二個中隊で、野砲や重火器はなかった。
互いに小銃を撃ちあっては、手榴弾を投げ、一進一退を演じて、ウェイク中尉は無線でフォリーに叫んだ。
「これ以上の時間稼ぎは無理だ。敵は俺たちの規模や状況を把握したはずだ。次は強襲をかけてくるぞ!」
「まだ出港準備と、民間人の避難が終わってないんです。だから、これから攻力射で援護します」
聞いて、ウェイクは三秒掛って危険を認識した。
「なっ、攻力射だと!ここでやらかすというのかっ」
中尉は慌てた。そんなことをしたら、爆風と衝撃波で自分たちも皆殺しにされかねない。
「他に打開できる方法がないと言ってますから、すぐ撃ちますね」
「ままままて、早まるな」
中尉はとっさに部下たちに叫ぶ。「全員退却しろ、急げ!」
叫びを聞いたか聞かずか、ノルト兵が突撃を始めた。強襲がはじまり、その瞬間、建屋から大音響といっしょに、真っ赤な爆発とガラスの破片が爆風となってノルト軍部隊をいっきに吹き飛ばした。
轟音と衝撃波で工場の外壁は吹き飛び、周囲、四方八方の工場建屋が黒煙を噴き上げた。
「やった?」フォリーの問いに露天艦橋からアランは浮ついた声で
「敵野戦部隊、沈黙!しかしながら、造船所に甚大な被害を認める!」
「ちょっとやり過ぎたなぁ」発案者のグリュッセン人は苦い顔をした。「あの中尉、怒ってなきゃいいけど」
『俺は怒ってるぞ』無線機がウェイクの声で吠えた。『どこに主砲と高角砲を全門斉射する奴がいるかっ、おおおおお俺たちを皆殺しにするつもりか!』
「中尉、無事でしたか。至急、撤退してください」
『なにを言ってるんだ、良く分からんっ。衝撃音で耳がやられて聞こえん。もう撤退してるからな』
「良かったぁ。それは助かります」
『はぁっ、なに言ってんのか分んないんだよぉ』無線機が裏声で叫んだ。『もう撤退してるからなっ』
「お待ちしてます」
噛み合っていない通話を二人は同時に打ち切った。
「交通艇より入電!正体不明の貨客船二隻がこちらに向け急速接近中。距離一二〇〇〇」伝令員補のスタンフォード・マクレガー海尉心得が急報を告げると、ルイは平静に
「まっ、たぶん敵だろうね」
「言われなくてもそれくらい分かってる。すぐ出港しなきゃ、アラン、船渠の閘門は開いたの?」
「はい、閘門、舷門、両方解放済みです。海兵隊の収容も終わってます」
「宜しい、それでは舫を解放して」
フォリーは命じた。
「巡洋艦〈アストリアス〉出港」
「出港容候」
「機関部、両舷後進微速」
機関が唸りだした。細長い巡洋艦の巨体が、呪縛から振りほどかれたようにゆっくりと滑りはじめた。
まるで眠りから覚めたように〈東国の女神〉は船渠から起き上がり、その体躯を海上に現すと、正体不明の貨客船に艦首を向けた。
それはあたかも、盗賊の群れに切っ先を突き付ける女騎士のようだ。
対する貨客船の群れは、早い船足で〈アストリアス〉に近づき、船首の単装砲で砲撃を仕掛けてきた。
「敵艦発砲、急速接近!」
「ロー、砲撃戦用ー意っ」叫んでフォリーはルイの顔を覗いた。「正規の士官として、あいつらをやっつける方法を教えて」
なかばうわずった声と、双眼鏡を持つ手が震えている。
ルイは平静に微笑んだ。
「無理にやっつけなくてもいい。最大戦速で、このまままっすぐ進むんだ」ルイは正体不明の貨客船を指差した。「先頭を行くあの船に向かって。それだけでいい。それだけで、ここから脱出できる」
「それでけ?」
「この場合、艦の大きさはこっちが優位なんだ。力攻めに持ち込む。と言えば分かるだろ」
それでフォリーは理解した。
「捨て身と言うことね」
「そのとおり」
〈アストリアス〉は勢いがよく、急に増速をはじめた。新造艦で反応が早く、振動が上下して、性格は荒い。そういった印象をルイは感じた。
「スタン、マストに戦闘旗を掲げて」
「了解」
一番、二番砲塔が少し動いた。主砲が目標の敵先導船に定める。
『砲撃準備よし。装填よし。一番、二番、目標敵一番船指向。撃ち方準備よし』ロクスレイ砲術員が測距器より連絡を入れるとフォリーはすかさず命じた。
「攻撃を許可。ロー、誤差修正次第、発砲して」
『了解。撃ち方始め』
主砲が閃光と轟音を放った。吹き上げる黒煙から、軽い放物線を描いて砲弾が飛翔していく。敵船の周りを盛大な水柱が六つ取り囲んだ。
『全弾はずれっ、遠弾六。誤差修正、距離を縮めて。次発用意は?―――急いでっ!』
ロクスレイの叫ぶところ砲主たちはもたついているらしい。しかし訓練もせずに即席の砲手が良く撃ったものだとルイは感心していた。
「敵、急速接近、距離八○○!あっ、敵艦発砲!」
同時に轟音と衝撃が襲った。
『右舷中央部、舷側に被弾、火災発生』
『左舷、第四高角砲付近に被弾、火災発生』
フォリーは叫んだ。「かまうな。このまま敵、先導船を指向、第一、第二、第三、高角砲、連携射撃!」
高角砲は各砲に一人の砲主と民間人で編成されていた。それが間髪入れず発砲したからルイはこれも大したものだと感心した。無論、全弾はずれたが。
「敵との距離、四○○!」もう、目と鼻の先に近づいて、相手の顔まで見てとれた。
「総員、対衝撃防御、何かに掴まってっ」
「敵船、左舷に急速回頭」
「やった、敵が逃げるぞ」
「ちがう。魚雷を放ってくるぞ」
ルイは、咄嗟に舵輪を面舵一杯で切り、敵との距離を詰めた。
艦首が右を指向し始めるとルイは「今度は取り舵一杯」何としても、魚雷を撃たせまいとルイは距離を詰めた。もし距離を詰めて魚雷を撃てば、彼らもその衝撃を受けることになる。
させるわけにはいかない。
「敵との距離、一○○!このままだと衝突します」
艦が左に回頭しない。
アランが呻いたとき、ルイも『これはしくじった』と覚悟した。するとようやく艦首が左に振り始め、想像以上に早い小回りで衝突を回避しはじめたので、光明を掴んだことをルイは確信した。
敵船と直近交叉になる。
「機銃掃射が来る。総員退避」
『右舷高角砲、零距離射撃!』
「敵との距離二○!交叉します」
『攻撃始め!』
全門零距離射撃だ。八門八発、まるで帆船時代のように、敵味方至近距離で撃ちあい、黒煙が二隻のあいだを立ち込めた。
勝負はすぐに附いた。敵船は交叉し終えると、炎と黒煙を噴き上げ、沈黙し、追ってくる気配を見せなかった。
無理も無い。防御力のない武装船が五インチ砲を八発、同時に受けて、大破しない訳がない。
フォリーはすかさず、敵二番船を指向した。敵は右舷に回頭して、退避行動にでていた。
束の間スタンが叫んだ。
「前方左十度、魚雷急速接近!距離六○○!」
ルイとフォリーが双眼鏡を向けると、雷跡が六本、放射状に迫っていた。
「くそっ、逃げ際に魚雷を撃ちやがった」
「取り舵十度、急いで!」
緊急転舵する。間に合わない。ルイは無理だと悟った。右側三本の魚雷が命中針路に来ていた。
左から一番目と二番目の魚雷が航行不能になった敵一番船に命中して、大爆発を起こすと、フォリーは味方さえ始末する敵と、目の前に迫ってくる魚雷に初めて戦慄を実感した。
“嫌っ、ここで足止めなんて、絶対、嫌っ”
無意識に心のなかでフォリーは絶叫した。
突然、艦橋がまっ白な閃光がつつまれた。〈アストリアス〉を衝撃波と爆発が襲い、左舷側で三発、盛大な水柱が天高くそびえあがった。
艦は盛大に持ち上げられ、海面に頭を突っ込むと白波が艦橋さえ呑み込んだ。そこでフォリーの記憶は途絶えた。
なにがおこったかは分からなかった。最初に床から起き上がったのはルイとアランの二人だった。二人は急いで状況確認を各部署に問うたが、予想もしない返答が戻ってきた。
「なんだってっ?」スタンの声が裏返った。「各部異常無しぃ?そんなはずない。もう一度、浸水箇所がないか点検してくれ」
だが〈アストリアス〉は傾斜すること無く、整然と浮かんでいた。
「どうやら魚雷は信管の誤作動で自滅したんじゃないでしょうか」アランの問いにルイは不思議なものを見るような顔をして、洋上を見据えた。
「奇跡だ。敵はきっと俺たちが航行不能になったと判断したはずだ。これなら無事にラグロニアへ向かうことができる」
「まって、それじゃダメだ」いつの間にかフォリーは目覚めていた。
彼女は起き上がり、苦悶な顔で艦長席にもたれ込んで
「このまま引き下がる訳にはいかない。さらわれた民間船、全部奪い返さないと、戦ってもらった難民に示しがつかない。きっとみんな、あたしたちを非難する。あたしたち王立海軍が拿捕された仲間を見捨てたって。あたしはそんなの絶対嫌っ。もしあなたに海軍士官としての気概が少しでも残っているなら、あたしにその心の残りの全てを今すぐ預からせて」
フォリーは最後らへん悲痛な声をしていた。
逃げる言い訳なら沢山できたし、その方がこの艦も自分たちも安全なのだが、目の前にいる同年代の少女は、ルイがとっくに捨てさった、名誉や忠誠を今でも背負っていた。
ルイは項垂れて
「どうせ反対しても、俺を縛り上げて、勝手に戦うつもりだろう。このお嬢さんは」と一人事を呟いて
「えいっ、とりあえず警戒に出ている交通艇を収用しよう。奪い返すにしても、まず味方を増やさないと話にならない」
フォリーがこうべを垂れてきた。
「ルイ・メルブール、この御恩、あたしは必ず倍にしてあなたに返す。それまでよろしく頼みます」
「よせって、指揮官が部下に頭下げちゃダメだって」
艦長席に座る彼女はあの流麗そうな長剣を強く握りしめている。ルイとアランは顔を見合わせた。
「魚雷が自爆する直前、あの長剣が」
「まっ白に光りましたよね」
「やっぱ間違いないよな」
ルイとアランは自分たちが幻覚を見ていないことを互いに認識した。
グラン・コライユ船籍の〈レマノ〉号は拿捕された貨客船の一隻だった。夜明けと同時にノルト軍の仮装巡洋艦に襲撃され、瞬く間に二十人のノルト兵が占拠していた。そこに一隻の交通艇が忍び寄ってきて、前方を塞ぐや、海面に黒い物体を何個もばら撒いたから、拿捕船指揮官のゼップ・クルーガー軍曹は度肝を抜かされた。
「機関後進一杯。あれは機雷だぞ」海面を漂う黒い球体はまぬけに見えるが、当たれば大爆発を起こす厄介者だ。それが近づいてくると大抵の者は神経も滅入る。少人数で機雷と機関室の監視で一杯なところに、後方から雷のような発砲音と、砲弾の風切音が飛んできて〈レマノ〉は水柱に取り囲まれた。
「突入開始!」
フォリーの掛け声とともに、〈レマノ〉の左右から特殊な縄梯子が掛けられ、もの凄い速さで海兵隊員が導線籠で船に飛び移ると、後部甲板に橋頭保を築いた。
慌ててノルト兵たちが反撃しようものなら、交通艇は二十ミリ機関砲で甲板を蜂の巣にした挙句、煙幕弾をお見舞いし、見計らってウェイク中尉が命令を下した。
「全員、俺に続け!一斉に突入!」
隊長直々に海兵隊の四十名が船首部に向け突入を開始し、フォリーも続いた。
船橋に差し掛かってフォリーは知った顔を見つけた。今朝のノルト兵の軍曹だ。フォリーは相手が気付くや、ここぞとばかりに長剣で一気に畳みかけ、相手の小銃を跳ね飛ばすと右腕を斬りつけ、切っ先を喉元に突き付けた。
「今朝のお礼だ軍曹。拳銃を抜くならあたしは容赦なく首を引き裂いてやる」
「小娘が、これで勝ったと思うなよ」
クルーガーを捕らえると、指揮官を失ったノルト兵は、観念したのか急に戦意を喪失して降伏した。
〈レマノ〉号を捕獲したフォリーたちは、ルイの発案で、即座に偽電文を近海にばら撒いた。
『ワレ、レマノ号。敵、哨戒艇ト交戦中、至急、救援ヲ乞ウ』
「続けざまにばら撒くと、撒餌に釣られて獲物が集まってくるはずだ」
ルイの言った通り、四方八方、島影から拿捕船の姿が現われてきた。
フォリーは解放した船長にお願いして〈レマノ〉号の煙をわざと噴いてもらい、損傷を装ってもらった。拿捕された客船〈ベシェール〉号が近づいてくと、〈レマノ〉号は急転舵して、〈ベシェール〉の左舷に横付けになった。海兵隊員が飛び移り、索具を掛けると、難民だろうが、民間人だろうが、今度はみんな一斉に〈ベシェール〉の船内に突入を始めた。
あっという間に〈ベシェール〉号を再奪取したが、時間がない。フォリーは〈ベシェール〉号を奪取すると、その足で急接近した〈シティー・オブ・ペイントン〉号に飛び移った。
〈ベシェール〉の乗員乗客から即席の奪取隊を募り、味方の人数は五百人に膨れ上がっていた。それを〈シティー・オブ・ペイントン〉号の五十人のノルト兵が防げるはずもなく、数で圧倒して奪い返すと、遅れてきた客船〈リーグレ〉号を三隻で包囲して一気に征圧に掛った。
「全員、付いて来て」
フォリーは長剣を掲げ、長いプロムナードデッキを駆け抜けていった。遅れてルイたちが追いかける。
「すげーな、まるで海賊だな。あの姉ちゃん」
「剣を持って、先頭を走ってやがる」
「お前、知り合いか?」
ルイはさっきから他の船の船乗りに問われ、返答に窮した。彼もフォリーがウェス海軍の士官である以外は何も分かっていなかったから、この光景は意外だった。
「今日知り合ったんだ。けれど、ただの士官じゃないな。あいつ」
船橋を四方八方から銃撃と手榴弾で攻め立てて、数で圧倒すると、敵は白旗を掲げてきた。
フォリーたちが〈リーグレ〉を奪回すると、交通艇に乗る伝令員補のスタンが、模擬機雷で貨客船〈コナンクール〉〈セント・リベイラ〉の二隻を足止めし、そこに〈アストリアス〉が真横から警告射撃を浴びせた。至近距離でアランはローに主砲を突き付けるよう指示して拡声器で叫んだ。
『王立海軍だ!全員武器を捨て、即座に降伏せよ!』
あっけなく追い詰められ、ノルト軍は戦意を喪失し、大急ぎで白旗を掲げてきた。
「これは良い!」アランははしゃいで「一度、やってみたかったんですよ。刑事ビリーのセリフ」
「それでこんなに近づいて、わざわざ主砲をぎりぎりに突き付けたのかい」ローはあきれ返った。「あんた、真面目に見えてバカなのね」
「どういたしまして」
「ほめてない」
〈アストリアス〉に戻ったフォリーはスタンから敵仮装巡洋艦発見の報告を受けた。
敵艦は状況を把握したらしく、そのまま接近することもなく、北東に針路をとっていた。
「仕返しよ。徹底的に痛めつけてやるわ」
フォリーは追撃を指示した。敵巡洋艦を散々追い立てた挙句、砲撃の嵐を二十分間、お見舞いしてやった。無論、これは一発も当らなかったが、脅しの効果は充分にあった。
敵は敗北を認め、東北東に逃走した。二度と姿を現すことはなかった。
「逃げ脚の早い奴、今度近寄ったらコテンパにしてやるから」
戦闘が終わって、一息つくと、フォリーは薄汚れた盛夏衣で汗をぬぐい、血のついた長剣を拭いた。
ルイとアランは顔を見合わせた。
「その剣、本物なんだ」
「あぁこれね。祖父があたしにくれたの。お守りになるからって。どうしたの二人とも?変な顔して」
「いや、何でも」
「ないです」
「ところで」フォリーは話題を変え、真剣な面持ちでルイを問うた。「いいかげん本名と正体を教えてよ。ウェイク中尉やローは、あなたがノルト人ではないかと疑ってるよ」
「冗談じゃない。俺がノルト人なんてウェス人は見る目が無いってことだぞ」ルイは抗議し、姿勢を正した。
「悪かったよ。いままで名前も名乗らず申し訳なかったと思う。俺、いえ、本官は、元グリュッセン王国海軍少尉ルートヴィッヒ・マールブルク。今はコライユラインの船員をしている」
ルイは内ポケットの船員証と査証をフォリーに手渡した。
「早く教えてくれればよかったのに」
フォリーは微笑んで、ルイに一礼した。
「ルートヴィッヒ・マールブルク。ウェストリア王国と王立海軍を代表して、貴官に感謝します。貴官の献身的な助力が無かったならば、我々は、今ここに勝利を祝することはできなかったでしょう。この御恩、必ずあたしは貴官にお返しします」
こうして、ウェス海軍は夕凪海で最初の勝利を得た。
フォレイシア・バーウィックの、船から船に飛び移る奪還劇は、後に“ソード・フォリーの船のはしご”と呼ばれるようになる。
三日後、〈アストリアス〉は船団を引きつれ、西夕凪海のウェス領ラグロニア王国に到着した。
ルイは会社に状況を報告すべく、上陸することにした。桟橋に着くとすぐに背広を着た四人組みの刑事にルイは取り囲まれた。
「コライユ大使館付国家警察だ。ルートヴィッヒ・マールブルク、ノルト人、君をスパイ容疑で逮捕する」
あっけなかった。あまりのあっけなさにルイは混乱した。
公使館に連行されるや、すぐに取り調べが始まり、ノルト海軍と内通していることを自白するよう強要された。
ルイは拒んだし、釈明したものの、刑事も役人も取り合おうとはしなかった。おまけに会社はルイに解雇通告を言い渡し、その理由がノルト人は雇えないであった。
「俺は、ノルト人ではないし、今はコライユ人だ」
ルイは押し潰されて気が狂いそうだった。なんとか声にならぬ声を振り絞り、か細く悲愴に叫ぶので、精一杯だ。
なぜノルト人にグリュッセンを追い出されて、コライユ人にはノルト人だと逮捕されねばならないのか、もう訳が分からなかった。
「どちらにせよ、君は不穏極まりないノルト人の属国民だ。君らには砂漠にある強制居留地に行ってもらう」
国家警察の役人は告げた。それが真の答えだった。グリュッセンだろうが、フレーゼンだろうが、アルトリンゲンだろうが、ノルト帝国に統合された者は皆、コライユではノルト人と変わらなかった。それは信用ならない危険分子で、害虫なのだ。
ルイは絶望しそうになり、気力も消し飛んでしまった。
ルイが拘束された。フォリーはその知らせに衝撃が大きすぎて、皆を艦長室に集めていた。
「どうするの。彼を見捨てたまま、無かったことにするの」ローに意地悪く投げかけられ、フォリーは彼女を睨みつけ、噛みついた。
「そんなの嫌だ。でも、どうすれば良いん。こんな状況で、どうすれば彼を助けれるん」
「こういうときこそ、あなたの出番じゃない」
フォリーは泣きたかった。それを取り乱して誤魔化した。
「だからその答えは何なんっ」
「答えは出てると思いますよ」アランはやんわりと打ち明けた。「僕らの仲間ですよ彼は。そうでしょう。命の恩人で、もう僕らの仲間なんです。そうありたいと一番願っているのは主席回航員、あなたじゃないですか」
ウェイク中尉もフォリーに微笑んだ。
「私の実力を以ってすれば、救出は簡単だよ。彼を見捨てるのは目覚めが悪いし、後はそれに値するだけの理由を、あなたにお願いしたい。いや、あなたは彼に果たさないといけないんじゃないだろうか?」
「答えは自分で奪い取るものじゃないの、コライユ人と争いになっても」ローの一言でフォリーは爆発しそうだった。
仲間、恩人、いや、それ以上にフォリーは今、答えにならなかった叶えられぬ願いを心の内から素直に認めることにして、みんなに感謝し、お願いすることにした。
「アラン、今すぐ港湾司令部に一緒に来て、本国に直通電話をするから、ロー、ウェイク中尉と一緒に陸で救出準備をするように。みんな、彼を奪い返すのに協力して」
深夜、夜歩きする人もいないラグロニアの官庁街でコライユ大使館の周りだけ、一郡の隊列が取り囲もうとしていた。
ウェイク中尉が無線電話に発した。
「作戦を開始する」
大使館が照射灯の明りに曝しつけられた。
門扉を海兵隊のポンソビー軽戦車が打ち破ると海兵隊員が一斉に建物になだれ込み、職員の征圧に掛った。
突然、外が騒がしくなって、ルイは目が覚めた。起き上がるなり、いきなり部屋の扉が打ち破られ、外からローとウェイク中尉が顔を表し、さすがのルイも混乱した。
「話は後だ、すぐに出るぞ」
「うわっ、なっ、やめっ、あわわわわっ」文字通し首根っこをひっ捕まえられルイは建物から連れ出されると、兵員輸送車に放り込まれた。
「悪いけど、私らの仲間は引き取らせてもらうから」
ローはコライユ警察の刑事たちを縛り付けたあげく、催涙弾でお見舞いした。
「作戦終了!撤収する!」
電光石火だ。ルイは拉致されて、今度はそのままウェストリア大使館に連れ込まれた。
真夜中なのに大使館は灯っており、訳も分からぬままルイは、応接間と見受けられる一室に放り込まれた。
そこに私服姿のフォリーが待ちかまえていた。左右には大使館の役人とウェス海軍の将校が控えていた。
「いったいこれは、どういう」
「時間が無い」フォリーは深刻な面持ちだった。「手短に答えて。ルイ、船に乗っていたい?」
「そりゃ、もちろん」
「士官でありたい」
「あたり前だよ。願っても無い。成れるものなら司令長官にだってなってみたい」
「私もよ。それじゃあ私からのお願い。ウェストリア人でありたい?」
ルイはそれまで我慢してきた物が急に打ち壊れるような気がした。
「お願いだ。叶うはずもないが俺は今、君と同じ艦に乗り、同じ部署に居たいと心が叫んでいてしようがないんだ。もう居場所がないし、行く充ても無い。君が俺を受け入れてくれるなら、なんだってする」
最後らへんはもう泣きっ面に近く、もう自分でもどうしたら良いのかルイは混乱して訳が分からなかった。
「ならばルイス・マールブルク」
フォリーは長剣を引き抜くと「私は邦王陛下の代理として、あなたを邦王陛下の海軍に招聘します」彼女はルイの右肩にやわらく長剣を充てた。
それはウェス海軍の海尉心得が海軍士官として邦王から叙任を受ける儀式である。
「ここに邦王陛下の代理として、ルイス・マールブルクを海軍予備士官に叙任した。諸卿に異議はあるかっ」
「異議ありません」二人の女性が唱和し、儀式は終わった。
「それじゃあ、さっそくですが、時間がありません。署名をお願いします」大使館の女性が書類の束を机に広げた。「フランシスカ・コメットです。ここの大使代行をしてます。ここと、ここと、これ、それから、これもですね。大至急お願いします」
丸メガネの大使さんは、次から次へとルイに訳も分からず署名させて「あなたは随分と運の良い人ですねぇ」と微笑む。
「助けてもらって感謝してるけれど、こんな大事になって、コライユと喧嘩にならないんですか?」
「あぁ、大丈夫じゃないけど大丈夫よ。ねぇ、マンキューソ艦長」
呼ばれた海軍将校は苦笑う。
「朝から荒れるでしょうし、火消しで大忙しになる。申し遅れた、駐ラグロニア港湾司令部のジェミニー・マンキューソだ」
「感謝します准海佐」
「大切な騎士侯殿下のたってのお願いになると、さすがの第一海軍卿も断れないようね。けれどあなたには感謝してる。さっき報告書、読ませてもらったわ。こちらの殿下から」
「殿下?」聞いてルイは電撃が走ったように戸惑った。
いったい、誰のことを言っているのか。
間の抜けたルイに、マンキューソの顔も曇る。コメット大使は筆先がズレたほどだ。
「ほよっ、今まで、知らなかったの。というより彼に素姓を明かしてないなんて酷い御方ですねぇ。教えてあげなさいよ、殿下」コメット大使はフォリーの背中を叩いた。
殿下と呼ばれた彼女は困ったように怪訝な顔をした。言いづらいと顔に描いてある。
「言おうとしてた。けれど言うとみんな、態度が変わったりするから、言いあぐねてた。ごめんなさい」フォリーは気持ちの整理が付かないまま「私はウェストリア十王国の一つバーウィック王国の王太女フォレイシア、世間の人たちは私を仰々しくオトクレール騎士侯殿下なんて呼んでる。けれど、わたしはフォリー・バーウィックで呼ばれたいし、敬語も敬称もいらない。初めて会ったときと同じでいてほしい」彼女は右手を胸に充てて「これが本当のわたしなの」
彼女は不安でいっぱいで、ルイには小さく見えたほどだ。おそらくフォリーはフォリーでいろいろ認めがたい辛さを抱えて生きてきたのであろう。そう感じてルイは素直に頷いた。
「王女様か。助けてくれてありがとう、フォリー・バーウィック」
フォリーは不安そうに
「帰って来てくれますか、あの艦に」
そのときルイは、帰る場所があったことを教えてもらい、心の底から安心した。
「居させてほしいです、あの艦に」
「もちろんです」
フォリーは安堵の笑みを浮かべた。
こうしてルイはウェス本土に向かう〈アストリアス〉の艦上で、日射しに映えるマストの三角旗を眺めることになった。
空気は暖かく平穏で、戦争が起きているのを忘れさせてくれる。
フォリーが露天艦橋に上がってきた。右手には電報文が二枚。
「これをどうぞ」
「ありがとう」
ルイは電報文を開いた。
一つは人事局からだった。王立海軍予備士官任命に伴う出頭辞令であった。
二つめはラグロニア大使館からだった。
「ルイス・マールブルク、コライユ国家警察、第一級指名手配犯」
ルイは倒れそうになった。
「俺はお訊ね者かっ。捕まえる暇があるならノルト軍との戦いに専念しろって言ってやってくれ。コライユは国中たいへんなんだろ?」
フェルトランド王国があっけなくノルト帝国に陥落して、今、コライユ共和国は北のノルト軍と対峙し、国中混乱の極みだった。ウェストリアも白波海を挟んで強大なノルト海軍と対峙することになった。王立海軍は本国艦隊を結集して対抗の構えらしいが、状況は不利なようだ。
この先、何年、苦難が続くか、考えも及ばず、ルイは空を見上げた。
三角旗が蒼い空になびいていた。
深緑色の三角旗の真ん中で剣を手にする女神が踊っている。
「あれが〈アストリアス〉の艦象旗?」
「本物はまだだけど、とりあえず、我家の旗を掲げるようにしなさいとマンキューソ准海佐に命令されてね」
艦象旗とは、その船を象徴するお守りのような旗だ。古くは帆船時代の艦象像が元らしい。
フォリーの家の〈オトクレール騎士侯旗〉は東の領地の騎士を意味している。
〈東国の女神〉を名乗る艦に〈東の領地の騎士〉の旗がひるがえる。象徴を重ね合わすような組み合わせだ。
ルイは女神の剣に見覚えがあった。
「あれ、君の剣だよね」
「気付いた?祖父の話だと、バーウィックは東方にいた一族で、この剣は神様から授かったものらしいの。ただの言い伝えだけどね」
聞いてルイはノルト兵と競り合うフォリーを思い出していた。
「こういう物って、ふつう厳重に仕舞っとかないの」
「お爺さまがお守りになるから放すなっていうの、まぁ、つくり直した模造刀だからね」
「なんだ、複製品か」
ルイは納得してみせた。
本当は疑問が過っているが、あえて口にしなかった。
まさか戦いのさ中、まっ白い光が差して魚雷が自滅し、銃弾飛び交う甲板で傷一つ負わないフォリーを見て、彼女に神掛かりがあるなどと、主張すれば神秘主義者と笑われるだろう。
しかしルイは旗の女神とフォリーが妙に重なるように思えた。
「碧い海の騎士侯旗か」
マストの三角旗を眺めながら、不意に口からでた言葉に、フォリーも興味を惹いたようだ。
「決めたルイ。この旗、あたしの艦上旗にする」
碧い晴れた大海原に、剣を持つ騎士侯旗がなびいている。
フォリー・バーウィックとルイス・マールブルクの長い長い巡航がこうして始った。
今後、不定期で続編の読み切り物を掲載していきます。
軍艦好き、冒険好き、戦争と平和、人間性、人の情などを、あれこれ混ぜ込んで書いてみようと思います。